惑乱 二 前半部
焼肉奉行。
二
バイキング会場を出たあとの時間を、真白たちはボーリングやカラオケなどで費やした。時間潰しの為でもあるが、そうすることで焼肉の入る胃袋の隙間を、少しでも増やしておこうと考えたのである。真白たちが指定された午後六時丁度に店へ行くと、竜軌は既に席に着き、真剣な目付きで網に載った肉をひっくり返していた。黒い半袖シャツにジーンズを穿き、腰にはウォレットチェーンが下がっている。両耳には赤いピアスが光り、長めの黒髪は一房だけ赤い。いかにも今時の若者、というスタイルだった。服装をセミフォーマルで揃えた三人とは、だいぶ趣を異にする。どちらかと言えば真白たちのほうが、焼肉店では浮いていた。
こちらに気付くと、トングを持った右手を軽く上げる。
体付きと同じく精悍な顔立ちは、笑みを浮かべるでもなく無表情だ。
「早く座れ。これ以上焼くとカルビが焦げる」
竜軌の開口一番の台詞がこれだった。
織田様の生まれ変わり、と緊張していた真白はやや気抜けした。
竜軌の横に市枝が座り、向かいの席に真白と荒太が並んで座る。
「もう、兄上、マイペース過ぎ。こういうことは、もっと早めに言っておいてもらわないと。私にも真白にも、都合があるのよ?」
市枝の苦情の中に、荒太の名は無かった。
「いや、都合は俺にもあるんだけど、市枝さん?」
そう言った荒太を竜軌が見遣った。それから、その隣に座る真白を見る。
「久しいな、真白」
「いきなり呼び捨てか」
市枝にも竜軌にも無視された荒太が、不満げな呟きを落とす。
今度こそ、竜軌が荒太のほうを向いた。
「……お前まで来るとはな、荒太。店の支払いを倍増させるつもりか?」
荒太はぷいと横を向いた。
「ご愁傷様です。昼間、偶然この二人のお供をしてたんで」
「ふん…―――――未だ本能寺でのことを、根に持っていると見える」
そう言いつつ、竜軌は焼けたカルビ肉を市枝と真白、荒太の皿にポポイ、と入れて回った。
「食え。今日は、特に用事があって呼んだ訳ではない。昔の誼で、肉を喰いたかっただけだ」
市枝と荒太は遠慮無しに肉に箸をつけたが、真白はカルビを一切れ食べただけだった。
「―――――――何だ。食欲が無いのか、真白?相変わらず食が細いのか?お前は少し、痩せ過ぎだ。もっと喰わねば色々育たんぞ。せっかくの容貌が、勿体無い」
言った言葉は荒太と似ていたが、表現はより露骨だった。
市枝が眉を顰める。
「兄上、それセクハラ」
「馬鹿言え。親身な意見だ」
竜軌は自らも肉をかっ喰らいながら大真面目に言った。
それから彼の口をついて出た、「ビールが飲みたいところなんだが…」という言葉に真白は目を丸くする。しかし、さすがに注文する様子の無いところを見ると、単に心の声が洩れただけのようだ。尤も今の年恰好では、注文しても店側に拒否されるだろう。
(割と日頃から飲んでるような口振りだったけど……)
真白はそう思ったが、深く追求しようという気は起きなかった。剣護たちといい、戦国の世に生きた記憶を持つ人間は、十代での飲酒にあまり抵抗が無いものなのだろうか。
新しい皿が運ばれて来て、竜軌が肉を網に乗せた。ジューッと言う音が響く。
「真白は、相変わらず美しいな。雪白が良く似合う」
肉の焼け具合を確認しながら、竜軌がさらりと褒める。しかし褒められた当の真白は、肉から目を離さずに言われたせいか、何だか事務的な事柄を言われたようで、あまり嬉しくもなかった。肉の焼ける音と匂いの中で雪白などと言われても、ぴんと来ない。
「解りきったことでしょう。今更言うことじゃない」
荒太が淡々(たんたん)とした声で口を挟んだ。
竜軌がちらりと肉から目を上げる。
「ほう。言いおるな、荒太。今生においても亭主気取りか」
「生憎、今生でもそうなる予定なんで」
(え――――――――?)
真白はびっくりして荒太を見た。
今、彼は何かとんでもない発言をしなかったか。
「は!」
信長が息を吐くように笑った。あ、市枝と似てる、と思った真白は思考が逸れた。
「おい、市よ。聞いたか。こやつはもう、真白を手にした気でおるぞ。嵐であった時より図々しさが増しおったわ」
信長は言いながらも抜け目なく肉の様子を窺い、肉を移動させたりひっくり返したり、良い具合に焼き上がったものを皿に入れて回ったりしている。見事な焼肉奉行ぶりだ。
その甲斐甲斐しさに、台詞の迫力はやや削がれていた。
「ええと、あの、新庄先輩…織田様」
「新庄で良いぞ。何だ、真白?」
鷹揚な笑みを浮かべて、竜軌が真白を見る。
「……髪の毛の、その赤い部分って、エクステですか?」
その場にいた面々は揃ってきょとん、とした。
目を丸くした竜軌の、こんな表情は、前生でも見たことが無かった。
「え、だって、前から気になってて…。明臣の例もあるから、地毛だっていう可能性もあるし――――――――」
三人が、一斉に噴き出した。
特に竜軌は、大口を開けて笑っている。
「あっはっはっははははは」
(そんなに可笑しなこと言ったかな)
些か、場の空気とずれたことを言った自覚が、真白本人には無い。
「くっくっく…、真白は、天然か。そうか、そう言えば若雪も天然が入っていたな。それともこれが、神の眷属の気質と言う奴か……?真白よ、いかにもこれはエクステだ。行きつけの美容室の店員に勧められてな。結構、気に入っている」
「あ、はい。似合ってると思います」
極めて素朴な真白の受け答えに、荒太も市枝も脱力したような顔になる。
何だこの平和な遣り取りは、と荒太は内心突っ込んでいた。別に殺伐とした会話を望んでいる訳でもないのだが、どうも調子が狂う。
「真白ってば、どんな時でも真白だわ」
市枝が呆れたように言うと、降参したような笑みを浮かべた。
「おい、焼けたぞ。どんどん喰え、お前ら」
立ち込める香ばしい煙の中、四人は忙しく箸と口を動かした。
あらかた肉を食べ終わり、四人が締めとしてこの店自慢のビビンバ丼を食べ始めるころ。
荒太が、スッカラと呼ばれる金属で出来た匙を口に運びながら、言った。
「――――訊いても良いですか、信長公」
竜軌が目を上げる。
「……本能寺の変の時、俺の呼んだ声、聴こえてましたよね」
「ああ」
荒太が、目線を竜軌に合わせた。やや緊張していることが固い表情から窺える。
「どうして、応じてくれなかったんですか。…俺は、あんた一人だけでも助け出すつもりだったのに」
竜軌が匙を置いた。
「お前の声は、確かに儂の耳に届いた。だが、儂はそれに応じる訳にはゆかなかった」
「なぜ」
険しい顔で尋ねた荒太を、竜軌は深い色を湛えた目で見返した。
その一瞬、時の流れが逆流し、荒太と竜軌は、意識下で燃え盛る本能寺にいた。
障子戸の向こうに竜軌。こちらに荒太。
二人は向かい合って対峙していた。
信長の纏った帷子の白。嵐の背負った炎の赤。
真白と市枝は、白と赤の幻を見たと思った。
「荒太よ―――――。お前も実のところは、承知しておるであろう。お前一人、あの場より抜け出すことさえ困難であったあの局面で、儂を伴い、どこまで明智の囲いを破れた?儂はな、死ぬることは恐ろしゅうはなかった。しかし、光秀めに儂の躯を晒し、首級を上げられることは我慢ならなんだ。お前と共に行けば、畢竟、途中で倒れることになるのは目に見えていた。―――――――それゆえに、儂はお前の声を聴かなかったこととしたのだ」
そうして障子戸は閉められ、乱世の果ては遠ざかった。
嵐の叫びは永遠に応じられることが無いまま、空しく宙に消えた。
「――――――」
重々しく語った竜軌の言葉に、荒太は肩の力が抜けたようだった。
市枝の手も、真白の手も止まっていた。それぞれに、複雑な顔をしている。
本能寺の変における信長の死は、嵐にも若雪にも市にも、大きな影響をもたらした。
彼らのその後の人生の分岐点ともなった本能寺の変で、信長が何を思い死んでいったのか、本人の口から聞くことの不思議を改めて思うと共に、三人の胸を様々な思いが去来していた。
―――――――そこは星さえ遠い、ビルの密集地。
ふわり、と優美な鳥のように、黒臣は夜の街に舞い降りた。
嬌声と喧噪が遠く聴こえる暗い裏通りに、彼は魍魎の気配を感じ取っていた。
(―――――この街一帯に、魍魎が集中している。雪の御方様たちの気配に、惹かれてのことか――――――?)
皮膚が崩れた人型の異形が、三体、闇に蠢いていた。
黒臣の切れ長の目が、更に細められる。それは戦意の表れだった。近くでごみを漁っていた野良猫が耳を伏せ、ミャオウ、と一鳴きして走り去る。元々、花守が足を踏み入れるには穢れが濃い場所である。
「……醜悪も過ぎると、憐憫を誘うものだな」
漆黒の鞭が、その手には握られている。
襲い来る魍魎の一体を、鞭の一振りで打ち伏せる。ヒュンッと空気が鳴った一瞬後に、ざらり、と崩れ去る肉塊。
黒臣の腕を、もう一体が掴もうとする。それをかわしたところで、更にもう一体が待ち構えていた。この魍魎の動きは、ゆっくりしているようで無駄が無い。
広げられた両腕を、身を低くして辛うじて避けると同時に、鞭でその身体を絡め捕る。鞭を握る手に力を籠めると、絡め捕った魍魎は霧散した。しかしその隙に、残る一体が黒臣の背後に迫っていた。
気配に気付き、黒臣が振り返るが間に合わない。
「清き水は、刃のごとく」
涼やかな声が響いた。
次の瞬間、魍魎の身体を刺し貫く剣があった。不純物の無い、透明な水が凝ったような、美しい剣だった。
魍魎が倒れ、塵と化す。剣の主の姿がそこにあった。
「………水臣か」
「貸しが出来たな、黒臣?」
深い、水のような声はどこか愉快そうだった。
一見黒にも見える長い青の髪が、夜の風に靡いている。
「なぜ、ここにいる」
「ふん…、助けられた礼も無しか。姫様の予見だ。この場で、お前が危うくなると」
水臣は水で象られた剣を手に、無造作に立っていた。水臣も黒臣も、衣服は神界で身に着けるもののままだ。淀んだ空気を放つ場所で、彼らの存在とその衣は、場違いに神聖だった。
「成る程―――――」
あくまで礼を言う気配を見せない黒臣に、水臣が面白くなさそうな顔をする。
「――――――水臣!」
ハッと黒臣が目を見張り、水臣に警告の声を発した。
水臣は危ういところで、飛来した小刀のようなものをかわした。
それはガラスのように透明で、且つ鋭利だった。
「莫迦な――――――――」
姿を現した相手を見て、黒臣が呻く。
水臣も驚愕の眼差しでそれを見た。
そこに立つのは半透明の、美しい生き物だった。
小柄な少年とも少女ともつかない、中性的な風貌。神つ力を操る花守たちに刃を向けたものは、醜い妖とはおよそ程遠く、清らかささえ感じさせる空気を纏っていた。
「何だお前は―――――、魍魎、なのか?」
黒臣の問いに、その生き物はにこりと無邪気な笑みを見せた。