惑乱 一 後半部
ケーキバイキング!
秋山耕平は魍魎に遭った日を境に学校を休み続けた。
そしてある日、担任の倉石が彼の転校したことを告げ、真白たちは二度と耕平と顔を合わせることは無かった。
真白の体調が回復し、登校し始めてもどこか元気が無いことを、周囲の人間は心配していた。本人は大丈夫だと言い張るが、どう見てもそれは空元気だった。白い頬は以前にも増して透き通るようで、焦げ茶色の瞳には憂いがあった。
こういう時、市枝の存在は剣護たちにとって頼もしいものとなる。
「ま、し、ろ!」
昼休み、お弁当を片手にいつものように一年A組に顔を出した市枝は、もう片方の手にひらひらとチケットのような物を握っていた。外に面した教室の窓際中程にある真白の席を挟むようにして、前と後ろの席には荒太と怜が座っている。市枝は真白の隣の席に座ると、優雅な仕草で美脚を組んだ。男子二人の視線がほんの一瞬、注がれる。真白以外は、昼休みの間空く席を拝借していた。
「市枝、なあに、それ?」
指差して問う真白に、市枝はにっこり笑いかけた。
「ケーキバイキングの券。やーっぱり、忘れてた!」
「あ……、ごめん」
ずっと前に交わした市枝との約束を、色々あった出来事の為にすっかり忘れていたのだ。
市枝は、あまり気分を損ねた様子もなく答えた。
「良いわよ。……秋山のこととか、成瀬から聞いたわ。真白が気にすることなんか、全然無いのよ。真白は、何も悪くない。でさ、憂さ晴らしにパーッとケーキバイキング、行きましょうよ。今度の日曜日。山盛りのケーキを見れば、嫌なことなんか吹っ飛ぶわ」
カラッと笑いながら言う市枝の気遣いが、真白には有り難かった。
口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「そうだね、うん。行こう、行こう」
「決まりね。…今日も、剣護先輩が作ったお弁当?」
市枝が、真白の弁当箱を覗き込みながら言う。
「うん。いつもは気が向いた時だけなのに、最近は毎日。…剣護も、気を遣ってくれてるみたい」
真白の眉尻が下がり、申し訳なさそうな顔になる。
剣護は以前から、時折早朝ジョギングをしていて、大抵その日は自分の弁当と一緒に真白の弁当も作ってくれる。それが、耕平の一件以来、毎日真白の弁当を用意してくれるようになった。受験生でもある剣護の手を煩わせていることに、真白は少なからず引け目を感じていた。
「…剣護先輩もやるなあ」
真白の弁当箱を一瞥して、左手で頬杖を突いた荒太が感心したように言う。弁当箱の中身は、男子高校生が作ったとは思えない程充実していた。
「ところで市枝さん、その券、余ってないの?」
獲物を狙う獣のように目を光らせた荒太の言葉に、市枝が警戒の表情を浮かべた。自らも弁当箱を広げながら剣呑な目で荒太を見る。
「何よ、成瀬。あんたまさか、女の子のお楽しみについて来るつもり?」
「女の子二人で行動するって、今の状況下ではどうかと思うんだけど。ボディーガードが必要なんじゃない?なあ、江藤もそう思うだろ?」
水を向けられた怜は焼きそばパンの最後の一口を食べ終わってから、ちょっと頭を傾けて考える顔になった。荒太は、重箱の一段くらいはありそうな大きさの弁当箱を、既に空にしている。退院直後には細かった顎も、成長期の男子相応に輪郭が強くなっていた。
「まあね。成瀬の言うことも尤もだけど。女子同士の楽しみに水を差すのも、どうだろう」
「そうそう、そうよね、江藤。もっと言ってやって」
「真白はどう思うの?」
「え………?」
怜の言葉に勢いづいた市枝が、発破をかけたが、続く怜の真白への問いかけに、顔を顰めた。反対に荒太は、得たり、とばかりに口の端を釣り上げる。
「――――――ちょっと、何でそこで真白に訊くのよ。真白がどう答えるかなんて、解りきってることじゃない!」
市枝の尖った声に頓着することなく、怜が穏やかな声で妹に尋ねる。
「成瀬も同行して良いかい、真白?」
「私は……構わないよ」
市枝が頬に両手を当てて、頭をブンブン振りながら喚いた。金茶色の髪が、忙しなく乱れる。
「ほらあ、もう!案の定!たまには私に真白を独占させてくれたって良いじゃないの。私にだって百花があるのに!!」
魍魎相手の武器となる、扇の銘を挙げた市枝だったが、この場での劣勢は明らかだった。
「仲良くしましょうよ、市枝さん」
にこにこ笑う荒太を、市枝は恨めし気な目で睨んだ。
梅雨が明けたあとの七月の空は明るく青く、晴れ渡っていた。蝉がここぞとばかりに合唱して、もうすぐ訪れる本格的な夏の気配を感じさせる日曜日。
真白たちは、現地集合や待ち合わせはしなかった。市枝や真白が単独になる時間が出来るのを防ぐ為だ。まずは荒太が市枝を迎えに行き、そのあと二人で真白を迎えに出向いた。バイキング会場は大きなホテルの一階なので、三人共、服装はセミフォーマルなもので揃えている。真白は、パフスリーブの白ブラウスに、光沢のあるグレーのズボン、という格好を選んだ。目の肥えた二人に、自分の服装がどう映るだろうかと密かに心配していたが、二人が家まで迎えに来てくれた際、市枝がこっそり「大丈夫、良い感じよ」と耳打ちしてくれたのでホッとした。荒太と市枝は、さすがに隙の無い着こなしだった。
真白の家からバスで駅まで行き、電車に乗って二駅目で、真白たちは降りた。
(確か次の駅で降りると、次郎兄のアパートが近い筈だ。……どんな部屋に住んでるんだろう―――――。次郎兄のことだから、多分、ちゃんと片付いてるんだろうな。一回、遊びに行ってみたいな)
真白はそんなことを思った。
(それにしても、陽射しが強い…)
ホテルまでの道のりを歩きながら、手をかざして目を細める。日焼け止めを塗っておいて正解だった、と息を吐く。コンクリートの照り返しも、真白たちの体感温度を上げていた。市枝は市枝で抜かりなく、布地全体に広がる刺繍の美しい日傘を差している。
剣護たちが小太郎を買った老舗デパートの近くにあるホテルは、青空の下黒々(くろぐろ)と聳え立っていた。巨大で無機質な建造物は、そこにあるだけで見る者を圧倒した。
回転ドアを通り抜け、フカフカとした絨毯に足を踏み入れる。入ってすぐ耳につく、建物内に流れるクラシック音楽が、ホテルの威容を増していた。入口から見て右手にはロビーがあり、そこここに空間の余裕を持って配置されたソファやテーブルの向こうの壁には、大きなレリーフが施されている。バイキング会場はその向かい、左手にあった。
初めこそホテル内のひんやりした空気に心地好さを覚えたものの、慣れてくると今度は空調が効き過ぎて寒いと文句を言っていた三人だったが、ケーキバイキングの会場に一歩入ると、そんな不満も消し飛んだ。
重量感のあるきらびやかなシャンデリアの下、ショートケーキ、ガトーショコラ、シュークリーム、スコーン等々ずらりと並んだ燦然たるスイーツの数々に、真白たちは歓声を上げた。
とりわけ荒太のケーキを見据える眼差しは真剣で、真白や市枝が一個のケーキを食べる間に、彼は二個のケーキを平らげていた。荒太がケーキバイキングについて来たがったのは、何も真白たちのボディーガードをする為だけではなく、ケーキそのものも目的であったことが窺えた。
(うーん。さすがに苦しくなってきたな)
真白がレアチーズケーキを食べながら思っていると、隣に座る市枝がスマートホンを見て眉根を寄せているのが目に入った。
「どうしたの、市枝?」
目の前でシフォンケーキを食べていた荒太も、手を止めて市枝を見る。
「うん…。それが、信長兄上がね」
市枝が、長い髪を耳にかけながら口を開く。
信長、と聞いた瞬間、真白も荒太もやや構える気配を見せた。
「――――信長公が、何?市枝さん」
「成瀬は関係無いの、ちょっと黙ってて。真白、まだお腹に余裕ある?」
市枝にそう訊かれ、真白は何となく荒太と顔を見合わせた。
「俺はまだ、全然いけるけど」
「あんたには訊いてないわよ」
「――――――私は、厳しいかも。でもどうして?」
真白がお腹をさすりながら尋ねる。
市枝が微妙な表情で口を開いた。
「今日の夜、焼肉でもどうかって。真白を呼んで」
「――――――市枝さんと真白さんだけ?」
「そう」
荒太は少し考える素振りを見せた。
「両手に花と洒落こむ気かな…。俺も行って良いかって訊いてみて?」
「――――――解った。……来るなってよ」
スマートホンの画面に目を向けたままで、市枝が返事を伝える。
「ああ、解った。じゃあ一緒に行く」
当然のように言った荒太に、市枝が不可解、という顔をする。
「どういう理屈?兄上に叱られたいの?」
「いや、そんな趣味は無い。行っても良いか、ってこっちが訊いて信長公が来るなって言う時は、〝自分が来るなと言ったくらいで、すごすご引き下がるような奴に用は無い〟って意味だから。逆に来て良いって言う返事の時は、行かないほうが良い場合が多い。――――――――――相変わらず面倒臭いんだな、あの人」
「…………」
荒太の展開させる持論には、市枝も真白も覚えがある。
信長は昔から、天邪鬼めいた気質を発揮して他人を翻弄するところがあった。今生においてもそれは変わらないらしい。
「…でも、本当に言葉通りの意味だったらどうするの?」
「その時はその時。市枝さんのスマホが、電波障害で信長公の返事を受信し損ねたとでも、何とでも言えば良い」
真白の懸念に、荒太が軽い調子で答える。
市枝が溜め息を吐く。
「…あんたが兄上に気に入られてた理由が、解った気がするわ。じゃあ、成瀬も行くって返事しとくわよ」
スマートホンの画面に目を遣る市枝に、真白が恐る恐る言う。
「でも市枝、私もう、お腹いっぱいなんだけど。…これ以上、お肉まで食べたら太りそうだし」
夜までまだ時間があるとは言え、ケーキと焼肉の組み合わせはカロリー増量の最強タッグではないか、と真白は怯えた。年頃の少女が気にかける点としては妥当である。
「真白さんは、もう少し全体に肉がついて良いと思う」
荒太が真顔で断言する。
「やだ成瀬、何かその発言、エロい」
市枝の言葉に、ムッとした顔で荒太が反論する。
「だって、今の真白さん、華奢過ぎない?見てて不安になるんだけど」
「真白はあんたみたいに、何でもばかすか食べないの。まあそうね、でも確かに、もう少し太って良いわよ、真白。最近、またちょっと痩せたでしょ。よし、兄上の奢りらしいし、この際焼肉まで行っちゃいましょうか」
威勢良く言い放つ市枝の、出るべきところは出て締まるべきところは締まった体型を、真白は眺め遣る。彼女に比べると自分は、出るべきところが些か寂しいという自覚はあった。
二人の言い様に、もう少し食べる量を増やすべきだろうか、と真面目に考え込んだ真白は、次いで、信長の生まれ変わりと焼肉の網を囲む、という光景を思い描き、複雑な心境に陥る。
(どう考えても、シュールな光景のような気がするんだけど…)
それでもやはり、背筋が伸びるような緊張感を覚えることには変わりなかった。