惑乱 一 前半部
第三章 惑乱
隔てるものは
ガラスの一枚
たった一歩が
私を染める
白か黒
一
翌朝は晴天だった。
雨の日の翌日特有の洗われたような空気が、清々(すがすが)しい一日の始まりを告げていた。
だが、登校前に真白の様子を見に来た剣護は、真白の言葉に、清々しさとは正反対な、面白くない冗談を聞いたと言わんばかりの苦い顔をした。
「学校に行くだあ?」
淡い水色のパジャマに、白い薄手のカーディガンを羽織った真白は、ベッドに半身を起こし上目遣いに頷いた。ベッドに腰掛けた剣護は、まじまじと真白の顔を見る。その目は「正気かこいつ」、と言っていた。目は口程に物を言う。
「うん。……駄目、かな」
「駄目です」
即座に却下した剣護は、なぜか敬語になっていた。真白も無茶を言っている自覚はあるらしく、最初から態度が弱腰だった。
「お前、まだ熱もあるだろう。皆勤賞だって狙えないんだ。今日は一日、食えるもん食って大人しく寝とけ」
「熱なんて…、もうそんなに無いよ」
「――――――」
目を逸らしながら反論した真白の額に、有無を言わさず手を当てパッと離す。
その手を振りつつ言う。
「熱い。火傷した」
ご丁寧にも、フー、フー、と手に息を吹きかけるジェスチャー付きだ。
「大袈裟だな……」
呆れた顔をする真白に、剣護が輪をかけて呆れた顔をした。じろり、と一睨みして遣す。
「熱があるのは本当だろう。俺はもう行くぞ。――――――ついでに秋山の様子も見て来といてやるから、お前はゆっくり休むんだ」
秋山、と言う名前に、真白がぴくりと身体を揺らす。
「放課後、荒太たちに見舞いに来るよう言っとくよ」
真白の動揺を見なかった振りをして、剣護がポンポン、とその頭を軽く叩いた。
今日は祖母の一人が在宅だが、茶道や華道の師範を務める身では、稽古が無い日でも色々とすることに追われて、真白の看病に専念することもままならない。学校が終わり、荒太たちが来るまで一人だと思うと、寂しいものがあった。長時間一人になるのが嫌で、つい我が儘を口にしたのだ。
熱があることも手伝い、真白は心許無い顔になっていた。
その顔を見て、剣護が心中で唸る。
(全く…寂しがり屋なところは、若雪ん時から変わってねーな)
剣護はうっかりほだされそうになる自分を戒めた。
「―――――――荒太がな」
「え?」
「荒太が、秋山に対して随分腹を立ててたよ。お前に浴びせた罵声が、許せなかったんだろう」
「…それは、」
真白が首を力無く横に振る。
「それは、秋山君が悪い訳じゃないよ…」
「ああ。あいつも理屈じゃ解ってるさ。それでも、お前が傷ついたことに変わりは無い」
「………」
じゃあ俺は行くから、良い子にしてろよ、と子供に言うような言葉を残し、剣護は部屋から出て行った。
一人になった真白はふう、と息を吐いた。
「………剣護のばかー。…あほー…」
八つ当たり以外の何物でもない言葉を、拗ねた口調で言い放つ。
言われた当人が聴けば、理不尽だと言って抗議すること必至である。
剣護が去ると、急に部屋が静かになった気がした。コロン、とベッドに仰向けに寝転がると、枕元に座るテディベアが逆さまになって目に映った。
身体を反転させ、腹這いになる。
「…一緒にお留守番だね。小太郎」
そう言って、その茶色い鼻をチョン、とつついた。
剣護と怜、市枝の三人から誕生日プレゼントとして贈られたテディベアの名前に関して、真白と剣護は色々ともめたが、結局真白は「小太郎」と名付けた。それを聞いた剣護は、「ネーミングセンスが無い!!」と言って嘆いていた。「小さい太郎兄」、という響きがして可愛いじゃない、と真白は言ったのだが、「猶更嫌だよっ」と言ってそのフォローは一蹴された。難しいものだ。ぬいぐるみを愛でるにはもういい年頃だが、真白は小太郎のつぶらな瞳に癒されるものを感じた。
(若雪として、労咳で寝込んでいた時は、ぬいぐるみなんて無かったものね…)
労咳、今で言う結核の初期にあった若雪は、まだ症状もそれ程顕著でなく、かなり暇を持て余していた。嵐は彼女の性格を知り抜いた上で、無理をしないように常に目を光らせていたものだった。
「かわいいくまちゃんですわね。小太郎ちゃんって言うんですの?」
いきなり耳横で聞こえてきた声に、ぎょっとする。しかしそれは、聞き覚えのあるものだった。一度聴いたら忘れられない、とろける蜜のように甘い声。
ふわふわとした若草色の髪を、肩程まで伸ばした女性が、にこやかな笑顔で立っていた。
「………木臣さん!」
「はあい。御機嫌よう、雪の御方様」
そう言って甘い美貌の女性は、優雅にお辞儀をすると晴れやかに微笑んだ。
「どうして、ここに…?あ、結界内なのに、よく入れたね」
木臣はにこり、と笑う。
「理の姫様はもちろんのこと、私たち花守は、禍つものとは正反対の存在ですから。それを防ぐ為の結界は、用を成しませんわ。それに、神域に神が歩み入るのに、何の不思議がありましょう。それから真白様、私共のことは呼びつけで結構ですのよ」
そう言って、木臣はその先を言おうとはしない。
どこか催促するような、輝くような目で真白を見ている。
(ひょっとして)
「―――――…マリアージュ・フレールの、マルコポーロ・ルージュ?」
パッと木臣が顔を輝かせた。
明臣に紅茶の味を教えたのは、どうやら木臣のようだ。そして真白の家でそれを飲んだ、と更に明臣が木臣に伝えたのだろう。
「まあ、いただけますの?そんな、悪いですわ、有り難く、頂戴しますわね?」
殊勝なのか図々(ずうずう)しいのか、よく判らない言葉で、木臣は喜びを示した。真白はただ茶葉の名を挙げただけなのだが、彼女の中では既に、紅茶を提供してもらえるものと決まっているようだ。両親の帰国の為に買った紅茶の茶葉は、まだ残っている。
(うちは喫茶店じゃないんだけどな…)
そう思いつつ、祖母に頼んで淹れて来てもらった紅茶に、木臣は相好を崩した。その顔があまりに嬉しそうだったので、真白も苦言を呈する気を無くした。
最初、真白は木臣の存在を祖母にどう説明したものかと頭を悩ませたが、どうやら祖母には木臣が見えていないらしく、部屋には真白一人と思っているようだった。
(やっぱり神様なんだなあ)
熱でぼうっとしているのも手伝って、真白は変な感心の仕方をしていた。
ティーカップを見て、木臣が目を細める。
「ウェッジウッドですね。素敵だわ」
「…詳しいんだね」
「私、およそ芸術の全般に興味がありますの」
指先を唇に当て、ふふふ、と笑いながら木臣は言った。
そのティーカップは真白が、去年の誕生日にコーヒーカップと一緒に両親から貰ったプレゼントだった。
祖母は真白が飲むもの、と思い紅茶を淹れたのだから、当然の流れではあった。
優雅な所作で紅茶に口をつけながら、木臣が本題に入る。
「雪の御方様におかれましては、御心痛と御発熱の御様子、と理の姫様が大層案じられまして。それでお見舞いに私が参上しましたの」
「そっか……」
木臣が口にする敬語の連発に、どこか落ち着かないものを感じながらも、そういうことか、と真白は納得した。
(光―――――…)
守るつもりが、逆に心配をかけてしまった。
「ありがとう、木臣」
胸をそらして、誇らしげに木臣が答える。
「いいえ。真白様が回復されるまでは、私、真白様のお傍を離れないように、御命令を受けておりますの。私がおりますからには、寂しい思いなどさせませんわ。ご安心を」
上品な口調とは裏腹に、どこかパワフルなこの女性に、真白は思わず笑ってしまうような安心感を覚えた。
「ところで木臣、その服装って……」
木臣が身に纏う服は、どう見てもハイブランドのものである。
「ああ、ファッション雑誌を参考に、いくつか見繕いましたの。似合いませんかしら?」
さらりと言うが、簡単に見繕えるような値段ではない筈である。一体どのようにしてその代金を用立てたのか、考えると妙に不安になり、真白は思考を途中で放棄した。
実際、絹素材であろう品の良いベージュのジャケットと、同じ布地のふわりと広がるサーキュラースカートは、甘い美貌の木臣に似合っていた。ジャケットの下に着た、襟と、ボタンが並んだ縦線に控えめにフリルが飾られたブラウスも、服装全体の調和を保っている。
「ううん。良く似合ってるよ」
真白がそう言ってやると、木臣は嬉しそうに微笑んだ。
その微笑みを見て真白も口元を緩めたが、次の瞬間、コンコン、と咳き込む。やはりまだ頭が熱く、芯のほうがズキズキと痛い。
木臣が真顔になり、ティーカップをソーサーに置くと、真白の額の前に手をかざした。椿の花弁のように色づいた唇が開く。
「癒し風の、そよそよと吹く」
その言葉が唱えられた途端、窓からではなく部屋の内側から、清涼な一陣の風が生じ、室内を通り抜けて行った。
(あれ………)
気付けば、喉と頭の痛みが随分楽になっている。何とはなしに両手を見る。身体全身を、涼しく、優しい風が廻ったような快さがあった。
「木臣。今のは――――?」
「言霊ですわ。真白様の、御身体の不快を和らげる唱え言を、少しばかり施しました」
「花守は、何でも出来るのね。荒太君みたい…」
言う端から、真白の瞼は重くなってきた。
(…何だか、眠い……)
「この言霊には、弱った身体の回復の為の、眠りを誘う効果もありますわ。今はお眠りなさいませ、真白様――――――――――」
木臣の言葉が、遠ざかってゆく。
(また、泣いている……)
暗闇の中、密やかに涙を落とす気配がする。
真白は声の主に向かい、手を伸ばす。
けれど差し伸べた手は、払われる。
強い拒絶の意思が闇を伝い、払われた手にまでビリビリと響いて痛い程だ。
あなたではない、と。
求めるのは、ただ一人だけ。
あの人だけを、私は望む。
あの人だけに、私は願う。
(――――何を?何を、彼に願うの?)
その答えを、あなたは既に知っている。
泣き声の主にそう言われ、真白は当惑した。
(私は知っている?…解っているのに、解らない振りをしているだけ?―――――私に、あなたを救わせてはもらえないの?)
声は沈黙ののちに答えた。
――――私を救済することの意味を。
あなたが思い出しても、尚そう言うのなら。
尚、そう言うのなら。
―――――やってみると良い―――――――――。
「―――待って………」
自分の声で、真白は目が覚めた。
「真白様、いかがなさいました?嫌な夢でも、ご覧になりまして?」
心配そうな顔をした木臣が、真白の顔を覗き込んでいる。
「………悲しい夢でも、ご覧になりまして?」
木臣がなぜそれ程、気遣わしげな表情をするのか、真白は自分が涙を流していることに気付いてから、ようやく得心がいった。
「…あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく」
身を起こし、涙声で詠んだ言葉に、木臣は敏感に反応した。
「夢違誦文歌ですわね」
「うん……。若雪が昔、嵐どのに教わったの」
涙を拭いながら真白が答える。それは悪夢を吉夢に転じる呪いだ。
「お辛い夢だったのですか?」
木臣が、差し出すようにそっと尋ねる。
「ううん…。……辛いのは、私じゃなかった。私じゃ、なかった」
けれどそう答えた真白の顔は、苦痛を堪えるように歪んでいた。
「私じゃない誰かが、とても、辛い思いをして泣いていた」
苦しみよりも、悲しみよりも、更に深い暗闇に佇む孤独な魂。
真白が若雪だった時でさえ知り得なかった絶望が、接するだけでひしひしと伝わって来た。
(あの人、あのままでは死んでしまう……)
絶望に呑まれて。
何より本人が、それを望んでいるように思われた。
「―――――――助けたいと思ったの。何とかしたいと思って、手を伸ばして―――――。でも私には、何も出来ないと言われた」
せめて泣いていた彼女の、苦しみが少しでも違えられれば良いと思って、夢違誦文歌を詠んだ。
「木臣。私、何も出来ないことが苦しい。力が無くて――――――悔しい。…ごめんなさい。ごめんなさい…………」
誰とも知らない相手への謝罪を、真白は繰り返した。
「真白様、大丈夫ですわ。真白様には、理の姫様も花守もついております。兄君方も、荒太どのも市枝どのも。何も、心配なさることなどございません」
状況が掴めないままに、木臣は謝り続ける真白を抱き締めた。そうしながら、真白の気性は危うい、と感じていた。
(誰かの強い思念を受け取って、それに共鳴された――――?……それにしても、情が深過ぎる―――――若雪様と、まるで同じ。そのことが真白様にとって、必ずしも命取りになると決まった訳ではないけれど………)
彼女の敬愛する理の姫の、姉である少女の嘆きに震える肩は、木臣から見ても華奢で細かった。