布陣 四 後半部
真白は暗闇の中にいた。
(誰もいない………)
無明の闇で、彼女は一人きりだった。
(…何だったろう。誰かに、)
言われた言葉が胸に刺さり、ひどく辛かったことを覚えている。
ずっと昔にも、やはり同じ言葉をぶつけられた。
(初めてじゃない)
化け物、と呼ばれるのは。
若雪も苦しんでいた。
有り得ない、と言われて。
お前のような子供など有り得ない、と。
それを憐れみ、自分の力を神よりの賜りものだと言って、慰めてくれた母。
(母様………)
解っていた筈だった。
常人とは異なる才を持つ自分が、周囲に疎外されることは。
それでも、神として存在するより、人としての転生を望んだのは嵐に出会う為だ。
苦しみを負っても、彼と逢う道を選んだ。
(荒太君……)
猛る風。飛翔する鷹。
今生でも、彼の本質は変わっていないように見えた。
(始めから、私の生きる道は平坦なものではないと定められていた)
ここを超えて行くしかないのだ。
きっと耐えられる。
(独りではないから)
真白はふと耳を澄ませた。
(―――――誰か泣いてる?)
聴いている真白の胸さえ痛くなるような、泣き声で。
嘆き、悲しむ気配がする。
(ああ………)
その声の主は姿を見せない。
だが真白には解った。
(…あなたは、独りぼっちなんだね……)
それでは生きるのが辛いだろう、と真白は思った。
人との関わりから、触れ合いから、全く切り離されて生きることは難しい。
その時、泣き声の主が、一人の名前を呟いた。
(え――――――?)
それは、真白も良く知る人物の名前だった。
(―――紅茶の匂いがする………)
真白はうっすら目を開けた。飛び込んできた光の眩しさに、開きかけた目を細める。
近くに感じる、複数の人の気配。
「お、起きたか」
真白の目覚めにいち早く気が付いたのは、剣護だった。
彼の言葉に、怜と荒太も真白を見る。
「太郎兄、次郎兄、…荒太君」
三人揃って、どうしたのだろう、と真白は思う。
(…身体がだるい。頭が熱い)
そうして、真白は何があったかを思い出した。
〝近付くな化け物〟
再び、ズキンと胸が痛んだ。
それが顔に出たのだろう、三人の顔に案じるような色が浮かんだ。
大丈夫、と示そうとして身体を起こす。
怜に付き添われて帰宅した真白は、祖母と怜に勧められ、ぼんやりする頭で制服からパジャマに着替え、ベッドに横になった。そしてそのまま、眠ってしまったのだ。
雨はまだ降っているようだ。耳を澄ますまでもなく強い雨音が聴こえる。
「荒太君―――――、どうして、ここに?」
荒太の顔を見ると、途端に今の自分のパジャマ姿が気になった。
(…恥ずかしいな)
二人の兄の前では、起きなかった恥じらいだ。
薄手の掛布団を、顎のあたりまで引っ張り上げる。
名指しされた荒太が、怜と剣護を押し退けるようにベッドの傍まで来た。
「真白さんが、魍魎に遭ったあと、寝込んだって聞いたし」
「次郎兄から――――――?」
「いや――――――」
「じゃあ、剣護から?」
「…いや…」
真白が子供のように小首を傾げる。
荒太が躊躇う様子で口籠り、剣護と怜が彼を見た。
二人が報せるまでも無く、荒太は真白の家に来た。
どうやって真白の状態を知り得たのか、剣護も怜も訊きたいところだった。
「―――兵庫に聞いたんや」
荒太の言葉に、真白が目を見開く。
「――――兵庫――――――?………それって、あの、兵庫?」
「せや。あの、兵庫や。今は、河本直て名乗ってるけどな」
怜と剣護には初耳の名前だった。
「誰だ、そいつ?」
「俺が前生で率いてた忍び集団、嵐下七忍の一人です。……本能寺の変の時、死んだ奴ですわ」
尋ねた剣護に、荒太が答える。
(兵庫――――、生まれ変わってた)
真白は両手で口元を覆った。
〝そして俺は多分、自分が死ぬ時も、きっと自分の判断に満足しながら死ぬでしょうね。あえて終焉の地を、自分で選ぶんでしょう〟
自ら言った言葉通りに、彼は本能寺を死地と選んだ。
兵庫はいつも飄々(ひょうひょう)として、嵐や若雪にさえ、時に突き放すような意見を物怖じせず言った。耳に痛い言葉は、しかし誰より嵐と若雪の為を考えて発せられるものだった。若雪は、本能寺の変が起きたのち彼の訃報を聞いて、自らの言葉が兵庫を死地に追い遣ったのだと自分を責めた。嵐はそんな若雪に、彼の覚悟を侮辱するなと言って諌めたのだ。
(もう一度、会える……?――――でも)
真白の胸に、一抹の不安がよぎる。
「…私のこと、恨んでなかった?」
「いや、全然。恨む理由が無いやろ。むしろ、前から真白さんに会わせろ言うて、うるさいくらいや」
「――――――――」
真白がもどかしげに身を乗り出す。パジャマ姿ということも、今や頭に無かった。荒太の顔と顔が近くなる。
「元気にしてる?変わってない?辛いこととか、無さそうだった?」
矢継ぎ早の質問に、荒太が白い歯を見せた。
「相変わらず、憎たらしいくらい元気や。ピンピンしとるで。なんも心配要らん」
「そう…。良かった―――――。良かった」
人が転生を繰り返す、その理に、真白は救われたと思った。
涙さえ落とさなかったものの、彼女の両目はひどく潤んでいた。
「……真白、もし食欲が少しでもあるようなら、マドレーヌがあるよ。成瀬が焼いて来てくれた。美味いよ。アッサムの紅茶も入ってる」
怜が優しい声をかけ、ケーキ皿に盛られたマドレーヌと、紅茶のポットを掲げて見せた。丸いガラス製のポットに淹れられた紅茶は、綺麗な赤褐色だった。
真白が美味しそうに二口、三口マドレーヌを食べ、紅茶を飲むのを見届けた怜と荒太は、あとを剣護に任せて帰ることにした。
玄関先で、剣護が荒太に礼を言った。
「ありがとな、荒太」
「マドレーヌの礼やったら別に要りませんよ」
「いや、そっちじゃなくて、兵庫の件だ」
続きを怜が引き取った。
「真白を元気づける為に、俺たちには伏せておきたかった情報を、わざと明かしただろう?誤魔化しようは、色々あっただろうに。俺からも礼を言うよ、成瀬。ありがとう」
荒太は二人の言葉を聞き、首の後ろをがしがしと掻いた。視線は明後日の方向を向いている。
「別に。偶然やろ」
剣護がにや、と笑った。
「ほー。お前、結構殊勝なとこあるんだな」
「それより剣護先輩、真白さんのこと頼みますよ。なるべく傍にいたってください。今はまだ、ナーバスになってる筈や。誰かが一緒にいてやったがええ」
ほんまは俺がいてやりたいんやけど、とぼそりとこぼした荒太の頭を、にこやかな笑みを浮かべて、調子に乗るんじゃないとばかりに剣護が小突いた。まだまだ妹の傍らにいる時間の全てを、譲り渡してやる気は無い。
「解ってるよ。俺がついてるから心配すんな。―――――お前たちも、帰り道には気をつけろよ。何があるか解らないからな」
剣護の言葉に、心得ているとばかりに頷いた二人は傘を差し、真白の家をあとにした。
雨はその晩遅くまで降り続いた。
「呪詛返しに遭ったそうだな?」
さして同情する風でもない声に、くたびれたビジネス・スーツを着た男は顔を上げた。
そこは生活臭の感じられない、殺風景なマンションの一室だった。清らかさも濁りも無い、無味乾燥な空気が漂っている。
男が上げた顔の左半分は、焼け爛れたようになっていた。
「おやおや、哀れなものだ。小野太郎清隆―――――門倉剣護、中々(なかなか)どうして、やるじゃないか」
わざとらしい同情の声と、面白がるように続いた言葉に、男は相手をギッと睨め付けた。
「おお、怖い」
全く怖がってはいない、揶揄する響きを過分に帯びた声。低く、喉を鳴らすような笑い声は男の神経を逆撫でした。
「解っているだろうがね、我々は貴様に肩入れなどしないよ?ただ現時点では利害が一致している為、協定を結んでいるだけだ」
「―――――私は、奴らへの恨みを晴らせればそれで良い」
そっけない態度に、スーツの男はギラギラと血走った目で答えた。
その声には暗く、深い憎しみが宿っている。
「恨み、ねえ…。まあその調子で、せいぜい頑張ってくれ」
あくまでも男を突き放すような、気の無い言い様だった。
(憎しみに、喰われた男、か……)
声の主にとって、男は醜く滑稽なピエロでしかない。見ていたら多少は退屈が紛れる、その程度の存在だ。怨念を抱いたまま、勝手にどこまでも突っ走れば良い。
どうせこの男に太郎清隆も次郎清晴も、まして門倉真白を討ち取ることなど期待していない―――――――。
男の惨めな末路が、今から目に見えるようだった。
しかし、このままでは魍魎の数は減る一方だ。
(ここらで一つ、手を入れようか)
口元に拳を当て、考える。遊戯の手順を思い描くように。
醜いものをただ滅すべきと信じて疑わない者たちは、どれ程狼狽えるだろうか。
清らかな、神つ力を扱う者たちは。
(問題提起……と言うやつだな)
正しさとは何か――――――――――――。
彼らが懊悩する姿は、さぞや見物だろう。
閃く刃のような笑みを浮かべる。
(ねえ、透主様?)
薄暗い部屋の中、白く透けるような布の垂れ下がる天蓋つきのベッドの上には、一人の少女の姿があった。
雷光が、部屋の様子を一瞬眩しく照らし出す。
細い首には、肩を過ぎるくらいの髪がまとわりついている。手足も細く、今にも折れそうな風情だ。右の足首には、赤く光る足枷が嵌められている。
数秒のちに、ドーンという落雷の音が鳴り響いた。
少女が身動きすると、赤い鎖がシャラリと音を立てる。
彼女はただそこに座り、虚ろな眼差しを宙に向けていた。
絶望に閉ざされた胸にあるのは、変わらない願いだけ。
たった一つの願いを、彼女はひたすら胸中で繰り返していた。
(来て――――ここに。早く来て。私を助けて―――――、太郎清隆)
私を助けて。
私を殺して。
太郎清隆。