布陣 三 後
「真白が寝込んだって?絵里ばあちゃん」
怜から報せを受け、三十分後に真白の家に辿り着いた剣護は、カフェを出た直後に降り出した雨でだいぶ濡れていた。途中でバスを使うこともあり、面倒で結局傘を買わなかったのだ。濡れた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。
着物を着た、おっとりした風情の祖母が、タオルを剣護に渡しながら答える。真白の両親は、娘の誕生日を祝ったあと、三日後には勤務先であるイギリスへと戻って行った。二週間以上休みが取れただけでも、奇跡のようなものだったらしい。
「そうなの。江藤君が送って来てくれたんだけど、うちに着いたころにはもう熱が出てて―――――。今、部屋で寝てるわ。悪いけど剣護、飲み物、持って行ってやってくれる?江藤君のぶんも」
礼を言って受け取ったタオルで大雑把に髪や制服を拭き、剣護が更に訊いた。
「怜はまだいるの?」
「ええ。心配して、ずっとついててくれてるわ」
剣護は安堵や心配の入り混じった、複雑な溜め息を吐いた。
冷えた麦茶のコップの載った盆を手に真白の部屋に入ると、祖母が言った通り、真白はベッドに横たわり眠っていた。蒼白な顔色を見て、剣護が眉を顰める。雨の降りは強くなってきたらしく、ざあ、という雨音が、室内にも響いていた。
「一体何があった、次郎?この一年程は、真白はそうそう熱を出していなかったのに。雨にでも打たれたのか?」
盆を小テーブルに置き、怜にコップの一つを差し出しながら尋ねる。
怜は真白を守るかのようにベッドの前に胡坐をかき、腕を組んでいた。
剣護の問いを受けて、ちらりと真白の顔を見て眠っていることを確認する。その眠りを妨げないように立ち上がってベッドから距離を取り、麦茶の入ったコップを受け取ると声のトーンを落として答えた。
「いや。俺も真白も折り畳み傘を持ってたから、濡れてはいない。……下校中に、魍魎に遭った。正確には、魍魎に喰われそうになっていたクラスメートを助けて、魍魎を滅したんだけど――――――」
「けど?」
自らも麦茶を口に含みながら、剣護が先を促す。
怜が浮かない顔で続ける。
「―――――――…真白がそのクラスメートを心配して無事かと訊いたら、〝近付くな化け物〟と言われた。真白は返り血も少し浴びたし、精神的ショックと汚濁への拒絶反応が、併せて発熱に繋がったんだろう。……本当は、真白には口止めされてたんだけどね」
〝お願い、次郎兄。太郎兄たちには言わないで〟
それは秋山を庇う思いと、「化け物」と呼ばれたことを恥じる思いから出た言葉だったのだろうが。
――――――――そういう訳にもいかない。
(ごめん、真白)
特にこんな時の剣護はひどく勘が良く、怜が口を噤んだとしても誤魔化しきれなかっただろう。
「…………」
(近付くな化け物――――…)
話を聴いた剣護は、額に手を当てて深い溜息を吐いた。
暗澹たる思いだった。
「――――放っておいて良かったんじゃないか、そんな奴」
低い声で言う剣護を、怜が見据えた。彼はコップを手にしたまま、まだ一度も麦茶に口をつけていない。
「出来ないよ。解るだろう?」
「――――――……」
剣護も本気で言った訳では無かった。
どうにも遣り場の無い憤りが、彼に本心とは違う言葉を口に出させた。
恐怖に駆られた人間が、怯えが過ぎるあまり他人を傷つけるのはよくあることだ。
しかし。
剣護は、眠る真白の青ざめた顔を見る。
(真白―――――――)
「…そいつが、学校で色々言いふらす、って可能性は無いか?」
剣護が胸に浮上した懸念を口にする。
「それは無いだろう。……何か言っても、誰が信じるとも思えない。本人が白い眼で見られるだけだよ」
「そうだな…。不幸中の幸いってとこか」
ハンガーにかかった、制服に目を遣る。怜もその視線を追って言った。
「真白の制服も、浄めておいたほうが良いな」
「…次郎、覚えてるか?前生で、国造家に披露した奉納試合を」
「――――――覚えてるよ」
それはまだ、小野家に惨劇が起こる前。
小野太郎清隆は十六、次郎清晴は十四歳の年のことだった。
出雲大社においては、大社を統括する千家家と北島家、両国造家に披露する奉納試合が催された。その試合に勝ち残る者は少なくない褒賞と栄誉、名声を約束される。出雲国一国のみならず、他国からも腕に覚えのある人間が、我こそはとこぞって参加した。そんな中で、腕自慢の武芸者を次々と打ち負かし、最後まで勝ち残ったのは若干十三歳の小野若雪だった。華奢な体躯に白い肌、儚げに整った顔立ちの、まだ年端もゆかぬ少女が勝利者の栄光を掴み取るとは、その兄たちを除き誰が予想出来ただろう。
「若雪が国造から賛辞を受けたあと、俺たちのところに来る途中、最後に若雪と立ち合った侍が言った。〝この化け物が〟と」
〝この化け物が〟
国造家からの賛辞に頬を紅潮させ、兄たちのもとへ駆けていた若雪は、憎々しげに吐き捨てられた言葉に、顔色を変えて立ち尽くした。思わず刀の柄に手をかけ、身を乗り出しそうになった次郎清晴を止めたのは、太郎清隆だった。けれど止めた本人が、一番怖い顔をしていた。見る者がたじろぐ程の。
「…覚えてる」
「……人は妬み、嫉む。…怯える。それはどうしようもない感情なんだろうが…、何の落ち度も無い真白が、悪感情に晒されるのは理不尽だ」
「俺たちでフォローしていくしかないよ、太郎兄。その為の兄妹だろう?」
落ち着いた瞳で怜が言う。
「ああ…。確かにその通りだ。けど、それもいつまで続けられるものか解らない……」
「どういう意味?」
剣護は、言うべきか迷うような表情を見せた。
「…俺たちが、この先何度生まれ変わっても、兄妹としての記憶を保持し続けられる保証なんてどこにも無い。今生でだって、いつまでこんな風に一緒にいられるか見通しも立たないのに―――――――」
廻る輪廻の輪が、いつまで自分たちの絆を許すものか――――――。剣護はそれを危ぶんでいた。
怜の目には、静かな光と諦観のようなものが宿っていた。
「俺は、何があろうと真白や太郎兄、三郎との記憶を手放すつもりは無いよ」
確固とした口調で言い切った怜は続けた。
「それでも、万一俺たちが離散してしまっても――――――、成瀬だけは真白の傍にいる筈だ。俺たちのぶんも、あいつが背負って真白を守るだろう。若雪が人として転生し続ける道を選んだ時点で、嵐も相応の覚悟をして然るべきなんだよ。……若雪の選択は、嵐の存在があってこそのものだったんだろうから」
神として転生の輪から外れるのではなく、人として転生し続けることを若雪は選んだ。そして今に至る。
剣護が口にするまでもなく、怜は既にあらゆる可能性を考えていたようだった。
「苦労性だな、次郎。―――――俺は時々、お前が心配になるよ」
思考の鋭さと繊細さが、怜自身の負担になるのではないかと。
怜は微かに笑った。
「人のこと言えないよ、太郎兄。人が好いところは昔から変わらないんだから」
「そうか?」
「そうだよ」
剣護は窓の外の、降りしきる雨に目を遣った。
「―――――…結界に揺らぎは無いようだな」
「それは心配無いよ。それにこの家は、神の眷属である真白が長く住まう家で、言わば神域だ。清浄な気配が濃く満ちたここに、手出しする妖がいるとも思えない」
それでも、事態が収束するまで真白たちに出雲へ行くよう勧めたのは、出雲大社を中心とした神域が広かった為でもある。真白の家が神域に等しいとしても、真白と市枝が長期間この家に籠り通しでいるには無理がある。
戦端が開かれる前、透主より報せを受けた直後、剣護と怜は手分けして真白と市枝の家、荒太の入院する病室、そしてそれぞれの自宅に結界を張って回った。荒太が退院する際、彼の自宅にも結界を張るつもりでいたが、真白から魍魎にまつわる話を聴いた荒太は、既に独力で結界を張っていた。それを見て取った剣護と怜は、さすがは元陰陽師、と二人して感心した。
剣護は眠る真白の顔を見ながら思い返していた。
(身体に負う傷は、俺たちにも防ぎようはある。だが、真白が心に負う傷までは防ぎようが無い――――…。……――――戦の渦中に身を投じる以上、それすら心構えをしておくべきなんだろうが――――――――)
「…真白は、このくらいでは泣いていられないって言ったよ。実際、泣かなかった。……涙を溜めこんで。こんなことになるくらいなら、無理にでも泣くように言えば良かった。相変わらず不器用なんだよ、この子は」
怜が真白の顔を見つめたまま、静かな声で語った。
雨はまだ降り続いている。
怜の握るコップの麦茶は、既に温くなっているだろう、と剣護は思った。