布陣 三 中
陰湿な空間。満ちる悪臭。腐臭。理の姫の創り出した空間とはまるで対照的だ。
そしてそこに待ち受けるのは、大きな一つ目を顔に持つ、泥のような皮膚の化け物。その数、四体。
「――――――次郎の言ってた奴だな。確かに、ひどい匂いだ」
明臣は特に動揺もせず、剣護を見ている。
(お手並み拝見か―――――――?)
見られるばかりでは癪に障る。
「明臣、二体任せて良いか?」
「……良いよ」
怜の言っていた通り、崩れ落ちた魍魎の皮膚は、落ちた先にある地を音を立てて溶かした。大きな目は、明臣と剣護だけを映し敵意を剥き出しにしている。
(――――――哀れだな)
緑の目を細め、剣護はふとそう思ったが、喰われてやる訳にもいかない。
「しかしくま、つるせみの、いともれとおる、ありしふゑ、つみひとの、のろいとく」
朗々(ろうろう)とした声で、唱え上げる。意図して選んだ秘言は、一体の魍魎の姿を瞬時に消した。もう一体が、警戒の構えで剣護から距離を取る。
「臥龍、頼む」
呼んだ一瞬後、金色の光が差す。
掲げた右手には、黄金色に光る大振りの太刀が握られていた。装飾性の高い、豪奢な陣太刀に近い外観をしている。
怜の扱うやや細身の黒漆太刀である虎封とは異なり、見ただけで重量を感じさせるそれを、両手で握り直し、軽々と振り上げて下ろす。
――――――重く、厚い風が巻き起こる。
最初の一撃を何とかかわした魍魎は、怖じたのか、逃亡の気配を見せた。それは、明らかに臥龍と、その遣い手である剣護を恐れていた。
(逃がさねえよ)
今の剣護の目は、狩人のそれだった。
素早く魍魎の行く手に回り込み、退路を阻む。
一閃――――――――。
袈裟がけに斬ると、魍魎は真っ二つになって崩れ落ちた。その残骸は塵と化す瞬間、空間全体に汚濁を生じた。
伊吹法の必要性を考えた剣護は、明臣のほうに目を遣った。彼は何の武器も手にしておらず、笑みさえ浮かべ、迫り来る魍魎にもゆったりと構えていた。
「炎よ、炎、我が同胞よ。回り回りて円を成せ。邪なるもの、禍つもの、汚れを囲みて眠りに就かせよ、永久に」
明臣が歌うように唱え、右手を悠々(ゆうゆう)とした動きで大きく旋回させると、その軌跡を追うように美しい火焔が現れた。それは二体の魍魎をすっかり囲い込み、抵抗する暇すら与えず焼き尽くした。
剣護は、ほう、と感心した。
(見事なもんだ―――――)
さすがに、神を名乗るだけのことはある。
明臣は、何事も無かったかのように剣護を振り向いた。
「伊吹法の必要は無いよ、太郎清隆。今の炎が、空間の汚れも祓った」
実際、先程まで満ちていた汚濁は、剣護たちのいる空間から綺麗に消え去っていた。
そして二人は、何事も無かったかのようにカフェの席に座り、それぞれの飲み物を手にしていた。
流れる音楽は、ベートーベンの『月光』に変わっていた。
物悲しく、憂いを含んだような美しい調べが響く。
「で、君は結局、何を確かめたかったんだい?……僕と一緒になって、自ら囮になることで魍魎を呼び寄せ、倒す―――――――。それだけが目的って訳じゃ、無かったみたいだね。何なの、あの呪詛返しの秘言は?」
アイスカフェオレをズズーッと飲んで、剣護は一拍置く。
「…そうか。囮なのは解ってたのか」
些か、気分を害した表情を明臣が見せた。
「僕を何だと思ってるんだい?太郎清隆。裏表の無い、明朗快活な男――――――。君は一見そういう印象を相手に与えるけど、案外にそれだけじゃない。今回みたいに、しれっとした顔で策を弄することもある。腹に一物って言ったのは、そういう意味だよ」
眉間に皺を寄せた明臣に、剣護は苦笑した。
「ああ、その通りだ。重ねて、悪かった。明臣。あんたの言う通り、魍魎の数を減らすと同時に、俺には確認したいことがあったんだ。――――――感じたことは無いか、明臣。魍魎の背後にある奴の敵意を。俺たちに対する、怨讐のようなものを」
明臣が意表を突かれた顔をする。
怨讐――――――――。
「…不穏な言葉を使うね」
「御指摘の通り、さっき俺が唱えたのは、呪詛返しの秘言だ。みだりな多用を禁じられるくらい、取扱いには注意が要る。背後に魍魎を操る奴がいれば、秘言を唱えた対象の魍魎は、そいつに返る。背後に誰もいなければ、ただ塵と化すだけだ。―――――さっきの奴は、消えただろう。つまり、背後には確かに操り師がいるってことさ。呪詛返しをしたことで、消えた魍魎はそいつに返り、牙を剥いた筈だ」
明臣が、難しい表情を浮かべる。
「…――――単純に、透主と魍魎の集まり、というものではないと?」
剣護がはっきりと頷いた。
「俺はそう見ている」
「操り師に、心当たりはあるのかい?」
「いや、そこまでは解らない」
「本当に?」
明臣の薄青い瞳が、剣護の目を覗き込む。
「……前生で関わりのあった人間であれば、候補がいない訳でもないが――――――。まだ、確信が持てない」
慎重に言葉を選ぶ剣護の顔を、明臣がじっと見ていた。
「惜しかったな、剣護。君が太郎清隆として大禍無く年を重ねていれば、あの戦国の乱世できっと頭角を現していただろうに」
剣護が笑って横に首を振った。
「いや、俺はせいぜいこの程度だ。――――――若雪がもしも男に生まれていれば、天下さえ狙えただろうよ。そういう、大器の見本みたいな奴が傍にいた時点で、俺には自分の限界が見えてた」
「雪の御方様は特別だよ。―――――嫉妬するかい?」
剣護が笑んだ。空になったアイスカフェオレのコップの氷が、カラリ、と音を立てる。
「大昔、まだ小野太郎がほんのガキだった時は、それもあった気がする。あいつの天稟を妬んだり羨んだりな。―――――けどそれも、ガキのころの話だ。そもそも嫉妬する以前に、真白は俺にとって大切な妹だ。……あいつが神つ力を持つ為に傷つくぶん、守ってやらなくちゃいけないと思う。そういう感情のほうが先んじて、競う相手として見ることも難しい。真白が男だったら、また違ったかもしれないけどな」
それから、少し物思うように剣護は口を閉ざしてから、再び開いた。
「―――――光と影、影と光か…」
独白めいた言葉に、明臣が怪訝な顔をする。
「何だい、それ?」
「…俺たちが光に位置づけられるとしたら、魍魎たちは影の役割を振り当てられていることになるだろう。光が強い程に、影もまた濃くなる。…元来、光と影は裏表、紙一重の関係だ」
「……だから?」
剣護は自分自身、首をひねりながら言葉を繋げた。
「だからどうと言うことでもない。ただ何となく、そう思っただけだ―――――――」
その時、剣護のスマートホンの着信音が鳴り響いた。