布陣 二 後半部
人の心は難しいものです。
塾までの道のりを歩いていた耕平は、ふと、周りに誰もいないことに気付いた。
(あれ………?)
本屋やコンビニ、スーパーにスポーツ用品店などがひしめき合う通りは、いつもはもっと喧噪がうるさいくらいなのに。
普段は煩わしく思える音が、今は一切皆無だという事実を、耕平はむしろ不気味に感じた。自分以外の人間の気配が全く感じられないことが、これ程不安なものだとは思わなかった。
まるで、世界で一人ぼっちになったかのような心許無さ。
(どうして、こんなに人がいないんだ?)
誰でも良いから、自分の前に姿を現して欲しい――――――――。
胸に沸き起こる不安から、耕平がそう念じた時。
ふわり、と風に乗って、何とも生臭い匂いが鼻をついた。
(何だ、この匂い――――――)
耐え難い悪臭に、思わず鼻を手で覆う。
ずる、ずる、と何かが地を這うような音がする。
ずる、ずる、ずる。
音のする方向を見遣った耕平は、悲鳴を上げた。
「ひ…………っ」
そこにいたのは、醜く大きな蛇だった。その口で、耕平を一呑みすることくらい、余裕であろう巨大さだ。その身体は、濁った赤や青、緑など様々な色合いに変じ、一時として単一の色に落ち着かない。
爬虫類特有の目が、まるで獲物を見つけた喜びを表すかのように、にい、と細まる。
(なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ)
逃げようにも、足が竦んで動かない。身体が、金縛りに遭ったかのように硬直している。
大蛇が、鎌首をもたげ大きな口をゆっくりと開ける様子が、まるでスローモーションのように見える。
嘘だろう、と耕平は思った。
(嘘だ、こんなの、どうして、嘘だ)
なぜ自分が、こんなところで蛇に喰われなければいけないんだ。
大きく開かれた口中に踊る、先が二股に別れた真っ赤な舌が耕平の眼前に迫る。
(喰われる…………!)
恐怖に耐え切れず、耕平はぎゅっと目を閉じた。
「雪華―――――!」
「虎封!」
その時耕平の耳を打ったのは、聞き覚えのある男女の声だった。
耕平の脇を、軽やかに駆け抜ける風が、二つ。
彼らの通り過ぎたあとには、不思議と清涼な空気の気配が満ちた。
駆け抜ける合間にも、真白は胸中で恐怖と闘っていた。
(大きい。醜い。それに、何て悪臭。――――怖い。けど)
戦わなくてはならない。
(私が、自分で決めたことだ)
誰に強いられた訳でもなく。
守る為に。
心の底から湧き上がる恐怖を、真白はねじ伏せた。
その瞳が強い色を湛え、雪華を握る手に力が籠る。
狩りを邪魔された怒りに、大口を開けて向かって来る大蛇をひらりとかわす。
かわした勢いのまま頭の後ろに回り込み、首の付け根と思しきあたりに雪華を突き立てた。ビシャッという音と共に、鮮やかに赤い血飛沫が上がる。
(――――――)
魍魎は、体臭ばかりか血までがひどく生臭く、雪華を蛇の肉深くに埋めた感触は、決して快いものでは無かった。
大蛇が大きな悲鳴を上げのたうち回る。
あまりの動きの激しさに、真白は雪華を持ったまま、弾き飛ばされた。その身体を辛うじて受け止めた怜が、真白を背後に押し遣る。
そして自らはトン、と地を蹴って身軽に蛇の背に飛び乗った。その身体の中程まで走り、虎封を閃かせる。ギギギ、と刀身で深く身を抉ると、虎封の白刃もまた赤く染まった。
怜は再び地に降り立つと、真白と耕平を庇うように大蛇の前に身を置き虎封を構えた。
しかし雪華と虎封の二撃は、既に魍魎に十分な致命傷を与えていた。身をよじって苦しむ蛇には、もう抗う力も残っていないようだった。
あたりが再び濃い悪臭で満ちる。
大蛇は、断末魔の叫びと共に消えた。
一部始終を見ていた耕平は、放心状態にあった。
(門倉さんと…江藤が、蛇を斬った。あの化け物を、倒した………?)
あんなにおぞましく、醜い怪物を、平然と。
怪物を、平然と屠る存在――――――それは既に、怪物と同義ではないのか。
彼らは自分と何かが違うと思っていた。
違う世界の人間だ、と。
自分がどう足掻いても近付けない場所に立っているのだと。
当たり前ではないか。
当たり前ではないか。
―――――――彼らは、化け物だったのだから。
門倉真白は、清らかな仮面を被り、周囲を騙していた化け物だ――――――――――。
真白はへたり込んでいる秋山を見返った。怪我の無い様子を見て、ホッとする。
(良かった。秋山君を、助けることが出来た)
真白の胸は安堵と達成感に満ちた。
(良かった――――――)
「秋山君、大丈夫?」
その言葉に、耕平はハッと我に返る。
地に膝をつき、まだ乱れた呼吸のままで心配そうに尋ねてくる真白の顔には、蛇の返り血がついていた。
まるで何かの刻印のように、白皙の頬に刻まれた赤。
「―――――化け物」
「え?」
小さく発せられた声を、聴き取れなかった真白が訊き返す。
たまらず、闇雲に手を振り回しながら耕平は叫んだ。
「来るなよ、俺に近付くな、……この化け物!!」
「――――――――」
真白は茫然とした。
耕平は取り落していた鞄を震える手で拾い上げると、真白たちを振り向きもせずに走り去った。
恐ろしい脅威から逃げるかのように――――――――――。
(化け物)
地に膝をつけたまま、動けないでいる真白に怜が声をかけた。
「真白。まだ気を抜いちゃいけない。伊吹法を行うんだ。汚濁がひど過ぎて、空間が正常に戻らない。…このままだと秋山も、外に出られないだろう」
真白がぎこちなく顔を怜に向ける。その顔は青ざめていた。
「………次郎兄」
「…出来るね?」
「……うん」
ふらりと立ち上がる真白の姿を、怜は痛ましい思いで見ていた。
「神の御息は我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば……、」
(―――――無理か)
声が途切れ、泣き出しそうな顔になった真白を見て怜は思った。
しかし真白は、グッと両の拳を握り締めると震える息を吸い、祓詞を続けた。
「穢れは在らじ。残らじ。…阿那清々(あなすがすが)し、阿那清々し」
唱え終ると、大蛇が倒れたあたりに向けて息を強く吹きかける。
清らな風が空間を洗い浄める。満ちる、清水の気配。
日常の喧噪が戻って来た。
チリンチリン、というベルの音と共に、自転車が二人の脇を通り過ぎる。
道の真ん中で動かない真白と怜に、買い物帰りの主婦や同じ陶聖学園の生徒らが、訝しむ眼差しを送りながらすれ違った。
「…………」
「真白」
「…………」
「終わったよ」
言いながら、ハンカチを取り出して真白の頬についた血を拭き取る。
そして、その頬に手を当てると「穢れは在らじ。残らじ」と略した伊吹法を唱えて浄めた。真白はされるがままになっていた。
壊れ物を扱うように、そっと声をかける。
「真白。…―――もう、泣いて良いんだよ」
「……ううん、泣かない」
真白が耕平の走り去った方角に視線を据えたまま答えた。
奥歯を噛み締めて、続ける。
「泣かないよ。…だってね、次郎兄。これから、もっと辛いことが起こるかもしれない。もっと悲しいことが起こるかもしれないでしょう?だから私は、このくらいでは泣いていられないんだよ。この道を選んだのは私だもの。……だから泣かない」
真白は心に鎧を纏ったのだ。
怜は彼女の言葉を聞いて、そうと察した。
(―――――泣かれるほうが、まだましだったな)
それとも自分が荒太であれば、真白は泣けたのだろうか。
「これであと七十九体だ――――真白。この戦、早く終わらせよう」
真白の心が凍りついてしまう前に。
怜の言葉に、真白は微笑を向けた。
どこか虚ろで、儚い微笑だった。
「…そうだね。次郎兄。……ああ、降り始めちゃった」
真白たちが戻った通常の空間には、雨粒が落ちて来ていた。




