短編 初花
短編 初花
花が咲いていると思う時がある。
過去に置いて来た初花が香り立ち、霞の中から現れ出ると思う時が。
私が、まだ若雪でありながら真白と呼ばれていたころ、つまりは禊の時を終える前。
私には嵐どのの他に好きになった人がいた。荒太君よりも前に好きだった人がいた。
強くて優しくて悲しい人を、私は好きになった。
小野若雪の時も門倉真白の時も、初恋の人が同じだったことは、一途と呼べるものかどうか判らない。
まだ幼い若雪は、長兄の小野太郎清隆に憧れていた。恐らくそれが若雪の、淡い初恋だったろう。
しかしその結末は、遣る瀬無いくらい悲しいものだった。家族を凶刃が襲った日、私は父と母と三人の兄弟と、初恋の人を一遍に失った。私は生涯、兄への想いを口に出すことはなかった。心の底の最も頑丈な箱に入れ、蓋をして鍵をかけ胸の海に沈めた。
〝では若雪。俺の嫁になるか〟
十七歳で亡くなったその人が言ってくれた言葉は、今も私の胸の奥深くに、大切に仕舞ってある。
そして門倉真白の年譜に、初恋の相手として名を刻まれたのは緑の目を持つ従兄弟。
嘗ての兄・太郎清隆の生まれ変わり、門倉剣護だ。
私は昔から、彼は太陽のようだと思っていた。
強くて優しくて温かい。陽の光みたいに皆を照らして、大抵の人間は剣護のことが好きだった。剣護もまたたくさんの人間を愛し、大切に思っていたが、中でも私のことは真綿でくるむように特別に大事にしてくれた。
太陽の恩恵に最も近い位置で、微睡む幸福を享受したのが私だ。
私は彼に守られ、慈しまれて門倉真白として生まれ育った。
剣護のような男の子に大事に扱われるのは、女の子としてとても幸せなことだと思う。
〝女の子への贈り物みたいだね〟
〝真白、女の子じゃねえの?〟
十二歳の誕生日に、剣護からリップクリームを貰った時は嬉しかった。
子供ながら、まるで剣護の恋人になったようで。
照れ臭くて恥ずかしくて、それを誤魔化す為に言った言葉にそう返された時には、剣護は全然解ってないんだ、と思った。
彼は私が自分を好いているという可能性を、ちっとも考えていないようだった。
では、彼は?
剣護は私のことをどう思っているのだろう。
可愛い妹同然の従兄妹。それだけだろうか。
今にも月が満ちそうな晩だった。
剣護に看病され、眠っていた私は唇に何かが触れたことで朦朧としていた意識が覚醒した。まだぼんやりとした頭の、目を閉じたままの私の耳に、「やべ…」と言う剣護の声が聴こえた。ひどく狼狽えた声だった。それから彼が、部屋から乱れた足取りで出て行く音がした。
私は熱に浮かされた頭で悟った。
そうか。自分は今、剣護にキスされたのだと。
そして思考の迷路に迷い込んだ。
剣護が、自分に、キスをした。
普通、男の子が女の子にキスをする理由は一つだ。
だが彼はそのあと、「やべ…」と口走った。
つまり剣護にとって、それは想定外の事態だったということになる。
剣護は、ついうっかり、出来心で、好きでもない自分にキスしたのだろうか。
熱が引いても数日、私は悩み、考え込んでいた。
大好きな剣護に、恋愛対象と見られてもいないのに、弾みでキスされるのは悲しい。
剣護は「やべ…」の翌日、私と目を合わせ辛いようだった。
罪悪感が、彼の綺麗な緑の瞳にあった。
やはり物の弾みで、好きでもないのにキスされたのだと、私はひどく落ち込み、泣きたいような思いになった。
「剣護って、好きな女の子はいないの?」
勇気を奮って訊いてみたのは、一週間程経ってから。
彼は陶聖学園中等部の制服を着た、学校帰りだった。彼の帰宅の気配を感じて、私は玄関から走り出て、隣家に入ろうとしていた剣護を捕まえて尋問するように訊いた。
制服を着ていると、彼はいつもより大人びて見える。
来年には私も、入学試験に受かれば剣護と同じ学校に通える。
その日が来るのが待ち遠しい。
緑の目はぱち、と瞬きした。
これはいない、という落ちかなと思っていると。
「いるよ」
穏やかな声が返った。その声は制服を着た姿と同じようにどこか大人びていた。
声の響きでこちらの頭をふわりと撫でるような。
対して私の顔と身体、声は強張った。剣護の顔にぐっと迫る。
「―――――誰」
ここで知ってる子の名前を言われたらどうしよう、知らない子の名前を言われたらどうしよう、と私は頭の中で右往左往していた。
いずれにしろ、私以外の名前を答えられることを、私は恐れた。
祈るような気持ちで、真白と答えて、と思った。
剣護は緑の目を泳がせていた。
「…あー…。言いにくい。俺、ちょっとその相手に卑怯な真似をしちまったから」
剣護が卑怯な真似などする筈が無い。私は彼の言葉を逃げ口上だろうと判断し、尚も問い詰めた。
「学校の人?」
「違う」
「………私の知ってる人?綺麗な人?可愛い人?剣護、その人のこと、ものすごく好きなの?大事なの?」
矢継ぎ早に尋ねて最後に私以上に?と付け加えたかった。
剣護は私の目を物言いたげに見ながら答えた。
「ええとな。今のお前の質問に対する答えは、全部イエスだ」
目の前が暗くなった。
私の大好きな剣護には、私より大好きな人がいる。
私はその時、泣き出しそうな顔をしていたのだろう。
唐突に剣護が言った。
「しろ、鼈甲飴、喰うか?」
「……うん」
剣護は私服に着替えてから家に来ると、キッチンに立ち、電子レンジに付属していたレシピを見て器用に鼈甲飴を作ってくれた。
金と薄茶の中間くらいの色の透明な飴は、舌に素朴な甘さを残し、私の心は僅かに慰められた。
私の部屋で、淡いラベンダー色のクッションを胸に抱き、飴を舐める私を剣護はじっと見ていた。気のせいで無ければ、唇と舌の動きを見られていたように思う。
「真白は鼈甲の櫛とか簪とか、似合うだろうな」
不意に優しい声で剣護がそう言う。落ち込んでいる従兄妹へのおだてやお世辞ではない響きだった。
私は自分の焦げ茶色の髪に手を遣り、二、三本をつまんでみた。
剣護が頻りに伸ばせと言うから、伸ばせば想いを見透かされそうで、逆に伸ばし辛くなってしまった。
「そう、かな。真っ黒い髪でもないのに?」
「うん。鼈甲だけじゃなくて、珊瑚とか、翡翠とか、瑪瑙とか、水晶とか、金、螺鈿細工、銀の透かし彫りも。何でも似合うだろうな。お前は。でも一番は真珠かな」
何だか和風の宝玉や飾りばかりの名前が並んだ。
剣護は目を細めて私を見ていた。
彼の目に宿る深い色を読み取れるくらい、私は大人ではなかった。
語る声に潜む愛しさを聴き取れるくらい、私は大人ではなかった。
その時の剣護は、太郎清隆でもあったのかも知れない。
「……私、私は、エメラルドが好き」
剣護の目が丸くなる。
「へえ、意外だなあ」
ああ、伝わってない、と思った。剣護は勘が良い時と悪い時の差が激しいが、なぜか最近は後者であることが多い。
「……真白。俺さ、さっき言ってた好きな子にな?」
話し始めた剣護に胸の痛みがぶり返す。
チクチクとそれは幼い私の胸を刺した。
「月の綺麗な晩に、ちょっとした愛情表現をしたんだけど。相手の了解を得てなかったんだよ。俺はすごく大事な子に、悪いことをした」
鼈甲飴を舐めていた私は動きを止めた。
「――――――……」
まだ後悔の滲む剣護の顔を見る。その時、私は解ってしまった。
剣護の好きな女の子が誰なのかを、ようやく知った。
「…剣護は、」
「ん?」
「剣護は、私が大事なの?」
好きなの?と心の中では台詞をすり替えていた。
「そらそうだろ。おいおい、知らなかったのかよ、お前は」
剣護は私の言葉を額面通りに受け取っていた。
知らなかった。
剣護が想っていた相手は私だった。
あのくちづけは、紛れもなく恋愛感情からのものだった。
私の片想いではなかった。
私は剣護にしがみついた。
「剣護。剣護、大好き!」
「おう、元気出たな」
彼は笑って私の髪を撫でた。幼かった若雪にしたように。
緑の目の従兄弟が、女の子として私を好きでいてくれた。
そこらじゅうを飛び跳ねたいくらい、嬉しくて仕方なかった。
その年の冬。
私はまた熱を出して寝込んでいた。
傍らには当然のように剣護がいた。
私は剣護の私に対する好意を確信して以降、何度か寝込んだ。
そしてそのたびに、彼が私に、また密かにキスをしてくれるのではないかと期待した。
しかし剣護は、自分のしたことを本当に卑怯だったと思っているようで、二度と私の唇に触れようとはしなかった。
時々、眠った振りをしながら、私は落胆していた。だがその誠実さ、莫迦正直さが私の従兄弟の美点だった。そういう気性の剣護だから、私は大好きだったのだ。
そしてそれならば、起きている時に堂々としてくれれば良いのに、と思った。
剣護には、私に想いを告白しようとする気配が少しも無かった。最初から何かを悟り、手を伸ばすまいとしているかのようだった。実際、剣護は、この後に訪れる私と荒太君との邂逅を知っていた。私が必ず彼の手を取ると知っていたから、剣護はただ私を見守る役割に徹しようとしていたのだ。
けれど私は今でも思う。
それでは一体、剣護の手には、何が残るんだろう。
その晩は雪が降っていた。
剣護の好きな、白雪が。なぜ彼が雪を愛でるか、当時の私はそれさえ思い及ばずにいた。
私は余りに幼かった。剣護が胸に秘めるものがどれだけあるのか、何を見定め、何を自らの幸福と捉えているのか、まるで解っていなかった。
両想い、という優しい響きに舞い上がっていた私に、愛という言葉は難解で遠い世界の音楽のようだった。
真実として彼は私を愛していた。
何も求めず、何も欲さず、ただ生ある限り愛し抜こうとしていた。
その覚悟の程を幼い私は知ることなく、彼の腕に包まれ守られていた。
剣護は、ベッドに上半身を俯せたまま、眠ってしまっていた。
私の頭のすぐ横で、腕を組み、その上に自分の頭を乗せ布団にもたれている。
彼らしい健やかな寝息だった。
お日様みたいな剣護は、きっとお日様からも好かれているに違いないと思った。
「剣護」
呼んでも起きない。
その時、私の心に囁いたのは天使だったのか悪魔だったのか。
私は頭を起こし、こちらを向いて寝入る剣護の顔に自分の顔を近付けると、ついばむようなキスをした。彼の唇に唇をつけると、逃げるように顔を離した。
胸は当然、ドキドキしていた。いけないことをしてしまったという罪悪感を、私は私の唇を奪い返したのだ、という理屈で正当化しようとした。
剣護の寝息は依然、安らかで、あの時の私のように目覚める様子も無い。
私は良心の呵責を覚え、自分と同じ焦げ茶色をした彼の癖っ毛を撫でた。
初恋の相手に想い、想われ、私は子供らしい幸せに浸っていた。
将来はきっと剣護と結婚するのだろうと、夢想していた。
年を重ねるにつれ風を感じ、目の前に嵐が吹くまでは。
禊の時を終え、荒太君と出逢うまでは。
そして今、私は成瀬真白と言う名前である。
成瀬荒太の妻であり、彼を愛している。
私の初恋は終わった。
けれど剣護は。
私の太陽は。
私は時々、無性に泣きたくなることがある。
紅の 初花染めの 色深く 思ひし心 われ忘れめや
初花はまだどこかに咲いているのかも知れない。