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短編 追憶酩酊

短編 追憶酩酊


 弟と同居する三十路に入った門倉剣護には、時折、自室で独り盃を傾ける癖があった。

 自分同様、酒豪の弟と酌み交わすこともあるが、一人で飲みたい夜もある。

 正確には、まるっきり一人という訳でもない。

 持って生まれた性分と物書きと言う職業柄ゆえか、散らかり放題の部屋には仕事用の机とは別にひっそりと趣のある古風な文机が置かれている。黒檀の艶の上に、白い盃を二つ置いて清酒を注ぐ。

 それから、寝酒の相手を呼ぶ。

「臥龍、頼む」

 声に応じて現れた黄金色に光る豪奢な太刀が、原稿用紙やら参考文献やらに埋め尽くされた部屋の惨状まで照らし出すが、剣護に自室の有り様を省みる思いはさらさら無い。

 男の部屋など散らかってなんぼ、と言うやや偏見めいた開き直りがある。

 太刀を文机の向かいの壁に立てかけると、盃を口に運びながら剣護は酒と思い出に酔う。


 大事な妹である存在を、いつからそれ以上の者として想うようになったのか。

 前生、彼女を若雪と呼んでいたころから自覚はあった。

 あのあたりかな、と目星をつけて記憶から引っ張り出す。

 

 漆黒の髪、雪白の肌。微笑む唇は、何かの果実のように年々色づいて行った。

 若雪に初めて月のものが来た時、何の偶然か、剣護はその場に居合わせた。

 季節はいつだったか、もう忘れてしまった。空は晴れていたような気もするし、曇っていたような気もする。だが妹と交わした遣り取りは、当時の自分の感情の揺れ動きと共に克明に思い出せる。

 若雪が天女になった日。手の届かない存在と思い知らされた日。

 小袖の裾から伝い落ちる鮮血。

 雪の肌に濃い紅は美しく映え、剣護―――小野太郎清隆は一瞬その色合いに見惚れ、次には妹が怪我をしたのかと危ぶんだ。

 家の庭、欅の大樹の横に硬直して佇む妹に声をかけた。

〝どうした、若雪。怪我をしたのか?〟

〝…違います、太郎兄。私、私は、〟

 いつもは落ち着いた十二歳の妹が、お腹を押さえ、頬を紅潮させひどく狼狽えていた。

 彼女の狼狽え振りに、太郎清隆も察するところがあった。

〝――――待っていろ、若雪。母上を呼んで来るから〟

 身を翻そうとした兄の上衣の袖を、若雪が掴んだ。

〝若雪?〟

〝太郎兄。行かないでください〟

 袖を握る手は震えていた。若雪は初めての経験に戸惑い、怯えて兄に縋った。

 太郎清隆は、妹の漆黒の髪をそっと撫でた。若雪の髪はいつも艶やかだった。黒檀よりも尚黒く。

〝案じることはない。お前が、いつでも嫁に行けるようになった証だ。若雪は一人前の女子(おなご)になったんだよ〟

〝行かないでください〟

 若雪は頑なに繰り返した。

 太郎清隆は一つ息を吐くと、妹の身体を抱き締めた。

 若雪は兄の温もりにしがみついた。

〝兄様…〟

〝大丈夫だ、若雪。何も怖くない〟

 そう言って緩やかに身を離すと、母を呼びに屋内に入った。

 太郎清隆の胸はその時、いつもより速く脈打っていた。

〝いつでも嫁に行ける〟

〝一人前の女子〟

 その言葉を告げた自分自身の胸が、なぜか動揺していた。

 妹の身体を抱き締めたのは、彼女を手放したくないという思いからでもあった。

 若雪の身体からは、香の匂いがした。最近、母が年頃になって来た娘の小袖に、香を焚き染めるようになっていたからだ。

〝太郎兄、どうしたんだ?顔が赤いぞ〟

 弟の次郎清晴が声をかけた。

〝何でもない。母上はどちらだ?〟

〝厨においでだ〟

〝そうか〟

 そう言って、弟の脇をすり抜けた。

(当たり前だ。若雪とて、いつか紅を注すようにもなる。他の男の為に。他の男のものに、なるのだから)

 胸がちり、と痛んだ。

 太郎清隆は絶望するような思いで悟った。

(あれは、俺が永遠に触れてはならぬ女なのだ)

 

 その晩、太郎清隆は寝つけず、広縁に座して月を見ていた。

 もうすぐに満ちるであろう月だった。戯れに手を伸ばしてみる。

(手が届かない。手が届かないものだな、月も、雪も)

 酒を常よりも多く飲み、少しばかり酔っていた。

〝太郎兄、起きておいででしたか〟

 白い夜着の若雪が立っていた。

(赤い色も映えるが。やはり白が最も似合う…)

 酔った心地でそう思う。

 香の匂いが漂い、近付く。胸のざわめきを、太郎清隆は強いて無視した。

〝…落ち着いたか。若雪。もう、大丈夫か?〟

 太郎清隆は、若雪と自分自身に語りかけていた。

〝はい。昼間は取り乱してしまい、申し訳ありませんでした〟

〝いや。母上から何か言われたか?〟

〝…父様に、良い縁組のお話を探していただこうと、仰っておられました〟

 太郎清隆の眉間に皺が寄る。

〝まだ早いのではないか〟

 不機嫌な声音になったと、自分でも判った。

 若雪が俯いた。

〝――――既に幾つか、打診は来ていたそうなのです。時期を待っておられたのだと〟

 太郎清隆は妹の容貌を改めて眺める。

 母の若水に似た面立ちは、長ずればさぞ佳人の誉れ高くなるだろう。

 胸に黒い靄が立つような不快感が込み上げた。

 兄の胸中には気付かず、若雪は硬い表情で言う。

〝私は、兄様たちのような方でなければ、添い遂げたくはありません〟

 太郎清隆は思わず、笑ってしまった。妹は幼い時から自分や次郎に良く懐いていたが、ここまで見込まれているとは思っていなかった。若雪の無邪気な好意を微笑ましく思う。

〝そう来たか。望みが高いな、お前は〟

〝…はい〟

 妹の黒髪を撫でた。目を細めて言う。

〝――――――――そうか。では若雪。俺の嫁になるか〟

 妙なところで無垢な妹は喜色を示した。

〝よろしいのですか?太郎兄の、嫁御にしていただけるのですか?〟

 太郎清隆は束の間、言葉を探した。

〝……冗談だ〟


 そのおよそ二年後、小野太郎清隆は妹が紅を注した顔を見ることもなく、弟たちと共に短い生涯を終えた。


 そして門倉剣護は、従兄妹であり嘗ての妹でもある門倉真白と共に生まれ育った。


(そっくりって訳でもないのにな。やっぱ、気がついたら)

 

 真白は従兄妹以上、妹以上の存在になっていた。

 真白は若雪とは違い病弱で、剣護は彼女が無事に成長するものかと、子供ながらにハラハラさせられた。

 真白が十二歳になった年の誕生日、剣護は彼女にリップクリームを贈った。

 コンビニや薬局ではなく、れっきとした化粧品店で購入した物だ。女性店員を相手に購入する際は、ソワソワとして居心地が悪かった。焦げ茶の癖っ毛、緑の瞳の少年の姿は店内でも目立ち、剣護は店を訪れていた客と店員たち双方から注目を浴びた。店員の目には笑みと、どこか剣護を値踏みするような色があった。

 大人びたデザインの包みから出て来た銀色に光る筒状の小物に、真白は最初首を傾げた。

〝剣護。これ、ルージュ?塔子おばあちゃんがつけてるような〟

〝んにゃ。リップ。ルージュの一歩手前ってとこか〟

〝……女の子への贈り物みたいだね〟

〝真白、女の子じゃねえの?〟

 そう言うと軽く睨まれた。

〝そうじゃなくて〟

 ガールフレンドへのプレゼントのようだと言いたいのだろうと、剣護は解った上ではぐらかした。

 サラサラの、短い焦げ茶の髪を見て言う。

〝髪、伸ばせば良いのに〟

〝剣護、いつも言うね、それ〟

〝髪質の良い人間はすべからく髪を伸ばすべし、って法律知らんの?〟

〝私は嘘吐きを従兄弟に持った覚えはないですよーだ〟


(とか言ってた癖に、荒太に会ってからちょっとずつ伸ばし出したし)


 血縁の近さ、家の近さから真白とは良く一緒に眠った。

 思い返せばその日も、月の満ちそうな晩だった。

 リップクリームを真白にやってから間もなく、真白は熱を出して寝込んだ。

 剣護は彼女の傍らに寄り添い、看病していた。

 真白はそんな時、気弱になり、自分を責めたり人に謝ったりする癖がある。

 その時も真白はか細い声で言った。

〝剣護……〟

〝ん?〟

〝ごめんね〟

〝寝ろ、莫迦〟

 なぜ謝るのだと、ほんの少し本気で腹が立った。

 真白が弱っている時、自分が傍にいるのは当然のことだ。そしてその状況は真白にとっても当然であるべきだ。助けを求められるのは、甘えられるのは自分で良いのだ。

 しばらくすると静かな寝息が聴こえて来た。

 前髪のあたりを撫でてやると、熱のある肌に心地好かったのか、真白の唇が緩んだ。

 熱を持った少女の唇は赤かった。

 剣護の頭の中は、月光に貫き通されたように透明だった。

 その透明さのままで、少女の唇に自分の唇を重ねていた。

 頭の隅で、成る程、柔らかくて甘いな、と感じる自分がいた。

 数秒後、我に返った剣護は急いで真白から身を離した。自分の口を手で覆う。

〝やべ…〟

 失敗した。

 病で眠っている無防備な少女の唇を、卑怯にも盗んでしまった。

 剣護は真白の部屋から脱兎のごとく逃げ出した。


「解ってる。あれは俺が悪かった。誰にも言うなよ、臥龍」

 思い出して盃を傾けながら、緑の目を相方に向けて声をかける。

 黄金色の太刀は黙っている。

(んー、良い感じに酔ったな)

 満足していると、部屋のドアがいきなり開かれた。

 幼かった少女は、今ではたおやかな美女となっていた。

 彼女は困り果てた顔をしていた。

(天女が舞い込んで来たぞ)

 酩酊した頭でそう思いながら、剣護は盃を置いて尋ねる。

「………どうした、真白」

「荒太君と胡春ちゃんがまた喧嘩したの。荒太君、胡春ちゃんに出て行けなんて言って。胡春ちゃんと荒太君が落ち着くまでここにいさせて」

 そう言うと散乱した原稿用紙や本を避けながら近付き、剣護の横に座り込む。

 妹からは香ではないが、相変わらず芳しい匂いがする。

 淡い桜色の毛並の真白の愛猫は、今では成猫となっていた。

 真白に抱かれた胡春は、剣護に金色の目を向けると愛想良く鳴いた。

「おー、胡春。よしよし」

 剣護が喉を撫でると目を細める。

「胡春ちゃん、剣護には良く懐いてるのにねえ。次郎兄とも仲が良いし。どうして荒太君だけはダメなんだろう」

 真白がその様子を見て首を傾げる。

 剣護がにや、と笑う。

「俺は知ってるぜ、その理由」

「本当?どうしてなの?」

「しろには教えなーい」

 歌うような調子で言うと真白がむくれる。こういう仕草は昔と変わらない。

「何よ、それ。良いもん、次郎兄に訊くもの」

「次郎も多分教えないと思うぞー?」

 意地悪い声で言う。

 勘の良い弟は、長兄の想う相手に気付いている。

 前生から、彼にはばれていた。怜はそのことについて、一切口を噤むことに決めているようだ。批判も非難もせず、ただ少しだけ、剣護のことを心配している。

(あいつらしい)

 胡春と目が合う。金色の目は、事情を全て了解しているように瞬く。

(俺がこいつと気が合うのは、一番大事な存在が同じだからだ。加えて、その真白が、一番大事に想う相手のことが、面白くないという思いも同じだからだ)

 真白の抱く胡春を撫で、剣護はにやつきながら思う。

(誰もが羨むポジションにいるんだ。多少のことは我慢しろよな、荒太)

 雪白の訪れにより、剣護は黄金の太刀との今宵の寝酒を終了させることにした。

 そうして忠実な臥龍は金の残像を残して闇に帰った。



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