短編 愛猫
短編 愛猫
成瀬真白は目下、胡春を溺愛中である。
成瀬荒太は愛妻を愛妻の愛猫に取られてひどく不機嫌だった。
(俺の真白さんは今、俺じゃなくてあの生意気な仔猫にメロメロ…)
どうしてこうなった、と記憶を遡る。
事の起こりはマンションから、真白と共に桜を眺める花見の最中だった。
贔屓の和菓子屋から目にも雅で楽しい和三盆の小さな箱詰めを、散歩がてら二人仲良く買って来て、真白の淹れた美味しい緑茶と交互に口に含みながら、リビングのベランダのガラス戸から見える花開いた桜の樹を愛でていた。
至福のひと時であった。
はらはら、と風が散らす桜の花びらも美しく、荒太に昔を思い出させ、傍らに真白がいる幸いに酔っていた。彼はそれだけで素面でも十分に酔えたのだ。
真白は淡い、桜色のツーピースを着て髪を珍しくアップにし、美しかった。一筋、二筋、白いうなじに落ちた後れ毛が色っぽい。
荒太も彼女の装いに合わせて若草色のシャツをジーンズの上に着ていた。
生成り色に白でアラベスクの装飾模様が織り込まれたカーペットの上は、春の野原のようだった。
〝成瀬さんとこの若いご夫婦は美男美女で、揃ってお洒落!〟と言う近所の評判は、荒太を十分に満足させていた。
それまで桜に見入っていた真白の長い睫が動き、夫に向かう。
「…あの、荒太君」
真白が遠慮がちにした呼びかけに、荒太は大層にこやかに答えた。
「何?真白さん」
(今日も綺麗だね)
心中で付け加える。
「あのね。…私、荒太君にお願いがあるんだけど」
何てことだ、と荒太の胸に嬉しい衝撃が走った。
と言うのも、これまで荒太は真白に「お願い」されたことなど、数える程しかないのだ。
その内容も、粗大ごみを捨てる為の解体作業の依頼であったり、手の届かないところの物を取って欲しいなど、細やかな物が主だった。欲の少ない妻が、かわいらしく自分にちょっと難易度の高いお願いをしてくれるのを、荒太は待ち望んでいたと言っても良い。あくまで〝ちょっと〟の難易度の高さに留まるのがポイントである。
「何?何?何でも言ってよ。でもカルティエの時計はまだ待ってね。五年後の、真白さんの三十歳の誕生日に向けて積立貯金してるから。…あ、言っちまった」
「荒太君、時計は要らないの。そうじゃなくて、私ね、あの、可愛い子が欲しいの」
そっちか!とまたもや荒太の胸に衝撃が走った。
「…つまりは。ベイビー?俺たちの子供ってこと?確かに俺も全く考えないでもなかったけどさ。小雨みたいに、真白さんに似た子供なら俺にも多分、可愛がれないことないだろうし―――――――」
「あ、ごめんなさい、間違えた、言い方を間違えました!」
真白が赤面して両手を左右に振る。
「ん、じゃあ、何?言ってよ、真白さん。大抵のお願いなら、俺、聞いてあげるから」
気前の良い夫の言葉に、真白が嬉しそうな顔になる。
「本当?あのね、荒太君。私、可愛い仔猫が欲しいの」
荒太の顔が固まった。
「――――――…仔猫?」
「そう。ほら、このマンション、ペットOKでしょ。ずっと前から、犬か猫を飼いたいなあ、って思ってて。山尾に相談したら、すっごく可愛い仔猫を紹介してくれたの!!」
真白の目は輝かんばかりだ。荒太は額を右手で押さえた。次いで左手を挙げ、盛り上がる妻に待ったをかける。
「待って、ちょっと待って、真白さん」
「…何?」
「知ってると思うけど俺、子供とか動物とか嫌いなんだ」
「………でも、前生では赤王丸とか黄王丸とかいたじゃない」
気勢をそがれた真白が当惑の声を上げる。
「あれは式神だったし、毛を撒き散らしたり体臭がしたり粗相したりしないから良いんだ」
「胡春ちゃんだって、もう一通りの躾は身についてて、トイレだって迷惑かけないって山尾が言ってたわ」
あいつはペットショップの店員か、と思いながら荒太は耳慣れない名前に眉を顰める。
「……こはるちゃん?」
「そう。胡弓の胡に春と書いて、胡春ちゃん。フワフワの毛がね、淡い桜色ですっごく可愛いのっ!春が良く似合う子だから、胡春ちゃんって名前が良いと思ったの」
真白の中では、既に仔猫を飼う方向で話が進んでいる。名前まで決めてしまったようだ。
これはやばい、と荒太は焦った。
「真白さん、あの、そもそもどうして、動物飼いたいだなんて思ったの?山尾がちょくちょく訪ねて来るからそれで良いじゃん。俺はあんまり歓迎してないけど」
「だって山尾も家の子って訳じゃないし…。――――――――荒太君がお仕事で家を空けてる間、寂しいから………」
(そこか。そこだったか)
痛いところを突かれた。
荒太は料理研究家として料理教室を開く他、地方の珍しい食材を求めて旅をしたり、雑誌の仕事の依頼で郷土料理を探訪する取材に赴いたりしている。当然、その間、数日は家を空けることが多い身の上だ。真白は荒太の留守中、五行歌の執筆作業と主婦業に一人寂しく明け暮れることになる。食事は料理の苦手な真白の為に、荒太が日持ちのする作り置きおかずをしっかり準備しておき、時には兄の手料理の御相伴になる。そのようにマンションの下の階に住む兄たちを訪ねて気を紛らわせることは出来ても、それでは埋められないものがある。
(兄は兄、夫は夫だ。あいつらに俺の代わりは務まらない)
荒太はその事実を充足感と共に再確認する。
荒太としても多忙で妻を置き去りにしている点は心苦しく思うところであり、毎回、出先で真白が喜びそうな土産を厳選しては持ち帰り、罪の意識を軽減させていたのだ。
(でもやっぱり、寂しかったんだな……)
当然だ。
荒太も旅先で真白を恋しく思っているのだから。
妻に寂しい思いをさせるのは夫の不手際だと荒太は考えている。その逆もまた然りだが。
真白の心情を思うと、邪険には断れない気がしてきた。
「…真白さん。ええと、その、こ?」
「胡春ちゃん?」
「そう。その胡春って仔猫は、メスだよね?」
ここは肝心なところである。
「もちろん、女の子だよ。人懐こくて大人しくて、品が良くてお行儀が良いの!」
真白は仔猫の美点を懸命にアピールする。
(可愛いなあ)
その様子を見るだけで、飼うことに賛同してやろうかと言う心持ちになる。
「でも、家の壁に爪立てられんの嫌だよ。壁紙、新しく張り替えたばかりなのに」
「あ、そういうことは余りしない子だって山尾が」
(爪を研ぎたがらない猫?)
そんな猫が存在するだろうか。
「どうも胡散臭いな―――――他に特筆すべき点は?」
軽く首を傾げた真白が、思い出したように言う。
「そう言えば、大きくなる、って山尾が何度か言ってたわ」
「そりゃあ仔猫だから大きくもなるだろう。何をあいつは意味不明なことを」
真白が荒太を見上げ、両手を組んで迫って来る。淡い桜色がにじり寄る。
(お―――)
これは中々無いパターンだ。真白は甘えたり媚びたりすることが少ない。
今の彼女は、仔猫の為に必死なのだ。
「……駄目かな、荒太君?」
「真白さん、そこの台詞、〝お願い、荒太君〟でリピート!」
「お願い、荒太君」
「良いよ」
真白が満面の笑顔になる。
「本当に!?」
「良いよ。男に二言は無い」
「ありがとう、荒太君。これで胡春ちゃんと合わせて三人家族だ。嬉しいな」
「お礼を頂いてもよろしいでしょうか、奥様?」
「あ、……何を?珍しいね。荒太君も何か欲しい物があるの?」
家計簿は夫婦二人で分担してつけているが、真白にも荒太にも個人名義の預金口座があり、真白以上に、荒太には自分の欲しい物をそこから不自由なく買うだけの貯蓄がある。
「うん。くれる?」
「良いよ、何が欲しいの?」
にこやかに請け負う真白に、荒太は内心でガッツポーズを取りながら、彼女の髪をまとめていた鼈甲色のバレッタを片手でカチ、と外す。焦げ茶色の髪がサラサラと滝のように流れ落ちた。
「真白さん」
荒太の笑みに、真白の頬が桜よりも濃い色に染まる。会話の流れと雰囲気から、夫の思惑を早々に察しなかった自分の鈍さを真白は恥じた。
「くれるって言ったよね?」
「…はい。言いました―――――あの。じゃあ、…今夜…」
了承の意を答えた真白だが、しかしここで夫の我が儘が始まった。
「夜桜も情趣があるけど、花見はやっぱり昼だよ、真白さん」
その意味するところを悟り、今度こそ真白の顔が熱く、赤くなる。
荒太は今、妻が欲しいと言っている。
ここは毅然とした態度で臨まなければ、と真白は思った。
「荒太君。それはルール違反です。マナーはちゃんと守りましょう」
教師のような物言いに、荒太は怯むことなく反論する。
「今日はおよその万民の休日、日曜日だ。誰もが好きなことをして、寛いで過ごしてる。俺が真白さんと愛し合うことに、何の問題があるの?」
「それは、だって昼間だし…。こんなに明るいのに」
「寝室を暗くすれば問題無い。それとも昼間に夫婦の営みは不健全?非人道的?」
「――――そこまでは言わないけど、ほら、宅配便の人が急に来るかも知れないし」
「無視すれば良い。不在の時は江藤のとこに届くだろ」
「お、お風呂も入ってないわ」
「俺は気にならないけど、真白さんが気にするならシャワーを浴びておいでよ」
「荒太君―――――――」
進退窮まった真白はほとほと弱り果てたと言う声を上げた。
口で荒太に勝つのは、昔から至難の業なのだ。
「そんな顔しないで。胡春が来るのが嬉しいだろ?」
「……ええ、それはもちろん」
「その喜びの対価を、どうか俺にお支払いください、奥様」
荒太が真摯に乞う声を出して焦げ茶色の髪を一房掬い、くちづける。
真白が溜め息を吐いた。
「荒太君は、口から生まれたんじゃないかと思う時があるわ」
勝利を確信した荒太は笑った。
「くれるね?」
「――――…はい」
「よし!」
荒太は観念した愛しい桜色を軽々、抱え上げると、それまでとは異なる花見をする為に、丁重な足取りで寝室まで歩みを進めた。
あとには冷めたお茶が半ばまで入った湯呑と雅な和三盆が残されて、長閑なひと時の名残りを留めていた。
翌日、早速若い成瀬夫妻のもとにやって来た仔猫は、確かに珍しい、淡い桜色の毛並をしていた。
真白の両手に丁度収まるサイズで、にゃあにゃあとあどけなく鳴き、山尾と同じ金色の瞳をきょろきょろさせる。慣れない場所に戸惑っているようだが、真白には早くも懐いている風だった。
荒太が頭を手荒くぐりぐり撫でると、嫌そうな顔をする。それでも真白の手前、抱き上げてやろうとするともがき、ひどく抵抗して真白の胸にしがみつく。
これには荒太もムッとして、手を伸ばした。
「どこにひっついてんだ、こら…!」
真白から引き剥がそうとした次の瞬間、胡春がシャアッと威嚇の声を上げ毛を逆立てると、成猫の大きさに変化した。
そのサイズのまま、真白の前に立ち、荒太に向かって威嚇を続ける猫を、夫婦揃って丸い目で見ていた。
「どういうことや、説明せえ、山尾っ!!」
『荒太様。それは通話相手を交代してから言ってください』
「とっととあいつを出せ、兵庫!」
『あ~、あいつは只今お食事中のようです。最近、ますます食欲盛んで』
「早う俺に声聞かせんと、毛を五分刈りにしてひげを剃ると言うてやれ」
―――――――二分後――――――
『―――――荒太様はひどいことを仰いますねえ。幾ら私がイケメン猫でも、五分刈りはご免蒙りますよ』
「抜かせ、肥満猫。おい、あの仔猫はどうなってんねや、普通とちゃうやろっ」
『そりゃ、普通じゃありませんよお。妖怪の仔猫ですもの』
「……つまりはお前と同じ、化け猫の類か。でっかくなったぞ、どうしてくれる!」
『ですから大きくなる、と前もって申し上げておきましたが』
「そういう意味やと誰が思うか、ボケ。お前と同じ特性を持っとるんなら、そうはっきり言わんかい!道理で獣臭さも無い訳や」
『ええ、抜け毛を撒き散らすこともなく、粗相もせず、屋内では爪も砥がない。荒太様にとっても理想のペットでしょう。長生きですから真白様がペット・ロス症候群に陥ることなく、どこにでもお供出来ますから、ご夫婦の旅行先でも、望めばついて来ますよ。あの通り、器量も気立ても良いでしょう?自信を持って推薦する子ですよ』
「器量はともかく、気立てが問題や。お前まさか、自分の子供を押し付けてんとちゃうか」
『器量の良さと言う共通項は確かにございますがね。事実無根です』
通話を終えた荒太は、はあーと息を吐き、真白を振り向いた。
彼女は通常サイズに戻った胡春をひしと抱き、荒太を見ていた。ベランダのガラス戸まで後退してガラスに背中を貼り付け、全身で身構えている。ガラス戸の向こうには今日も、美しく散りゆく桜の姿が見える。真白は子供を奪われまいとする母親の表情だ。
夫が何を言わんとしているのか、彼女は予測したのだ。
青い空と桜吹雪を背景に妻は臨戦態勢に入っていた。
「真白さん―――――」
「嫌!」
「けどその猫は、普通やない……」
「男に二言は無いって言った!」
「―――――言うたけど…でもなあ」
「対価としてのお礼も、私はちゃんと、お、お支払い致しました!!」
「あ、はい…。頂きましたね」
荒太にはそれ以上、真白を説得する言葉が無かった。
ここで無理にでも胡春を返そうとすると、今度は真白が実家に帰りかねない。
もしくは階下の兄たちの懐へ、胡春を連れて走るだろう。そして妹を溺愛し、真白に大変甘い兄たちは、胡春の存在すら柔軟に受け容れてしまうだろう。
真白に逃げられたくなければ、荒太に選択の余地は無かった。
そして現在に至る。
「胡春ちゃん、ミルク飲む?」
(あんな甘い声、俺にもそうそうかけてくれないのに)
真白に訊かれた胡春は、目を細めて嬉しそうにみゃお、と鳴く。
そして真白のあてがう哺乳瓶を器用に二本の前足で掴み、ミルクを飲む。
お昼寝の時間には、真白の子守唄を聴きながらその腕の中で眠る。
最愛の妻をあとから来た仔猫に奪われ、荒太には対価を頂いた以外、何一つ良いことがなかった。
大層気に食わないことに、胡春は真白の唇を桜色の舌でペロペロと舐め、甘えて胸元に潜り込んで眠るのがお気に入りだ。妻の唇は自分の占有物だと勝手に考えている荒太にとって、前者は許し難く、後者もまた、自分には逆立ちしても不可能な行為だけに尚、許し難かった。ずるいぞお前、何てことをしてやがる俺にも分けろ、と荒太は何度も叫びそうになった。打ち出の小槌、いや、ドラえもんのスモールライトがあったなら、と本気で考えたりした。自分の高身長を生まれて初めて恨んだ。挙句、小手先の異常に器用な新庄竜軌にそうした道具が作れないものか訊いてみようか、と思案したあたりで、自分が尋常でない状態にあることにやっと気付いた。
更に荒太にとって、何より我慢ならないことが二つあった。
「――――え?」
洗面所で歯磨きしていた荒太は、妻の発言を訊き返した。
「だから、今日は胡春ちゃんとお風呂に入るの、ね?」
真白がそう言って抱き上げた胡春に目線を合わせると、胡春は相槌を打つように鳴いた。
「…………」
うがいを終え、真白の白いプラスチックのコップの隣に置いてある、自分の青いコップにカラン、と歯ブラシを入れた荒太は、口をタオルで拭く。共同生活を始めた当初、洗面台に置くコップを切子ガラスにしたい、と望んだ荒太に、割れたら危ないからと言う理由で真白が反対した。荒太の要望は大抵、真白の賛同を得るので、それは珍しい事例だった。荒太もまた真白の多くはない要望を、これまでなるべく聞き容れて来た。だが今回ばかりは自分の容認を未だに悔いる思いだった。
洗面所の暖色の明かりが、自分の顔を不機嫌に照らし出さないよう、荒太は願いつつ口を開いた。尖った声にならないようにとも気をつけた。
「…猫は風呂嫌いだろ?」
「胡春ちゃんは好きだって山尾が言ってた。ね?」
これにも胡春は愛らしい声で応える。
「あ、あとね、荒太君!昨日、胡春ちゃんが、初めて喋ったのよ!」
「は?」
まるで我が子が初めて言葉を発した時のように興奮して語った真白に、荒太は間の抜けた顔で応じた。自覚は無いが、胡春が来てからの荒太はそうした顔をする回数が増えていた。
「可愛い声で〝真白ちゃん〟ってっ!」
「そいつ、…いや、その子、人語を話すの?山尾みたいに?」
「そうらしいの。あとから山尾に聞いたんだけどね、胡春ちゃんはまだ子供だしシャイで恥ずかしがり屋さんだから、普段はあんまり喋らないんだって。でも昨日、初めて私の名前を呼んでくれたの。もう、嬉しくって」
「それは解ったけど。……あのさ、一緒にお風呂に入る必要、無くない?」
真白が瞬きし、胡春の目は荒太を警戒するように見つめた。
「どうして?」
荒太はちら、と背後の浴室のすりガラスを見る。
「……家の浴槽は割と広めだし、仔猫は溺れるかも」
「私がちゃんと気をつけて見てるよ」
「いや、でも。だってさ」
「―――――どうしていけないの?」
どうにも渋る荒太に、真白が腑に落ちない、と言う顔で畳み掛ける。
誰にともなくこんにゃろう、と心中で怒鳴り、ついに荒太は本音を明かした。
「だって真白さんは、俺とだって一緒に風呂に入ってくれないじゃないかっ!!」
それは真白との夫婦生活において、荒太がずっと不満に思っていたことの大きな一つだった。滅多に顔色の変わらない荒太の顔が赤らんでいるのに釣られ、真白の顔まで赤くなった。
「そ、それは――――あの、」
「恥ずかしいって言うんだろ、でもその仔猫とは入れるんだろ、贔屓だよ、ずるいよ、胡春が良くて俺は駄目だなんて、絶対におかしい!!夫婦は同じ風呂に入ってなんぼなんだっ」
それはあくまでも荒太の持論に過ぎないのだが、熱の籠った力説に、真白は心を揺さぶられた。荒太が力説の後にぼそりと付け加える。
「――――…俺は電気を消して入っても構わないのに」
「そのほうが余計、嫌らしい気がするんだけど…。それに荒太君は夜目が利くでしょう?」
譲歩したつもりの台詞に隠された下心を看破された荒太は、胸の中で舌打ちする。
しかし焦げ茶色の瞳はひたむきに夫を見つめた。
「でも荒太君」
「……はい」
「ごめんね。そんなに、苦痛を強いてたなんて思わなかったの。考える時間をください」
「へ?」
「今日は剣護たちのところで、胡春ちゃんとお風呂を借りて来ます。そこでじっくり、この課題を検討したいと思いますので」
国会議員のような口調で告げた真白の言葉に、荒太は目の前が暗くなった。
「やめて、真白さん!それ、全然、本当に見当違いだからっ。兄貴であっても他所の男の風呂借りるとか言わないで!!」
「大丈夫。剣護は無精者だけど、次郎兄はまめだから浴槽は綺麗だよ?」
「問題が違うっ、根本的に違う!真白さんは時々すごい天然になるよね!?俺は未だにびっくりしちゃうよ、色んな意味で真白さんにドキドキさせられてるっ。感情の空気の入れ換えをして、常に愛しさが新鮮だ!!」
口走る本人も興奮しているので、今一つ言葉の手綱が取れていない。
真白は夫の言葉を拝聴しつつ、疑問符を顔に浮かべている。
成瀬夫妻は自他共に認める鴛鴦夫婦で深く愛し合っているが、たまに妻、或いは夫の言動に驚き、自分の伴侶を宇宙人のように感じる瞬間があった。その所以は愛情云々の問題以前に両者の人格に起因するところにあり、一生存在する小さな心の溝なのかもしれない。
それからしばらく押問答が続き、結局、荒太は妻と仔猫が仲良く浴室に去るという遺憾な事態を認めざるを得ず、彼は胡春が来て何度目かになる敗北感を味わった。
寝室に置かれたアンティークの金の時計の、コチコチと鳴る規則正しい音の中に、仔猫の甘えた鳴き声が混じる。日によって紫だったり紺色だったりする夜と言う艶めいた時間。夫婦が昼間よりも親密になり、愛を語らうべき時と荒太が考えている時間にまで、侵入者は踏み込んでいた。
みゃあ、と胡春は、真白の枕の上で鳴き、そのまま、真白の首に頭をこすりつける。
真白と荒太の並んだ枕の間に小さな身体が割り込んだ形となっている。
小さな身体が、荒太にとっては非常に大きな障害だった。
(俺と真白さんの甘い時間が!これじゃ夜桜だって拝めないじゃないか)
荒太にとって我慢ならないことの二つ目がこれである。
「ねえ、真白さん。夫婦の寝室にまで仔猫を招き入れるのはどうだろう」
「だって胡春ちゃん、まだ夜は寂しがって鳴くの。可哀そうでしょう?」
俺とどっちが可哀そうだろう、と荒太は頭の中で考えてみる。
俄然、自分のほうが不憫だぞ、と言う結論が出た。
(この調子で四六時中、この猫に夫婦生活を侵害されたら、気がおかしくなりそうだ)
断固、抗議しようと真白に目を遣ると、彼女はとうに夢の住人となっていた。
「……あーあ…」
幸せそうな寝顔を見て、惚れた弱味との闘いだなこりゃ、と荒太は思った。
微かに開いた妻の唇に就寝前のキスを送ろうとする。
荒太の眼前で、胡春の爪が鋭く閃いた。ギョッとした荒太が思わず身を引く。
「むっつり助兵衛」
続いて響いた高く澄んだ少女の声に、荒太は周囲を見回す。
最後に彼の目が行き着いたのは、今は毛繕いをしている淡い桜色の仔猫だった。
荒太と視線が合うと、彼女は金色の目を冷たく光らせて、ふいと顔を逸らした。
その後、悠々と真白の布団に潜り込み、真白と同じ枕に小さな頭を並べて荒太にちらりと視線を送ると、満足そうに真白の頬に頭をくっつけてから目を閉じた。
「―――――…」
(この、この、この猫、この猫……っ。真白さんの前では、猫を被ってやがるっっ!)
荒太は血走った瞳で一晩中、胡春の剥製を作る欲求と戦い続ける羽目になった。