バイク勝負
暦の上では春だといっても、夜も明けきらない早朝となれば話は別だ。
孝史は白い息で手のひらを温めて、バイクのエンジンをかけた。うなりを上げながら煙を吹き出して、細いフレームが震える。
愛車のカブ。
新聞配達などによく使われる業務用バイクのイメージが強い車種なのだが、孝史はその洗練された機能美を非常に気に入っていた。
エンジンが今日も快調なのを確認して、ヘルメットを被る孝史。手袋をはめ、シートにまたがり後ろを確認する。
通勤時間になると車で埋め尽くされる片側4車線の大きな道路は、今はがらんとしていて、異様なほど殺風景だった。街灯の明かりが点々と遠くまで伸び、その向こうの山からは太陽が顔を出しかけている。
(今日は学校もバイトも休みだし、警察もまだ寝てる時間だ。ガソリンは満タン。ちょっと遠くまで走ってみるか)
と、そこでクラクションの音が鳴った。
見ると、向こうからいかにもレーシングバイクといった格好の真っ赤な一台が、けたたましい音をたててやってくる。そして、孝史の真横で止まった。
「よう」
友達の昭弘だ。
ドクロのシールが貼られたヘルメットのバイザーを上げると、彼は言った。
「孝史、お前まだカブなんか乗ってんの? ダッせえな。俺の見ろよ、コレ。同じ50ccでも、速さは段違いだぜ。なんたってレーシングマシンのレプリカなんだ」
孝史は愛車を馬鹿にされ、ムッとした。
「そうか? 意外といいバイクだよ。カブは燃費がいいんだぞ。それに操作しやすいし、耐久性は高いし」
「はっ、それが何だってんだよ。バイクはやっぱり速さだよ」
あくまでも小馬鹿にした態度の昭弘。
「じゃあ、バイクの勝負をしてみるか?」
孝史は、遠くに見える山を指差した。
「あの山の展望台へ行く道は知ってるだろ。そこへ早く着いた方が勝ちだ」
「レースぅ? そのカブで、俺とか? いいぜ、徹底的に負かしてやる」
「じゃ、あの信号が青になったらスタートだ」
信号はすぐに青になった。
孝史はカブのスロットルを全開にして、一気に飛び出た。ところが昭弘は動かない。それどころか、シートに座ったまま腕組みなどしている。
昭弘は孝史にハンデをやるつもりなのだ。
きっちり10分後、昭弘はスタートした。
スロットルを開けると、それに答えてエンジンが躍動する。ぐんぐん加速して、街の景色は置いてけぼり。すぐに孝史のカブが見えてきた。
山のふもとの喫茶店の前で、カブを追い越す。
そこからはもう一人旅だ。
曲がりくねった山道を、加速減速を繰り替えしながら走り抜けていく。素晴らしいスピード、すばらしいテクニック。膝が地面に擦るほど車体を傾け、ギリギリの速度でカーブを曲がる昭弘。対向車が来ると非常に危険だが、いまは休日の早朝、山道を通る車などありはしなかった。
けっきょく一度も他の車とすれ違うことなく、展望台に到着した。
スピード勝負は昭弘の完勝だった。
※ ※
けっきょく孝史が展望台へやってきたのは、昭弘が2本目の缶コーヒーを飲み終えた後。優に20分は経ってからだった。
空き缶を投げ捨て、昭弘は自慢げに胸を張る。
「どうだ、カブなんて話にならないだろ」
「そうだね、完敗だよ」
意外にサバサバした表情の孝史。あまりにも大差で負けたものだから、悔しがることもできないのだろう。
「ま、さっさとそんな糞バイク、乗り換えるんだな。俺がバイク屋紹介してやろうか?」「いや、いいよ」
すっかり落ち込んでいるようだ。肩を落として二言三言交わしただけで、再びバイクのエンジンをかける。
「じゃ、俺はこれで」
去って行く孝史。
ショボいバイクにまたがって、すごすごと帰るその後ろ姿! 負け犬とは、なんて惨めなものものなんだ!
見送りながら昭弘は、優越感に浸りきった。
「やっぱ、バイクは速くなくちゃな」
ほくそ笑む。
そして背伸びをしながら太陽を見上げた。
だいぶ昇ってきたが、雲に隠れてその姿は見えない。すると、ぶるっと寒気が襲ってきた。いきなり山の上に来てしまったので、防寒対策が不十分だったのだ。
「帰るか」
昭弘は山道を下り始めた。
風が痛いほど冷たい。腹も減ったし、早く家に帰ろう。
なんてことを考えていると、急にバイクの調子がおかしくなった。がたがたと揺れ、スロットルを開けても加速しない。ついにはガタンと止まって動かなくなった。
ハッとする昭弘。
ガス欠だ!
そのとき唐突に、先ほどの孝史の言葉がよみがえった。
(カブは燃費がいいんだぞ)
(バイクの勝負をしてみるか?)
昭弘はあたりを見回した。とうぜん孝史の姿は見えない。
そのうえ、ここは山の中だ。ガソリンスタンドなんて無い。携帯も通じない。休日の早朝なので通る車もありはしない。
ただの鉄の固まりと化したバイクの横で、昭弘は途方に暮れた。
そして。
そのころ、ふもとの喫茶店で。
ふかふかのソファにもたれながら、孝史はあったかいコーヒーとサンドイッチを楽しんでいた。