ワンダーフォーゲル
その時その部屋には電気はついていなかった。つけていなかったと言うほうが正しいかもしれない。
暗闇を淡く照らしてくれる月はその日は出ていなかった。優しげな光源がない夜空は艶やかな濃い群青色ではなく、本当に気分が滅入るような薄暗い闇で、なおかつ多くの雨雲を携えていた。
そんな滅入るような暗闇を存分に吸収した部屋では、外から聞こえる激しい雨音に混ざり、彼女が泣いている声が充満していた。
時折重く鋭く響くフラッシュライトの役割も担っている雷の存在に、いつものように彼女が驚いて僕の服の裾をそっと握るような、そんな心がぽっと温かくなる行動は、悲しいけど今はないようだ。
ただ僕らは、膝立ちと言う中途半端な立ち方で、目をあわすこともなく向かい合っている。
もうずいぶん長い時間こうしているから、いい加減膝が痛い。高校時代にバスケで膝を壊している僕にはこれは死活問題で、それは彼女も知っているはずだけど。
「別れ、るべきだよね、こういうパターン」
彼女が顔を上げずにあまりにも自嘲的に笑うから、僕は何も言えなかった。膝の痛みにギブアップして座り込むのはどっちが先か、どうでもいい事を考えながら僕は口を閉ざすしか出来ない。
真っ暗な部屋の無機質な光源、音量を消してる十四型のテレビには映画が流れている。内容なんか分からないし関係ないけど、外の雷よりかは彼女の表情を僕に見せてくれる。
見たくはなかった、見るはずのない表情だと思っていた。それはそれは悲しくて辛い表情を。
気のせいか部屋の湿気が多くなってきた。彼女の涙の匂いが部屋に充満しそうで、僕はどうにかこの状況を進めようとする。
「あのさ」
「ごめん、耐え切れなぃっ……」
何かを進めようとした瞬間、彼女はそれに気づかずに断ち切ってきた。中途半端で不確実な言葉と、傘も何も持たずに部屋を飛び出すと言う呆気にとられる行動と共に。
僕が勝手に考えていた膝の痛みにギブアップしてどっちが座り込むのかって問題は、彼女が《立ち上がって部屋を飛び出す》っていう考えもしなかった行動によって、あっけなく答えを裏切られてしまった。
でも僕はまだ膝立ちのままで動けないでいる。
中途半端に彼女を捕まえようと伸ばした腕は、下ろすタイミングも奪われている始末で。そんな腕のやり場は、とりあえず目障りなテレビの電源を切るっていう行動で始末しようと思う。
しかし、スイッチに手を伸ばして僕はその動きを止めた。
さっきから垂れ流すようにやっていた映画は、ちょっと昔に流行った恋愛映画。
たしか、喧嘩ばっかりの困難続きのカップルがそれを乗り越え、結局最後は結ばれるっていう、世の中に数え切れないほどありそうな小説を百回ぐらい映画化して、一年で十回はテレビで目にするであろう、つまり陳腐でコピーしきって擦り切れてしまったような内容の映画だ。
今の僕を皮肉ったかのような内容だけど、それでもテレビを消せずに僕の腕は止まったまま。
その夜、僕はその映画を結局終わりまで食い入るように見入ってしまった。音声なしで。だって、僕と彼女がもしかしたら、この映画の二人みたいになれたのかもしれないから。
そんなバカみたいな現実の理想を重ねた上映会は、ひどく寂しいものだと後から気づく。
『ワンダーフォーゲル』
《会いたい、ごめん、》
受信メールの本文にそれだけ記されているケータイを握り締め、僕は走っていた。膝が悪いのは、彼女も知っているはずだ。
会いに行く、ではなくてただ彼女が自分の感情をぶつけたその文章は、僕をこうやって彼女の所へと走らせていた。彼女と最後に会って四ヶ月、彼女の家が今でも同じなら、必ずバスに乗らなくてはならない。
「くそぉ……」
掠れたような間隔の短く大袈裟な呼吸の合間に思わず漏れた言葉は、誰とか何かに向けたものではなくて、自分の運動不足の体力に向けてだ。
彼女のアパートまで距離にして十キロ。移動手段が無いなんて、ちょっと辛すぎる。最終バスに乗れなければ、夜中に自分の足で十キロを走りきらなければならない。
今まで、最終のバスが無くなったら彼女が可愛い黄色のべスパに乗っかって、僕のアパートまで来てくれた。
だけど、今はそんな関係では無いんだ僕らは。
部屋の薄い窓から聞こえるべスパのエンジン音を聞くことは、三ヶ月間ずっと無かった。扉を開けたらとりあえず抱きついてくる彼女の香り、体温、冬じゃなくてもほんのりと赤い頬、それはもう記憶の中では少し薄れている。
それでもあのメールの文面を彼女が声に出していっていたら、なんて想像は何でか容易く出来てしまう。それは、あのメールに彼女の姿を見たからなのだろうか。
あの彼女の部屋、ずっと電球を替えてない若干暗い照明に、フリーマーケットで買った部屋に合わないまるでハリウッド女優が使いそうな淵にたくさんの電球がついている大きな三面鏡を背にして、あまり掃除をしなくて汚れた白いカーペットの上で小さな背中を丸めて体育座りをしながら、綺麗な膝の隙間からケータイを覗いてボタンを押していく……。
その時の彼女の心は、僕の今のものさしでは到底計り知れないのかもしれない。
何かバイトで嫌なことがあったのか? そういえば、別れる前は店長とそりが合わないって言っていた。
体調を崩して、心細いんだろうか? 元気が取り柄だと自分で言っていた彼女だけど、時々ひどく体調を崩していた。
もしかしたら……。今は別の男と付き合っていて、その男に何かされているのか。
結果的に裏切られて別れた僕だけど、彼女の心配をしてならないんだ。
なんて色々無限に心配事は僕の頭から生産されていく。この生産性が工場などで利用できて現実にあれば、それこそ大金持ちになれるほどだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……ぁあ、マジかよ!」
そんな心配事をぽかりぽかりと頭に浮かべていたら、ちょうど走り去っていく最終バスのお尻が見えた。
急いで足の回転率を上げようにも、バス停手前まで全力疾走した僕の足はそうそう言う事を聞いてくれるはずが無かった。
まるで嫌われているかのように一瞬でバスのテールライトは僕の目の前から遠ざかり消えてしまった。
街灯が少ない田舎のこの街では、膝に手を突いて肩を落としたって僕のことを舞台の主役のように照らしてくれない。バスに乗れないくらいで世界から見放されたように陥ってしまうほど、僕の周りには灯りが少なくて、こんなんじゃ舞台でも村人Aすら演じれずに、立ち竦む木にしかなれないんだろう。
希望のバスが走り去ってしまって視線をおろして見れば、僕の手にはケータイの少し眩しい液晶が映りこんだ。
目に飛び込んでくるのは、真っ白な背景に浮かぶ真っ黒な文字に込められた彼女の気持ち、痛み、様々な感情。一つ一つの文字が彼女の声色となり僕に伝わる。独特の猫のようなしぐさ、しっかりと見つめてくる視線、何万通りもある表情を浮かび上がらせて切ないほどに訴えかけてくる。
その文字は一つ一つが強烈に僕の脳を雷の如く刺激して、その刺激は脳が普段体を動かすために必要な、本当に微量な電気を一瞬で高電圧にさせて、棒になる手前の足を動かしていく。
「バスがなんだ足があるだろうが!」
自分の足を拳で叩き奮わせ、僕はまた走り始めた。
忘れようとしていた愛しいと言う感情は、そうやって少し無謀な行動でも僕をただ突き動かす。だって今は、ただ無性に彼女の顔が見たいから。
走って十分。すでに最初の勢いは五分前に無くなっていた。
「十キロって……、キツイな……」
普段走ることがない足はちょっと震えだし、走るフォームはどんどん不恰好に、まるで間接のジョイントパーツをちぐはぐに取り付けられてしまったロボットのようだ。
走るのをやめて少し歩きに変えてみるけど、それでも足の裏はすでに痛みを訴えていた。それよりも痛みも訴えているのは、やっぱり昔に痛めた膝だった。
ゆっくりと歩いていくと、四ヶ月前はよくバスから見ていた景色がすぐ目の前にあった。流星のように過ぎ去っていった景色も、今は僕の目の前をゆっくりすぎるほど流れていく。でもそれは、今まで気づかなかったものが見えてくるということ。
馬鹿みたいにセールの旗を店の周囲に掲げているドラッグストアや、外れた道の途中にある古臭い駄菓子屋に、猫がたくさんすんでいる猫屋敷みたいな家。それは、こんな時でも新鮮さを教えてくれて、彼女と僕の家の距離の間には小さいけど世界が広がっていた。
速い速度では見えない、楽をしていては見えないものというものがあるんだ。
あっ……彼女の気持ちも、そんなふうに見逃していたのだろうか。僕はそんなふうに、いつの間にか彼女の姿を見失っていたのだろうか。
ずっと付き合っていく上で、楽をしていたわけではない。ただ、慣れてしまったんだ彼女との関係に。
知っていくことをいつのまにか現状で満足して、知ってもらうということにいつのまにか現状で安心してしまった。そして、その慣れは彼女との距離を霧に紛れさせて、たった二人の世界なのにそれこそ宇宙のように無限大に、互いを見えなくさせて遠ざけていく。
光も空気もない宇宙は互いの姿を見させることなく、お互いの名前すら呼べることない。一秒前まで隣に自分が知っている姿で立っていたはずの彼女は、もう違う姿で何光年も先の遠くの場所へと、ワープしてしまったかのようになってしまう。
お互いの位置を知っていたはずだった。それなら、定期的にでも望遠鏡で観測する必要が僕らはあったのかもしれない。でも、それをやらなかった。
そんな二人の関係も、彼女は嫌っていたのかもしれないとふと今になって気がついた。
「ん?」
そんな見慣れた景色の中、ふと僕は足を止める。
「懐かしいな、ここ」
目の前には、やはりどこにでもあるような公園がそこにはあった。
狭い公園内には、いくつかの錆びた遊具に屋根つきの木製テーブルつきの対面ベンチ。等間隔に立った照明のおかげで暗くはなかったけど、それがいっそう人がいない寂しさを際立たせていた。そんな照明には人よりも、暗い色彩の羽を持つ蛾がよく集まっている。
ここはまさに、僕の中で彼女への気持ちが始まった場所。導かれるように、誘われるように僕はそのベンチへと足を進めた。
彼女には夢があった。映画監督という夢が。
初めて聞かされた時は、普通の人と自負している僕にはあまりにも遠い話ですぐに理解は出来なかった。寝る間を惜しんでバイトをしてお金を稼いだり、ビデオや映画館で映画を見て勉強をし続けたり。寝ていても面白い夢を見たらその夢を忘れないうちにノートに書きとめていたり。人間が使える一生分の情熱をその夢へと惜しみなく注いでいる彼女は、活き活きとしていた。
上京してきた僕は大学に通いながら、学費を稼ぐためにビデオ店でバイトをしていて、そこで僕らは出会った。
映画をほとんど見ない僕に、彼女は見つけたと言わんばかりにどんどん僕に映画を薦めてきた。自分の知識を教えることが好きだった彼女にとっては、僕は良いカモだったのかもしれない。そうしていくうちに、僕は彼女と仲良くなっていった。それは、必然と言っても良いほどだ。
その日、彼女はその夢を親は徹底的に否定され、家にいることに耐えられなくなった。家出してきた彼女に呼ばれたのが、友達である僕だった。
夜中の公園に呼ばれた僕はベンチで彼女と向かい合って座っていた。
ベンチに備え付けてあるテーブルには未開封の五百ミリリットル缶ビールが数本に、乾き物中心のおつまみ。そして僕らのお尻の下には、ご丁寧にも彼女が持参してきた座布団が敷かれてあった。冬場だったら、確実に彼女は毛布も持ってきたであろう。春先でよかったと今でも思う。
そのあまりにも臨戦態勢を整えた彼女を一目見て、長丁場になることを僕は覚悟していた。
そして、散々愚痴や不満、夢を延々と語られた。
そうすることで、彼女の気が晴れるならばと僕は彼女の言葉をずっと聴いていた。時折相槌をうつ以外、僕の役目はなかった。ただ話すことが、彼女の望みだったんだろう。
誓おう。このときまだ僕は彼女をただの友達としてしかみていなかったんだ。
いつのまにか語り疲れて寝てしまった彼女を前に僕はどうすることも出来ずにいた。
徐々に姿を現していく太陽はスポットライトのように公園を端から照らしていき、砂時計の砂が一粒一粒落ちるかのようにじっくりと僕らを照らしていった。
朝日のベールはやがて彼女を暖めるように、覆いかぶさった。そのとき僕は昔美術館で見た、聖女が橙色の布を体に巻いている美しい絵画を思い出た。そんな絵画に似た彼女に、僕は目を逸らせずにいた。
鳥はさえずり、朝の澄んだ匂いにつられたのか、彼女はゆっくりと目を覚ます。
「おはよう」
誰にでもする朝の挨拶を彼女にして、僕はこれからどうしようかと考えようとしたとき、彼女の異変に気づいた。
「なんで笑顔なんだよ?」
彼女は起きて早々、まだ半分眠ったままの顔を笑顔に変えていた。それは今でも覚えている、散々語った夜中とは打って変わった心底幸せそうな顔。全て緩ませたような、それはやわらかい笑顔だった。
彼女はテーブルの上に置かれた僕の手を突然ぎゅっと握って、こう言った。
「ちゃんといてくれた」
僕は恋に落ちた。
あの頃の気持ちは、今僕の体の中のどこら辺をうろつきまわっているのだろう。
あれほど純粋で、あれほど何もかも捨てて彼女と言う存在だけあればいいという、どこか狂ったほどの心。あの気持ちを育て間違えたのだろうか?
あの気持ちは綿毛になり風に飛ばされ、別の綿毛が僕の中心に根を張り、気づかないで、気づかぬ振りをして身代わりに育ててきたのだろうか。
あのまま純粋に彼女を思っていられたら、どれほど今幸せだったのか。あの種を、あのはじめて僕の中で根を張った種を今でも育て続けられてたら。
自分のことすら分からない僕に、彼女の事など始めから分かることなんて無理だったのか。
「……行くか」
答えなどでない問題を今はとりあえずここに置き去りにして、僕はまた走り出した。走るフォームは、未だに不恰好だ。
走り始めて約四十分。すでに息は切れて、呼吸音に掠れたような音が混じってきていた。まるで吸い込む空気の成分が人とは違うのかと思ってしまうほど、僕の今の呼吸は頼りなくて危なげだ。その呼吸を整えるためではないけど、僕はふとまた足を止めてみた。
彼女の家が近いことを知らせてくれる、街の小さな映画館。 シネコンという、よくあるスクリーンがいっぱいある映画館ではなくて、一つのスクリーン、それも小さなスクリーンしかない、寂びれた映画館だ。
ここへはよく彼女に連れてこられた。昔の映画をリバイバルしていたり、モノクロ映画をやっていたり……。最新作はあまり見れなかったけど、古い映画はそれは味があって良いものだと、ここで彼女から教わったんだ。
でも、いつからだろうか。彼女と映画を見たり、彼女の夢の話を聴くのが、どこかしら億劫になっていったのは。
たった一つの映画を観るだけで彼女のあらゆる知識や考えを聴くたびに、僕は何故だか憂鬱な気分になってしまう。彼女がふと僕から目を離した隙に、僕はそんな憂鬱な気分を表情に出して、息抜きの代わりにため息を、彼女に気づかれないようにつく。
量産型の僕に個性型の彼女。僕は量産型から抜け出す術もなく、個性型の彼女を理解出来ず不安になり、彼女を作っていく個性の源である映画に嫉妬もしていた。
そんなある日、ここの映画館でいつものように映画を観た後、僕はふと思った疑問を何気なく、本当に深い意味はなく訊いたんだ。深い意味は、自分ではないと思っていたんだ、本当に。
「なぁ、もし僕がさぁどこか遠くに行ってしまったら、君は全てを捨ててついてきてくれる?」
彼女は、ただ黙りこくって答えられなかった。
今思えば、なんてヒドイ質問だったんだ。今になって僕は彼女のその時の気持ちが少しは理解できる。
彼女を作る九割は映画だろう。そして、映画を捨てるということは、自分のほぼ全てを捨てるということ。映画から切り離した彼女は、果たして僕が知る彼女でいられるのだろうか。
僕は分からないでいた。彼女と深い話をすればするほど、僕は自分を見失っていく。あまりにも色々見せてくれる彼女に、僕は尊敬と同時に恐怖を抱いていたのだろう。
だから彼女が見せてくれる部分よりも、僕自身が探し出す部分を見つけ出したくなったのだ。
何気ないあの質問。それが彼女へのマイナスな感情を爆発させる、ストーカーのようなことをしてしまった現場を見た、直接の原因なのだろう。
彼女の後をつけた。それは、いつも会うはずの金曜の夜に彼女から、急用で会えないというメールがきたからだ。
街を探し回った僕は彼女を見つけた。彼女は、飲み屋で知らない男と飲んでいた。親しげだった。楽しそうだった。活き活きとしていたんだ彼女が。
僕は彼女に見つからないようにじっと、息を潜めていた。ストーカーと変わらないような行為で、卑劣なことだった。
二人はやがて店を出て、街を歩き始める。酔いすぎて歩けない彼女の肩に手を貸して、男はゆっくりと歩いていた。その足は、知らないアパートへと繋がっていった。
そして二人は、朝までそのアパートから出てくることはなかった。
彼女と次に会った時、そうあの嵐のような夜の日だ。
僕は、今まで覚えてきた言葉の酷い部分だけを抽出して、彼女にぶつけた。それは、今までで一番多く彼女に言葉をぶつけただろう。
彼女が、いつものように僕に対して饒舌な言葉を向けることは一切なかった。
悲しかった。そして、空しくて情けなくて、卑怯で汚くて、僕が僕ではないような時間だったのだあの時は。
弁解をしてほしかった。否定をしてほしかった。それなのに、彼女は僕をひきとめてくれなかった。彼女はそうすることが当たり前のように、僕の前から消えた。
彼女の、あのやわらかい笑顔を見ることはそれっきりない。
僕は再び走り始めた。彼女の家まで、もう少し。
散々傷つけてしまった彼女が、何故僕にメールを送ったのだろうか。何故、四ヶ月だったのだろうか。彼女がこの四ヶ月の間にしていたことを知りたい。
会ったら、前のように喋れるかどうかも分からないのに、僕はもう彼女とお喋りしている光景を、それはそれは鮮明に思い浮かべることが出来る。馬鹿で、一方通行な考えだろうと今はかまわない。
僕はこうやって彼女に会いに行っている。家はもうすぐなのだ。
不恰好に走っていると、ポケットに入れておいたケータイのバイブが震えだす。走りながらなかなか取り出せないケータイにてこずりながら、着信したメールを見ると彼女からだった。
《会いたいの、どうしても。返事ちょうだい》
そのメールを見て、僕はまだ彼女に会いに行くというメールを返信していないことに気づいた。われながら間抜けだけど、急いで走りながらぶれるケータイで文字を打つ。真っ暗な闇の中、ケータイの液晶がまるで陽炎のように揺れている。
《もうすぐ着くんだ。家の前で待っていてほしい》
そこまで打って僕は立ち止まり、彼女へと送信した。彼女がそのメールを読んだとき、どんな表情をしているのだろう。分からなくてそれを早く確かめたくて、僕は目の前の坂道を見上げた。
角度が急なこの坂道は、地元の人間には地獄坂って呼ばれているのは知っている。当然のように坂の反対側は見えない。そして、彼女の家は坂をちょうど下ったところにある。
これが最後の道で、これを越えれば会えるというのに何故だろう、自分の足なのに思うようになかなか進まない。
彼女に会って、普通に話すことが出来るのだろうか。 彼女の何を見ることが出来るのだろうか。彼女の何を聞くことが出来るのだろうか。何を僕なりに感じとって、何を彼女のことを思い考えて、何を彼女のために出来るのだろう。投げ掛けられた言葉の一つ一つを、僕はどう受け止めることが出来るのだろうか。
彼女の言葉を聞く自信が僕にはなかった。彼女の隣で、彼女の言葉を聞く自信がなかった。彼女の隣にいるのは、僕でいいのだろうか。
さっきまでのただの妄想とは違って、すぐ反対側に彼女がもういるんだ。
彼女の言葉を聞く勇気。彼女と正面から向き合う勇気を力ずくで、弱い心の底から引っ張り上げる。どうなろうと、どうにかなってしまうのだ。そうなるために、僕はここまで走ってきた。
深く知り合うことが関係に溝を作ってしまうのは、それは仕方がないことなのだろう。だって僕らは互いに違う存在で、知り合えば知り合うほど好きな部分も多くなり、嫌な部分も浮き彫りになっていく。
ただ純粋な気持ちのままで、深く知り合えることは出来ないのだから。
エゴや嫉妬、憎悪だって微塵もないなんて言えない。でも純粋な気持ちは確かにある、まだ僕の中に。じゃなきゃ、膝が震えるほど走れないし走る気にもならない。自分の限界に達した膝に向かってはにかんで、そのことに僕は気づいた。
知り合っていく上で変わっていくという気持ちは、それは相手を大切にしたいという気持ちなんだと思う。大切にしたいからこそ傷つけて、大切にしたいからこそ自分を知ってほしくて、相手を知りたくて。
もう一度、映画館でいった質問を彼女にしたら、彼女はまた同じように黙ってしまうんだろう。彼女も僕を好きでいてくれて、それと同時に僕を好きって言う自分を、映画が好きって言う自分を、全部ひっくるめたのが自分だと分かっているから、彼女は答えることが出来ないんだ。
彼女にとって、僕と映画は同一で一位じゃない。一位と二位でもないはずだ。元々次元が違うのだから。
そんな考えをしたって結局は僕の中だけの妄想。彼女の気持ちは、やっぱり彼女から聞かなきゃ分からない。だから僕は最後のこの坂道を歩き始めた。坂の下、まるで山登りで反対側に待っているかのような彼女に会いに行く。
この坂みたいに、僕らは互いを見つけれない。上って上ってたどり着くんだ、彼女の元へ。
痛みが限界にきた膝をかばいながら、ケータイをもう一度取り出して、もう一度文を打つ。
《待っていて、君のところに行くから》
僕は愛しい彼女に会いに行く。エンディングなんて分からないけど、ただ今は彼女の色々な言葉を聞くために。 それに、エンディングを盛り上げるための最高のバラードは、僕の胸の中でさっきから鳴り響いている。普段なら分からないけど、彼女が映画は音楽も大事なんだと言っていたことが、今なら嫌でも分かる。
彼女の顔を見て、溢れるような愛しいという感情を僕はもう一度味わいたいんだ。彼女への気持ちは、隠すことなくまだ僕の中で育っている。脈を打っている。
あと二時間ぐらいしたら、陽も昇り始めるだろう。その朝日を、彼女の部屋で見れたらと僕は強く思いながら走り出し、近所迷惑な大きな声で彼女の名前を叫ぶ。
「ーーーーーっ!!」
久しぶりに声に出した彼女の名前は、ひいき目無しに可愛い名前だとなんだか思った。
「ーーーーー!!」
久しぶり響いた彼女の声は、僕の名前を読んでいた。それは、とても心地良い響きだ。
いる。彼女はこの坂道の反対側に。
もうすぐ頂上だ。彼女の姿を見たら、僕はどうなってしまうのだろうか。とりあえず、泣き出すことだけはしないように気を引き締めてようやく、頂上に立った。
遠いけどすぐ近くに、彼女の姿が見てた。表情も、夜だと言うのに不思議とはっきり見えた。彼女は、何故だかあのやわらかい笑顔をしていて、それを僕に向けていた。
それを見た瞬間、懐かしい愛しさが胸から溢れた。バラードは鳴り止まない。
『結局この映画のさ、困難続きのこの二人はさ、結ばれた後どう暮らしていくんだろうね?』
『また言ってるの? それよりこう映画自体がどうっとか評価はないわけ?』
『それは今考えてるさ。それよりもさ、そっちが気になって』
『それは、人それぞれなんじゃない? 考え方とか、捉え方一つで変わるわよ』
『そっかぁ……』
あの陳腐な映画を彼女と初めて二人で見たとき、僕は映画の中の二人はそのまま幸せに暮らしていくのだろうと、そう誰もが願い誰もが考えるであろう事後の物語を思い描いた。
彼女はどうだったんだろう。そのときは聞かなかった。でも今なら自分の考えも変わって、なんとなくだけど彼女が思い描く事後の物語も分かる気がする。
隣で僕の肩に寄り添いながら寝息を立てる彼女に、起きたら訊いてみようと、無駄に大きな三面鏡に映る僕ら二人の姿を見ながら、ふとそう思った。
答え合わせは、今は急がないでもいいだろう。
もう少し、あの日のスポットライトのような朝陽に照らされた愛しい彼女の、久しぶりの安らかな寝顔を見ていたいから。
映画をイメージ。ノベルフィルムってなことで。