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第一話「雨降る高級住宅街の殺人」(中編)

第六章「静かな三日間」


事件から三日。島崎は日常を装っていた。会社へ出勤し、会議を仕切り、部下に編集指示を飛ばす。すべて、事件前と変わらぬ“完璧さ”で。


野中の死は新聞の社会面から消え、警察の動きも静かだ。


だが、心の底で警報が鳴っていた。


井森。あの刑事は、二度と現れなかった。電話も、訪問もない。


――なぜだ。何を狙っている?


不確実さが、島崎の胸を蝕む。


オーディオルームは封印されたまま。あの部屋に入る気には、なれなかった。


---


第七章「再訪」


三日目の午後三時。井森が現れた。


「お邪魔します」


トレンチコートは乾いていた。雨は上がっていた。


島崎は笑顔を貼りつけた。


「井森さん、どうぞ」


書斎のソファに腰を下ろし、井森は鞄を漁る。


「ええと、もう少し確認を。いいですか?」


「もちろんです」


くしゃくしゃのメモ帳が開かれた。穏やかな目が、島崎を捉える。


---


第八章「コルクの欠片」


「あの夜、ワインは何本空けました?」


「二本です」


「二本目のコルク、どこに?」


島崎はキッチンを指す。


「カウンターに、オープナーと一緒に」


井森が立ち上がり、確認する。確かに二つのコルクが置いてある。


「これですね。でも、この一本、側面に欠けがありますよ。小さな破片が取れてる」


島崎の喉が鳴った。


「抜く時に飛んだんでしょう」


「そうですか。でも、現場検証の時に、ソファの隙間に小さなコルクの破片が挟まっているのを見つけたんですよ」


井森の目が、じっと島崎を見る。


「あの破片、最初は確かにあったのに、後で消えてたんです」


「ゴミだから捨てたんでしょう」


「事件現場ですよ、掃除禁止です。それに、破片の材質と形状、ぴったり一致します」


井森の視線が刺さる。


「一致したからって何なんですか? ただの欠片でしょう。ワインを開けた時にコルクの破片がソファの上まで飛んだ。それだけのことです」


井森は首を傾げ、メモを取る。


コルクが何かの証拠なのか? わからない。でも刑事の目には、怪しいと映るのだろうか。


島崎は動揺した。手が汗ばむ。


井森が笑った。


「島崎さん、汗をかいて緊張してらっしゃいますが、大丈夫ですか? コルクは証拠でもなんでもないですよ。ただ消えてたから聞いただけです。すみませんね、そんなに緊張されるとは思わなかったんで」


---


第九章「カメラの網」


「成城は高級住宅街でしてね。防犯カメラ、住民の四割以上が設置してるんですよ」


井森が写真を並べる。


「駅までの道、島崎さん何台かのカメラに映ってました。これ、行きの道。午後十一時五分。雨の中を歩くあなたです」


島崎は無言で見つめる。


「これが帰り道の映像。午後十一時三十分。これもあなたです」


「問題ないでしょう」


「いえ、そうじゃないんです」


井森は地図を取り出した。


「最短ルートじゃないんですよ。帰りはわざわざ遠回りして、行き止まりの道を通ってる」


地図の一点を指す。


「この道、先は工事中で通れません。なぜこんな道を?」


「雨で道に迷って」


「しかも、ここは一方通行です。帰り道、逆走してますね」


井森の目が、穏やかなまま島崎を捉える。


「裏道を選んだのは、人目を避けたかったからじゃないですか?」


島崎の額に汗がにじむ。


――裏手へ回る抜け道。人目を避けたはずが、この網に掛かっていたのか。


---


第十章「加湿器の沈黙」


井森が立ち上がり、オーディオルームへ向かう。島崎も後に続く。


「この加湿器、三日間、水がほとんど減ってませんね」


井森がタンクを覗き込む。


「満水で二・五リットル。強で八時間持つはずです。三日間つけてたら、もう何度も水を足してるはずなのに」


「事件後、気分が落ち込んでて、忘れてただけです」


「習慣じゃなかったんですか? オーディオ機器の乾燥防止に、帰宅後すぐセットするって」


井森は、高級オーディオラックを見渡す。


「これら、みんな高級品ですよね。木部が割れたら困るはず。三日も放置するんですか?」


「それは……」


「怖くて入れないんですか? 事件現場だから。でも、機器のためなら入らなきゃいけないはずだ」


井森の言葉が、静かに島崎の心に染みる。


「習慣が止まるのは、無意識の拒絶じゃないですかね。あなたはこの部屋を“避けている”」


島崎の息が、わずかに乱れた。


---


第十一章「積み重なる違和感」


書斎に戻り、井森はソファに腰掛けた。


「一つ一つは些細なことです。でも、積もると重いんですよ」


井森の声は静かだ。


「土砂降りの中、来客を待たせてわざわざ駅まで行った。家のトイレがあるのに、改札の中のトイレを選んだ。Uberがあるのに、自分でスーパーに行って高額の買い物をした」


「コルクの破片の話をしたら、冷や汗をかいて緊張した。防犯カメラには、わざわざ遠回りして人目を避けるようなルートが映っていた。加湿器は、三日間も放置されていた」


井森の目が、島崎をまっすぐ見る。


「普通はしない“おかしな行動”が多すぎる。土砂降りの中、買い物に行ったのは、島崎さんは“証拠”を作りたかったんじゃないですか? 完璧なアリバイを」


島崎の視界が、わずかに揺れた。


「……いつから、わかっていたんですか」


井森は、穏やかに答えた。


「私がコルクの話をした時、動揺しましたよね。普通の人なら、コルクがあったのが無くなってると指摘されても『捨てたけど、必要だったんですか?』って、そんなに気にしない。でも島崎さんは、冷や汗をかいて必死に考えてらした」


「あれで“ほころび”が見えました」


---


第十二章「白状」


長い沈黙が流れた。


やがて、島崎の口が開いた。


「……参りました」


井森は、静かにうなずいた。


その日の夕方、島崎は警視庁へ連行された。


取り調べ室の白い光の下で、井森は野中の遺品から出てきたメモとUSBを見せた。


「着服の全記録です。五億。野中さんは、用心深かったんですね」


島崎は、すべてを吐露した。


投資失敗の連鎖。穴埋めのためのさらなる着服。野中の脅し。そして、あの夜の殺意。


「殺せば終わると思った。でも、違った。誤算でした」


井森は、ただ黙って聞いていた。


---


第十三章「連行」


廊下を歩きながら、島崎が尋ねた。


「コルクで疑い出したのはわかった。でも、決定打は何だったんだ? 買い物に出たことか?」


井森は、少し間を置いてから答えた。


「いえ。それより加湿器ですよ」


「加湿器?」


「三日後の水量、全然減ってなかった。毎日の習慣だったのに、事件後ぴたりと止まってた。あれで確信しました」


島崎は足を止めた。


「習慣……?」


「ええ。人は無意識の行動を止められない。止めるには、よほどの理由がいる。あの部屋に入りたくないという、強い拒絶がね」


井森の目は、穏やかだった。


「加湿器をつけなかったこと。それが、あなたが“あの部屋で何かをした”証拠だったんです」


島崎は、しばらく天井を見上げていたが、やがて小さく笑った。


「……習慣か。完璧な計算も、無意識には敵わないのか」


パトカーへ向かう。雨上がりの空に、うっすらと虹がかかっていた。


島崎の最後の呟き。


「自由だな」


---


エピローグ


一週間後、井森のデスク。


「井森さん、例の事件、解決おめでとうございます」


若い刑事が声をかけた。


「いえいえ、皆さんのおかげです」


井森は、机の上のレシートを眺めた。成城のスーパーで島崎が買ったものだ。チーズとハムとワイン。一万二千円。


人間の“普通”が、ほころびを生む。完璧な犯罪なんて、どこにもない。


「井森さん、次の事件です」


書類が差し出される。目黒の老舗旅館で、女将が殺されたらしい。


井森はのろのろと立ち上がり、トレンチコートを羽織った。


「行ってきます」


窓の外では、雨がまたぽつりと落ち始めていた。



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