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第一話「雨降る高級住宅街の殺人」(前編)

プロローグ


雨が東京・成城の高台を叩きつけていた。


午後八時過ぎ、IT出版大手「メディア・ブレーン」の編集長、島崎航(50)は、自宅書斎で向かいに座る男と向き合っていた。男の名は野中誠(45)。かつて島崎が鍛え上げた敏腕編集者で、今はフリーのライターとして業界で名を上げている。


「島崎さん、そろそろ潮時ですよ」


野中はソファに深く腰を沈め、ワイングラスを揺らしながら言った。口元に笑みは浮かぶが、目は冷たい。


「何の話だ」


「会社の金、五億。あなたが着服して投資に回した。しかも失敗続きで、穴埋めにさらに着服。負の連鎖です」


島崎の人差し指が、わずかに震えた。


「証拠でもあるのか」


「ありますよ。取引先証券会社の口座、振込記録、全部揃ってます。このネタを週刊誌に売れば、あなたの人生は終わりです」


野中はグラスを置き、両手を広げた。


「でも俺は鬼じゃない。話をつけましょう。あなたの新デジタルメディア事業に、俺を共同責任者で入れてくれれば、この話はなかったことにしますよ」


沈黙が部屋を支配した。雨音だけが響く。


島崎はゆっくり立ち上がり、窓辺に寄った。ガラスを伝う雨粒を眺めながら、脳裏に計画が浮かぶ。


――五億の着服がバレれば、会社追放どころか刑事事件だ。人生終了だ。


「……わかった。少し考えさせてくれ」


振り返った島崎の笑みは、数々の修羅場をくぐった編集長の、あの“カリスマ”の表情だった。


「もう一本、いいワインを開けようか」


彼はワインセラーに向かった。


雨は、まだ降り続いていた。


この夜、島崎の“計画”が始まろうとしていた。


***


第一章「計画の夜」


午後十時十五分。


野中はソファで深い眠りに落ちていた。島崎は彼の体を引っ張り、書斎に隣接するオーディオルームへ運び込んだ。


防音完璧なその部屋は、コンクリ壁に吸音パネル。窓はなく、高級スピーカーが鎮座する。


島崎はスピーカーケーブルを抜き、太く頑丈なそれを野中の首に巻きつけ、思い切り絞めた。


野中の体が一瞬痙攣し、動かなくなった。


静寂。雨音さえ届かない。


時計は午後十時十五分。


――これからが本番だ。


まずエアコンを操作。室温を22℃に落とす。次に加湿器を最大運転でセット。タンクは満水の2.5リットル、強モードで一晩持つはずだ。


島崎はこれを計算していた。法医学の入門書を監修した経験から知っていた――死後の深部体温低下は、室温や湿度、気流に左右される。通常「1時間に約0.8℃」という目安があるが、環境次第で数時間の誤差が生じる。


特に湿度が高いと、死体の熱が逃げにくくなる。蒸し風呂のように。


エアコンで冷やしつつ加湿器で湿度を上げ、気流を止める。こうして体温低下を遅らせれば、実際の死亡時刻22時15分が、「23時前後から午前零時ごろ」といった幅のある推定にずれ込む可能性が高い。


島崎のアリバイは、午後十一時以降。完璧だ。


オーディオルームのドアを閉め施錠。裏口から雨の中へ。


傘などささず、住宅街の裏道を成城学園前駅へ。徒歩十分。


改札でICカードをタッチ。入場、午後十一時八分。


すぐ近くのトイレへ。用を足し、手を洗い、服を整える。四分後、出場。十一時十二分。


記録は入出場両方残った。


次は駅ビル内のスーパー。高級チーズ、ハム、ワイン一本。一万二千円、レジ通過十一時二十五分。レシート確保。


袋を提げ、午前零時十分に自宅へ。


玄関を大きく開け、わざと声を張る。


「野中、戻ったぞ! いい肴買ってきた!」


書斎へ。返事なし。ソファにグラスとワイン、野中の姿だけない。


「おい、野中!」


焦ったふりでオーディオルームへ。


中には野中の死体。


一瞬の間を置き、悲鳴を上げた。


「うわああ!」


スマホで119番。午前零時十三分。


「警察!? 友人が死んでる! 成城の自宅、オーディオルームで!」


アリバイ、完成したはずだった。


***


第二章「刑事の影」


十五分後、パトカーと救急車。到着三十分後、現場検証。


検視官がオーディオルームから出てきた。


「首絞めによる窒息死。死亡推定時刻は午後十一時前後から午前零時ごろ。直腸温と死斑、死後硬直から見て、室温・湿度の影響も考慮した幅のある推定です。凶器はこれのケーブルでしょう」


島崎は内心でほくそ笑んだ。


――完璧。十一時以降の俺のアリバイが効く。


午後三時。


玄関に男が立っていた。くたびれたトレンチコート、寝癖の髪。のんびりした中年の刑事。


「警視庁捜査一課、井森です。この事件、担当します」


島崎は笑顔で迎えた。


「どうぞ。井森さん、お疲れのところありがとう」


井森は書斎のソファに腰掛け、鞄を漁った。


「ええと、何点か確認を。いいですか?」


「もちろんです」


井森のくしゃくしゃメモ帳が、ゆっくり開かれた。


その質問が、島崎をじわじわ追い詰めていくとは、この時点では誰も知らなかった。


***


第三章「駅の四分間」


「編集長、昨夜、駅に行かれたんですよね」


「ええ、十一時過ぎに」


「IC記録で、入場十一時八分、出場十二分。四分だけ中におりましたね。何を?」


「トイレです。急に用が立って」


「へえ。でも改札外にもトイレありますよ。成城学園前駅、改札外の西口横にバリアフリーのきれいなやつがあって、2020年頃改装されたんです。」


島崎の笑みが固まった。


「それは……知らなくて。改札内のほうが近いかと」


「しかも土砂降りの中、来客中にわざわざ徒歩十分の駅まで。家のトイレじゃダメでしたか?」


「頻尿で、家を出てすぐ我慢できなくなって……」


井森はのんびりうなずいた。


「まあ、ありますよね。人間、変な時はあります」


島崎はほっとした。だが、井森の目は笑っていなかった。


***


第四章「土砂降りの買い物」


「その後、スーパーにも寄られた」


「ええ、肴を。レシートです。一万二千円、十一時二十五分」


「いい買い物ですね。高級ワインにチーズ。でも、雨の中、自分で? Uber Eatsとか、デリバリー使えましたよね。今どきスーパーもやってますよ」


「考えませんでした。雨で頭がぼーっとして」


「編集長クラスなら、普段は合理的に動くはずなのに。四十分家を空けて、野中さん一人で待機。配達なら五百円で済むのに」


井森の口調は穏やか。だが、メモに何かを書き込む手は止まらない。


島崎の背中に、冷や汗が伝った。


***


第五章「加湿器の記憶」


井森が立ち上がり、オーディオルームを眺めた。


「これ、何ですか? 加湿器? 八月なのに」


「オーディオ機器に湿気が必要で。乾燥すると木部が割れるんです。帰宅後すぐ、七時頃にセットしました」


井森がタンクを覗く。


「満水2.5リットル、強運転で約8時間持つ仕様ですね。 七時から零時まで五時間なら、せめて半分は減ってるはず。なのに、ほとんど満水じゃないですか」


島崎の心臓が鳴った。


「調子が悪かったのかも……」


「へえ。で、通報後になぜ外したんです? いつも習慣なら、事件後もそのままにしておくはずですよね」


「それは……」


「水量から、最大で二時間くらいしか動いてなかった計算です。午後十時過ぎから、とか」


井森はにこりとした。


「数字は嘘つかないですよ。鑑識に型番渡して、正確なスペック確認しますね」


島崎の手が震え始めた。


――ほころびが、始まっていた。


雨は、まだ降り続いていた。


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