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楓月と孝俊

「カヅキ、留守を頼んだよ」

私の名を終ぞ呼ばなかったその人は、そう言ったきり帰ってこない。


待ち続けることをカヅキは誓った。何年かかってもいい。

いつかふらりと、カヅキを見つけたあの日のように。

―本が好きかね。

自分を見つけて、そう、声をかけてくるのだろう。

そしたら自分は。

あの日、返せずにいた言葉を用意して。

―はい、好きです。

見知らぬ他人ではないその人に、言いたいのだ。

いつもその人が羽織っていたコート。

とうに匂いは失せてしまっていて、布も随分と擦り切れてしまっているけれど。

大事にずっと持っている。


ーーーーー


放課後。

利用者の少ない第二図書室。

そこに彼がいることを、孝俊(たかとし)は知っていた。

「なんの本を読んでいるんです?」

予想通り、窓際に並べられた自習スペースに目当ての人物を見つけた。

尋ねながら、本の表紙をのぞき込む。

「九条か」

視線を本へと落としたまま、ちらとも自分を見ない男の横に孝俊は座る。

「その恰好、生活指導につかまらないんですか。高校の校則って、随分ゆるいんですね」

そう投げかける孝俊は、ボタンをきっちりと一番上まで止め、規定通りに制服を着こんでいる。

一方、男は詰襟の学ランを軽く羽織っただけで、腕も通っていない。

中のシャツは第二ボタンまで開けられていて、胸元の白い肌がのぞいている。

シャツの袖はぐしゃぐしゃと肘のあたりまで上げられていて、骨が浮いたような細い腕を窓から差し込む夕日が照らしていた。

「中学の時から何も言ってこない」

細く長い指先が、はらりとページをめくった。

相変わらず綺麗な人だと、孝俊は見惚れた。

背の中ほどまでに伸びた黒髪は緩く一つにまとめられ、左に流された顎のあたりまで伸びた前髪は顔に影を落としている。通った鼻筋の下の薄い唇は言葉を発する時にだけ動き、感情を表現することはない。

言葉数も多くはなく、いつだって一枚の絵のように静かに男は黙していた。

この美しい男が血縁の者だと、孝俊は今でも信じられない思いでいる。

あと数年経って孝俊が男の年齢に追いついたところで、男の持つ美しさの欠片一つでも持ち得るようになるとはとても思えない。

「親父から、大学の進路を聞いて来いって言われてきました」

ごそごそとカバンを探り、くしゃくしゃになった紙を一枚取り出す。

孝俊はなんとかそれを広げて気持ちシワを伸ばすと、男の傍に置いた。

「書いてください」

「うん」

男はまたページをめくりながら、生返事を返した。

あぁ、これは聞いていないなと孝俊は感じた。

男の読書が終わるのを待とうかと一瞬思ったが、分厚い残りのページを見て孝俊は考え直す。

楓月(かづき)センパイ」

ピクリ、と楓月の肩が揺れた。

ゆるゆるとこちらを向いた灰色の瞳と視線がかち合う。

楓月のこの瞳の色が、孝俊は好きだ。

その瞳に見つめられると、吸いこまれるように見入ってしまう。

「楓月セ・ン・パ・イ」

今度は区切りながら、もう一度そう呼んでみる。

「名前を、呼ぶな」

お前になど呼ばれたくないと、言葉は強い拒絶の響きを持っていた。

眉間にはわずかにシワが寄っている。孝俊は素直に謝罪する。

「すみません、センパイ」

複雑な家庭事情より、孝俊は楓月が自分の九条の家に良い感情を持っていないことを知っている。しかしそれは、直接孝俊に関係のないところが原因だから、個人的にはこの美しい血縁と仲良くしたい、そう思うのだ。

三井島(みいしま)センパイ」

今度は名字で呼びなおす。

「進路、好きなところ行けって親父言ってましたよ。遠慮なく私立でもなんでも書いちゃってください」

楓月の灰色の視線が、シワだらけの紙に落とされる。

「書けない」

「あ、まだ決まってない感じですか?じゃあ親父にそう言っときますね。決まったら親父でも俺でも教えてください。連絡先変わってないんで」

ガタリと孝俊は席を立つ。

「読書の邪魔をしちゃってすみません。それじゃ」

去っていく孝俊を楓月は黙って見送った。


 その美しい従兄弟の存在を孝俊が知ったのは、小学校に入ったばかりの頃だった。

「私の兄の子で、孝俊の従兄弟だ。今は5年生で、孝俊よりお兄さんだな」

ある日父は、とてもキレイな人を連れて来た。

孝俊よりも大きくて、父よりは小さなその人は、孝俊が今まで見て来たものの中で一番、どんなものよりもキレイだった。

だから、孝俊は思ったままを口にした。

「とってもキレイ!おとうさん、とうじょうからつれて来たの?」

父が家に何か持ってくるものは東条に関係するものが多かったから、孝俊は何の気なしにそう尋ねた。

「いや、東條は関係ないよ。すまない、好奇心が旺盛でね。孝俊という。俺の息子だ」

父がキレイな人に自分を紹介しているのだと気づき、孝俊は習ったばかりの胸に手を当てるお辞儀をした。

「たかとしともうします。よろしくおみしりおきおねがいします」

しかしキレイな人はわずかに瞳を揺らしただけで、何も言葉を発さない。

「ハハッ。母さんに習ったのか。上手だぞ。東條に行くのはまだ先だろうに、気が早いな」

父はわしゃわしゃと孝俊の頭をなで、そのキレイな人の背を押した。

「しばらく一緒に住むから、色々と案内してくるよ。孝俊は母さんを呼んでおいで」

父とキレイな人が去った後、孝俊は思った。

―あ。キレイな人の名前、聞くのを忘れた。


孝俊の家は代々輸入業を営み、界隈では九条という名の知れた一族であった。

―表向きは。

人には視えない「魔」と呼ばれる存在を認識し、人と魔の共存の為尽力する「魔女」を九条家は代々支え続けて来た。

その魔女を多く輩出する東條家との付き合いは古く、次代の魔女が10を迎える頃、九条家の者は挨拶をするしきたりがあった。

とはいえ、次代の魔女はまだ幼いらしく、孝俊は会ったことがない。

父から聞く魔女や東條の話から想像を膨らませ、九条の家の者としてのことを学ぶ日々を送っていた。

そこへ現れた、父が連れて来たとてもキレイな人。

興味を持たぬわけがない。

「どうして目の色、灰色なの?」

キレイな人が家に来てからというもの、孝俊はその人を見かけるたび積極的に話しかけた。

「おとうさんのおとうとの子どもってほんと?それってボクといとこなんでしょ。ぜんぜんにてないね」

「ねえねえみいしま!みいしま、みいしま?ちょっと長いね。短くしていい?なんて呼ぼう。みいし、ま。みい、しま。みい?」

キレイな人は、どんなに孝俊が言葉をかけても反応一つ返さなかった。

あまりに動かないものだから、父が連れて来たのは人ではなくて人にそっくりな人形なんじゃないかと思ったほどであった。そんなキレイな人の反応を初めて見たのは、父の真似をしてキレイな人の名前らしきものを呼ぼうとした時だった。父の呼んでいたそれはとても長く感じて、孝俊には呼びづらかったから、学校の友だち同士でよくやるあだ名のように短くしようと思ったのだ。しかしその呼び名は、キレイな人にとって喜ばしいものでなかったようで、眉間にシワを寄せ、不快だと書いた表情をキレイな人は孝俊に見せた。

それが孝俊の初めて見た、その人の表情だった。

「やめろ、女みたいだろ」

「おんな?」

キレイな人に男とか女があるのかと、顔にシワを寄せてもキレイなその人を見つめながら首を傾げた。

「オレは男だ」

「じゃあ、しま?」

「まぁ、それなら……」

それからしまは、孝俊の問いかけに少しずつ返事をしてくれるようになった。

これまで自室でとっていた食事を、一緒に食べてくれるようにもなった。

孝俊は嬉しかった。

東條のことで最近忙しいらしい父母が家にいない寂しさがまぎれるようで、家にしまがいるときはどこへだってついて回った。

しまは静かな時間が好きなこと。

読書が好きなこと。

読書をしている時は、あまり周りの声が聞こえていないこと。

孝俊はしまのことを知っていった。

だから、しまの傍をついて回るけどやたらと声をかけることは控えめにしたし、読書が終わるまでは何時間だって黙って待っていた。学年が一つ上がったしまが中学受験をすると聞いたとき、孝俊は受験が何かよくわかっていなかったけど、自分も受験をして同じ学校に行くと決めた。

だってその時、小学校を卒業したらしまは家を出ていくと聞いていたから。


 しまと同じ中学にあがった孝俊は、すぐにしまを探しに行った。

キレイなしまは学校中の有名人で、見つけることは容易かった。

けれど孝俊は、見つけたしまに言葉をかけることが出来なかった。

無知であった昔と違って、しまと九条の関係を知ってしまっていたから。



 しまの名前は、三井島楓月といった。

三井島というのは九条と同じく東條家の分家であるものの、少々変わった位置にある家だった。

三井島が東條家から分かれたのは、九条よりあとのこと。

九条は分家したあとも東條家と関わり続けることを選んだが、三井島は違った。

東條家とは関わらず、また東條家も三井島には干渉しないと決めていた。

九条も東條家にならい、干渉せずの姿勢をとっていた。

しかし九条家に、その不干渉を破った男がいた。

男は孝俊の父の兄、名を九条(くじょう)孝一(こういち)といった。

孝一は端的に言うとクズ、というものらしい。

大人たちが眉をひそめてそう吐き捨てていたのを東條家で耳にしたことがある。

根なし草のようにあちらへふらふら、こちらへふらふらと。九条家の者としての自覚と責任感のない様子で日々を生きていた。

そんな孝一は、ある時一人の娘と出会う。

娘はたいそう美しく、孝一はひと目で恋に落ちた。

孝一は娘を三井島の者と知りながら、熱烈なアプローチの末に恋仲になったそうだ。

そこまではまだいい、問題はここからだ。

あろうことか孝一は、身重の恋人を一人置いて、その後ふらりと姿を消したのだ。

九条家の者が一連の顛末を知ったのは、情けないことに三井島の娘が亡くなり数年が経ってからのこと。

孝一が行方をくらました際に、いつものことだと放置をしてきちんと調べなかったのが裏目に出た。

娘の父母は他界しており、娘は一人で子を産み育てた。孝一の父母は若い娘にそのような仕打ちをした息子に憤り、気づけなかったことを深く悔いた。

孝一の弟である邦孝(くにたか)は、母を失い親戚中をたらい回しにされていた娘の子を引き取った。

それが三井島楓月、10歳の時であった。


 自分を捨てた父親の血縁だと、どうして楓月に近づけようか。

何も知らぬ顔をして、以前のように話しかけることなど、孝俊はとうていできなかった。だからこうして、父からの用事を伝えるときだけ孝俊は楓月に声をかけられた。

孝俊はもう、楓月をしまとは呼ばなくなった。名前を呼ばれることを嫌がる様子であったから、父が三井島くんと呼ぶように、三井島センパイとひどく他人行儀に楓月を呼んだ。

だって、

「九条」

自分を見た楓月は、孝俊のことをそう呼んだのだ。

中学に入り、孝俊が一番に探して会いに行った楓月は、孝俊をそう呼んだ。

その一言で、察してしまった。

きちんと線引きされたその距離に、孝俊はどうしようもなく泣きたくなった。


 美しい従兄弟と、孝俊は仲良くなりたかった。

どれだけ話しかけても、帰ってくる言葉は十分の一ほどであったけど。

時折、孝俊と呼んでくれるのが嬉しかった。

寮のある中高一貫校を選んだ楓月を追いかけた。

追いかけたけど、楓月は孝俊より4つ上だから同じ学校には二年しかいられない。

楓月は、何も知らずについて回った愚かな孝俊を恨んでいないだろうか。

しまと呼んでいたあの頃の自分を、嫌っていなかったと信じたい。





・三井島楓月(高校三年生)

母に育てられたが幼い頃に死に別れ、以降親戚中を転々とする。

父のことは知らないが、10歳頃に父方の叔父に引き取られる。

美しい造形をしているが、本人はあまり自分の容姿に頓着がないよう。

あまり感情を表情に出さない。


・九条孝俊(中学二年生)

九条家の当主、九条邦孝の一人息子。

突然現れた、兄のような存在の美しい楓月に懐く。

明るく、人懐っこい性格で考えてること全部顔に出るタイプ。


・九条家

魔女を輩出する東條家から、昔に分家した一族。

表向きは輸入業を営む。


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