第5話 婚約と、深海の脅威
製塩プラントの稼働から一週間。
モルントン男爵領の執務室には、不釣り合いなほど巨大な「鏡」が運び込まれていた。
ウィスタリア公爵家が所有する希少な魔道具、『遠見の鏡』である。
『――なるほど。純度99.9%の塩、か。報告書で読んだ時は誇張かと思ったが、実物は宝石のようだな』
鏡の向こうに映っているのは、重厚な執務机に座る初老の男。
エレオノーラの父であり、この国の宰相も務める大貴族、ウィスタリア公爵その人だ。
通信コストだけで金貨が飛ぶこの鏡を使って、緊急の会談が行われている。
「お気に召していただけて光栄です、公爵閣下」
『単なる塩ではない。お前はガネフ子爵を経済的に隷属させ、物流網まで手に入れた。その手腕……とても十八の若造とは思えん』
公爵の鋭い視線が、鏡越しに私を射抜く。
だが、私は動じない。前世では、もっと理不尽な古狸(ベテラン議員)たちと渡り合ってきたのだ。
『単刀直入に言おう。アレクセイ男爵。我が娘、エレオノーラを正式に妻に迎え入れろ』
隣に立っていたエレオノーラが、扇子で口元を隠しながらも、少しだけ視線を逸らしたのが見えた。
「……過分なお話ですが、それは『投資』の担保として、でしょうか?」
『そうだ。お前の持つ「技術」と「発想」は、一男爵家に留めておくには危険すぎる。他派閥、あるいは他国に引き抜かれる前に、我が家の鎖で繋いでおきたい。……悪い話ではなかろう? お前には「後ろ盾」が必要だ』
その通りだ。塩が売れ始めれば、ガネフ子爵ごときでは済まない、もっと大きなハイエナたちが群がってくる。公爵家の婿という看板は、最強の防具になる。
「謹んで、お受けいたします。ですが、あくまで対等なパートナーとして」
『フン、生意気な小僧だ。……だが、娘もそれを望んでいるようだ。書類は飛竜便で送る。調印せよ』
プツン、と通信が切れた。
鏡がただのガラスに戻ると、重苦しい空気が霧散する。
「……よかったのですか? お父様は、貴方を完全に配下に取り込むつもりですわよ」
エレオノーラが、試すような眼差しを向けてくる。
「構いませんよ。利用できるものは親でも使う。それが貴族でしょう? それに……」
私は彼女の手を取り、その甲に儀礼的な口づけを落とした。
「貴女ほど優秀なビジネスパートナーを、他に知りませんから」
「……口が上手い方。でも、悪くない気分ですわ」
彼女の頬がわずかに朱に染まる。
愛はまだない。だが、強固な信頼と利害の一致による「共犯関係」が、ここに成立した。
その時だった。
カンカンカンカンカンッ――!!
屋敷の外、港の方角から、けたたましい半鐘の音が鳴り響いた。
火事ではない。これは――敵襲の合図だ。
「ハンス! 何事だ!」
飛び込んできたハンスは、顔面蒼白で叫んだ。
「へ、変種です! 港の拡張工事現場に、海から魔物が! サハギン(半魚人)の群れが上陸しました!」
「サハギンだと? あいつらは基本的に臆病だ。群れで人間を襲うなど……」
私は舌打ちをし、壁にかけてあった剣(飾りだが、ないよりはマシだ)を掴んだ。
塩の利益で港の拡張工事を始めた矢先だ。作業員や漁師たちが危ない。
「エレオノーラ様は屋敷で待機を!」
「いいえ、行きますわ。私の出資した港ですもの、私の財産を守る権利があります」
彼女はドレスの裾を翻し、護衛騎士に目配せをした。肝が据わっている。
***
港は修羅場と化していた。
海面から次々と這い上がってくる、緑色の鱗に覆われた二足歩行の半魚人たち。その数、およそ五十。
手には粗末な槍や、骨で作ったナイフを持っている。
「ギャギャッ! ギョエエエッ!」
「ひぃぃっ! 助けてくれぇ!」
作業員たちが逃げ惑う。騎士団もいない我が領地では、自警団の漁師たちが銛で応戦しているが、多勢に無勢だ。
すでに数人が血を流して倒れている。
(……おかしい)
私は戦場を見下ろす高台から、【統治者】スキルで敵の動きを分析した。
通常の魔物は、本能で暴れるだけだ。
だが、こいつらは違う。
三匹一組で動き、盾役が注意を引きつけ、横から槍役が刺すという「連携」をとっている。そして何より、狙いが明確だ。
人間を食うためではない。
製塩プラントと、新造したばかりの桟橋を「破壊」しようとしている。
「指揮官がいるな」
私の視線が、沖合の岩場を捉えた。
そこに一匹、通常の倍はある巨体のサハギンがいた。杖のようなものを持ち、奇妙な音を発して群れを操っている。
サハギン・シャーマン。知能を持った上位種だ。
「アレクセイ様、どうされますか? 私の護衛騎士を突撃させれば、殲滅は可能ですが……」
エレオノーラが問う。彼女の護衛は精鋭だが、数が少ない。乱戦になれば漁師たちに被害が出る。
「いえ、結構です。被害ゼロで終わらせます」
「被害ゼロ? この状況で?」
「魔法はインフラですが、時には『兵器』としても優秀な物理現象ですから」
私は前に進み出た。
右手を天に掲げる。
脳内で構築するのは、製塩プラントで使った「乾燥」の応用ではない。もっと単純で、凶悪な熱力学の行使。
海水温の操作。
サハギンは変温動物だ。急激な温度変化には弱い。
だが、海全体を温めるには魔力が足りない?
違う。そんなことをする必要はない。
「ハンス! 製塩プラントの排水弁を全開にしろ!」
「は、はいッ!?」
私の指示で、高台にあるプラントから、パイプを通して海へつながる弁が開かれた。
そこからドバドバと流れ出るのは、塩を精製した後に残る「苦汁」を含んだ、高濃度の塩水だ。
そして私は、その排水口に向けて魔法式を展開した。
「――【氷結】」
私が放ったのは、海を凍らせる魔法ではない。
流れ出る高濃度塩水を、過冷却状態(マイナス20度でも凍らない状態)にする魔法だ。
冷たく、重い塩水が、比重の差で海底へと沈み込み、サハギンたちの足元へ広がっていく。
海水の温度が、局所的に急低下する。
サハギンたちの動きが、目に見えて鈍くなった。
変温動物である彼らの代謝機能が、強制的にシャットダウンし始めたのだ。
「ギョ……? ギョガ……」
動きの止まったサハギンたち。
そこに、私はもう一つの魔法を重ねた。
「仕上げだ。――【急速加熱】」
今度は、彼らの周囲の海水をピンポイントで沸騰させる。
極寒からの、熱湯。
急激な温度差が、彼らの鱗と粘膜を破壊し、神経系を焼き切る。
「ギョオオオオオオッ!!」
断末魔すら上げられず、サハギンたちが次々と海面に浮かび上がった。
白目を剥き、ピクリとも動かない。
全滅だ。
剣を振るうこともなく、ただの水温変化という「環境攻撃」だけで、軍勢を無力化した。
「……なんてこと。魔法を、こんな風に使うなんて」
エレオノーラが絶句していた。
それは貴族的な決闘でも、英雄的な魔法でもない。
ただの「害虫駆除」の手際だった。
「回収しろ! サハギンの鱗とヒレは、漢方の材料として高く売れる! 一匹も流すな!」
私が漁師たちに叫ぶと、呆気にとられていた彼らは「う、うおおお!」と歓声を上げて海に飛び込んだ。
だが。
私の目は、沖合の岩場から逃げ去るシャーマンの影を見逃さなかった。
やはり、ただの獣害ではない。
誰かが、意図的にこの領地を狙っている。
(ガネフ子爵ではないな。奴にこれだけの魔物を操る知能はない。……もっと大きな、黒幕がいる)




