第17話 特区の夜と、カテリーナの視察
カテリーナ・スフォルツァは、苛立っていた。
モルントン領に到着して二日目。彼女は「休息」という名目で従者を撒き、変装(といってもフードを被っただけだが)をして、城下町の市場を歩いていた。
彼女の苛立ちの原因は、この街の「異常さ」にある。
「……おじさん、この串焼き。二本買うから安くしなさいよ」
「悪いね、嬢ちゃん。ウチは『正札』販売なんだ。値札通りの金額だよ」
屋台の店主は、カテリーナの美貌にも、交渉にも動じず、店頭に掲げられた木札を指差した。
『海鮮串焼き・一本銅貨三枚』。
「はぁ? 商売ってのは駆け引きでしょう? まとめて買う客には色を付けるのが礼儀よ」
「そういうのは古いんだとさ。領主様……いや、次官様のお達しでな。『交渉に時間を使うより、一人でも多くの客を回せ』ってよ。ほら、後ろがつかえてるから、買わないなら退いてくれ」
店主の言う通り、カテリーナの後ろには観光客の列ができている。
彼らは無言で銅貨を置き、商品を受け取り、次へと進んでいく。その回転速度は、帝国の市場の比ではない。
「……味気ないわね。でも、恐ろしく速い」
カテリーナは串焼きを買い(味は悔しいほど美味だった)、近くのベンチで観察を続けた。
通常、市場での買い物は「挨拶」から始まり、「探り合い」「値切り」を経て成立する。それは一種の娯楽だが、時間はかかる。
だが、この街は違う。
「価格」という情報を可視化し、交渉のコストをゼロにすることで、圧倒的な「取引数」を稼ぎ出している。
さらに、彼女が驚いたのは「衛生観念」だ。
どの屋台も、食材をガラス(これも領内産だ)のケースに入れ、ハエがたからないようにしている。店主たちは白い前掛けをし、金銭を扱う手と、食材を扱う手を分けている。
「『食中毒を出した店は営業停止』……厳しい条例で縛っているのね。でも、そのおかげで客は安心して財布の紐を緩める」
カテリーナは、キセルの煙を吐き出した。
彼女の知る「商売」とは、騙し合いの戦争だ。
だが、アレクセイの作った街は違う。ここは巨大な「自動販売機」だ。誰もがルールに従い、効率的に金を吸い上げられるシステム。
「……気に入らない。けど、凄いわ」
***
その頃、領主館の執務室では、私が頭を抱えていた。
「次官様、やはり宿泊施設が足りません! 駅前のテント村も満員、このままでは野宿した観光客が、寒さで風邪をひくか、スラムに紛れ込んでトラブルになります!」
ハンスの報告は悲痛だった。
鉄道による集客効果が、受け皿の容量を超えている。ホテルの建設は進めているが、完成は来春だ。今夜のベッドがない。
「……やるしかないか。『民泊』の解禁を」
私は書類の束から、一枚の原案を取り出した。
「ハンス、今すぐ『臨時宿泊条例』を発令しろ。領民に対し、自宅の空き部屋を観光客に貸し出すことを許可する」
「えっ? そ、そんなことをすれば、強盗やトラブルが……」
「だから『許可制』にするんだ。貸し出す部屋には鍵がかかること、寝具が清潔であること、そして家主の身元が保証されていること。これを満たした家には『認可証』を発行する」
私はペンを走らせ、条件を詰めていく。
「宿泊料の上限は『銀貨三枚』までとする。これならホテルより安く、テントより快適だ。領民にとっても、空き部屋が金になるなら喜んで協力するだろう」
「な、なるほど……! 確かに、ウチの婆さんの家も二部屋空いています!」
「さらに、警備隊に夜間巡回を強化させろ。民泊を利用する観光客には、入国時に身分証の提示を義務付ける。……『おもてなし』は性善説では成り立たない。厳格な管理があってこそだ」
スピード勝負だ。
私は即座に条例案を清書し、公印を押した。
魔法で解決できない問題――人の流れと安全の管理こそ、行政官の腕の見せ所だ。
***
その夜。
私が執務室で残業をしていると、窓から不意に紫煙が流れ込んできた。
バルコニーに、カテリーナが立っていた。迎賓館を抜け出してきたらしい。
「……不法侵入ですよ、皇女殿下」
「玄関から入ったら、取り次ぎで一時間は待たされるでしょう? 貴方は忙しい男だから」
彼女は悪びれもせず、ソファに腰掛けた。
「街を見てきたわ。……『正札販売』に『民泊条例』。貴方はこの街を、国というより一つの『会社』として運営しているのね」
「効率を突き詰めれば、そうなります」
「帝国の商人はね、客との駆け引きに命を懸けるの。でも、貴方のやり方はそれを否定している。……正直、文化としてはつまらないわ」
彼女はキセルを置き、私を真っ直ぐに見た。
「でも、数字は嘘をつかない。この街の金の回転率は、帝都の三倍以上。……悔しいけど、私の負けよ」
「勝ち負けではありません。フェーズが違うだけです」
私は手を休めず、答えた。
「帝国は『個』の商人の力が強い。対して、当領は『システム』で回している。……大量消費社会には、私の方が向いているというだけです」
「システム、ね。……ますます欲しくなったわ。その頭脳」
カテリーナは立ち上がり、私の机に一枚の硬貨を置いた。
帝国の金貨だ。
「これは前金よ。いつか貴方を買い取る時の手付金。……それまで、精々この街の価値を上げておきなさい」
彼女はまた風のように去っていった。
机に残された金貨が、ランプの光で妖しく輝いている。
やれやれ。
商売敵としても、求婚者としても、一筋縄ではいかない相手だ。
だが、彼女の指摘は的を射ている。
急激な効率化は、文化的な摩擦を生む。今はうまくいっているが、いずれ「昔ながらの情緒」を求める声との衝突が起きるだろう。
その時、私はどうバランスを取るか。
……まあ、それは明日の悩みだ。今夜はまず、観光客に温かいベッドを提供することが先決である。




