第1話 破綻した男爵家と、冷たい執務室の帳簿
頭が割れるように痛い。
二日酔いの鈍痛と、脳の奥底から湧き上がる膨大な情報の奔流。それらが混ざり合い、私の意識を白濁させていた。
重たい瞼を持ち上げると、そこには見慣れた、しかしどこか古ぼけた天井があった。
石造りの壁からは冷気が染み出し、部屋全体がカビと埃の混じった独特の匂いに満ちている。
ここは、モルントン男爵邸の当主寝室だ。
そして私は、アレクセイ・フォン・モルントン。昨日、父の葬儀を終え、わずか十八歳でこの領地を継いだ新米男爵である。
(……いや、違うな)
私はベッドの端に腰掛け、冷たい床に素足を下ろした。
足裏から伝わる冷気が、混濁していた意識を急速に覚醒させていく。
私はアレクセイであり、同時に「私」でもあった。
前世の記憶。
極東の島国、日本。そこで地方都市の市長を務め、財政破綻寸前だった自治体を、十年かけて黒字化させた行政官としての記憶。
最後の記憶は、庁舎の市長室で、過労による心不全で倒れたところだ。
「……また、マイナスからのスタートか」
乾いた笑いが漏れた。
鏡台に映る自分を見る。
黒髪に、色素の薄い灰色の瞳。線は細いが、眼光だけはやけに鋭い。
魔力測定の儀式では「下の中」と判定され、父を落胆させた身体だ。この世界において、貴族の序列は魔力量と武力で決まる部分が大きい。
だが、今の私にはわかる。
この身体に流れる魔力回路は、出力こそ低いが、恐ろしいほどに「精緻」だ。前世で私が組んでいた都市計画の図面のように、無駄がない。
コンコン、と控えめながらも、どこか義務的なノックの音が響いた。
「アレクセイ様、お目覚めでしょうか。家令のハンスでございます」
「……入れ」
扉が開き、白髪の老人が入ってきた。
ハンス。先代である父の代から仕える古参の家令だ。
彼は慇懃な態度で頭を下げたが、その目には隠しきれない侮蔑の色があった。
無理もない。
魔力も弱く、剣の腕も立たず、まだ成人したばかりの若造。それが彼から見た私だ。どうせ飾り物の当主として、適当に操ればいいと思っているのだろう。
「昨日の葬儀、お疲れ様でございました。早速ですが、今後の領地運営についてご裁可をいただきたい書類がございます」
ハンスが差し出したのは、羊皮紙の束だった。
私は着替えもせず、ガウンを羽織ったまま執務机に向かった。
革張りの椅子は古びてひび割れており、座るとギシギシと不快な音を立てる。これが、現在のモルントン男爵家の懐事情を如実に表していた。
私は無言で羊皮紙を受け取り、目を通した。
そこに記されていたのは、絶望という名の数字の羅列だった。
「……借入金総額、金貨三千五百枚。今年度の返済予定額が三百枚。対して、昨年度の領地税収は二百二十枚、か」
私は淡々と数字を読み上げた。
金貨一枚で、平民一家が一ヶ月暮らせる世界だ。
単純計算で、どうあがいても破綻している。利息だけで首が回らない状態だ。
「左様でございます。先代様が、魔物の防衛費や、王都への交際費に多額の出資をなさいましたので」
「それで? お前の提案はなんだ」
「は。領民への臨時徴税を行う他ございません。今年の収穫に対し、税率を五割から七割へ引き上げます。また、港の商人たちからも『警備協力金』という名目で上納させれば、なんとか当面の利息分は……」
ハンスは淀みなく答えた。
それが「常識」だと言わんばかりに。
貴族が贅沢をし、足りなくなれば民から搾り取る。この世界ではありふれた光景だ。
私は羊皮紙を机に置いた。
そして、指先でトントンと、ある一点を叩く。
「ハンス。お前は私を馬鹿にしているのか?」
「……は? めっそうもございません」
「では聞くが、この『葬儀費用・雑費』の金貨五十枚というのはなんだ?」
「それは……昨日の葬儀で振る舞った酒や、参列者への手土産代でございます。貴族の威信を保つためには必要な出費で……」
「参列した貴族は、近隣の男爵家三家と、子爵家の使いが一人だけだったな。合計二十人もいなかった」
私の脳内で、前世のそろばんと、この世界の相場が高速で弾き出される。
スキル【統治者】が、無意識のうちに数字の矛盾を警告音として鳴らしている。
「領内で一番高いワインでも、樽で買えば銀貨五枚だ。五十樽も空けたのか? それとも、あの粗末なドライフルーツの手土産が金でできているとでも?」
「そ、それは……急な手配でしたので、相場より高値に……」
「嘘をつけ」
私は冷徹に言い放ち、別の書類を引き抜いた。
「先月の『用水路補修工事』。工費が金貨三十枚計上されている。だが、私が昨日視察した限り、北地区の用水路は泥で詰まったままだ。業者の名前は『タロン商会』……お前の義理の弟が経営している会社だな?」
ハンスの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
彼の目から侮蔑の色が消え、焦燥と恐怖が浮かび上がる。
まさか、魔力不足の暗愚だと思っていた若造が、帳簿の不整合を一瞬で見抜くとは思わなかったのだろう。
私は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
重いカーテンを開け放つ。
眼下に広がるのは、鉛色の海と、痩せた土地にしがみつくように広がる貧相な城下町。
私の領地だ。
ボロボロで、貧しく、希望がない。
だが、不思議と嫌悪感はなかった。前世で立て直したあの街も、最初はこんな顔をしていた。
「アレクセイ様、これは誤解で……そ、それに、今さら過去の些細な数字を突いても、金が湧くわけではありませんぞ! 税を上げねば、来月の返済が……」
「増税はしない」
私は振り返り、断言した。
魔力を込めたわけではない。だが、市長として数多の議会を乗り越えてきた「言葉の重み」が、ハンスを圧倒した。
「民は疲弊しきっている。これ以上の増税は、逃散か一揆を招くだけだ。そうなれば、この領地は終わりだ」
「で、ではどうされるおつもりですか! 金がないのは事実!」
「まずは止血だ。出費を極限まで削る」
私は机に戻り、羽ペンを執った。
インク壺にペン先を浸し、羊皮紙にさらさらと文字を走らせる。
「第一に、私の当主給与をゼロにする。食事も兵士と同じものでいい。城の暖炉の使用も禁止だ」
「なっ、貴族としての体面が……!」
「第二に、城の使用人を半分に減らす。特に、何をしているかわからん『顧問』や『相談役』といった名目の取り巻きは全員解雇だ」
「そ、そのようなことをすれば、彼らの親族である商人たちが黙っておりません!」
「黙らせるさ。法と、新しい利益でな」
書き終えた羊皮紙を、ハンスに突きつける。
それは、即席の『業務改善命令書』であり、事実上の宣戦布告だった。
「ハンス。お前には二つの選択肢がある」
「せ、選択肢、でございますか……?」
「一つ。今すぐこの命令書に従い、過去十年分の帳簿をすべて私の前に持ってくること。当然、横領した分は私財を投げ打ってでも補填してもらう」
ハンスがごくりと喉を鳴らす。
「もう一つは、今すぐ荷物をまとめて出ていくことだ。ただし、その場合は横領の罪で王都の法務官に告発し、お前の親族であるタロン商会も含めて徹底的に潰す。一族郎党、路頭に迷うことになるだろうな」
ハンスは膝から崩れ落ちた。
彼は理解したのだ。
目の前にいる新しい主人が、これまでの惰弱な貴族たちとは根本的に生物としての構造が違うことを。
「……ちょ、帳簿を……お持ちいたします……」
「よろしい。一時間以内だ。遅れたら二番目の選択肢になると思え」
這うようにして部屋を出ていく老人の背中を見送り、私はふぅ、と息を吐いた。
再び椅子に深く沈み込む。
最初の害虫駆除は終わった。だが、これはほんの入り口に過ぎない。
借金三千五百枚。
この絶望的な数字をひっくり返すには、単なる節約だけでは不可能だ。
新しい産業。外貨を稼ぐ手段。そして、この領地が持つ潜在能力を最大限に引き出す「魔法」の活用。
私は目を閉じ、領地全体の地図を脳裏に描く。
北の山脈、南の湿地帯、そして東に広がる広大な海。
魔力は少ない。金もない。人もいない。
だが、私には「知識」がある。
「さて……やるか。建国を」
誰もいない冷たい執務室で、私はニヤリと笑った。
血が沸き立つのがわかった。
こうして、元市長アレクセイ・フォン・モルントンの、異世界における終わりのない行政戦争が幕を開けたのである。




