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怪異缶 短編集  作者: 音久毬
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ヨウカイエナジー

「…はぁ」

すっかり日も暮れ、月の光がキャンバスに影を落とし始めたころようやく俺は筆を手から離した。

絵が完成したわけではない。朝からずっとキャンバスに向かい合っているというのに目の前のキャンバスには鉛筆の線が何本か惹かれているだけだ。それも明日になればきっと消してしまうことになるだろう。


ため息をつく気力も失い。肩を落としたまま、俺はキャンバスに布をかけた。目の前のキャンバスに自らの才能が枯れ果てたことを指摘されているようで、視界に入れたくなかった。こんなことを何日、何週間、何か月と続けているのだろうか。ひたすら、キャンバスの前に座り込み、ただ時間が過ぎ去るのを待ち続ける。


「こんなはずじゃなかった」

思わす口から弱音とも言い訳ともいない言葉が漏れる。


俺には才能があった。それは間違いのない事実だった。かつては個展を開けば、飛ぶように絵が売れた。評論家たちも俺のことを新時代の天才であり奇才であるともてはやした。


俺はその栄光を永遠のものだと思っていた。だってそうだろう、キャンバスの前に立てば白紙の上にいくらでも想像の翼を広げることができた。あの頃は何もしなくともアイデアにあふれていた。


けれど、どれだけ素晴らしい絵画も時が経てばば色褪せる。そんな当たり前の事実を若かりし俺は忘れていた。そうして、今になってそのツケを払うことになっている。


最初は絵が思うように売れなくなった。次に個展を開いても客が集まらなくなった。そして金が払えなくなって理想のアトリエを売り払った。


そこから転々として今では寂れたアパートの一室で絵を描いている。画商に頭を下げて仕事を貰い何とか画家としての体裁を保っている。最近はそれすら覚束ない。この作品が間に合わなかったら、次の仕事にありつけるかも怪しい。


さまよう視線が机の上に置かれた小瓶へと吸い寄せられる。月光に照らされた瓶の中で、とろりとした液体がゆっくりと揺れる。

月光に透けるその色は、ターコイズブルー似た輝きを放っていた。けれど、これは絵の具ではない。



これを初めて手渡された日のことを思い出す。

アイツから送られてきた個展の招待状。その日の生活にすら苦労する俺がわざわざ個展を見に行ったのは安心したかったからだ。真面目だが才能のなかったアイツの作品を見ることで自分の才能を確認したかった。

しかし、個展に飾られたアイツの作品を見た瞬間、俺は愕然とした。教科書通りの絵ではなく、そこには何にも縛られない自由な絵があった。それはかつて俺が目指したものであり、今は見失ってしまったものだった。


呆けたように絵に見とれていた俺に声をかけたアイツの姿は俺が知っていた時よりも自信と活力、そして才気に満ち溢れていた。


すっかりプライドをへし折られた俺はアイツの奢りで何件かの店をはしごした。アイツは今を語り、俺は思い出話をするしかなかった。


最後の店で、アイツはこの小瓶を俺に手渡した。「これを使えばきっとスランプから抜け出せる。自分もこれのおかげで本当の絵が描けるようになった」


その言葉に対して俺は何を返したのだろうか。怒りか軽蔑か、ともかくアトリエに戻った俺の手には小瓶がしっかりと握り締められていた。




「…一回だけだ」

一人だけのアトリエの中、誰に言い訳するでもなく俺は小瓶に手を伸ばした。酷く酔っていたはずなのに、ソレの使い方ははっきりと覚えていた。


机の中からタバコを取り出す。いつ買ったのか記憶にないがどうでもいい。


小瓶を開ける。中の液体にタバコの先を浸す。静かに白い紙巻きタバコの先端が青色に染まっていく。


震える指先でタバコに火をつける。先端からくゆる紫煙を見て咥え、吸い込んだ。

煙の味を感じる間もなく、頭が冴え渡るのを感じる。冷え切っていた心に火花が入りこむ。魂の奥で凝り固まっていた創造性が解きほぐされていく。

一つ呼吸をするたびに自分の中にある全てが大気の中に溶けだしていく。先ほどの鬱屈した世界はそこにはなかった。



「ははっ、ああこんな簡単なことだったのか」


俺はキャンバスにかぶせた布を引きはがした。さっきまでは何も見えなかったキャンバスに色が見える。


「描ける! 俺は描けるんだ!!」


筆をつかんだ瞬間、俺は自由になった。迷わずキャンバスに筆を走らせる。そうだ、俺は自由なんだ。思うままに筆を走らせる度に自分の中の魂の脈動が筆先から迸る。




「…できた」


すっかり夜が明け、窓から差し込む太陽の光の中に確かに俺の描いた絵は存在した。夢でも幻でもなかった。


「ああ、そうだ。これは俺の絵なんだ」





今までの落ち目が嘘のように、俺の絵は再び売れ始めた。

絵が売れるたびに俺は失った自信を取り戻していった。

幸せな日々だった。毎日が充足の中にあり、一日一日が輝いているように感じられた。


しかし、その生活が長くは続かないことも俺には分かっていた。


俺はあれから何度も青色の液体を使った。使えば確かに傑作を描くことができる。

けれど、使うたびに身体の不調が起こるようになった。身体は重く、動かすたびに鈍い痛みが走る。

病院にも行ったが原因不明で痛み止めだけ渡された。


これが薬に頼って絵を描いた代償なのだろう、けれど、俺にはもう引き返すことはできない。

売れない画家として忘れ去られることに比べれば死ぬことなんて大したことではない。



「これが最後の作品になるだろうな」


俺が最後の作品に選んだのは巨大な壁画だった。15mのキャンバスに俺の全てを描き出す。きっと俺が死んだあとも人々に忘れられることのない傑作になるだろう。


真夜中、天窓から月の光が差し込む中、最初に薬を使ったときのように青色に染まったタバコに火をつける。


「ああぁ…」


呼吸する度に薬が体に染みこんでいく、痛みも身体の重さも気にならない。俺の頭はこの巨大なキャンバスを自由に埋め尽くすことしか考えられなくなる。


たった一人で巨大な壁画を完成させるには時間がかかる。その間に何度も薬が切れる。繰り返し襲う鈍痛と倦怠感で集中力が削がれていく。それが徐々に強くなっていく。


遂に耐えきれなくなった俺は薬を飲むことにした。たとえ、ここで死のうとも壁画を完成させなければならない。


半分ほどの量になった小瓶の蓋を外し、傾ける。

ドロリと粘度のある液体が舌の上に落ちる。人工甘味料にも似た甘さを感じると同時に液体は喉を焼き、胃の底から全身へと広がった。

体が溶ける。皮膚が染みだし、床に滴る。

それは奇妙に美しい、虹色の泥となってキャンバスに広がった。



もはや筆はいらなかった。

自らの腕をキャンバスに押し付け、滴る肉を塗り込んでいく。

目に見えぬ閃きがあふれ、壁に壮大な世界が広がった。

俺は笑った。

これぞ真の傑作だ、と。





――翌朝、警備員が見つけたのは、壁の前に崩れた泥の塊だった。

すでに形を失い、腐臭を放つそれを、誰も遺体と認識しなかった。

清掃業者が運び出し、ただの廃棄物として片付けた。


壁画は残っていた。

だが染みついた異臭により公開は叶わず、やがて塗り潰され、跡形もなく消えた。


青い瓶だけが床に転がり、空虚な光を反射していた。


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