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恋するバスケットボール

作者: 島戸 功

 窓の外に見える景色が、印象派の絵画みたいだ。学生生活も残りわずか。キッチンテーブルに頬杖をついて、過去を振り返る。大学を無事卒業できる程度に学業を修めることはできたし、新春からの勤務先も決まった。でも、なんとなく不完全燃焼の自分がいる。


 大学を卒業できたのは嬉しい。就職活動も頑張った。そのおかげで両親は安心したし、これからの通勤が通学より遠距離となるので、実家を出てアパートを借りることにした。


 いよいよ自立の準備が整い、あとは卒業式と引っ越しをするだけ。でも学生時代に何か夢中になれるものがみつかっただろうか。休みの日に付き合える相手と出会えただろうか。


 はっきりとした、輪郭のある記憶が欲しい。曖昧でぼんやりとした、もやもやするものしかない。どうしても実感できるものがないのだ。


「もうすぐ卒業ね。それまでの時間を、やり残したことのないよう大切に過ごしなさいね」


 母が柔らかく背中から声をかけてくれる。親というものは子供の考えていることを見透かしているのだろうか。でも今頃になって、そんなことを親に相談したって仕方がない。


 小学校入学から大学卒業までの長期間、何をしていたのかと言われておしまい。何もしなかったのか。自分なりに精一杯生きてきた。それに夢中になれることは、努力して見つけるものではなく、気づいたら好きになっているのではないか。


 恋人だって、食事をして遊んでいるうちに、かけがえのない人になるのだろう。そういう意味では、どちらもまだ出会いがないだけなのだろうか。


 いつになったら出会えるのだろう。運命に委ねているだけなんて嫌だ。でも今、何ができるというのだろう。


「うん、ありがとう」


 差し障りのない返事をしてから、自分の部屋へ戻って再び机で頬杖をつく。突然、ドアが開く。


「姉ちゃん、彼氏できた?」


 弟は高校生だが、バスケのことしか考えていない。


「あんた、部屋のドアを開ける時には、ノックぐらいしなさいよ」


「いいじゃないか、家族だろ」


 初めは顔だけを扉から覗かせていたのに、いつの間にか目の前に立っている。


「家族だってルールは必要でしょう」


「そんなことより、週末俺達の試合、応援しに来ない?」


 私の声は部屋の中で無駄に響く。


「行かない」


 反射的に弟を部屋から追い出し、勢い良くドアを閉めた。咄嗟に会話の継続を閉ざしてしまったが、私の悩みを本気で聞いてくれる唯一の相手は弟だったのかもしれない。


 卒業式を終え、引っ越しを済ませると、気分はもう社会人だった。それでも実際新年度になり、慣れない服を着て、出勤するのは緊張した。とにかく仕事を覚えるのに精いっぱいで、アパートへ戻るとぐったりする毎日が続いた。


 久し振りにゴールデンウィークのため実家へ戻ると、母だけが体のことを心配してくれた。


「ご飯は毎日きちんと食べているの?」


「寝不足になっていないの?」


 むかしから口数の少ない父は、顔を会わせても無言だった。


「姉ちゃん、彼氏できた?」


 弟は相変わらずだ。家族なりの励ましを受けながら、少しずつ仕事に馴染んでいった。


 月曜日から金曜日までのありふれた仕事。それでも慣れてくると、社会人になったばかりで抱いた感激も薄れてきて、仕事は生活のためにやめられないだけとなっている。


 朝から夕方まで、昼休みを除いてパソコンへ向かってデータを入力してゆく。わからないことは、年上の先輩が教えてくれるので、安心だ。そのかわり同じことを何度も尋ねることはできない。


 残業や休日出勤はなく、苦手な対人折衝もない。最初の頃は、こんなに自分向きの仕事はないと感じていたのに、月日が経つにつれ何かもっと成長を実感できる仕事をしてみたいと思うようになっていた。就職活動をしているときに、もっと本気になって考えればよかったのだ。入社してからでは遅すぎる。


 転職するなら若いうちに挑戦してみないと、ぬるま湯につかっているような生活からは抜け出せなくなりそうだ。けれども本当にやりたいことは何なのか、わからなかったし、資格を取ることもなく、転職のための活動もしていなかった。


 目覚めた後に鏡を覗く。覇気のない表情。毎日、何をしているのだろう。でも自分が選んだ道を歩いているのだ。結局、現状に不満をかかえているものの、今の仕事を続けて、とにかく一日を終えるのも悪くはないと呪文を唱える。


 仕事が終わり帰宅してからも、もやもやした気持ちを抱え、かけっぱなしにしていたテレビをぼんやりと見る。


 バスケットボ―ルの試合中継が始まっていた。部屋の片づけをしながら時々画面を見る。仕事から逃げて、夢中になれることを探したい。自分の中でわだかまっているもののせいだとわかっているけれど、短時間で攻撃と守備が目まぐるしく展開してゆくのに視線が釘付けになる。


 試合中継が終わって現実に戻れば、テーブルの上はちっとも綺麗になっていない。何をしていたのだろうと、がっかりする一方で、気分がすっきりしている自分がいた。


 ひょっとして、私もやっと出会ったのだろうか。夢中になれそうなものと途切れないようにするため、番組表を見るたびに、バスケットの文字を捜すようになっていた。何度もテレビで観戦していると、実際に目の前で試合を体験してみたくなる。


 調べてみるとアパートから近くの駅にあるアリーナで、試合をしていることがわかった。日程表と私の手帳のスケジュールをじっくり見て、チケットの購入をする。初めてなので、どの座席が自分にふさわしいのかわからず、迷ったけれど二階の自由席を選んだ。


 壁に掛けてあるカレンダーに、赤く丸を記入して目立つようにする。それからの毎日は、経験したことのない高揚感が私を包み込んでくれた。


 いよいよ明日は土曜日。地元のプロバスケットチームが、アリーナで試合をする。初めて手に入れたチケットで応援にゆく。私が知らなかった感覚が、胸の中にわきあがってくる。カレンダーの終了した日付をサインペンで消して、その日が近づくのは嬉しかった。


 試合当日、いつもより早く目覚めてしまい、ベッドの中にいられなくなり、ゆっくり食事をすることにする。でも何を食べても味が良くわからない。ひたすら咀嚼しながら、ボールを目で追っている自分の姿を想像した。


 頭の中で選手が躍動する。食べていたものを飲み込む。ボールがリングへ向かうと、歓声が上がる。私も大声を出す。右手でコーヒーを飲みながら、左手を天井に向けて突き上げていた。妄想のスクリーンが消え去ると、自分のしていることが恥ずかしい。


 気を取り直して、これから出かける服装を考え始める。納得できるものを着たい。それにより応援する時の力が違ってくる。慣れてきたら選手と同じユニフォームを着て応援してみたいけれど、まだ初心者なのでそこまでするのは、躊躇われた。鏡の前に立ってみる。少し生き返った表情の自分がいた。もの足りなさを感じていた生き方に、バスケットボールは、何かが変わるきっかけとなるだろうか。希望の光のようなものを感じながら、準備ができたので出発する。


 私が住んでいるところは駅から近いので考え事をしていると、あっという間に改札口に到着する。電車に乗って三つ先の駅で降りる。そこからアリーナまで二十分ぐらい歩く。バスやモノレールもあるのだけれど、バスケのことをゆっくり考えていたいのだ。


 走り出す選手の背中。ボールの弾む音。会場の雰囲気を盛り上げる観客の応援。ゴールを狙ったボールが描く放物線の軌跡。わきあがる歓声。


 デパートの前を通り過ぎ、小学校の交差点を右に曲がり公園を抜ける頃には、さまざまな妄想が私を包み込んでいる。広い国道にまたがる歩道橋が、太ももやふくらはぎに負荷を与え、息があがり、額に汗がうかんでくる。でもアリーナが見えているので、立ち止まることはない。


 開場時刻より早目に到着したのに、入り口にはたくさんの人が行列を作っている。私も最後尾に並ぶ。こうして待っているだけでも、心臓の機能が加速をあげる。ようやくチケットを見せて、荷物のチェックを受けて会場に入る。


 少し薄暗いけれど、音楽や歓声が会場で響く。二階の自由席の最前列で空いている席をさがす。早目に出発して良かった。観戦に最適な場所が空いている。


 座って呼吸を整えているうちに選手たちが練習を始めた。ボールがフロアを叩く音、振動するリズムがアリーナに響き渡る。


 やがてアナウンスが観客に応援の練習を促す。拍手やみんなの声が重なり、渦巻く。私も掌が痛くなるくらい手を叩き、声がかすれそうになるまで応援をする。胸の奥でさびついていた歯車が動き出す。選手がドリブルしながらこちらへ向かってくる。自然と大きな声が出た。ボールを投げる。リングの中をボールが通過した。みんなの歓声が聞こえる。私の中の秒針が進む。


 これだ。仕事じゃなくてもいい。私が本気で楽しめるものが欲しいだけ。みんなと一体化してさらに高揚感が増す。夢中になって応援する。


 冷静になって観察してみると、ボールがフロアを叩く音と、胸の鼓動が共鳴するのだ。私は今、ここにいる。選手や観客とともに生きている。弾け跳びそうなときめきと、やっと手に入れた多幸感に包まれてゆく。


 試合は十分間の第一クォーターから始まる。選手の背中を見つめ、弾むボールを追う。攻撃と守備が激しく交代し、スコアと試合の残り時間を確認しているうちにハーフタイムになる。


 少し休憩した後、気がつくと試合は終わっていた。その日の興奮はアパートに戻っても、冷めない。これほど楽しめるのならば、弟の試合も応援しに行けばよかった。


 そうやってアリーナで試合観戦するようになってから、二階の自由席の最前列で応援するのが私の趣味になってしまう。月曜日から金曜日までの仕事では得ることができなかった喜び。バスケットの映像や雑誌を見て、選手の名前を覚え、試合ごとの得点などの成功率などを知ることで、どんどん膨らませてゆく。


 待ちわびた週末になるとアリーナへ向かう。いつものように二階の自由席の最前列で、応援の準備をしていると隣に男性がやってきた。


「この席、空いていますか?」


 無言で頷く。すると一度だけ頭を下げて、彼は私の隣に座った。私の周りの空気が急に変化する。


 試合観戦とは異なる心のたかぶり。それを振り払うために、会場のアナウンスで始まった応援の練習に集中する。それでも気になってしまう隣の人も大声をあげ、時折拍手して本番へ備えている。


 試合が始まると、攻撃するために走り出す背中や、守備をするため両手を思い切り伸ばしている選手へ向かって、チームの名前を叫び、手拍子を送って大興奮だった。


 精一杯応援しているつもりだが、隣に座った彼は、もっと気合が入っている。口を目一杯開き、腹の底から声を出し、右腕を振り上げる。時折立ち上がり拍手する。こちらも負けないよう、もっと大声を出す。得点すると腕を上げ、拍手をするタイミングまで、だんだん同じになってきた。 そして、たまには目と目があって、微笑んでいることもある。


 私たちは、同志のようになっていた。地元のチームがスリーポイントショットを決めると、思わずハイタッチすることもある。


 それまでは空っぽになったまま満たされることのない苛立ちとか、いつまでも目標が見つからない焦りや、毎日を楽しむことができない鬱憤などが、複雑に絡まり合った綾取り糸みたいになった感情で溢れていた。


 それが今は一気に解き放たれ、よじれた気持ちが爆発して、スカッとした。それは、張り詰めた楽器の弦のようにぴんとした心地良さ。これだ、これなのだ。私が求め続けていたのは、こういう充実感なのだ。やっと見つけた。ついに出会うことができた。


 喜びに浸っている暇はなく、試合は得点の取り合いが続き、応援する声を休ませることはできない。最後の十分間は、どちらが勝利を手にするのか全く予想がつかなかった。とにかく必死になって応援するしかない。


 手が痛くなってきた。声もかすれてくる。でもやめるわけにはいかない。手が腫れても、声が出なくなっても応援するしかない。


 残り時間が少なくなってくる。地元のチームが最後の攻撃を仕掛ける。あと五十秒で試合が終わってしまうというところで、スリーポイントが決まる。


 二人で同時に立ち上がって、思い切り拍手する。試合終了。僅差で私たちが応援していたチームが勝利する。監督や選手のインタビューが済み、帰り支度を始めながら、彼がこちらを見る。


「ねえ、来週も二人で応援しようよ。迷惑かな?」


 私は目を見開き、口を閉じるのも忘れて、ぼんやりと相手の顔を見つめてしまった。


「ごめん、言い方が不十分だったね。来週も、ここで一緒に応援しないか?」


 呼吸が止まる。返事をしたいのだが、言葉がうまく見つからなくて、一度だけ頷く。彼も真似して頷いた。自分を取り戻すと、初めての経験が言動のブレーキを外してしまう。


「私が隣で応援していると、うるさくて迷惑になりませんか?」


 気になっていたことを尋ねる。


「隣で一緒に、大声で応援して欲しい」


 思っていた返事とは違った。そんなこと言われたら、ずっと隣にいたい。でも、どうやってその気持ちを伝えればいいのだろう。炎天下で溶けだしたアイスクリームを見ているだけで、食べることができないような気分になる。


「帰ろうか」


 ぐずぐずしているうちに、彼が立ち上がった。アリーナを出るとまだ明るいはずなのに、濃霧が発生していて、わずか先でも見えない。バスケットと彼の記憶は、くっきりとしたものにしたかったのに、どうしてこんなことになってしまうのか。そんなこと構わず、先を歩いてゆく。慌てて見失わないように追い駆ける。並んで歩かないと、どこにいるのかわからなくなる。


「すごい霧」


 ぼんやりと乳白色に染まった宙を眺めながらつぶやく。


「ああ、そうだね」


 今気づいたというように彼がうなずく。今すぐ伝えたい自分の気持ちは後回しで、目の前のどうでもいいことを喋ってしまう。


「なんだか雲のなかにいるみたい」


 どうして、そんな適当なことしか思い浮かばないのだろう。唇は動くのに言葉が出てこない。


「雲の中って、こんな感じなの?」


 不思議そうな表情をしている。


「入ったことはないけれどね」


 しかたなく笑ってごまかしてしまう。


「なんだ、そうなの」


 疑い深そうな視線が、時間をかけてもとの表情に戻ってゆく。離れ離れになりたくない。咄嗟に彼の手を握る。周囲の人に見られるのは恥ずかしい。でも、私の心はバスケットボールになりそうだ。地面を叩き大空へ弾んでゆく。でも、それは嫌だ。彼の手を離したくない。だけど弾んでいたい気分も抑えられない。


「どうしたの?」


「あなたを捕まえておかないと・・・」


 唇が渇いてしまって、言葉がうまく出てこない。


「わかったよ」


 一度だけ手を強く握り返すと、手を離すことなく彼はそのまま濃い霧の中へ入っていく。私はバスケットボール。あなたと一緒ならば、どこへでも弾んで行ける。私もミルクの海へと泳ぎ出してゆく。







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