【アンソロ発売中】ヲタ令嬢 ~伯爵令嬢デイジーは婚約破棄されたのでオタク趣味に邁進します~
王宮で開かれたガーデンパーティーの会場に、伯爵令嬢デイジー・ダーモントは胸騒ぎを覚えながら立っていた。
伯爵とはいえ、鉱山で一山当てた先祖の富を拡充し続けてきたデイジーの生家は、国一番の資産家だ。
だからこそ、ダーモント家の長女のデイジーと、この国の第三王子のエドワードとの婚姻が締結されたのだった。
第一王子は世捨て人、第二王子は隣国に婿入りした。
第四・第五王子は生まれたて。
そうなると、自動的に第三王子と婚約するデイジーに王妃の重責がかかってくる。
学び舎で成金と陰口をたたかれる時も、デイジーは毅然としていた。
だが、今日だけは違っていた。
盛りの薔薇が咲き誇る美しく優雅な庭景色も、彼女の心を癒やすことはできなかった。
ああ、最悪だ。
どう見たって何かが起こりそうな雰囲気だった。
彼女の婚約者である第三王子エドワードは、冷たい目つきでデイジーを見つめている。
エドワードは会場で最も目立つ、黄色い薔薇に囲まれた階段の上、王宮のバルコニーに立っていた。彼はこのパーティーの主催者なので、それは何らおかしいことではない。だが、彼の隣には、黄色のドレスを身にまとった小柄な令嬢が並んでいた。
デイジーは不安げにバルコニーを見上げた。
エドワードは性根が悪いわけではないが、あまりにも世間を知らず蛮勇だ。
そして少し嫉妬心や悋気が過ぎる傾向がある。
未来の夫が何かをしでかすのではないかとひやひやするデイジーを尻目に、エドワードは朗々と喋り始めた。
「デイジー・ダーモント! ミシャに対する嫌がらせ、暴言、卑劣な行動をただちに認め、ここで彼女に謝罪しろ!」
英雄気取りのエドワードの横で、ハッとわざとらしく口元を押さえて目を潤ませる娘。
ミシャという男爵令嬢だが、あまりにも貴族の社会やマナーを知らない。
それがなくとも積極的に関わり合いになりたくないとは思っていたが、ついにこのような暴挙に出るとは。
デイジーはため息をつきたくなる心を押し殺して、茶番劇を繰り広げる馬鹿者共の顔を見上げた。
「……エドワード様。何度も申し上げていますが、そのようなことは覚えがありません」
「しらばっくれるな!」
男爵令嬢ミシャは王太子のエドワードの横で八の字に眉を寄せている。
涙をぬぐうそぶりはしているが、どうせいつもの嘘泣きだ。
実際に濡れてはいないだろう。
つまり、ミシャというのはそういう女性なのだ。
エドワードは厳かな調子で言った。
「デイジー、お招きした皆様。我々は長い間この婚約を進めてきたが、もはや続けることは不可能だと判断せざるを得ない」
エドワードの声は堅苦しく、感情の起伏を感じさせなかった。
哀れなデイジーは知っていた。
エドワードとミシャが、空き教室で、裏庭で、放課後の廊下で、抱き合ったり口づけし合っていたことを。
それを知らなかったとでもいうのだろうか?
デイジーの心臓がドキドキと高鳴った。
周囲の招待客が興味本位で自分を見ているのが分かる。
会話をしたことのある令嬢たちも遠巻きにしている。
王子の婚約者として行儀見習いや作法、勉学に励むデイジーはあまりに忙しく、残念ながら心から友人と呼べるほどの友人はいなかった。
この数年間はいったい何だったのだろう?
虚脱感におそわれながら、デイジーは言葉を絞り出した。
「なぜでしょうか、エドワード? 理由を教えて下さい。婚約をしたあの日から、私たちは共に国のために歩もうと決意していたではありませんか?」
デイジ-の言葉に、エドワードは冷たい微笑を浮かべた。
「我が王家の未来を考えれば、お前のような卑劣な女はふさわしくない。可憐な令嬢を虐め、不当に扱う心根の狭さが問題なのだ。この婚約は不適切だったと言わざるをえない。残念だったな」
デイジーは驚きと怒りで顔をしかめる。
「どうして、今になってそんなことを言うのです!」
三年。
学生時代の全てを婚約者として生きてきた。
(その間にどれだけ私が――!)
デイジーの言葉にならない憤怒の感情が拳の震えになった。
そんなデイジーを見て鼻で笑ったエドワードは、軽くため息をついてから言葉を続けた。
「過去の愛が真実であろうと、変わってしまった栄光に縋るわけにはいかない。我々はこの婚約を解消することをここに宣言する!」
デイジーの心は痛みで締め付けられるようだった。
涙が目に溢れてきて、声を震わせながら言葉を紡ぐ。
「あなたはずっと私を妻にすると言っていたじゃない。私は、私は……」
遠巻きに見ていた令嬢たちの一部にも動揺が走る。
決して媚びない、生意気、いっそ傲慢な女性であるはずの伯爵令嬢デイジー・ダーモントが泣いたからだ。
淑女が私的な涙を見せるべきではないと、誰よりも思っていそうなものなのに。
それでもエドワードは冷淡な表情を崩さなかった。
淡々と、いっそ意地悪にも思えるような冷徹さで言ってのけた。
「愛情は変わることがある。一生をお前のような娘に預けるのは不適切だと分かったのだ。このミシャが、僕に真実の愛を教えてくれた」
寄り添ったミシャはエドワードに寄りかかり、
「エドワードさまぁ」
と甘ったるい声を出して上目遣いをしている。
デイジーの心は絶望に包まれた。
今まで想像だにしなかったこの事態に、彼女は自分の人生の軌道が一変することを悟った。
デイジーは涙を拭いた。
怒りを通り越し、ある種の自分の誇りを持って言葉を放った。
「……本気なのですね」
「ああ、もちろん本気だ。だが、僕はこの国の第三王子。慈悲をくれてやらんでもない。お前は正直に言ってあまり可愛くない。女としての器量がないものな。なあに、一度は婚約をした間柄だ、情もわく。正妻はミシャだが、側室としてお前を置き、気が向いたときに遊んでやろう」
デイジーは間髪を容れずに答えた。
「つつしんで、お断りします」
エドワードが血相を変えた。
これまで「はい」としか言わなかった元・婚約者が、聴衆を前にして抗ったからだ。
まさかデイジーが、自分を断るなんてありえない――。
「なんだと? 断ったのか? この僕の誘いを」
「私はもう貴方様と今後一切関わりたくありません。側室などめっそうもございません。奥様を大事になされてください。それでは失礼します」
デイジーはきびすを返して、その場を立ち去るべく歩き出した。
「おい! 後悔しても遅いぞ!」
エドワードが叫ぶ。
デイジーは無言で歩みを進めた。
エドワードは驚きを隠せない表情を見せていたが、デイジー・ダーモントは毅然と前だけを向いて歩いた。
(これだから三次元の男は信用ならないのよ!)
と、憤慨しながら。
*
「あのぼんくら、許さんぞ! うちのデイジーを傷物にして!」
父親は怒り心頭だった。
「国王に抗議し、正式な謝罪があるまでは輸入品も寄付も差し止めてやる!」
デイジーは、
(お父様、傷物にはなってはいないのです、幸か不幸か……)
と、伝えようか迷ったが、やめておいた。
どちらかというと、『傷』がついているのはあのミシャという男爵令嬢だ。
エドワードはデイジーに指一本触れようとはしなかった。
母親はさめざめと泣き、
「かわいそうな私の天使ちゃん!」
と女優顔負けの台詞でデイジーを抱きしめた。
(うわぁ……)
と、遠い目をしたデイジーを見ては、また泣き出しという具合だった。
婚約破棄の翌日には、資産家ダーモントの令嬢が婚約破棄されたというニュースが市井に出回っていた。
心ない人々の口さがない噂を避けるため、避暑という名目で、デイジーは伯爵家の本邸から住まいをうつすことになった。
父に連れられて来たのは、昔に何度か来たことのある別邸だった。
しばらく使っていなかったのを急遽手入れさせたらしい。
傷心を癒やすには時間がかかるだろうと、最低限の使用人だけを置いて、父親は去った。
昔、滞在中に使っていた自室に行くと、本棚や机の物もほとんどそのまま置いてあった。
そして、分厚い布の袋に入った画材とキャンバスも。
ほこりにまみれた袋を開けると、昔使っていた愛用の品が、以前と変わらない姿でデイジーの前に現れた。
「久しぶりね……本当に」
懐かしい思いがこみ上げてきて、デイジーはつい微笑んだ。
デイジーは、絵画オタクだった。
幼い頃から絵が好きだった。
見るのも描くのも好きだった。
美術館や画集の色とりどりの絵。
それらはデイジーに人生の奥深さや美しさを教えてくれた。
稀代の天才レオナールの緻密な宗教画。
孤独な野生児ブエナレッティの肉体美。
優美な巨匠サンティックの完成された天使たち。
模写を見ては悦に入り、心を満たした。
哀しみ、喜び、怒り、楽しみ。
絵を描けば、自分の気持ちを表現することができた。
しかし、デイジーは、絵を描くことを、趣味としてしか捉えていなかった。
伯爵令嬢として育てられたデイジーは、絵を描くことで生きられるとは思っていなかった。
エドワードとの婚約が決まり、デイジーは絵を描くのをやめた。
自分なりのけじめだった。
婚約者としての3年間、デイジーはそれまでの己を殺して生きてきた。
いや、殺したものがよみがえるはずは無かった。
だけど今。
「描きたい」
正直な思いが口から零れた。
「描きたい。今、とてつもなく描きたい」
四半時後、別邸の『傷心のお嬢様のお部屋』付きとなったメイドがそっと扉を開けた。
エリーというそのメイドは、若手ながらにしっかりしている娘だったが、思わず持ってきたティーセットを床に投げ出しそうになった。
「お、お嬢様……?」
そこには心を病んだ儚げな傷心の令嬢は居なかった。
代わりに、一心不乱にキャンバスに向かってデッサンをする職人が一人、ちょっぴり猫背になりながら木炭を指で擦っていた。
*
それからのデイジーは、絵を描いて日々を過ごした。
もう王子の婚約者ではないのだから、しばらく好き勝手したっていいはずだ。
入浴は人として……と思ってしていたし、食事は気が向けば口にした。
「お嬢様! しっかりなさってください! 伯爵令嬢なのですよ!」
と、ドレスやらおしろいやら髪留めやらを持ってうろついていたエリーも、3日目辺りでようやく悟ったらしい。
(あ、これは無理だな)
と。
ある日、ふと気が付くと、目が覚めたデイジーは自分が小部屋にいることに気付いた。
床に昼の陽光が当たってちらちらと反射している。
目を開けると、絵が完成していた。
(あぁ……昨日、そうだ。色を塗りおえてそのまま寝てしまったんだ……)
ベッドに戻った記憶はないが、エリーが運んでくれたのだろう。
絵は陽光を受けてきらきらと輝いた。
王子よりも、いや、この国のどの美男子よりも美しい男を描いた。
流れる筋肉。野性味あふれる短髪。日焼けした体躯。
全身全霊をかけた推しキャラクターである。
どこの誰が何といったって、デイジーは満足感にあふれていた。
その瞬間、わだかまっていた気持ちが不思議とスッと消えて溶けていったのが分かった。
婚約破棄?
それが何?
もういいや。
デイジーは伸びをして、ベッドを降りた。
気付けばしばらく外に出ていない。
床を見れば油やらキャンバスの布地やら、木の破片、白墨、画集、食べかけの菓子やパン屑。
そして、古びた鏡に映った自分は……。
「ぷっ……あはははは」
髪はぼうぼうと伸び、爪は木炭で真っ黒。
顔は画材でところどころ汚れ、服は下働きのメイドでも着ないようなぼろを身にまとっていた。
「これはひどいわ」
ひとしきり自分の惨状を面白がっていると、部屋にエリーが入ってきて叫び声をあげた。
「お嬢様!」
「ああ、エリー。おはよう」
「っ……! お、お嬢様が……人間になってらっしゃる……!」
エリーは泣いていた。
どうやら、デイジーはここ数週間、物を食べるときと入浴するとき(「それだって時々になっていらしたんですよ」とエリーは後から泣いて付け足した)以外は物言わぬ獣のように黙々と筆を動かしていたらしい。
「湯浴みをいたしましょう……! 今のうちに、さあ、さあっ」
「そんなに急かさなくても大丈夫、ちゃんとご飯だって食べるしドレスも着るわ。ごめんね、エリー」
「お嬢様!」
感激するエリーを見ながら、これからはもう少しきちんと日常生活を送ろうとデイジーは思った。
「それにしても、いや、認めるのは複雑なのですが……お嬢様の絵は素晴らしいですね」
デイジーにドレスを着せながら、ふとエリーが言った。
「私はこんなに美しい人物を見たことがありませんよ」
「ありがとう、エリー。お世辞でも嬉しいわ」
「本心ですが……お嬢様は教室などに通われていたのですか?」
「いいえ。でも、本で描き方を読んだわ。それに、画集や模写もあったから」
推しの巨匠たちを真似た結果、自分の好きな絵の雰囲気や描き方、タッチ、世界観が似てきたなあとデイジーは感じていた。
「本当にすてきです。私は詳しくありませんが、広場にある壁絵のような雰囲気ですね」
「それは褒めすぎよ。でもあれはブエナレッティのフレスコ画だから嬉しいわ。私の好きな画家なの」
「お嬢様、あの……差し出がましくも、お願いがあるのですが」
と、エリーは珍しく言葉を切った。
「孤児院の壁画を?」
エリーの話を聞いたデイジーは驚いた。
「はい。私が幼少期にボランティアをしていた小さな孤児院なのですが……母共々、そこの院長先生にはお世話になっていて。最近、壁を新しく建て直したところ、子どもたちが怖がるようになってしまったと」
「あら、どうして?」
「それまではくすんだ黄色の壁だったのですが、予算の都合もあり灰色になったのです。暗いイメージがあるようで、子どもたちは嫌がっていると」
石畳や路地裏で暮らしていたような子どもも中にはいるのかもしれない。
灰色に囲まれる生活はあまり、好ましいものではないだろう。
デイジーは少し考えて言った。
「そこに、私が絵を描くってこと?」
「……いえ、出過ぎたことを申しました。お嬢様にそのようなことをさせるわけには」
「えっ! どうして!? 人生初の壁画よ! 正直やってみたいわ。でも、大丈夫かしら」
「お嬢様の絵の素晴らしさは私が保証いたします」
「ふふ、エリーってば私を調子に乗せるのがうまいわね。いいわ、やりましょう」
「本当ですか。ありがとうございます。院長に連絡するよう、母に申し伝えます」
と、いうことで、あれよあれよと日程が決まり、デイジーは孤児院に赴いた。
本物の貴族が来た、ということだけでも孤児院の子どもたちにとってはセンセーショナルな話題だったらしい。それは小さな子どもたちだけの、小さな家というような雰囲気の可愛らしい建物だった。
人数もそれほどいない小さな孤児院の子どもたちは全員出てきて、お姫様のようなお嬢様が登場するのを感嘆と拍手で迎えた。
「ふわぁ」
「きれー」
「おひめさまだあ」
「あのかべにおえかきするんだって」
「すごいね」
無垢な瞳が愛らしくて、デイジーは緊張も忘れて微笑んだ。
「さて、みなさん。どんな絵がいいかしら?」
「えーっとね、えーっとね、けぇき!」
「ぼくはうま。はやそうなやつ」
「いんちょうせんせいのおかお」
デイジーは子どもたちの意見を聞いてしばらく目を閉じて考えた。
そして目を開くと、『お姫様』のようなドレスの上から、孤児院の子どもたちよりも質素な布を首からすっぽりかぶる。デイジーは筆をとり、下絵もなしに描き始めた。
「わぁ……!」
「まほうみたいだよ」
子どもたちの歓声があがる。
灰色の無機質な壁に、優しげな修道女が描かれた。
彼女の手には、小ぶりの菓子を持たせる。
「けぇきだー! いんちょうせんせいがけぇきもってる」
「たべるのかな」
「あっ、うまだ」
反対側には葦毛の馬を描く。
そして、その上には馬にふさわしい乗り手を描く。
手綱を握る若い美男子、それも筋骨隆々でないといけない、貴族っぽい高飛車な様子ではなく、あくまでも生命力あふれるように、でも粗野にはならないように……。
「おとこのひとだ」
「おうじさまだ」
「きれー」
「すごい、きんにくむきむき」
「これ、ほんとにかべ? まほうのいたじゃなくて?」
口々に言う子どもたちの会話が心地よい。
子どもたちはまだまだ見たりない様子だったけれど、
「ほら、お邪魔になりますから、そろそろあなたたちはお昼寝をしましょうね」
院長先生が全員回収して連れて行った。
デイジーは最後の仕上げに取りかかる。
「……完成!」
額に絵の具をつけながら、デイジーは満足げに微笑んだ。
昼寝から起きてきた子どもたちが叫んだ。
「わあー!」
馬に乗る男の背には大きな羽を。
その周りには最後の仕上げに男の子と女の子の天使を描いた。
修道女、大天使、小天使たち。
「かわいい」
「てんしさまだ」
「いんちょうせんせいがおはなししてくれるやつ」
「こんなおかおだったんだね」
「ちいさいのかわいいね」
「おおきなてんしさま、かっこいい」
院長先生がデイジーの近くにやってきて言った。
「……本当に、なんとお礼を言えばいいのか分かりません。こんなにすてきな絵を描いていただいて、ありがとうございます」
「いいえ、私も楽しい経験でした」
「こんなに素晴らしいものに対して少なすぎますね。申し訳ありません」
と、手に銀貨を握らせようとする院長をデイジーは驚いて止めた。
「えっ!? お金は要りません」
「貴族のお嬢様にここまでして頂いて、そんなわけには」
「ボランティアです!」
院長先生は食い下がった。
「失礼ながら、私も初めはそう思っておりました。ですが、これは貴族のお嬢様の慈善事業の域を超えています。芸術です」
年を重ねた院長先生に言われると、じわじわと照れくささが込み上がってくる。
デイジーは(そんな……およしになって)と言いたいのをこらえながら、鼻の下を絵の具だらけの指でこすった。
「芸術には対価がないといけません。この壁画で子どもたちは毎日楽しい気持ちで暮らせるでしょう。天使さまの存在を身近に感じられるようになりました、あの幼い子どもたちが……これは少ないですが、私たちにできるせいいっぱいの礼儀でもあるのです。どうか受け取って下さい」
デイジーは考えた。
この銀貨一枚で、あの男の子が願っていたケーキを買ってあげることはできるだろう。
だけどもっと別の使い道があるかもしれない。
「分かりました」
と、ついにデイジーは言った。
「これは仕事の対価としてありがたく頂きます。そして、院長先生」
「ええ、なんでしょうか」
「私、この子たちの中から、もちろん希望する子に……絵を教えましょうか」
驚く院長先生に、あわててデイジーは付け足した。
「もちろん画材や物の準備は私が行います。こちらでは場所を準備していただければいいです」
「……ですが、」
「報酬はいりません。貴族が孤児院の子どもたちに何かを教えるのはよくある慈善事業ですよね?」
といっても、普通は裁縫だとか料理だとか洗濯だとか、本を読んでやったりするくらいのものだ。
基本的には読み書き計算は院長が教えている。
だったら、自分にできるのは――。
そう考えてデイジーが出した結論だった。
銀貨一枚あれば、ここにいる全員の分の教材を準備できる。
そして運の良い子どもはもしかしたら将来、ここにある銀貨一枚を金貨にすることができるかもしれない。
そうやって、デイジーの絵画教室が開かれることになったのだった。
デイジーの教室は人気だった。
もちろん孤児院の子どもたちは全員参加した。
魔法の技を教えてもらえる! と子どもたちは先をあらそうように絵を学んだ。
「でいじーさま、ぼくけぇきのえをかけるようになった」
と、ケーキの少年は嬉しそうに報告した。
「あら、上手に描けるようになったわね」
この子は後に、デイジーの工房の一番弟子となるメルティとなる。
彼は後に、この時のデイジーの一言が自身の一生を決定づけたと振り返った。
*
そんなある日、デイジーは、院長先生のつてで修道院への招待状を貰った。
新たな壁画をお披露目する完成会である。
巨匠ブエナレッティの壁画は、想像以上だった。
礼拝堂の天井画は、この世界の始まりの物語を描いたものであった。
壮大なスケール。
細部まで精巧に描かれた人物像。
死と復活の表現。
デイジーはそこで壁画を見るうちに、自分が壁になってしまうような不思議な感覚になっていた。
(ああ……幸せ……)
恍惚として上を見上げるデイジーは、気付かなかった。
傍にもう一人、ぼうっとして上を見続けている紳士がいることを。
「あいたっ」
「わっ」
デイジーの後頭部の金の巻き毛は、長身の紳士の金ボタンにひっかかっていた。
「申し訳ありません、すぐにとりますからもう少しお待ちくださいね」
低音のはりのある声がデイジーの鼓膜を揺らした。
髪がほどかれると同時にデイジーは紳士に頭を下げた。
「すみません、気付かずに」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」
紳士は、デイジーに微笑んだ。
デイジーは、紳士の笑顔に目を奪われた。
よく見ると紳士は、とても――
とても綺麗な人だった。
(この人もブエナレッティのフレスコ画を見に来たのだわ)
デイジーは、紳士をじっと見つめた。
地味ではあるが仕立ての良い服を着ている。
立ち居振る舞いが堂々としているのを見ると、伝統のある貴族なのだろう。
紳士は、デイジーを見つめ返した。
デイジーと紳士は、しばらく見つめ合っていた。
(もしかして)
という思いがふくらんだデイジーはそっと質問をしてみた。
「あの……ブエナレッティ、お好きなのですか」
紳士の表情を、その返答を、デイジーはかたずをのんで見守った。
「……好き、ですね。特にあの、『筋肉』の描き方が」
デイジーは、まるで頭に雷が落ちたようだと思った。
画家本人の奔放な生き様や、あるいはモデルの表情の美しさを取りざたされることの多いのに、この人は核心をついている。
予感が九割九分九厘の確信に変わる。
「『筋肉』、良いですよね。それこそが巨匠と申しますか」
と、デイジーの軽いジャブに
「ええ、分かります。彗星の如くデビューした最初の作品も良かったですが」
と紳士が返す。
同類の勘で、相手も自分と同じ胸の高鳴りを感じているのだとデイジーは悟った。
「ミノタウロスの戦いですね?」
と、デイジーは万感の思いをこめて言った。
紳士が深く頷く。
ああ、とうとう巡り会えた。
もうこれは運命だ。
「あなたのお名前は?」
紳士がデイジーに尋ねた。
「デイジーです」
デイジーは、紳士に答えた。
もうそれで十分だった。
「私は、リアムです」
と紳士は自己紹介した。
デイジーとリアムは近くのカフェに入り、ブエナレッティについての熱い思いを語り合った。
どうやらリアムというこの優美な紳士も、ブエナレッティの熱心なファンのようだ。
パトロンになりたい、金を貢ぎたい、自分の金がブエナレッティの口に入るパンになるのならば本望だという本音を、オブラートに包みながら吐露する紳士に、デイジーは首がもげるほど頷いた。
「本当にあの生命力あふれる筋肉は唯一無二ですわね」
「そう思えば称えるべきは神でなくいっそあの方なのではないかと思えてくるのですよ」
「あら、不敬ですわ。でも私も同じ気持ちですけれど……」
「今日は素晴らしい、最高の絵を見た日にあなたという方と出会えた」
「ええ、わたくしも同じ気持ちです」
はたから見れば、美しく着飾った令嬢と高貴で優美な紳士が甘く愛を語り合っている場面だった。
しかし、愛は愛でも『推し』への愛、『神絵師ブエナレッティ』への愛である。
そして、本物勢が運命的に巡り会ったが最後、そこは交歓と議論と賞賛と礼拝が同時に進行する、極めて特殊な場所になる……。
「ところでデイジー嬢。ブエナレッティの他にはお好きな画家はいらっしゃるのかな?」
リアムは白磁のような指をからめてティーカップを傾ける。
長い睫毛にふちどられた瞳は期待一色だ。
普通の令嬢であれば、リアムの優美な仕草や美しい顔かたちに見とれて言葉を忘れていたかもしれない。
だけど、デイジーは違った。
その質問に『待ってました』とばかりに答えられなければ本物ではない。
「レオナールなどの巨匠たちはもちろん敬愛しております」
と、こころなしか早口でデイジーは言った。
「ほうほう。それはそうですね、いや、あなたならもちろん」
「が、そうですね、やはり今気になっているものとしてはサンティックですね」
「あああ、そこにいきますか! 天使の描き方が秀逸ですよね」
「ええもちろん以前の技法が優れていることも理解できます、ただ……」
「抒情詩のようなノスタルジック」
「ああ! まさにその通りです」
「サンティックといえば、あの作品はどう感じましたか。三作目にして最高と称された……」
気付けば日が暮れそうになっていた。
リアムとデイジーはまた来週もここで会うことを約束し、別れた。
こうして、デイジーは偶然にも、いや、運命的に良き相方を手に入れたのだった。
*
その頃エドワードは、デイジーとの婚約破棄をきっかけに、王国内での信頼を失っていた。
「なぜですか、父上! 僕とミシャが結婚できないとは!?」
「くどい。先ほど話しただろう」
王は冷たく息子を突き放した。
「王族の婚姻は私情で行うものではない。ミシャ嬢がこの国のためになるとはどうしても判断できん」
「ミシャは魅力的な女性です!」
「そういうことを言っているのではない。お前は王族として生まれ、王族として生きてきた。何のための血税だ? 何のための王族なのだ? この国を発展させるために生きられなければ、王族としての意味はあるまい。エドワード、お前はこの国随一の資産を保有するダーモント伯爵家との縁談を私に無断で断り、あろうことか公衆の面前でデイジー嬢に恥をかかせた」
「しかしそれはデイジーがミシャに愚かにも嫌がらせをしたからです」
「それが真実だと証言する者は?」
「ミシャが言っておりました!」
「……愚かだな。あまりにも愚かだ、息子よ。それが虚言であるとなぜ気が付かなかった」
「そんな! ミシャが嘘をつくなど」
「私も調査をしたが証言を名乗り出る者は一人も居なかった。デイジー嬢との婚約を破棄したお前のせいで、どんなことが起こったか分かるか? 怒ったダーモント伯爵は、国との取引を停止すると言ってきた。ダーモント家は今や物流の頂点だ。各国の輸入品があそこに集まるのだ。伯爵は国民のため、国が豊かになるためと、これまで利益を度外視した取引をしてきてくれた。だが、お前のしでかしたことのせいで全てがぶちこわされた。私や大臣はお前の後始末にこれから何日、いや、何ヶ月もかかるだろう」
エドワードは絶句した。
王は淡々と宣告した。
「エドワード第三王子。お前とミシャ嬢との婚姻を認めることはできん。どうしてもというなら、王族の身分を捨て、どこなりと行くがいい。それが父親である私がお前にできる最後の情けだ」
エドワードは、ミシャに夢中になっていた。
彼女の天真爛漫さ、かわいらしさ、優しさ、気立てに魅了された。
結婚したい。
「ミシャ。僕が王族じゃなくても、僕を愛してくれるか?」
「……もちろんですわ」
ミシャはプロポーズの言葉を囁く、元・第三王子を抱きしめた。
そして、そのときが彼らの愛の絶頂だった。
エドワードは、ミシャを抱えて国外へ駆け落ちした。
平民であれば、一生遊んで暮らせるだけの金を王から貰い、新居の費用さえもあてがわれた。
初めのうち、二人は幸せな結婚生活を送った。
しかし、使えば金は減る。
ミシャは貴族的な生活を捨てられなかった。
着ていく先がなくてもミシャは豪華なドレスを欲しがった。
高級な菓子。意匠の施された美術品のような皿。
そういうものがない生活にミシャは、耐えきれなかった。
ある日、ミシャは家を出た。
金がなくなると共に王子への愛が日々日々冷めていった。
家事もできない、感謝もできない、自分をかわいがってもくれない男を誰が世話をしたいと思うだろう?
これならまだ実家のボロの男爵家の方がましだった。
エドワードは、ミシャがいなくなったことで、人生の意味を見失った。
彼は、酒と堕落に溺れ、平民として一人小さな家で生きていくことになる。
こうして第三王子エドワードは凋落した。
*
デイジーとリアムの逢瀬が続いた。
お互いがそれなりに身分のある者だということは言わなくても理解できた。
修道院の公開式に招待状を持ってやってくるのは、修道士でなければ貴族でしかない。
しかし、デイジーにもリアムにも分かっていた。
仮にお互いが名も無い男爵、いや、平民だとしても、仲良くなったに違いない。
推しジャンルが同じというのは、それだけで魂友たりえるのである。
さらには同じ熱量で、語り合える存在というのは希有だ。
カフェでの語り合いは次第に、場所を変えて行われた。
ときには美術館。
ときには博物館。
ときには絵画にちなんだ場所、たとえば山際や湖の畔。
そして、観劇。
デイジーが最近はまっている新人画家ドルーア。
その踊り子の絵が最高なのだという話になった。
珍しくリアムは話にのってこなかった。
変に照れていたので、踊り子への免疫がないのかと思いきや、踊り子自体にはものすごく食いついてくるのだった。好事家にも個性があるので、デイジーは深く追求しない。すみわけが大切なときもあるのだ。
なんやかんやで
「観に行きましょう」
と盛り上がってしまった。
その結果だった。
当日、ドレスアップしたデイジーをエスコートしたリアムは、完璧だった。
いつも帽子で目元をかくしぎみのリアムは、それでも時折見せる視線が優美だったのだが、この日は別格だった。一目で上質と分かる服を着ているのはいつもと変わりなかったが、普段着ではなく観劇用の装いで、袖やボタンなどの細かいところが凝ったリアムにしては華美な仕立てだった。それが、リアムの隠しきれない優美さと相まって、『どこからどう見ても貴族』という近付きがたい高貴さがにじみ出ていた。
リアムの方でもデイジーを見て驚いていた。
「……」
「あの? リアム?」
「っ……すまない。踊り子を忘れて、その……デイジーがあまりにいつもと違うというか、雰囲気が」
「あ、これは……! 踊り子に失礼のないように、聖地を汚さないようにという私なりの正装なんだけど……少し、頑張りすぎたかも」
「いえ! いえ、そんなことは……ああ、ごめん、そういうつもりじゃなかった。あの、君が……あまりに美しかったので」
「ええ!? あ、ありがとうございます」
と、もじもじするデイジーだった。
普段は絵の具が付くからとぼろきれを好んで着ているデイジーなのだが、ドルーアの『聖地』に赴くならばと一念発起して、エリーの手を借りながらドレスアップして装ったのだ。
腐っても資産家の伯爵令嬢なので、宝石も格式高いドレスもその気になればいくらでも手に入る。
今回は白の妖精のような踊り子たちに敬意を表したいと考えて、漆黒の濡れ羽色のドレスに黒真珠をあしらったものにした。宝石は大ぶりの物を1つだけ着ける。こうすると格式の高い場所でも見劣りしないのだ。
(良い劇場は良い観客から!)
と、いうことで少しでも客層の良さに貢献したいと奮闘した結果だった。
もちろん、観劇の邪魔にならないように、髪は下の方でまとめている。
普段、美術館やカフェに行くときは、平民が多い中でもそれほど目立たないように、作品や場所の雰囲気を壊さないようにと、華美なドレスや宝石の類いは控えていた。
ただ、今日は観劇とあって、貴族が集う場所だ。
ドルーアの絵画によって突き動かされて赴くのだから、半ばドルーアの魂に会いに行くような物である。
ドルーアに失礼があってはならないのだ。
リアムは女性をものすごく上手にエスコートした。
(慣れているわ、とても)
デイジーも王妃教育を受けているうちに、数々の男性スタッフや教師にエスコートされて慣れたわけだが、実践されるのはほとんど初めてだ。
となると、ふと疑念がよぎる。
「あの、リアムは……既婚者ではないわよね」
リアムが盛大に噴き出した。
「はは、ありえないよ……恋人の有無を聞かれたことはあるけど、既婚を疑われたのは初めてだ」
「だって、あまりにエスコートが上手だから」
「それを言うならデイジー、君だって慣れている」
「あら? 私は初めてよ。お父様やお兄様以外の男性にエスコートされてお出かけするのは」
思えばエドワードとは出かけなかった。
こうして語り合ったりも一度もしなかった。
絵画オタクを隠して、自分を殺して生きた年月は意味が無いと思っていた。
でも、こうしてリアムと出かけられたのだから、あの厳しい王妃教育の日々も無駄じゃなかったのかもしれない。
「リアムはどうか分からないけど、私、ドルーアの絵がすごく好きなの。あの人は天才だと思うわ」
「……そうなんだね」
前を向いていたデイジーは、リアムの頬がほんのり赤く染まっていることには気付かなかった。
リアムは当然のように関係者席に座った。
センターど真ん中のものすごく良い席だ。
しかも慣れている。
何回も通っていたに違いない。
「お久しぶりです、リアム様」
話しかけてくる人が何人いたことだろう。
「そちらは……?」
と尋ねてデイジーに微笑む紳士淑女へ、リアムは
「野暮ですよ」
とにっこりしていなした。
「すまないね。僕とカップルに見られるのは不本意かもしれないけど、踊り子のためにちょっと我慢して」
と、リアムは小声で謝った。
「いえ、別に嫌では」
「え?」
「あっ、始まります」
劇場が暗くなる。
そして、劇が始まった。
「最ッ高……だった……」
デイジーが泣く。
「まさに、天使だった……」
リアムが脱力する。
「あの踊り子が、ドルーアの踊り子が目の前にいた……」
「天使が微笑みかけてた……」
リアムが迎えに寄越した馬車の中で、オタク二人は語り合っていた。
関係者以外が聞くと意味が分からない会話なのだが、オタク令嬢とオタク令息は以心伝心だった。
「見えたわ、ドルーアの筆致が。ドルーアの絵が動いてた」
「ああ、何度見てもいいものだ、踊り子は」
「実写ってすごいわ……」
「どれだけ筆を動かしても、あの踊り子の本物を前にしたら、何も無くなってしまう」
「劇の最中に失敗した子がいたわ。それをセンターの踊り子が助けたの」
「第三幕だろう!? 素晴らしかった、確かあの子はデビューしたての頃から苦境に弱くて……」
興奮冷めやらないまま馬車は走った。
「今度はドルーアの絵をオマージュした壁画を描いてみたいわ」
「壁画!? デイジーは絵を描くのか!?」
「え……あ、あぁ、そうね……うん、少し……頼まれて孤児院に描いたの」
「すごいな。……実は、僕も絵を描くんだ」
「そうなの!? 今度見せて頂戴! ぜひ見せて頂戴!」
「いや、でもあまり身内にも見せたことはないし、いつもは画商に任せきりだから、恥ずかしいな……」
「画商? 商業なんてすごいわ! じゃあ見せあいっこしましょう! それならいいでしょう」
「うーん。そうだな、デイジー先生になら、いいかな」
「なんで先生なのよ!?」
「壁画を描くなんて先生じゃないか」
「ちょっと、ほんとにやめてよ。ものすごく緊張したんだから」
広場にさしかかった辺りで、リアムが言った。
「そういえば、どこまで送ればいいかな」
デイジーは少し躊躇した。
広場で下ろしてもらうこともできる。
が、すぐにデイジーは言った。
「ダーモント伯爵の別邸まで。私、そこの娘なの」
リアムは驚いたようだった。
御者に指示を出して、デイジーをじっと見た。
「あなたはダーモントの令嬢だったんだね」
「ええ。ごめんなさい、黙っていて。だけど、私、あなたがどんな身分だったとしても、きっとあなたとお友達になったと思うの。それにリアムもそう思ってくれてるって……ちがう?」
「ちがわないよ」
「私の家は伯爵だし、きっとあなたも知ってるけど、言い方は悪いけど成金の資産家よ。いろいろ言う人もいるし、それに私、婚約破棄されてるの。第三王子に婚約破棄されたのよ」
リアムは、心底驚いて、それを飲み込んだようだった。
黙って頷いていたけれど、嫌な雰囲気ではなかった。
「婚約者として、誓って自分に悪い点はなかったって言える。でも、私は絵画には入れあげてるし、本当はこんなどうしようもない好事家なの。絵画狂いなの。それを隠してた報いかもしれないわ」
デイジーは微笑んだ。
「でも、あなたに出会えて良かった。絵画を好きでいて良かった。ありがとう、私とお友達でいてくれて。あなたがもし嫌じゃなかったら、これからも仲良くしてください」
リアムはなんともいえない表情をしていた。
「リアム?」
「デイジー。さっきの答えだけど、もちろんこれからも『仲良く』してほしい」
「あれ、ちょっと待ってリアム。こっちは私の家の方じゃないわ」
「さっき、誰にも絵を見せたことがないって言ってただろう。少し遠回りをしていこうよ、僕の家に寄って」
「あら! いいの? それはすてきだわ」
「ねぇ、デイジー。『どんな身分でも』僕と友だちになったって言ったよね。あの言葉嬉しかったよ」
リアムは邪心が無さそうに、にっこり笑う。
デイジーはあたたかな気分になってほほえみ返した。
「もちろんよ、リアム。あなたが『どんな身分』でも関係ないわ。こんなに絵の話ができるなんて、私、あなたの婚約者になる方がうらやましい」
「それなんだけど、デイジー。建前だけでいいから、僕の婚約者になってくれないか?」
「えっ!?」
馬車が揺れた。
デイジーは目の前の、宝石のようにきらめく絵画から抜け出てきたような優美な男を見た。
「僕も年頃でね。毎日のように見合いだなんだってうるさくてさ。だったらいっそ、君が僕の婚約者になってくれたら」
「でも、そんな急に」
「だめかな? ……見合いなんかしてる時間が空いたら、デイジーとこうやって観劇したり美術品を見にいって語り合ったりできたらすてきだと思ったんだけど」
良い思いつきを却下された小さな子どものような顔をする。
(天使に酷いことができる淑女なんていないのに、ずるいわ)
と、デイジーは思った。
そして、その思いつきは確かにすてきそのものだった。
「あなたはいいの? 私が婚約者で」
「いい。デイジーがいいんだ」
じっと見つめてくる瞳に吸い込まれそうになる。
デイジーは静かに深呼吸をして、心を決めた。
「分かったわ」
「ほんと!? やった!」
リアムはデイジーの手を握った。
男慣れしていないデイジーはヒュッと声が出そうになるのをこらえる。
リアムはすぐにパッと手を離して、こう言った。
「じゃあ、とりあえず父上には婚約者を見つけたって話をするね。ありがとう、デイジー。言質がとれて良かった。一生大事にするね」
「え」
「ああ、もう着いた」
「ここって……」
良い笑顔で馬車を降りたリアムは、うやうやしくデイジーをエスコートした。
「ごめん、言ってなかったんだけどね、デイジー。僕、ここんちの長男なんだ」
ここんち、と言って馬車から降ろされたその先は、いつかのガーデンパーティーと同じ、あの庭だった。
夢見心地で離宮へと案内されたデイジーは、今度は本当に息が止まった。
「ドルーアの絵、信じられないくらいたくさんあるんだけど……どれから見たい?」
リアム第一王子、いや、若手画家ドルーアその人は、絵の具だらけのその屋敷で優美に微笑んだ。
世捨て人と名高かったリアム第一王子が、デイジー・ダーモントに陥落させられたという噂はたちまち国中を駆け巡った。
孤児院への慈善活動をしていたデイジーの評判は平民には非常に良かった。
言いがかりで婚約破棄をされた悲劇の令嬢が、本当の王子に見初められたというドラマチックな展開は、平民にも貴族にも関係なく受け入れられ、戯曲にもなった。
何よりも、一番喜んだのは王だった。
外界と隔絶し、王宮からほとんど出なかったリアム第一王子が賢くも美しく成長して、世間にその姿を見せたことに、父王は泣いた。
ダーモント家も喜んで王家との交流を回復させた。
リアム王子が演説の後、国民に向かって振る手はいつも優美だった。
が、いつも最前列に陣取る熱烈な支持者は、
「時折、染まったような汚れがついていた」
と証言した。
汚れることもいとわず、国のために働く王子は民に好意的に受け入れられた。
そして、ダーモント家別邸をアトリエの中心として、デイジー派という集団が形成され、デイジーとその弟子たちは絵画史に名を残すことになる。
芸術に秀でた美しい王妃を民は歓迎し、生涯愛し続けた。
デイジーの画は王宮の宝物庫にも飾られたが、そのほとんどは名も無い街や王宮の壁、小さな教会など街の至る所にあった。
若手画家、ドルーアは生涯画壇に姿を現さなかった。
彼は踊り子の絵で一世を風靡したが、リアム第一王子の即位式辺りからは、制作のペースがめっきり落ちた。
時折、王家の家族の姿の小さな肖像画が世間に流れてきたので、王家がパトロンについたのではないかと人々は噂した。王妃の肖像画があまりにも慈愛にあふれたものだったので、世間はドルーアがデイジー王妃に叶わぬ恋心を持っているのではないかと邪推した。
それを知ってか知らずか、リアム国王は余裕ある笑みを崩すことは無かった。
彼は生涯にわたって王妃を愛し、王妃は王との間に八人の子をもうけたのだった。
END