「君を愛することはできない」と妻に言ってしまった侯爵の後悔
「つまり、侯爵様はこうおっしゃいたいのですね。わたくしと子を作るつもりはない、と」
ヴォルフズ侯爵領での華やかな結婚式後の初夜。
花嫁であるヴィオレッタはベッドに座りながら、エルネスト・ヴォルフズを見つめる。
エルネストは寝室のドアの前から動かないまま、ヴィオレッタを見下ろした。
「そのとおりだ。ふしだらな君を愛することはできない」
これ以上なくはっきりと決意を告げる。
ヴィオレッタはつまらなそうな顔をして、ふぅ、と小さくため息をつく。月の光を紡いだかのような銀色の髪がさらりと揺れる。
「ですから、三年たてば離縁しましょうと言っているのに、それも嫌」
「…………」
「わたくしの莫大な持参金を返せませんものね?」
ヴィオレッタは口元に笑みを湛え、エルネストを見上げた。
――この結婚は契約だ。
ヴィオレッタの父であるレイヴンズ子爵は、侯爵家と縁を繋げることを望んだ。
そして悪名高い娘を早々に片づけたがっていた。男好きで、恋人を何人も抱えていて、とにかく自由で奔放な娘を。
そして自分は――侯爵家は、莫大な持参金が欲しかった。
この地は広大だが、痩せている。
ほとんど毎年繰り返される不作のせいで、税収も乏しく、はっきりいって金がない。
若くして侯爵を継いだエルネストが、領地や先祖代々の美術品、鉱山を担保にして金を借りて何とか食いつないでいる状態で、借金まみれである。
双方の利害が一致し、この結婚は成立した。
だからこそエルネストは、悪名まみれの毒婦であるヴィオレッタを妻とした。
ヴィオレッタはくすりと笑った。
男遊びの噂が絶えない彼女は、エルネストが予想していたよりも美しい。可愛らしさもある。だが、その性格はエルネストのもっとも忌避するタイプのものだ。
「随分と虫のいい話ですね。ですが、そちらの事情は少しはわかっているつもりです」
ヴィオレッタは紫の瞳でエルネストを見つめる。
「ですから離縁はしません。ですが、この地でのわたくしの自由を保障してください。それぐらいよろしいでしょう?」
「構わない。何人でも愛人をつくればいい」
この結婚は、契約だ。
契約だからこそ、相手を尊重しなければならない。
愛することはできないが、それ以外の部分では最大限譲歩するつもりだ。
――もちろん、本心では妻が愛人を持つことなど望んでいない。
だが、言ってしまった。
言った言葉を撤回するなどという情けないことができるはずがない。
「ありがとうございます、侯爵様。……ああ、いけませんね。もう夫婦なのですから……ところで旦那様、明日のご予定は?」
「……早朝、王都に発つ」
「慌ただしいこと。お忙しいですのね。それでは、今日はゆっくりとお休みください」
ヴィオレッタは立ち上がってローブを羽織ると、エルネストの隣を素通りして寝室を出た。
◆◆◆
結婚式後、エルネストは領地から王都に戻った。
ヴィオレッタの持参金で金融機関や商人への借金返済はできた。
だがこのままでは遠くない未来に、再び借金地獄に引きずり込まれる。
城での仕事をしながら次の金策に頭を悩ませていると、友人であり伯爵位を持つローランドが顔を出す。
「どうだい、新婚生活は」
「聞くな」
新婚生活なんてものは微塵も存在しない。
ローランドは軽薄に笑う。
「結婚したばかりだってのに、新妻を領地にほったらかして仕事だなんて、どうかしてるね」
苦笑するローランドの表情が、一瞬だけ引き締まる。
「それにしても、とんでもない女性と結婚したもんだ」
からかうと言うより、賞賛するような響きを含んでいた。
「どういう意味だ」
「いずれわかるさ」
意味ありげなことを言って、ローランドは去っていく。エルネストは不思議に思いながらも、深く追及はしなかった。
◆◆◆
そして、あっという間に一年が経過する。
借金という名の重圧、複雑な政治交渉、そして新たな金策の模索が日々を埋め尽くし、時折、妻ヴィオレッタの面影が脳裏をかすめるも、すぐに雑務に呑み込まれていった。
領地に帰るのは憂鬱だったが、帰らざるをえない。
戻る準備をしているときに、領地からの報告が届く。
それは来年の税収見込みが大幅にアップしたという知らせだった。
領地に到着したエルネストが見たものは、想像を絶する光景だった。
「これは……どういうことだ」
目の前に広がる大地では、黄金の穂が豊かに揺れていた。
力強い緑が風に揺れ、そこで働く農夫たちは活力と希望に満ち溢れていた。
夢を見ているのかもしれない。
エルネストは、こんな豊かな実りの故郷は知らない。
「おかえりなさいませ、旦那様」
声に振り返ると、農民のような格好をしたヴィオレッタが立っていた。
「ヴィオレッタ……」
「約束通り、好きにさせていただきましたわ」
ヴィオレッタは動きやすさを重視した質素な麻のドレスを着ていた。
手は泥だらけで、顔にも少し土がついている。
紫の瞳は明るく輝き、自信に溢れていた。
まるで、この豊饒の大地が彼女自身の一部であるかのようだ。
ヴィオレッタは彼を見つめたまま、にっこりと微笑む。その笑顔は温かく、そして何よりも満足そうだった。
「具体的にはまず土壌改良ですね。貝殻と海藻の肥料です。この地は海に面していますから、安価で取れますからね。土を耕すために牛も増やしました。ご安心を。初期投資はわたくしの財産の方から出しましたから」
にこにこと、嬉しげに話す。
「あの場所には大麦、こちらの場所には小麦、あそこはイモ、そちらは牧草。このサイクルで一年ごとにつくるものを替えることで、無駄な土地がなくなりますし、地力回復に有効なのです」
あちこちを指さしながら楽しそうに続ける。
「イモは冬の保存食にも、牛のエサにも使えます。乳の味が良くなりますし、何より収穫するときに土を深く耕せるのが魅力的です。収穫の時は手間がかかってしまいますが、土の中で長く保存できますし」
「――少し待ってくれ。その報告は後で詳しく聞く」
そのとき、エルネストの背後から誰かが近づいてくる。
「――ヴィオレッタ……」
それは黒い外套を纏った、異様な雰囲気の男だった。
若い男だった。無精髭を生やし、目が暗い。そして、馴れ馴れしくエルネストの妻の名前を呼ぶ。
「あら、どちら様でしょうか。この土地のひとではありませんわよね」
ヴィオレッタも知らないようだ。その反応はとても演技には見えない。
そのことに、わずかに安堵する。
「僕を捨てて勝手に結婚するなんて……よくも僕を弄んだな!」
男は持っていた剣を抜き、ヴィオレッタに向かって進みだした。
エルネストは一瞬硬直し、しかしすぐに激しい怒りに突き動かされて自分の剣を抜いた。
「何者だ、お前! 我が妻に何をするつもりだ!」
「ヴィオレッタは僕のものだ――!」
「あのー、確かにわたくしはヴィオレッタですが、あなたのお探しの方ではないと思います。ほら、よく見てください」
ヴィオレッタののんびりとした声が農地に響く。
激昂していた男はヴィオレッタを睨み――そして、ぴたりと動きを止めた。
その体勢のまま、ヴィオレッタをまじまじと見る。
「……誰だ?」
「ヴィオレッタです」
「――違う!! 僕のヴィオレッタはもっと儚くて……何より全然別人だ!」
「やっぱり、妹にご用事ですか」
驚いた素振りもなくヴィオレッタは言う。
その言葉にエルネストの方が驚いた。
「……妹?」
男から視線を外さないまま、ヴィオレッタに問う。もちろん妹がいることは知っているが。
ヴィオレッタは困ったように微笑んだ。
「はい。妹のルシアです。あの子ったら、昔から外でわたくしの名前をあちこちで使っているみたいでして」
――暴漢はそのまま大人しく捕まった。
男は「ヴィオレッタ」の恋人で、将来を誓い合っていたそうだが、「ヴィオレッタ」が勝手に結婚して侯爵領に行ってしまった。傷つき、恨み、復讐の機会を狙っていたのだが、その「ヴィオレッタ」が別人だったことに、完全に意気消沈してしまったようだった。
◆◆◆
――レイヴンズ子爵家には娘が二人いた。
姉であるヴィオレッタ。
妹であるルシア。
――ヴィオレッタ曰く。
自分は昔から農業に興味があって、各地の農業書を取り寄せたり、庭や領地の一部で色々実験をしていた。社交界にはほとんど出席せずに。
妹のルシアはその逆。虫が大嫌いで、おしゃれや都会的なことが大好きだった。
ある時からルシアはヴィオレッタの名前を使って遊ぶようになった。
ヴィオレッタ自身は舞踏会に出るよりも土に触れる方が楽しかったし、特に実害もないので放っておいた。
ヴィオレッタが侯爵家に嫁いでからは、流石にルシアも姉の名前を使うのはやめたようだ。
「わたくし、この地に嫁いできたとき、大変感動したんです。なんて、耕しがいのある土地でしょうと。皆様もとても親切にしてくださって、大変農業がはかどりました」
この一年、様々なことがあったらしい。
「でもまだまだ問題は山積みです。三年の間に、もっと成果を出してみせますから」
「三年?」
その数字に嫌な予感がする。
初夜でヴィオレッタは三年で離縁しましょうと言った。
もしかするとヴィオレッタは、まだそのつもりなのかもしれない。持参金分以上を稼げれば、離縁をためらう理由はないと言い出しかねない。
それはエルネストにとって理想的な展開のはずだった。
だが、この胸の痛みはなんだろう。
後悔、申し訳なさ、自分に対する腹立たしさ。それだけではない。
ヴィオレッタへの、感情。
言葉にしなかった感情。
エルネストは認める。
ヴィオレッタに一目惚れしていたことを。
いまはもっと深く、彼女に惹かれていることを。
初夜に酷いことを言ったのは、顔も知らない男たちへの嫉妬心からだ。怒りからだ。男としてのプライドからだ。
言うべきではなかった。
惹かれるままに、素直に、ヴィオレッタに愛を告げていればよかった。過去なんてものを気にせず。
だが、それができなかったのがエルネスト・ヴォルフズという男だ。
「――ヴィオレッタ、すまなかった」
「旦那様? いかがなさいました?」
ヴィオレッタは不思議そうな顔をする。
エルネストは腹をくくった。
いまこの瞬間からは、もう間違えないと。
「噂を頭から信じて、ちゃんと調査もせずに、君に酷いことを言ってしまった。妻として扱わなかった。……許してくれなんて、虫のいいことは言えない」
「…………」
「君に謝罪したい。私はとてつもない罪を犯してしまった」
いまなら、ローランドの表情の意味がわかる。
貴族の中でも真実を知るものはいた。ヴィオレッタの本当の姿を、価値を知るものはいた。
だが自分は。
真実を知ろうともせず、持参金に目がくらんで、結婚までして、それでも真実を知ろうとせずに、酷いことを言ってしまった。
「――旦那様、顔を上げてください」
ヴィオレッタの美しい声が悲しげに響く。
「噂を放置してしまったのは、わたくしにも責任があります。噂のせいで、旦那様には大変な迷惑をおかけしてしまったと思います」
ヴィオレッタの紫の瞳が柔らかに微笑む。
「それに、旦那様は約束を守ってくださいましたわ。この地での自由を」
「それは――約束したからな」
何をしたとしても、エルネストが責任を取るつもりだった。
家の者には妻を自由にさせるようにとよく言っていた。
エルネスト自身は一年間も放置してしまったが。
「――今後は、君の名誉回復に努めたい」
あの暴漢は、ヴィオレッタの無実への証人となる。
エルネストがその気になれば、証拠を集め、ヴィオレッタの名誉を回復させることは可能だろう。
「わかりました。侯爵家にとっても、大事なことですものね。ですが、お手柔らかにお願いします」
ヴィオレッタは困ったような顔をする。
「やはり、わたくしにも責任がありますし……それよりも、この地をもっともっと豊かにして皆を幸せにすることが、わたくしたちの使命ですから」
誇らしげに語る未来に、エルネストは高揚した。
この地で自分と共に生きると言ってくれることが、嬉しかった。
――この結婚は、契約だ。
エルネストは密かに契約事項を付け加える。
ヴィオレッタの名誉を回復すること。
ヴィオレッタを誰よりも幸せにすること。
そして、彼女ひとりを愛し続けることを。