#1-6
「私が加護を授けようと試みているのに、どうして、あなたが契約するの!」
ニムエは真珠のような滑らかな美しい白肌を震わせながら、マーリンを叱った。
『でも、ニムエ様…。このお方はニムエ様のお声が届いていなかったようなので…。あのままではニムエ様の存在に気づくことなく、あの少年に殺されてました』
にべもなくニムエは上唇を噛み締めながら、言葉を投げつける。
「それなら、それで構わなかった。あぁ、口惜しい」
マーリンはニムエが何にそれほど腹を立てているのか分からなかった。
ニムエの濃紺のドレスの裾がそっと揺れる。見事な刺繍細工がされているベロアの生地に白肌が艶めく。
「あなたが今し方した契約はその青年の従僕になること」
ニムエは憂いに満ちた表情で告げた。睫毛が夜露に濡れたように滲んでいる。
『私の主人は貴女様です。高貴なる闇の精霊の女王様』
「今日から、あなたは彼のもの。片時も彼の傍に離れずにはいられなくなるでしょうよ」
瀕死の状態で辛うじて息を繋ぐアーサーを、ニムエは冷たく見下す。
『ニムエ様…』
アーサーとマーリンが契約を交わしたので、マーリンの魔力でアーサーの身体は治癒され始めたが、既に命の灯火が消えようとしている今、この再生能力では追いつかない。
「あなたを失ったそのうえ、私にこの者を助けろと?」
マーリンは真摯な眼差しでニムエを見上げる。堪らなくニムエは目を逸らした。
「…まぁ、いいわ。人間の寿命なんて、ほんの瞬き、すぐに貴女は私の元へ帰ってくるわ。あなたがそれほど、願うのなら叶えましょう」
少年が消えた場所に転がっていた短剣を、ニムエは拾うと、肩の位置で潔く髪を裂いた。満天の夜空を思わせるような波打つ豊かな緑の黒髪を手に握りしめ接吻する。
程なくして、髪はボッと青色の炎へ変わる。青白い焔に照らされて映し出されたニムエの横顔は哀感が漂っていた。
炎は銀粉の煌めきへ移り、パラパラとアーサーの身体の上で散る。
『ありがとうございます。ニムエ様』
心なしか呼吸が整ってきたアーサーを見て、マーリンは愁眉を開く。恐れる者も多いが、時に暗闇は安寧をもたらす。母胎に還ったかのような温かさに包み込まれて、安らぎを付与するのだ。故に闇の精霊の癒しは、光の精霊のそれに劣るものの成果が高い。
「全て回復するとは思わない方がいいわ。このものの命は尽きようとしていた。無理やり魂を留めたのだから、何か代償を払わなければならないでしょう」
短くなったニムエの髪が、風になぶられ舞いあがる。髪がざんばらになっても、不偏的な美貌のニムエにマーリンは見惚れた。例え、以前のアーサーに戻らないとしても、献身してくれたニムエにマーリンは心から万謝する。
「どうするの?これから…」
マーリンがアーサーに与えた魔力は、人に付与するには膨大なため、アーサーの身体と馴染む前に暴走した。アーサーは紙一重で一命をとりとめたが、もし、マーリンの魔力が身体にそぐわなければ、確実に命は奪われている。
暴走した魔力は大爆発を起こし、寸前まであった頑丈な要塞は跡形もない。所々に石の瓦礫が転がっているが、知らない者ならここに要塞があったことを信じないだろう。
「今は人がいないけど、この騒ぎを嗅ぎつけて、すぐに援軍がやってくるわよ」
『それは面倒ですね。迎え撃ってもいいんですが、この方の本意ではなさそうですし』
マーリンはポリポリと鼻を掻く。助けることに夢中で先のことは何一つ考えていなかった。
「この男を私の館に招きいれることは絶対にしないわよ。顔を見るたび、腑、煮え繰り返る」
きっぱりと言い放つニムエだったが、無責任な助言を付け加えた。
「この者の縁のある誰かのところへ送りつけましょう。対応はその誰かに任すわ」
ニムエを中心に土埃が僅かに起こる。それは徐々に旋風となった。ニムエは集まった風の精霊に古語で語りかけた。
『ニムエ様、この方に禍いがないよう、遥か彼方まで離れたところへお願いします』
「では、ここから一番遠い場所で、彼へ思いを募らせる者の思念を辿ります」
ニムエは渦を巻いている風の中心に向かい両手を差し伸べながら、マーリンへ命令する。
「ひと月に一度で構わない。従僕の絆を断ち切ってでも、私のところへ来なさい。あなたにとって胸が張り裂けそうな苦しい所業かもしれませんが、念じれば、私の館へ道は通ずる。来なければ、主人諸共、串刺しにしてやる」
ニムエの言っていることは厳しかったが、声色は切なく儚い。
「私の加護を得たからには、彼の輝く金髪、翡翠色の瞳は、私と同じ黒髪黒眼に変色するでしょう。それを見るたび、私を思いだすといいわ。マーリン」
『マーリン…』
誰です?私を呼んでいるのは?
『マーリン…』
まだ私は眠っていたいんです。
だって、林檎の甘い香りに包まれて、柔らかい日差しが風に揺られた木々の葉から溢れているこんなに穏やかな一日ですよ。たまには贅沢な時間を費やしても構わないと思いませんか?主人。
『マーリン!』
はいっ‼︎主人。すいません‼︎寝落ちしてました。
私は木陰に伏せて偵察(お昼寝)していたのだが、主人の名を呼ぶ声に反応して、すくっと立つ。えっと、三…回程声をかけてくださいました?
『あっ、起きた』
見上げると、主人が私へ優しく笑いかけている。
あぁ、私、このまま昇天されそうです。
「マーリンさん、見てください。こんなにも林檎を収穫することができました」
スノーが山いっぱいに積まれた林檎の入った籠を興奮した様子で幾つも見せる。
「背の高いアーサー様が手伝ってくださったお陰です。ありがとうございます」
頬を桃色に染めながら、スノーは主人を仰ぎみる。
左手を腹部にあて右手は背中に添えながら、姿勢を正して、主人はスノーへ軽くお辞儀をした。
『どういたしまして、スノー』
はうっ、この方、何をなされても様になります。素敵です、主人。
恐れではなく、トキメキでスノーも主人を直視できないようですね。
どうやら、『ドキドキ毒作戦・オレ死んでないよ⁉︎編』で、スノーの主人に対する恐怖感は全て飛んでいったようだ。畏怖よりも、主人を失ってしまうかも?という衝撃の方が強かったのだろう。
スノーの林檎農園の木々は通常の林檎の木よりも背が低い。スノーは梯子で木へ登って林檎を一つ一つ捥いでいたが、主人は腕さえ伸ばせば、すぐに手が届く。主人が手伝えば仕事も早いだろう。
『スノー、林檎は大丈夫ですか?傷とかついてません?主人、ちゃんと優しく取り扱いました?』
『お前はオレを何だと思ってんだ?』
クラッシャーの帝王…。決して、主人に申しあげられないですけどね。
私は不安いっぱいの気持ちを抑えきれず、籠の中を覗いた。林檎は瑞々(みずみず)しい赤色で、見た目には艶々光っており美味しそうだ。
「バッシュフルさんと品種改良の研究しまして、ここの林檎は年中収獲できる夢のような林檎なんです。蜜もたっぷりでとても美味しいんですよ」
主人は籠から林檎を一個取りだし、上衣の袖口で擦った。それを齧ると、満面の笑みで格別な味だと証明した。
『本当に美味しいよ』
モードレッドから働きかけられた後、私と主人はスノーの案内で林檎農園へ向かった。
そこで主人は五つの罠を探りあてた。全て自動発射式の矢で、鏃には丁寧にも毒が塗布されていた。しかも、獲物を確実に仕留めるように、魔術も施されている。
主人の思いつきで、農園のたわわに実った林檎も毒が仕込まれていないか、全て確認することになった。とは言え、広大な土地の林檎を具に物色するのは幾日か必要となるので、私の水、風、土魔法を組み合わせて、養分や匂い、気配などを探索する。林檎の品質は保証済み。
どうやら、本日は近くに刺客もいないようだ。
その後、私たちの身振り手振り、拙い主人の絵を駆使して、スノーへこの場所が安全であることを伝えた。
スノーはどうしても私たちに林檎パイを食べて貰いたかったようで、予め用意していた林檎の籠を背負って、林檎を収穫し始めた。
「林檎の蔓と枝が繋がっている場所を分かりますか?いいですか?蔓へ指を添えて、指を軸にクルッと回すんです」
主人は林檎狩りに興味深々で、それを見たスノーは実際に捥ぎ方を見せて解説する。
『アーサー様、林檎は繊細なんですよ。荒々しく扱ってはダメですからね。引きちぎったりしないでください』
私は主人の傍らに纏わりつき、逐一林檎を穫る度、細やかな指導をしていた。だが、そんな私を主人は煩わしく思ったのだろう。
『マーリン、伏せ!ここで待機』
私は致し方なく、周囲を観察することにしたのだが、麗かな陽光により睡魔に襲われて、眠ってしまったのだった。
『アーサー様、上手に収穫できたようですね。良かったです』
『おいおい…』
子供を褒めるように言葉をかける私に主人は失笑する。
スノーはお店から押してきた荷車へ乗り込み、籠から樽へせっせと林檎を移す。
「アーサー様、もう少し林檎を獲ってきて良いですか?」
主人はスノーへ笑顔を向ける。スノーはそれを肯定と受けとめ、再度、籠を肩にかけて走りだした。居ても立ってもいられないのだろう。余程、林檎を収穫できたことが嬉しいらしい。
『ところでマーリン。結界は張り直したか?』
『もちろんです。アーサー様。抜かりはございません』
主人は髪を風に靡かせながら、遠くを眺めいる。そろそろ、アルムが主人の髪を切りたがるぐらいには伸びてきたようだ。
『これで何者も侵入出来ませんよ。スノーとスノーの同行者は別ですがね』
私は休憩?に入る前、針を軽く刺すぐらいのほんの少しの血を、爪でチョンと傷をつけて、スノーの指先から分けてもらい、結界の魔法陣を描きなおしたのだった。
これが大変で枝を口に咥えて描きなおすのだから、ドラッグドッグにとっての私には重労働である。
『アーサー様?モードレッド様は犯人知ってますよね』
私は主人へ問う。魔王の情報網を侮る事勿れ。
『だろうな』
主人は首を掻きながら、柔らかく吹く風を体に受けとめる。主人の服の裾が旗めく。
『わざわざ、アーサー様に犯人探しをさせなくても良くないですか?』
『本人が動くと天地がひっくり返るんじゃなかったっけ?』
それは言い過ぎです、主人。いや、そうでもないか…。
『犯人を脅すぐらいなら、相手を悪意の目で見つめなきゃ何とかなりそうでないですか?せめて、犯人知ってるなら教えてくれても…』
私が意を唱えると、主人は諭すように答えた。
『依頼を受けたからには、こちらで捜索しなきゃ、義を通してないような気持ちになるし…』
主人、変なとこで真面目ですね。
『何かしら、理由をつけて会いたかったんだろ?あぁ見えて寂しがし屋?だしな』
『何だかんだで、アーサー様。モードレッド様に甘いですよね』
私は不服げに近くにあった石を前足で蹴る。
『数少ない友人だから大切にしないと…。こぼれてしまう』
『主人…?』
遠くの空を仰ぐ主人は心ここに在らず、ゆったりと流れゆく雲を目で追う。
『スノーばかり、仕事をさせておくのも憚るから、手伝ってくるわ』
主人は荷車に置いてある空の籠を手に持った。
『それなら、私も行きます』
私は主人を追従する。
『構わんが、次は小言なしだぞ』
主人は私にしっかり釘を刺すのだった。