#1-3
『はぁ〜、良い湯でしたね』
主人の命を受け、嫌々頂いたお風呂であったが、文句のつけようがなかった。
モードレッドの従者のゴーレム達が、朝摘んだ薔薇の香りはとても芳しく、私の嗅覚がむせ返りそうだったのは及第点だが、湯加減が素晴らしかったし、毛並みも艶々だ。
けど、次に入るなら薔薇がない方が好みかも…。
「マリーンにそう言ってもらえて光栄だよ。早朝、薔薇が見頃なことに気づいてね。摘みとった甲斐があったよ」
言葉の本心は分からないが、モードレッド自身も薔薇風呂の心地よさを満喫したようだ。
「マリーンさんは何て?」
「良い湯だったそうだよ。スノー君、君も気にいってもらえたかな?」
「はいっ、とっても気持ちよかったです。肌がツルツルしています」
スノーのきめ細やかな肌が更に煌めく。短時間のお風呂で効果覿面なんて、若いって本当に羨ましい。
「喜んでもらえて嬉しいよ」
主人に一番風呂を辞退され、落ち込んでいたモードレッドは心なしか今は機嫌が良い。蒸気でほんのりモードレッドの白い皮膚が閃めいている。
不意に、私はスノーがアルムの山小屋へ訪れたときの不可解な行動について、モードレッドへ質問した。
『モードレッド様、スノーを山小屋に寄こしたとき、アーサー様がどんな方か?話しました?』
『何だい?それは?初対面だからね。山小屋の住人のことを考えたら、間違いようはないだろうけど伝えたよ』
『どんなふうに?』
思い出すのも面倒くさそうに、モードレッドは長い髪を額の前から指で梳かすと、それでも丁寧に記憶を紐解いてくれた。
『そうだな。濡羽色のような黒髪と柔らかな眼差しの持ち主で、見た目は怖いって言われているけど、誰に対しても穏和な性格だから、きっと君を助けてくれるだろうって…』
『照れますなぁ』
私はポリポリと後足で顔を掻く。私の不可解な言動にモードレッドは訝しむ。
『何でマーリンが照れるんだ』
『その説明でスノーは私をアーサー様と間違えたんですよ』
「何⁉︎この不吉という単語しか思いつかない黒い毛並みで、地獄の業火のような真っ赤な目をしたマーリンを、アーサーと間違えただって⁉︎」
裸の付き合いはここまでか…。
「どうか?しました?」
不穏な空気を察知したのか、スノーが尋ねる。
「何でもないよ」
一言を発するのに精一杯のようだ。
立ち直るまでしばらく時間がかかりそうだな。モードレッドよ…。
モードレッドは暫し沈黙を要した。冷たい眼差しで誰かを捉えないよう目は瞑ったまま、回廊の主柱に凭れかかる。古代遺跡の神殿から発掘された像を彷彿させる。
「大丈夫ですか?モードレッド様、のぼせちゃいました?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
モードレッドはいつもの柔和な笑みで、スノーへ尋ねる。
「スノー君、君は最初にマリーンのことをアーサーだって思っていたのかい?犬なのに?」
何?犬っ⁉︎私はブラックドッグですって‼︎
「あっ、はいっ、すいません。マリーンさんは犬ですけど、普通の犬ではなさそうでしたし…。モードレッド様にお伺いした通り、見た目は怖いけど頼りになりそうな犬だと思いました」
スノーよ。何度も犬犬って連呼しないでくれ…。けど、君の評価が私の中で非常に上昇しているぞ。そして、君もまた天然だということを私は認識したよ。
「アーサーのことは?」
「目も合わせるのも怖くて、穏和とはかけ離れてるなぁって」
悪びた様子もなく、スノーが主人の印象を述べる。モードレッドの瞳の奥に悲哀の感情が宿る。
「アーサーは優しい人だよ。私が信頼する唯一人の人間だが、怖いかい?」
モードレッドの問いに、スノーは両腕を胸の前で組んで考えこむ。
「そうですね…。怖いって言いますか。周囲を凍てつかせるような眼差しはもちろん、透き通った白い肌やスッと形の整った鼻筋が彫像のようで、血が流れてるんだろうかって冷酷さを感じちゃいますし…。髪は地毛だから仕方ないですけど、服装まで黒で統一してるのって…。アーサー様がアーサー様って分かったとき、モードレッド様、その筋の人を紹介してくれたんだなって慄いちゃいました」
『その筋の人って、殺し屋ってことでしょうか?アーサー様がお聞きになられたら、浮上するのに時間かかりそうですね』
『アーサーには黙っておこう』
私とモードレッドの意見が珍しく一致した。本日は同時に顔を見合わせたり、妙にモードレッドとウマが合う。雹は言い過ぎだったかもしれないが、明日は雨が降らなければ良い。
『見た目って大切ですね。世間的に9割って言ってましたっけ?』
『たまには、アーサーに黒装束以外の服を勧めてみたらどうだい?』
「あれっ、僕。酷いこと言ってます…」
厳しいことを言ったと自覚はあるのだろう…。口を両手で覆い隠す仕草をするスノーに、モードレッドは軽くため息を吐いた。
「素直な意見として受け止めておくよ。でも、アーサーには言わないでおくれ」
「流石にご本人を目の前には言えませんよ」
むっ…。主人を前にして、貴方、結構なこと口走ってませんでした?
スノーは眠たくなったのか?小さな欠伸をした。刺客に狙われていたのだ。この屋敷は結界で守られているし、何よりも守護者のモードレッドがいる。無事、主人へ依頼を受けてもらうこともできた。無意識にスノーの緊張が解れたのだろう。
「けど、モードレッド様やマーリンさんのアーサー様を溺愛してますって態度を見てたら、微笑ましいって言うか…。アーサー様はまだ怖いですけど、僕の印象が間違っているんだろうなって…。うまく説明できませんけど…。見た目と違って、お優しい方なのかな?」
正直に主人へ対する感想を述べたスノーは屈託なく笑った。なるほど、これが裸の付き合いとやらの効果でしょうか。
スノー、貴方は知らないでしょうけど、モードレッドの方がとてつも無く恐ろしい存在ですからね。
天使のような容姿に皆騙されがちだが、本物の魔王なのだ。私の思いが伝わったのだろう。モードレッドは唇に人差し指を押しあてて、黙っておくようにと私へ示唆したのだった。
『汗を流すと気持ちいいな。お昼から風呂ってだけで贅沢だけど、薔薇風呂なんて』
洗った髪を拭いきれていなかったようだ。主人は濡れた髪を、両手で無造作に頭へ撫でつける。水も滴るいい男とは主人の事を示すに違いない。主人から漂う薔薇の膨よかな香りが鼻腔へ広がる。
私は薔薇風呂を堪能したあと、主人が昼食時間になっても戻って来なかったので、帰りを城の門前で待った。ほどなくして、鍛練から戻ってきた主人の姿を認め、どれほど平穏な感情を持ち直したことか。
モードレッドはスノーのことを配慮して主人が帰途につくのを待たず、スノーと食事をとったあと自室へ籠っている。スノーは疲れからか睡魔に襲われていた。多分、今頃は客間でゆっくりと眠っているだろう。
『これで、アルムが絞ったミルクがあったら最高だな』
能天気に主人が笑うので、私はそっぽ向いた。
主人はいつもと違う私の様子に僅かばかり動揺する。目の高さが同じ位置になるよう屈みこむと、私の眉間から鼻の間を人差し指で滑るように摩った。
『あれから、仲直りできたか?』
主人はじっと私の目を覗く。
『仲直りも何も、あれは私が勝手に怒っただけですよ』
『あれっ、まだ怒ってるのか?』
主人の傍にいられなかったことが、この身を裂くように辛かったのだと、主人に理解しようがなく…。
『アーサー様にです。ご一緒させてくださらなかったので…』
素っ気ない私の態度に、主人が困惑している。
『風呂は楽しくなかったか?』
『いえ、良かったですけど…。それとこれとは話が違います』
『うーん、いつになくご機嫌斜めだな。…あっ‼︎そうだ‼︎』
主人は何かを思いついたようだ。
ちょっとやそっとでは私の機嫌直りませんよ。
『風呂で拝借したんだ。ブラシだよ』
主人は背中のベルトに差し込んでいたブラシを私へ見せつける。
『はいっ?』
『今朝、ブラッシングする約束しただろう?』
果てしなく続く回廊の途中。ここぞ見よがしに、休憩場所だろう長椅子が所在なく設置されている。
例の如く薄紅色の布地にアラベスク模様の刺繍がなされており、この城の長椅子はこの模様で統一されているようだ。ただ、回廊の長椅子は横たわれる寝台形状になっている。
主人は長椅子に座り、自らの膝の上をポンポンと叩いて私を誘導する。
『えっ、宜しいんですか』
私の抑えきれない衝動に尻尾が揺れだした。私の尻尾の動きを捉えると、主人が手招きして私を呼びよせる。
『恐悦至極でございます。恐れ入りますっ!よっ、宜しくお願いいたします!』
『任せろ』
私は長椅子へ躍りあがると、主人の腿に頭を乗せて無防備に伏せる。
幸せってこういうことなのね。
『あれっ?ブラシが通らないな』
主人、痛いですね。ちゃんと毛並みに沿ってブラシを下していますか。
『あれっ?あれっ?』
しゅっしゅっしゅじぃぃん、むっ、むりにすぅかぁなくてもぉぉいいぃんですよぉ。
『…。ん⁉︎』
『…××××××××××いやぁ‼︎×××××××××ぎやぁ‼︎』
あーだぁ、何してくれてますのん?毛が‼︎毛が‼︎むしり取られて、ハゲがぁぁ。
「ギャィィン‼︎ギャィィィーン‼︎」
私は大音量で鳴き叫ぶと、椅子から咄嗟に飛び降り、あたり構わず転げ回る。傷口が床に擦れて更に痛みが増した。
「ギャァィィン‼︎ギャァィィィーン‼︎ ギャィィィーン‼︎」
広くて先の見えない回廊で、鳴声は大反響する。モードレッドが瞬間移動で私たちの目の前に現れた。
「どうした⁉︎バカ犬‼︎何事だ⁉︎」
モードレッドは瞬時に惨状を把握する。犯人は一目瞭然である。主人の手には証拠(一部皮膚片がついている大量の毛が絡まったブラシ)が握られおり、その前に横たわる血だらけの悲惨な私。…バタッ。
『あっ』
「あっ」
そこっ、肩が小刻みに震えてんだよ。笑いを堪えてるのは分かっているんだ‼︎モードレッド‼︎
「アーサー、何の恨みがあったのか知らないけど、これは可哀想だよ」
『ちっ違うんだ。マーリンに喜んでもらいたくて。…大丈夫か?マーリン?』
主人は私を慰撫しようとそっと手を添える。
『あぁーさぁーさまぁ、そぉーこぉーはかんぶでぇーすぅ』
笑い上戸のモードレッドは声にださず腹を抱える。主人はオロオロと焦るばかりだ。
「とりあえず、治療しようか?」
モードレッドが私の正面で蹲った主人の肩を静かに叩く。
『マーリン、悪かった』
『良かったです。ここが魔王の館で』
まさか、私がモードレッドに感謝する日がこようとは、私自身、思いもしなかったが…。
「はい、元通りになったよ」
モードレッドの癒しの術は完璧で、私の毛並みは幾分前より豊かになった気がした。
『ありがとう、モードレッド』
主人はモードレッドに礼を言い、躊躇いながら私を抱きしめる。
『マーリン、悪気はなかったんだ』
私の首元に頬を押しあてて、主人は弱々しく謝った。
『ごめん』
主人よ。私が考えなしでブラッシングをしてもらおうと強請ったのが最大の過ちです。
そうだ。主人は大変不器用だった。
『アーサー様、お気になさらず、私めが主人たる貴方様に大それたことをお願いしたのが元凶ですから…』
「そうだ。そうだ」
むっ、モードレッド。横から口を挟まないでもらえます。
私の気持ちを感知したのか、魔王の鋭い視線が飛んでくる。
だから、痛いんですよ。こう見えて、病みあがりなんですから、無闇矢鱈に攻撃しないでいただきたい。貴方のおかげで完治しましたけどね。
「ふふっ、血だらけのマーリンを見て、アーサーの最初のあだ名を思い出したよ」
モードレッドは優雅な物腰でカウチソファーへ腰を掛ける。
「あの頃、まだ君たちに出会ってなかったけどね」
モードレッドの隣に主人が座り、私は二人の間へ突入する方法を思い巡らす。隙間は狭い。とりあえず、頭を突っ込んで幅を広げよう。私がこれから起こす行動を察したのか、モードレッドは主人との距離を詰めて体を密着させる。
「何でお前はこの狭い空間を狙っているの?」
『何してんの?モードレッド』
「マーリンがこの間を狙っているようなので、ほんの意地悪をね」
主人はモードレッドから離れると私を呼んだ。
『マーリンおいで』
『アーサー様』
主人は私の耳の後ろを手で優しく触れながら、モードレッドに詫びた。
『今日は酷いことしたからな。マーリンがここが良いっていうなら…。蔑ろにしたわけではないよ、モードレッド』
憂いげな表情のモードレッドは、主人の行動を甘んじて受けいれる。
『…えっと、最初のあだ名?』
主人はモードレッドの話を思い起こす。私が主人の代わりに答える。
『確か、大猪退治が最初の依頼でしたよね?アーサー様が大猪の返り血で血塗れになった』
あの頃の主人は心を閉ざしたままで、私を見向きもしてくれなかった。やるせない気持ちがよみがえる。思い返せば、あれが初めての依頼であった。
「人呼んでブラッディアーサーだよね?その呼び名の噂は何度か聞いたんだよ」
『モードレッドか?スノーに漆黒のアーサーなんて言ったのは…』
主人がスノーが今朝あったときの言葉を思い出し意義を唱えると、モードレッドは拳を口元へ持ってきて苦笑する。
「一番まともじゃないか?あとはなんだっけ?アーサーの呼び名って沢山あるよね」
『そうですね。…ドラゴン使いのアーサー?』
「瞬殺のアーサー?」
『蜻蛉のアーサー?』
「へぇ、そう言うのもあるんだ?」
『そうですね。あとは死装束のアーサー?えっと…』
主人の話になると、私とモードレッドはついつい花を咲かせてしまう。
『お願いだから、もうやめてくれ…』
主人は居た堪れない面持ちで俯いた。主人の紅潮した頬に擦り寄りたい気持ちを抑えこんで、私はモードレッドを見上げた。モードレッドも同じ想いだったのだろうか、熱っぽい視線を主人へ注いでいる。モードレッドが私の気配を感じとって目が合う。
「何だよ?マーリン?」
『いえ、御礼がまだでした。感謝いたします。モードレッド様』
「あー、はいはい」
モードレッドはおざなり程度に手をひらひらと振って話を続行する。
「私がアーサーに初めて仕事を頼んだのって、ドラゴン使いのあだ名がついた時だったよね」
『あぁ、あれですか?』
「暴れてるドラゴンの件で、同胞から相談を受けたんだけど、私が直接動くわけにはいかなくて…」
私は記憶を辿る。
『トイトブルクの森を焼き尽くしたドラゴンですね。豊かな森を焦土と化した』
主人は背もたれに両手を預けると上空を仰ぐ。
『プブリウスな』
「棘が刺さってたんだよね」
モードレッドの言葉に私は頷く。
『そうです。北東からやって来た英雄シグルズさんが力比べにプブリウスさんに挑んだあれですよ。プブリウスさんが余りの痛みに気を失ったのを、死んだと勘違いして、そのまま勝利宣言してシグルズさんがお家に帰った後…』
「やっぱり、堪えきれない激痛でプブリウスが起きて、暴れ回ったんだよね」
『ドラゴンって、堅い鱗に覆われているんだけど、翼の付け根だけ柔らかい肌が剥き出しになってるんだよ。そこに槍を刺されたもんだから、物凄く痛かったらしい…』
ドラゴンは博識だ。好奇心旺盛で多岐に渡って知恵を持ちあわせているので、人間の言葉が解る。私の魔力のおかげで、主人もドラゴンが何を話しているのか理解ができるようになった。
『ドラゴンが咆哮しているなか、アーサー様が『痛い』って聞こえるって言って…』
「槍を抜いてあげたんだったっけ?」
主人のシックスパックに分かれてる腹筋あたりから、小さく腹の虫が鳴る。モードレッドの問いかけに答えることもなく、身の置きどころがなさそうに鼻の頭を掻く主人。
『腹空いたかも?』
そう言えば、鍛錬から帰ってきたあと、何も食べていない。
「すぐ手配させるよ。…私も一緒に居ていいかい?」
『モードレッド様は召しあがられましたよね』
主人は気づかなかったようだが、私とモードレッドの間に僅かな火花が散った。
「さっき、笑いすぎたせいかな?私も小腹が空いたよ」
『オレは別に構わないよ。モードレッドの家じゃないか?許しなんて必要ないだろう?』
主人は首を傾げた。モードレッドは確認せずにいられなかったのだ。今日は何度となく、主人から婉曲に断られている。
モードレッドは口元に指をあてる。モードレッドのこの仕草は何かを思索しているときの癖だ。
「ところで、マーリンがあんなに吠ていたのに、スノー君は起きてこなかったね」
『寝いっているんでしょう』
私がそう結論づけると、モードレッドが納得いかない表情で反論した。
「あれほど、けたたましく鳴いてたのに?」
『怖がらせたのかもしれませんよ。それで、部屋から出られなかったとか?』
主人が襟首を手のひらで支える。この動作は考えを巡らせているときの主人の癖である。
『もし、この状況で眠ってたなら、スノーって大物かもしれないな』
なるほど…。
主人は思いつきで、核心のついた答えを導きだした。