#3-2
珍しく海は凪いでいた。
この海域は常日頃、波が高くうねって荒い。砂浜へ波が打ちつけ、白い飛沫が激しく飛んでいた。
だが、今、目の前へ広がる大海は穏やかだ。真っ青な水面へ日光が反射して、太陽まで一筋の道が煌めきながら続いていた。
『海だな…』
何気にテンション高めですね…。主人…。
砂浜へブーツを投げだして、静かに引いては寄せる波打ち際へ主人は駆けだすと、豪快に足を浸した。
『ははっ…。冷たい…』
私たちは主人の無邪気な笑顔に見惚れている。
主人の艶めいた黒髪が風に舞う。海を照らしだす光が眩しいのだろう、少年のような無垢な眼差しを細め、私たちの姿を認めると手で招く。
『モードレッドっ!マーリンっ!来ないのか?気持ちいいぞっ!』
あぁ…。感無量…。
もう少し、この幸福に身を任せていたい。多分、右隣りも同じ気持ちを共有しているに違いない…。
『来ないのか?』
首を傾げた主人と私の視線が交差した。
アルム…。感謝する…。
前髪を短くしたため、闇夜のように深く美しい瞳をしっかり見つめることができる。
あの目に私が映っているかと思うと感慨深い。
私がうっとりとしていると、頭上から大粒の海水が降ってきた。
「アーサー?」
全身が水浸しのモードレッド。白くしなやかな指先で金髪を掻きあげるも、塩分が含まれて軽やかさが損なわれている。
それでも、有り余った美貌…。真珠のように瑞々しい肌へ毛先から伝う雫が色香を醸しだしていた。
もちろん、これは主人の仕業だ。私たちへ向かって、海水を被せたのだ。
『一人ではしゃいでるとバカみたいだろ?早く来いよっ!』
私は身体をフルフルと激しく振る。迷惑そうにモードレッドが私を見下ろした。
『もう濡れているんですから…。私の水滴が飛んだぐらいで機嫌を損ねなくても…』
「アーサー!今行くっ!」
モードレッドは軽々と私を抱える。
優男に見えるが、とっても力持ちなモードレッド…。
何せ、この人…。魔王ですから…。
『あーーーれぇーーーー!』
モードレッドは意地が悪そうに頬を歪めて、私を海へ放りだす。海に叩きつけられる私…。
な訳はなく…。クルッと一回転はしたのだが、そのまま海へ真っしぐら…。
『何してはりますの⁉︎モードレッドっ!』
「おやおや?マーリン?犬のくせに、私を呼び捨てとは?いいご身分だね?」
『はいぃーー⁉︎私はブラックドッグですっ!それに、例え犬だったとしても、犬には犬の権利がありますよっ!犬権だっ!』
「何だい?その取ってつけたような犬権って?」
『普通の犬なら、あんな風に海へ投げだされたら怪我するかもですよっ!それに犬に海水は御法度ですっ!誤って大量に飲んだら、脱水症状を起こして死に至ることもあるんですからねっ!』
「マーリンはブラックドッグでしょうがーーー⁉︎あれぐらいで何を言ってんだか?」
『はいはい…。そこまで…な?モードレッド…』
主人はモードレッドの腕を掴んで優しく微笑んだ。水も滴るいい男を体現している主人へモードレッドは釘付けだ。
「アーサー…」
そして、主人は強引に身体へモードレッドを引き寄せ後ろへ倒れた。そう、蒼海へ…。
両足を波に沈ませ上体を起こしている主人。主人の肩へ手を添えているモードレッド。主人へ覆い被さるようにモードレッドは身を預けている。
何だろ…。この絵面…。好ましくない…。
離れていただきたい…。
主人はちょっとした悪戯を仕掛けたのであろうが、いつもなら、この状況を楽しんでいるはずのモードレッドが塞ぎ気味だ。
『ははっ…。マーリン?これでおあいこな?』
主人は駆けつけた私の頭へ手を置く。
『ええ…。そのぉ…。私はブラックドッグなんで、大丈夫ですけど…』
黒毛の水分を飛ばしたとき、モードレッドが海水を嫌がっていたのを私は気づいていた。
「私は…。海水が苦手なんだよ…。ベトつくだろう…?」
魔王のくせに繊細なモードレッドである。
『あぁ…。悪い…。すぐに、マーリンが真水で洗って、風で全身を乾かす魔法をかけてくれるはず…なっ?』
主人、いつもながら、犬使い…。いえいえ、ブラックドッグ使いが激しいですね。
主人のためなら未だしも、モードレッドのためなのが些か気にいらないが、主人の失態をフォローするのが従者の役目…。
『致し方ありませんね…。それでは、モードレッド様…』
「えっ?嫌だよ…。マーリン…。信用ならないし…」
拗ねたような面持ちで私へ抗議するモードレッドである。
『おいっ!こらっ!』
「あらっ?それなら私がモードレッドを綺麗に洗ってあげるわ」
不意に、女性の声が私たちの耳へ届く。
二人と一匹しかいなかったはずだ…。先ほどまで気配はなかった。
モードレッドは予想しなかった精霊の姿に驚く。
「ウンディーネ?」
四大精霊のうち水を司るウンディーネが婉容な姿で微笑んでいた。清涼で爽やかな淡い青色の瞳を優しく細めて、声をかけたモードレッドではなく、主人を見つめている。
「久しぶりね…。アーサー…」
透きとおった白い肌、頭頂部は薄ら青みがかかっているが、概ね銀色のしっとりとした滑らかな髪が光沢を放つ。ウンディーネの腰まである髪と同調するかのように主人の視線が揺れる。
『君は…。あの時の…』
愁いのこもった熱い眼差しを浴びながら、主人は答えた。ウンディーネには主人の威圧感をものともしない。寧ろ、主人の姿に心奪われ、胸の前で祈るように手を組み合わせている。
「覚えててくれたの?」
主人の念話にウンディーネは反応する。テレパシーを読みとるぐらい、高位精霊であれば簡単だあろう。互いの視線が絡みあう。
さっきまで、主人とモードレッドの蚊帳の外で面白くなかったが、この度、それ以上に主人とウンディーネは二人だけの世界へ浸っている…。
この空気を壊したのは、モードレッドだった。
「とりあえず、私を乾かしてくれるんではなかったかな?」
万人の誰もが骨抜きにされるであろう神々しい笑顔を浮かべながら、モードレッドはウンディーネへ訴えた。服の裾をこれ見よがしに絞り、水を垂らす。
モードレッド…。額の青筋…。隠しきれていませんよ。
『あのときとは、幾分容姿が変わっているだろ?よくオレがオレだと分かったな…』
いやいや、幾分どころか…。身内や戦友でさえ、気づかないほどの変わりようですよ…。
まぁ、ランスロット王は勘繰ってますがね…。
闇の精霊女王から加護を授かる前、主人は太陽のように眩しい金色の髪、風にそよぐ草原のように穏やかな緑の明るい眼差しをした青年だった。
「貴方の魂は美しいもの…。姿が少しぐらい違っても、気づかないわけないじゃない…」
確かに、高位精霊ならば容姿に惑わされることはないだろう…。
「はいっ…。出来たわよ」
海風になびく艶の戻った柔らかな髪へモードレッドは手櫛を通した。滑らかな指通りに満足するモードレッド。滴っていた服も元通りになっている。
「ありがとう…。ウンディーネ…」
素直に礼を述べるモードレッドに水の乙女が微笑んだ。清楚な笑顔は水を司るウンディーネらしい…。
清々しくいらっしゃる…。
『なぁ…。何で?さっきから彼女のことをウンディーネって呼んでいるんだ?確か…。君の名前は…』
『アーサー様⁉︎名前を呼んではなりません‼︎』
私は思わず、主人の言葉を遮る。
「アーサーに名前を教えたのか?ウンディーネ…。禁忌だよね?」
モードレッドがそう尋ねるのは致し方ない。
精霊や精霊に近しい魔導士、魔女は名前を他者に伝えることは禁忌だ。名を奪われて、隷属にされる危険性があるからだ。
モードレッドは史上最高の魔王である故に名乗っても平気なようだ。
ニムエ様は無頓着なんですよね…。気にしていないとでも言うでしょうか…。
もちろん、彼女も簡単に名前で縛られるような魔女ではない。
因みに私の本来の名前は別にあるらしい。
えへへっ…。私自身…。本当の名前は知らないんですけど…。ニムエ様がそう仰ってるのですから、そうなのでしょうね。
私もニムエ様の飼いブラックドッグだったせいか、大概のことはぞんざいだ。
私が思いを巡らせていると、ウンディーネは言葉を落とした。
『だって…。私、アーサーの奥さんになりたかったんだもの…』
ウンディーネが人間の男性と結婚するには相手に名前を告げる必要がある。
「『えっ⁉︎』」
ウンディーネの説明を簡潔にまとめると…。
昔、この街に遠征で滞在している主人へ一目惚れしたらしい。それから、ウンディーネは主人の近くへ潜んで、常に様子を窺っていた。
えっ?それって、ストーカー行為ではありませんか?
私は何気にモードレッドへ目で訴えてしまった。モードレッドも察したようだが、目を逸らされた。
これは…。モードレッドも思うところがあるんでしょうね…。
船上で海賊相手に怯まず、剣を自在に操り壮烈に戦う主人の勇姿を認めて、益々虜となってしまったウンディーネ…。
主人と離れがたいウンディーネは、滞在最終日に主人の前へ姿を現わし告白した。
「断られちゃったけど…」
目を伏せながら、ウンディーネは哀しそうに呟く。
『そうだったな…。それほど、大切な名前を教えてくれたのに…。ごめんな…』
突然、見知らぬ女性に告白されても動じない男…。これだけの美女に言い寄られれば悪い気はしないだろうが…。
ストーカーですよ?怖くないですか?
主人は騎士道精神から、女子に優しくいらっしゃる…。名前の誓約はしらなかっただろうし、主人が謝る必要はないのだ。
「いいのよ…。一方的に好きになっただけだから…」
精霊は感情の赴くまま行動はするが、執着はしない。だが、ウンディーネの慕情は他の精霊とは違う。真名を告げて契れば、ウンディーネも人へ身を窶す。それほど、人への愛情が深い精霊なのだ。
しかし、人ではないモードレッドも私も主人にはかなり固執している。何故か釈明できないのだが、そうした精霊も一定には存在している。
まぁ、モードレッドは魔族とハーフエルフとの混血ですけどね…。
「ウンディーネ…」
モードレッドが同情したように切なげな表情でウンディーネを慮る。
「あらっ?モードレッドまでそんな顔しないで…」
思うんですけど…。モードレッド…。多少の嫉妬はすれど、私以外の恋敵には優しくありませんか?
モードレッドの主人に対する愛情が、恋愛なのかは私には未だ分からないが…。モードレッドは私に厳しい…。
常に上手く扱えない魔力に神経を尖らせなければいけないモードレッド、私に対しては多少気兼ねがなく使えるので、甘えているのかもしれないが…。
甘える…?モードレッドが…?いやいや…。ないない…。