#2-6
主人は見返る前から声の主をわかっていたように思う。
『あ…にうえ…』
凪いでいる大洋のように平かな眼差しで体躯の良い美丈夫が立っていた。
偉大なるログレス王国のランスロット王である。主人の実兄でもあり、主人が王都で過ごしていた時期、最も良き理解者で、最も信頼を寄せていた人物だった。
王が民衆の前に姿を現せば皆がうっとり心を奪われ魅せられるという逸話があるほどの美貌と、慈しみのある思慮深い人格を持ち合わせて、ログレス王国を統一していた。
先の戦争で疲弊してしまった対戦国の民にまで心を配り、賠償金などを請求しなかったと聞き及ぶ。
ランスロットは優しい陽射しのような金髪を一つに束ねている。市政に紛れるためであろう。騎士のような装いだが、漂う気品は隠せるものではなかった。
モードレッドと髪と瞳、肌の色は一緒ではあるが、ランスロットは太陽の印象をもたらし、モードレッドは月の女神を思わせる。
私の客観的意見だが、モードレッドの方がランスロットより神秘的な魅力を備えており佳麗だ。モードレッドはあれでも魔王なのだから、致し方ない。
私にとって、世界一の美男子は主人である。
「ランスロット王…」
ヴィヴィは身なりを正して、颯爽とカーツィを優雅に振る舞う。
「久しいな、ヴィヴィアン…。少し見ないうちに淑女らしく美しくなったな…」
おやっ、ヴィヴィアン嬢。顔見知りでしたか…。
まぁ、王であるのだから、ヴィヴィアンは知らなくはないだろうが…。
ランスロットの話しぶりから、以前から親しい間柄であるようだ。
ヴィヴィアンは、突然のランスロットの登場に驚いていた。主人はヴィヴィアン以上に動転していたが、主人の挙動を察知したのは、私だけだった。
ランスロットはヴィヴィアンへ歩み寄ろうと足を踏み出す。
主人はそれを垣間見て、ヴィヴィアンへ一方的に別れを告げる。
『ごめん、ヴィヴィ…。今日も一緒に過ごすつもりだったんだけど…』
もちろん、ヴィヴィアンへ主人の言葉は届いていない。ヴィヴィアンは耳にかかった吐息で振り向いたときには、主人は深々とフードを被って後退り、ヴィヴィアンから離れていた。
私も主人の横へ走りだす。
「アーサー様⁉︎」
熱を帯びた耳朶に触れてヴィヴィアンは声をあげた。
「アーサー…?」
ランスロットがヴィヴィアンから主人へと視線を移すが、東から眩しく輝き始めた朝陽の逆光で顔は見えていないはずだ。
そう言えば…。ランスロット王も主人がフードを外した場面へ出会したはずなのだが…。
平気でしたね…。
王は高等魔法が扱える数少ない人間の一人だ。三兄弟のうち魔法に長けているのは長兄のランスロットだけである。
それが、功を奏しているのだろうか…。それとも、視線を交わすことがなかったからか…。
答えを見いだせないまま、私は城壁へと走る主人に従った。
それよりも、魔導師がいないからと簡単な結界で済ませたことが悔やまれる。正式な魔法陣を施したなら、ランスロットに介入されることはなかったはずだ。
私が悠長に構えていたため、主人はヴィヴィアンの願いを叶えられなかった。
私、後ろ髪を引かれるような気持ちです。
主人と一緒にサウナ…。
髪の毛ではなくフサフサの獣の毛ですけどね…。
『ヴィヴィ…。束の間の夢を見せてくれてありがとう』
壁面の近くに育った木に足をかけ、軽々と壁を越えていく主人の背中へ有りったけの声で叫ぶヴィヴィアン。
「アーサー様‼︎」
主人は顧みなかったが、私はヴィヴィアンとランスロット王を目視する。
膝から地面へ崩れるとヴィヴィアンは両手で顔を覆っていた。ランスロットは気遣わしげにヴィヴィアンの肩へ手を置いている。
私たち、側から見れば不審者極まりないですけど、追いかけてはきませんね。
従者数人が今頃、王の周りを囲んで警戒を始めていた。
従者たちが追従してくるのは、まず無理だろう。ランスロット王、自ら動くのではと思ったのだが、杞憂だったようだ。
さてと…。
『アーサー様…。風の精霊に指示して何を話しているのか声を運ぶように伝えましょうか?』
私たちは外壁を飛び越えて、昨日通った森の小道へ向かっている。
『こちらの動向に気づかれはしないか?兄上だぞ?』
ランスロットの魔法能力は大陸に響き渡るほど有名だ。主人の言い分も分からなくはない。だが、私はきっぱりと断言した。
『何を仰います。たかが人に私が侮られるとお思いですか?』
少し、困ったように眉を曲げた主人。
私は精霊である。モードレッドのような魔王なら兎も角、一国の王であっても人間のランスロットに魔法分野で負けるはずがない。僅かに口角をあげて主人は私へ告げた。
『お前のそういうとこ…。嫌いではないんだなぁ』
主人…。私も主人の含みのあるその悪い顔(に、万人に見られてしまうが、本人はただ私の言葉に苦笑しただけ)…。妖艶さが際立って嫌いではないどころか、大好物です。
主人は足を止めて、大木の根が畝って突きだしている部分へ腰をかけた。
『では…』
私はヴィヴィアン嬢が残された広場での声を拾うよう精霊に指示した。従順に風の精霊は従う。
「…そ…ヴィ…ア…ン…ぅ。こ…にたおれ…いるのは、貴女を陥れようと画策した者共なのだね?」
ランスロットがヴィヴィアンへ事情聴取している途中のようだ。
「はいっ、昨日…。城壁から突き落とされた私は…。偶然、街へ来ていたアーサー様に助けていただき、このまま帰れば…。いつまた命を狙われるかもしれないとアーサー様が保護してくださったのです」
なるほど…。ヴィヴィアン嬢、自由恋愛云々は有耶無耶にしましたね。
理由はどうであれ、主人は淑女を連れ回していたのだ…。誘拐と誤解されても致し方ない状況であった。こちらの言い訳ならば、ランスロットも納得してくれるだろう。
ヴィヴィアンは城壁での出来事を覚えていないはずだ。咄嗟についた言葉だろうが、ヴィヴィアンの機転に感謝する。
「アーサーという名前の男だが…。他に何か自身のことを話していなかったか?」
ランスロットは何か思うところがあるようだ。主人の尋常ではない身体能力に訝しんでいるのか…。それとも、主人が主人であることに気づいたのか…。後者であるはずはない。主人と対峙したのは一瞬のことだ。
「いえ…。アーサー様は怪我が元で言葉を話せないのです。必要なことは筆談で伝えてくれてましたし…」
「…怪我?」
「…はい。昔、怪我をしたとか…。それ以上のことは伺っていません」
ヴィヴィアンは一息つくほどの間を置いて、ランスロットへ尋ねた。
「アーサー様のこと、何か疑っていらっしゃるのですか…」
「いや…。ただ気になって」
「あの方はとても澄んだ深い闇のキレイな瞳をなさっているのです。アーサー様はとても素敵な殿方でらっしゃいますのよ。悪い人ではありません」
ヴィヴィアンの言葉に主人は面映い表情をする。ランスロットは溜息を吐く。
「…悪い男だ。ヴィヴィアン嬢…。貴女がアーサーという人物について語っているとき、顔が輝いているのを気づいているのか?」
『…何?オレ、悪い男なの?』
主人の言葉に対して、敢えての無言を貫く私。
「何故…。アーサー様は行ってしまわれたのでしょう…」
小さく繰り返されるヴィヴィアンの嗚咽に主人は唇を噛んだ。ヴィヴィアンは急に立ち去ってしまった主人の胸の内を知る由もない。
主人は兄との対面を避けたかったのだ。年月が過ぎても、主人の心の傷は癒えていなかったのだろう。しかも、ランスロットは主人が死んだと思っている。
ランスロットは慰めの言葉が見当たらなかった。周りは忙しく罵声などが飛んでいたが、二人の間ではしばらく沈黙が続いた。
「…何がともあれ、貴女が無事で良かった。今朝、訪ねたとき所在不明で、付きの者は皆、青褪めていたよ。あれは寝ておらんな」
活動的な主人にお仕えする気持ち…。従者の皆様、痛感いたします。
「皆には心配をかけてしまいました」
ヴィヴィアンの声色は反省をしているようだったが、ランスロットは優しく諌めた。
「そうだな。命を狙われていたとはいえ、連絡なしはいけない。お転婆もほどほどにしなさい…」
「私、王に直接ご訪問いただけるとは思いもしませんでした…。それもこんな早朝に…。私の不躾な手紙にご返事をくださり、ご助言を授けていただいた上に、お仲人を引き受けてくださったときさえ信じられませんでしたのに…」
王が仲介とはヴィヴィアンの家系は私が想像している以上に高貴であるようだ。
「其方の祖父…。アルフレッド…。あれは私に尽くしてくれた。感謝しきれないほどだよ。なので、気にしなくて良い。それに…。一刻も早く…。貴女に詫びを伝えたかったのだ」
奥歯に何かが引っかかったようなランスロットの話し方に、ヴィヴィアンは不安を抱いたようだ。
「何を…でございますの?」
ランスロットがゆっくりと口を開く。
「貴女に紹介しようと思っていた…。ガウェインが逃げた」
何と…。
婚約者候補は主人の弟君でしたか…。
「えっ?」
「末の弟だが…」
「存じ上げております」
王国の貴族たるもの王家の血統を知らないものはいないだろう。
「我が弟に身贔屓かもしれんが、性格は良い。が、落ち着きがなく…。ヴィヴィアン嬢はしっかりされているのでな。手綱を締めてくれそうで、お似合いだと思ったのだよ」
ランスロットとガウェインの兄弟仲は不仲と世間では噂されているのだが、一因は主人にある。
先の戦争で捕虜として主人が捕らえられたのは、ガウェインの暴走のせいだからだ。
ただ、今の話を聞く限り、ランスロットはガウェインのことを嫌ってはないようだ。ガウェインのことを赦すことができたのだろうか。声の調子からヤンチャな弟を慮る気持ちが感じられる。
『ヴィヴィアンに誰を紹介しようとしているんだ…。兄上…。ガウェインは駄目だ…。遊び人すぎる』
主人は独り言ちる。
買い物ときでしたか…。確か、昨夜の会話で女性にだらしないと話していたような…。
『ガウェインはモテるんだ…。もちろん、兄上の方が美男子だけど、ほらっ、兄上は身持ちが固いだろ?』
いえ、私はそこまでランスロット王のことに関心がありませんので…。分かりかねます。
それに、兄弟の中で一番の色男は主人ですよ。
『ガウェインの恋愛は、誰に対しても分け隔てがないというか?女に絆されるというか?誰かれ構わず…。まぁ、男前ではあるから、モテるんだろうな…』
『それはアーサー様やランスロット王の弟君でいらっしゃるのですから…』
『あぁ、それな…。兄弟とも腹違いだから、それは関係ない。オレたち、皆、母親に似ているんだ。兄上の母君とオレの母上は肖像画でしか拝見したことがないのだが、ガウェインの母君、現王太后になるのか…。母親達は揃いも揃って美人だったよ』
なるほど…。前王…。ウーサー王でしたっけ?面食いだったということですな…。
私は納得した。主人とランスロット王は面立ちが異なっていると以前より感じていたのだ。
「ガウェインはまだ遊び足りないようで…。優しい子なのだが…」
「はぁ…」
ランスロットの言葉に曖昧な返答をしてしまうヴィヴィアン。
「私が貴女の結婚相手でも良かったんだ…」
ランスロットの申し出にヴィヴィアンは慌てふためいてしまった。
「そんな…。恐れ多いことでございます」
妃ということだろうか…。
ランスロットも思い切ったことを言う。ヴィヴィアンが恐縮するのも無理はない。
「すまない。私は…。あの人を忘れられなくてね…」
ランスロットは切なげに言葉を紡ぐ。直様、かき消すがの如くランスロットは笑った。誰のことが忘れられないのか…。私は知っている。
「それに歳も離れているだろう?おじさん相手では可哀想だ」
主人とは10歳近く離れていたはずたが、ランスロットは歳を感じさせない容貌で未だ逞しい身体を維持している。おじさんと自称したのは託けにしか聞こえなかった。
『どういうことだ…』
主人は親指を噛みながら、思い巡らせていた。主人もランスロットの話の文脈から、忘れないのは誰か勘づいたようだ。
私には主人に伝えていないことがある。あれから一度も尋ねられてないからだ。主人も極力、王都の噂を避けていた。
話すべきだったのだらうか…。
『兄上は一途な人だ…。グィネヴィアはどうしたんだ…。ヴィヴィアンが側妃にということか…。いや…。でも、忘れられないって…』
混乱している主人を余所にランスロットとヴィヴィアンの話は続いている。
「私がヴィヴィアン嬢の弟の後楯になるよ。君の弟は素晴らしく優秀だそうだな。私の元で学んでもらおうと思う。時期がくれば領主として、また、私の臣下として国へ従事してくれればこの上ない」
「身に余るお言葉でございます」
王の提案は申し分ないほどヴィヴィアンにとって有り難いものであるだろう。
「もちろん、貴女の嫁ぎ先については私がしっかり探すつもりだ。しばらくは領地で領主の補佐をしてくれれば良い…。今回のことは本当に申し訳なく思う。けど、ヴィヴィアン嬢にとって悪くない処遇だろう?」
ランスロットは躊躇うことなくヴィヴィアンの思いを代弁する。
「貴女にも忘れられない人ができたのだから…」
物静かにヴィヴィアンが哀愁漂う吐息を溢した。
主人と私の視線がかち合う。哀しげな目で私をじっと捉えている。私が語らなかったことに気づいているのだろう。
私は主人が知りたくないだろう風聞をわざわざ耳に入れる必要はないと思っていたのだが、人間の感情が複雑であることを失念していた。
私はキャメロットに別れを告げたときの主人の眼差しを忘れてはいない。
帰り際、夕陽に晒されてオレンジ色へと鮮やかに色づいた城壁を佇み眺めていた主人。
過去へは戻れない…。
『マーリン…』
主人は私を責めることはない。
契約を結び、長い眠りから覚めた当初、主人は私へ怒りをぶつけていたが、あの出来事は全て自分の責任だと認めた。
あれ以来、主人は私の行動で理不尽な思いをしても私を叱責しない。無論、私が主人を守るために体を張って楯となれば、窘められることがあるが…。
私の行動でさえも、自分の行い故の結果だと常に受け止めている。
だが、今回ばかりは咎められるだろうと思ったのだが…。
『モードレッドのところに行きたい…』
主人の言葉は予想外であった。
『へっ…?』
今、私は拍子抜けした表情になっているだろう。主人はスクッと起立して進行方向を定め、再度、私へ問うた。
『いいか?』
『何を今更…。私はアーサー様のご希望に従うまでです』
私は腑に落ちない心境のまま、主人を追い、モードレッドの城へ繋がっている魔法陣へ向かった。
まさかのサウナ…。ではないですよね?