#2-5
険しい顔つきの主人の様子から、ヴィヴィアンは昨夜の行動を後悔しているようだった。
だが、実のところ…。主人は周囲の気配を警戒しているだけだ。
昨夜は夜遅くに宿を決めたこともあり、私たち一行は入浴ができなかった。
「私、臭わないかしら…」
自身のブラウスの袖を指で引っ張り匂いを嗅いで、ヴィヴィアンが小声で呟いていたものだから、主人はモードレッドの薔薇風呂へヴィヴィアンを案内しようと朝早くから行動を始めた。
因みに、ヴィヴィアンはサシェの効果もあり、甘く華やかな香りしか漂わせていなかった。
不意に漏らした言葉だったのだろう。ヴィヴィアンはベッドから起きあがると、既に気にかける様子もなく、服の皺を伸ばしていた。
『ヴィヴィが風呂に入っている間、オレたちは鍛錬でもしとくか…。オレが汗臭くなるかな?』
昨日、モードレッドがヴィヴィアンへサシェ作りの指導を行っている最中に、私はとある情報を収集した。主人を見上げて、その内容を誇らしげに伝える。
『何でも…。モードレッド様の侍従のゴーレムから伺った話ですと…。モードレッド様はサウナというものも作ったそうですよ。香花石という石を熱々に熱して室内を温め、その部屋の中で、しっかり汗をかくところだそうで、体臭も改善されるのだとか…』
『へぇー』
主人が興味津々に感嘆を漏らす。私は尻尾を振りながら続ける。
『アーサー様からは芳しい匂いしか感じられませんが、お気になさるのなら、ヴィヴィアン嬢がお風呂を楽しまれている間、アーサー様はサウナを体験してみてはいかがでしょう?』
主人の要望をモードレッドが断れるはずがない。
『芳しいって…。どうよ?』
主人の眉間に軽く皺が寄る。
はっ‼︎選択する言葉を誤ってしまったかっ⁉︎
焦る私だったが、主人の次の言葉に安堵する。
『マーリンも一緒に入るか?って、犬は入れるのか?そのサウナってものに…』
犬の皮膚には汗腺がないのでサウナが気持ち良いものか、些か疑問が残りますが…。私はブラックドッグであり、主人の従者ですよ。一緒に入るに決まっているではないですか…。
そして、彫像のように美しい主人の裸体をうっとりと見つめる…。
予想がつくが、モードレッドも仲良く汗を流しそう…。
階段を降りて、宿屋の主人に食事を頼む。明け方で食堂には誰も居なかったのだが、親切な店主は愚痴一つ溢さず、朝食を提供してくれた。
そして、朝食を取り始めたところで私と主人は気づいたのだ。何者か数人が宿屋付近で私たちを探っている。
私たちは食事もそこそこに席を立ちあがり、宿を後にした。主人はヴィヴィアンの手をしっかりと握っている。
すいません…。店主、せっかく作ってくれたご飯を無駄にしてしまいました…。
『12人といったところか?』
『そうですね。うち三人は道端で千鳥足になっている酔っぱらいのようですよ。朝まで飲んでたんでしょうかね?』
『無関係のものを巻きこむわけにはいかないな。殺気が尋常ではない…。三人の保護は出来そうか?』
昨日は街をあげてのお祭りということもあり、街人たちは夜遅くまで騒いでいたのだろう。外にいるものの他、多くの人間はまだ惰眠に耽っているようだ。
『もちろんです。既にシールドを張ってますよ。害を及ぼすことはないでしょう』
「アーサー様…。どうしてそんなにお急ぎに…。きゃっ‼︎」
主人はヴィヴィアンの承諾も得ず、彼女を抱きかかえると、敢えて、人が追いつけるスピードで走りだした。追跡者を民家がない場所へと誘導する。
忍びながら、主人との距離を一定の間隔で保ち追ってくる男たち。素人ではない。
七人は追従に専念しており、後の二人は追いつくのも大変そうだ。
なるほど…。二人はきっと依頼人とその護衛といった感じだろう。
『アーサー様、後の方から必死に追いかけてきているのが、この追っ手の首謀者でしょうね』
『少し広い場所へ出れたら、そこで決着をつける…。マーリン、念のため、奴らが揃ったら周囲に結界を張ってもらってもいいだろうか?』
『もちろんですとも…』
ヴィヴィアンが不安そうに主人の外套を掴んで、主人を上目遣いで仰ぎみている。
「アーサー様?」
『ヴィヴィ…。ちょっと居心地が悪いだろうが、しばらく辛抱してほしい』
いえいえ、主人…。ヴィヴィアン嬢にとって主人に腕の中、幸せでしょうよ。
だが、表情から推測するにヴィヴィアンはとても哀しそうだ。
「今日も私と過ごしてくださるのではなかったのですか…」
『んっ?何を言っているんだ…。今、誰かがオレたちを尾行しているんだが…』
「私を塔まで送られようとされてらっしゃいますよね…」
人のいない道を選んで、主人が追跡者を誘っているこの街道は…。
『真っ直ぐ進めば、貴族が留まる宿泊施設ですね…』
主人の隣りを付き従いながら私は告げる。主人は戸惑いを隠せない。
『そんなつもりは毛頭ない…』
「私、まだアーサー様のお側にいたいのです」
『だから…。そんなつもりはない…』
まだ少し腫れた瞼を閉じるヴィヴィアンの目尻から涙が滲みでる。主人に見せまいと健気に両手で顔を覆うヴィヴィアン。
「アーサー様…。やはり、昨日のことを怒っていらっしゃるのですか…」
うーん…。朝一番に今日の予定をヴィヴィアンに報告するべきだったのですよ。
主人は薔薇風呂をヴィヴィアンへサプライズしたかったのだろう。
誰もいない広場で主人は足を止めて、ヴィヴィアンの足をそっと地面へ下ろした。
『アーサー様、追っ手は見張っているだけですし…。まだ、黒幕は来そうにないですし…。ヴィヴィアン嬢にご説明して誤解を解くべきでしょう』
追ってきた輩は息を激しくあげている。主人に付いてくるのがやっとだったと見受けられる。あとの二人はまだ後ろ、ずっと遠くだ。
主人はペンを持ち、メモへ書きこむ。
「…何者かに尾行されているので走っただけ?っっっえっ⁉︎」
ヴィヴィアンが周りをキョロキョロと見渡す。主人は追跡者相手へ存在を認めていることを隠すつもりはないようだ。
「そんな…。大変…」
主人がメモへ続けてペンを走らせる。
「多分…。ヴィヴィを…追ってきているようだが…連れ戻しに来たには…。さっ…きを…。殺気を感じる?」
手の甲で口を抑えるヴィヴィアン。書きつけた紙にポタリと雫が染みて広がる。
「私…。アーサー様に嫌われたわけではないのですね…」
この状況で何を言っているのですか?
書付けの物騒な内容に怖がって、涙が溢れたわけではなさそうだ。ヴィヴィアンは主人のペン先を目で追う。
「嫌うわけがない。仮にも恋人なんだから…。心配しなくても大丈夫…。ヴィヴはオレが守る…」
そして、ヴィヴィアンの頭を自分の胸に寄せる主人。
私…。何を見せつけられているのでしょう。
緊迫感のない空気に、追跡者も息を乱しながら呆れている。
皆様、お疲れ様です。あっ…。貴方がたのご主人様もやっと追いついたようですよ。
集団の中に魔道士はいないようだ。私は魔法陣を描かなくても起動する簡素な結界を張った。
これで、一般の方々は結界内には入ってこれず、また中側にいる追従者も逃げだせれない。
広場に隣接している建物も壊されることはない。敵の武器が投げだされたとしても内側へ弾き返される。
『やっと、揃ったみたいだな』
『そのようですね』
主人は腕を伸ばしたり、足を屈伸させたり、ストレッチをしながら私に指示を出す。
『マーリンはヴィヴィの盾な…』
『承知いたしました』
私はヴィヴィアンのスカートの裾を口に咥えて引っ張る。ヴィヴィアンを私の背後に移動させ、念のためにシールド魔法を発動した。
「マーリン?」
ヴィヴィアンは歩を進めようとするが、彼女には見えない何かに憚かれ前進できない。私へ目で訴えているようだが、主人の命なので魔法を解くつもりはない。
私は主人の従者なのだが、主人に代わって前線に立つことを、いつも許してもらえなかった。
私が負傷すれば自分自身で治癒できないからだろうが、過保護が過ぎる。
『これで戦える』
主人は私へ相槌を打ち、ヴィヴィアンを安心させるように微笑みを送った。
『手加減してくださいね…』
玄人相手に失礼であろうが…。
彼らの力量では主人に敵うはずもない。主人が本気を出せば、この場は血にまみれ、悲惨な死体が転がることになる。
主人はいつの間にか、主人と同じような黒衣装の服を見に纏った男たちに囲まれていた。各々の手には小型の剣が鈍く光っている。
『さて、やるか…』
動じることもなく、主人は彼らへ対峙する。
一人の男が主人を目がけて駆けだした。その背中越しから、もう一人の男が飛び越えて剣を振り翳す。
軽やかなステップを踏みながら、同時に攻撃を仕掛けた二人へ、身を翻して躱す主人。両手を伸ばして各々デコピン。
あぁ、体が弾き飛ばされましたね。おでこを抑えながら、悶え苦しんで…。痛そうです。
主人の背後には別の刺客が頭部を狙って剣を突きだしていたが、主人の回し蹴りした長い足が腹へ深く沈む。
リーチが違いますもんね…。失神ですか…。
主人は殆ど力を入れていない。力加減を間違えば、彼らは即死する。
強靭な肉体のパーシヴァルが身をもって、意図せず、実験体になってくれていたので、主人は加減というものを学んだ。
『動きが遅いんだよな』
『準備体操にもならない感じですね』
既に三人、突っ伏して倒れている。
あれっ?皆様…。屁っ放り腰になってますよ。大丈夫ですか?
『来ないのか?なら、こちらから行くぞ』
主人が動けば、一人二人と地面へのめり込む。
主人が低い姿勢から足を真っ直ぐ伸張させ爪先で相手の足をかけて転がしたなとか…。手のひらを広げた状態で主人が相手の額を指先で掴み跳躍して飛ばしたなとか…。私は現況を把握しているのだが、周囲のものは何が起きているのか理解できないまま、地べたへ這いつくばっている。皆、恐怖でしかないだろう。
主人は本日も身一つで戦闘している。
呼べば応える宝剣エクスカリバーも契約を交わしてから一度も扱ったことがない。
エクスは今回も出番なしですか…。
今頃、宝物庫で主人にいつか呼ばれることを夢見ながら、ゆったりと過ごしていることだろう。
うーん…。ドラゴンのプブリウスと優雅にお茶を飲みながら寛いでいるかも?
あっという間に、豪勢な服で着飾っている恰幅の良い腹の膨れた中年男を唯一人を残して、主人は迅速に制圧してしまった。
男の顔を確認したヴィヴィアンが呟いた。
「お…じ様…」
あぁ、やっぱり…。
ヴィヴィアンに出会ったとき、身の上をこれでもかと主人へ語っていたが、推測は間違えていなかったようだ。
えっと、ヴィヴィアン嬢と息子の結婚を望んでいた亡き母上の弟さんでしたかね…。
「あの高さから落としたときは、死んだと思っていたのに…」
男のその不用意な一言に主人の唇が震える。
「まさか受けとめるだなんて‼︎もっと、早く殺しておけば良かった。あれから、バラされた困るから散々探したのに見つからないし…」
まぁ、あの後すぐにスノーのところへ向かいましたもんね。モードレッドのお城でも長居しましたし…。
日中は街中を探しても無駄だったであろう。ヴィヴィアンはショックで城壁から転落した前後を覚えていないので、口封じには意味がない。
発言にはしっかり責任を持ってくださいね。
殺してやるなんて言わなきゃいいのに…。悪役の性ですよね。
喚き散らした男の告白に主人の怒りは頂点に達していた。
『お前…。ヴィヴィを落としたのか…』
『アーサー様‼︎ダメです‼︎』
怒りに任せて、主人は近くで伸びていた従者の剣を引ったくり、男の足元へ突き立てた。
刺しどころが悪かったのか…。剣がなまくらだったのか…。大地に突き刺した剣は粉々に割れた。
欠片が宙に飛び、主人の頬を切り裂く。被っていたフードも同時に外れる。自ら墓穴を掘ったとはいえ…。
『何⁉︎やらかしているんですか‼︎アーサー様‼︎』
あぁ…。綺麗なお顔に血が滴っていますよ。
主人は煩わしそうに頬を手の甲で拭った。主人の傷痕はすぐ治るのだが…。
ヴィヴィアン嬢の顔色は蒼然としている。
私もオロオロと動揺してしまった。
主人の目の前にはヴィヴィアンの叔父が主人の畏怖に圧倒されて腰を抜かしている。
弱者でしかないか弱き女性のヴィヴィアンに対して、大勢で襲おうとしたこの男に主人が憤りを抑えられるはずがない。
『お前、八つ裂きにされたいんだよな…』
主人…。切れ長で整った形をされた眼差しで凄まれるとですね。怖いんですよ。
主人の眼光は研ぎ澄まされたように冷淡で、寒々とした空気を運んでくる。目を逸らさずにいられない。いつものことだが、見た目の印象から主人の方が悪役としか思えない。
「あの子が死んでくれれば、何とかして私の息子が…。後継として認めてもらえるはず…」
…がない。
ヴィヴィアンの従兄弟は母方だ。現当主と血の繋がりはなく、ヴィヴィアンと婚姻関係で結ばれれば可能性は無きにしも非ず…。辛うじての親類関係で養子縁組も考えられなくもないが…。
後妻に入った母親の身分は低いとはいえ、優秀な弟君がいるのにわざわざ縁を結ぶとは考え難い。
ヴィヴィアンは杞憂していたが、殊更、このような父親の存在があるのなら、従兄弟の後継はあり得ない。当主も愚かではないはずだ。
何ですかね…。その短絡思考…。
「アーサー様‼︎」
ヴィヴィアンは叫ぶ。
そうなんですよね。
今、ヴィヴィアンは主人の側へ飛んでいきたい気持ちでいっぱいでしょうけど…。
再三、ヴィヴィアンは私へ視線で訴える。ヴィヴィアンは私の後ろへ控えているので、正確には背中へ視線を送っている。流石の私も背中に目があるわけではないが、それは確実だ。
違いますよ。私は主人の命令で貴女の動きを制限しているだけであって本意ではないのですよ。
「アーサー様‼︎」
ヴィヴィアンの二度目の声かけに、我に返った主人は振り返る。
主人…。今、こちらを向かれるとですね。
途端、ヴィヴィアンは膝から崩れた。一般の人には邪悪な威圧感を垂れ流しているようにしか見えない主人。
西の魔女特製外套のフードが脱げてますのでね。
「アーサー様、大好きです…」
ヴィヴィアンの足は恐怖で竦んでいるのだが、はっきりとした口調で主人へ明確に告げた。鮮やかな翠色の瞳は強い想いがこもっている。
「マーリン…。私、アーサー様のお側へ行きたいんですの…」
身内から散々なことを自白された直後に、そんなことは意を介さず、ヴィヴィアンは私へ願う。
『アーサー様、ヴィヴィアン嬢もこう仰っているので、宜しいですか』
辺りは主人のおかげで動けない負傷者が転がっているだけだ。悪意はあったとしても誰も手は出せない。
主人は髪の毛をグシャリと掻き乱した。太々しく私へ命を下す。
『ヴィヴィもお前も怪我をしたら…。マーリン、ただではおかないからな』
言葉の意味が分からない…。
ヴィヴィアンの突然の告白に混乱しているのだろうか…。
ヴィヴィアン嬢のことはさて置き…。
私が怪我をしたら許さないとは…。もし、私が手傷を負ったら、更に私へ危害を与えると言うことでしょうか…。
何という脅し…。
でも、主人は本気だ。
言っていることは理解不可能だが、ヴィヴィアンだけではなく、私のことも慮ってくれている意思だけは汲みとれた。
「アーサー様…」
生まれたてのカモシカの子供のように足を一歩一歩踏みだすヴィヴィアン。やっとのことで主人の元へ辿り着く。
「頬に傷が…」
主人の頬に触れようとするヴィヴィアンの手を、主人は優しく握りしめて動きを止める。
『ヴィヴィが汚れる…。それにもう傷は癒えているんだ。出血が大袈裟なだけだ』
だが、ヴィヴィアンは主人の傷が治っていることを知らない。血液が頬にこびりついて、傷の有無を確認できないからだ。
「私のせいで申し訳ありません」
主人の暗黒の深い闇へヴィヴィアンは真摯に視線を交わす。涙が次々に頬へ流れおちる。
ヴィヴィアン嬢…。主人に恐れて泣いてらっしゃるんでしょう?
「アーサー様の眼差しは鋭くて怖いですけど、やっぱり宝石のように綺麗ですのよ。大好きです」
主人は目を軽く伏せて、ヴィヴィアンの頬に唇を寄せた。ヴィヴィアンはギュッと瞼を閉じて、主人の外套を掴んだ。主人はそのまま、ヴィヴィアンの腰へと手を回し、彼女の体を引き寄せる。そして、ヴィヴィアンから顔を離すと繋いだままだったヴィヴィアンの手の甲へキスをした。
「何が?起きているんだ⁉︎」
突如、背面から声がかかる。凛とした男性の声だ。
驚いた私たちは一斉にそちらへ目線を向けた。
えっ⁉︎誰ですか?私の結界には誰も入ってこれないはずですよ‼︎