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ファンタジーでハードボイルドしてみたさ  作者: 礼三
#2 淑女は自由恋愛がしてみたい -ヴィヴィアンの休日-
14/27

#2-1

 青く澄んだ空をバックに、指を天に突きだし、彼女は強い意志をもつ瞳で言い放った。

 晴天と同色の眼差しは輝いている。

「私、自由恋愛をしたいんですの‼︎笑いたければ笑うがいいですわっ‼︎」

 肩の位置で内側にふんわり巻かれたレディッシュが、溌剌とした頬を撫でながら風に躍る。陽に照らされ、艶やかに反射してなびく。

 束の間、主人は彼女に見惚れた。

『いや、別にいいんじゃないのか?ここは笑うべきなのか?マーリン?』

『さぁ?いかがでしょうね?』

 私は首を傾げる。

 豪気な彼女は、まだ成人したてといった年頃であろうか。

 彼女に出逢ったのは小一時間ほど前だった。


『西の魔女から購入したフード。大変重宝いたしますね』

 西の魔女とは、主人公御用達の雑貨屋の店主だ。

 主人は、日差しから身を守るようにフードを被っているようだが、実のところ、魔法付与によって主人の威圧感や恐怖感を覆い隠すといった効果があるフード付きの外套を着ている。

 西の魔女曰く、幻の青い妖精ユリシスの羽根の粉を糸を染色するときに一緒に混ぜると、幻影作用が働くとかなんとか…。羽根の粉はユリシスにお願いをして分けてもらえるそうなのだが、幻と呼ぶだけあって遭遇するのも至難の業らしい。

 なので、すごぉーくお高い買い物でしたけど、私にとっては、お値段以上です‼︎

『そうか?夏は涼しく、冬は暖かいなんて言ってたけど、確かに今は風通しが良くて涼しく感じる。こんなに厚い生地なのにな』

 主人はフードの部分を軽く摘み感触を確かめた。私の伝えた『重宝』と別の意味で履き違えている主人。

 まぁ、いいかと思い、勢いよく返答する。

『はいっ‼︎』

 黒いタートルネックに黒パンツ。黒の外套。タートルネックは袖なしとはいえ黒尽くしの主人のコーディネート。

 人から見たら、きっと暑苦しく思うでしょうね。

 フードに隠れているが、主人は髪も瞳も黒色だ。肌が透明感のある白さなので余計に際だつ。

 いつもより絶大的恐怖心を煽らないとはいえ、些か、怖い人の装いです。

 私は喉まででかけた言葉を呑みこむ。

 隣に並んで歩いている私も黒毛なので人のことは言えない。そして、何よりも主人との楽しい買い物の時間に水を差したくはない。

 極稀に私と主人はアルムに頼まれて、生活用品を買い足しに来る。アルムが収穫などで忙しくしているときは、敢えて主人におつかいを任せるのだ。今後、生きていく上で一般人との接遇も実践で学んだ方が良いというアルムの親心のようなものだと私は思っている。

 アルムの心配は的中しており、私と主人だけならば、主人の威圧感に各箇所の店主が恐れを抱いて普通に買い物ができない。

 主人は昔の傷が元で言葉が発せない。

 喋れないのだから、商品を購入するにあたり、相手へ筆跡で伝える。だが、そこに至るまで、大概は店側からことごとく拒否されてしまう。寡黙で目つきが据わっている主人は皆に慄かれているのだ。

「あんたっ!はっ、はっ早く帰っておくれ!」

 腰を抜かした店主に追い出されるとか。

「…」

 一言一句発言できない店員の接客で買い物ができないとか。

「すいません。今これだけしかお金は持っていません」

 脅してもないのに…。脅迫されていると誤解されるとか。

 まぁ、様々な反応が返ってくるのだが…。

 因みに私は主人とテレパシーで会話をしている。

 何故そんなことが出来るのか?ですって?

 それは私が有能な精霊ブラックドッグだからである。えへっん、おっほん。

 そういった経緯もあり今までは、魔王モードレッドが付き添いの名目で私たちの邪魔をしたり、主人の威圧感に負けない希少な一般人のパーシヴァルが主人のお目付け役で一緒に伴ったりしていた。

 ただ、しばらくパーシヴァルの顔を見ていない。傭兵の仕事で隣国の重要人物の護衛を任されているらしい。

 なので、最近、殆どモードレッドがその役割を担っていたのだが、今日は私たちだけで無事役目を務められそうだ。

『これからは私たちだけでお買い物行けますね』

『んっ?今までだって、オレたちだけで出掛けてたじゃないか?』

 トラブルには沢山、見舞われたではないですか?主人…。

 筆談も無理だったので、主人がカウンターに品物を乗せ、代金を支払おうとしたことがあった。

『支払いはいいよっ‼︎って、言っておきながら通報されて衛兵から逃げまわったこととか何度かありましたよね?』

『カウンターへお金は置いていたんだが、誰にも気づかれなかったんだよな』

 主人は律儀なので、お釣りは期待できそうにないと、いつも多めにコインを置いて店を出る。

 相手が要らないって言うんだし…。払わなくてもいいんじゃない?と私は思う。

 だが、動転している店員たちは置かれたお金まで気が至らなく、衛兵を呼びつけることが多々あった。主人が本気で衛兵と一線交えるとシャレにならなく、大怪我をさせるだけで済めばいいが、そういうわけにもいかないので、取り敢えず敵前逃亡する。

『そうだな。マーリンとオレとで出掛けたときは、大抵、次はその町で買い物できなくなるんだよな』

 思えば、遠くに来たもんだ。

 アルムの住む村近くの小さな街は一緒に付き合ってくれたパーシィバルの人柄のおかげか、その街の幾人かの商人に顔馴染みができた。主人と店員の視線が交差することはないのだが、主人は難なく?品物を手にすることができる。

 ただ、小規模の街にないものをアルムから頼まれたときは距離を延ばして遠くの街へ足を運ぶのだが、一匹と一人が連れ添えば、幾度となくゴタゴタに巻き込まれる。

 私との契約で、身体能力が格段にあがっている主人は、簡単に移動できるので問題はないが、最初は人が歩きで一日かかる街へ買い物に行っていたのに、今は馬車で一月ほどはかかる街へ赴いている。

 人脈の広い西の魔女にお願いして、品物を雑貨屋へ取り寄せれば済む話なのだが、アルムは許さない。これはアルムが与えた主人への試練なのだ。

 主人にしてみれば、アルムの試練とは露ほども知らず、ノホホンと気晴らしに出掛けている気持ちであろう。

 今回はアルムのお菓子作りに必要な調理器具を揃えて欲しいとのことで…。近場では買えない珍しい器具もあり、この街まで足を運んだのだ。

 あの人、何処へ向かって突き詰めているんでしょうね。

 アップルパイで有名な喫茶の店主スノーも感嘆するほど、アルムのお菓子作りの腕は上達している。ドワーフに同胞と称されるほど、ゴツい顔をしているのに、趣味がお菓子作りとは…。

 全ては甘いもの好きな主人のためだと推測できるのだが、アルムは主人に厳しいんだか、甘いんだか、分からない。血の繋がりはないが、主人のお爺さん的存在になっている。

 これが俗にいう『目に入れても痛くない』現象でしょうかね。

『そう言えば、今回は何事もなく支払いできてるな』

 主人が肩へ斜めにかけた袋の中身を確認する。深い闇夜を思わせる切れ長の瞳を一度ゆっくりと瞬きさせながら、主人は私へ微笑んだ。烏の濡れ羽色の髪が艶やかに日に反射して紫に光る。

 あぁ、相変わらず今日の主人も素敵だ。

 身なりは怖い人かもしれないけど…。

 この街は人がごった返すほど道に溢れており活気づいている。誰も彼もが忙しそうに往来しており、いつもと違って、主人のことを気に留めるものもいない。

 子供の集団が高く頑丈な城壁の下で声をあげ燥いでいた。幾人かの老人は荷馬車の幌の影で地べたへ座り暑さを凌いでいる。天幕を広げて簡素な卓上に品を並べて大声で客を呼びこんでいる店員。何気のない日常…。

 一瞬、城壁から落ちてくる影で太陽の日差しが途切れる。

『マーリン』

『はいっ』

 私は城壁近くで遊んでいた子供のうち一人の襟を甘く噛み、軽く横へ飛んだ。土埃が舞う。

 主人は空いたその場所へ素早く移動すると両手を広げた。そして、その両手で頭上から降ってきたものを受けとめる。

 多分、城壁の頂きから落ちてきたので、衝撃は相当なものだが、主人の動作はそれを感じさせられないほど可憐で素早かった。

「わーーーーん‼︎」

 起きたことに唖然としていた幼子は、急に泣き叫ぶ。

『痛かったですか?』

 私は狼狽える。以前も人助けで同様の行動をして思い切り首を絞めてしまった反省から、噛みついた場所もなるべく絞まらない部位を選び、着地後すぐ地面に下ろして優しく扱ったつもりだったのだが…。

 私は顔を強張らせている子供の視線の先を辿った。どうやら、私の対応で泣きじゃくっているのでない。

 主人…。フードが外れてます…。

 何事が起きたのか、周囲の関心を掻っ攫った主人は、人々から一斉に視線を集め、そして顔を背けられている。後退りをしているものも何人かいるようだ。

 あぁ、あの女性は足が震えていますな。

『アーサー様』

 私は主人の元へ駆けて行く。

『屈んでいただけますか?』

『あぁ』

 主人はそっと膝を折る。腕のなかには気を失っている女性。主人は私が彼女の様子を伺うために跪かせたと思ったようだ。

 私は恐れ多くも主人の肩に前脚かける。器用にフードの先を口に咥えて頭へ被せた。

『何?どーした?』

『いえ、失礼ながら、日差しがきつうございますので』

 主人が不思議そうに私の目を覗きこむ。黒曜石のような瞳に私はしばし囚われる。

 あぁ、ずっとこの時間が続けばいいのに…。

「んっ…。わ…た…く…し…」

 薄らと瞼をゆっくり開けた女性は言葉を漏らした。主人の顔へ手を伸ばす。白い指先が主人の頬を滑る。

「あ…なたは…。し…死神?」

 はぁ⁉︎ここはっ⁉︎天使と言うべきでしょうが⁉︎

 私は思わず心中唸ったが、冷静に考えてみれば、主人の装いは紛れもなく死神に違いない。

「あっ!あそこだ!居たぞ!」

 統一された制服を着た男たちが、こちらを指差しながら走ってくる。

『また、誰かが衛兵を呼んだんだろうか?』

「だっダメ!私まだ帰りたくありません」

 思考がはっきりしてきたのだろう、女性は男たちの姿を認めると、青ざめて主人の外套の端を握りしめた。どうやら、この度は私たちが目的ではなさそうだ。

『とりあえず、アーサー様』

『んっ。逃げるか』

 私と主人の意見は一致する。主人は女性を腕のなかで抱きとめたまま逃走した。私は追従する。

 後には私たちが忽然と消えたことに驚いている人々が、きっと何事があったのかと騒いでいるだろうと想像した。


「ありがとうございます。助けてくださったのよね?」

 主人の腕から解放されると、年若い女性は姿勢を機敏に正し、スカートの両端の部分を軽く摘んでカーツィした。一連の動作が流れるように滑らかなので、良家の令嬢であることを察する。

 白色ブラウスの半袖はふんわり膨らんでいるものを着用、踝まで長さがある藍色のスカートの裾は百合の花の刺繍が施されて、全体的に優美な雰囲気を醸しだしている。

 城壁から落ちてきたときに目視したのだが、スカートの下にはペチコートで足を隠していた。婚前の女性からしてみれば、恥辱を感じるかも知れないが、ペチコートよりはみでた足はしなやかで美しかった。

 ただ、その姿は私と主人しか認めていない。本人も気を失っていたので覚えていないだろう。

 なので、気になさらないでくださいね。

 さて、その彼女は容姿や振舞いに反して、初対面の人間へ物怖じもせず、先ほどより自身の身の上を堂々と捲したてている。その様子は厳しく躾がなされている貴族女性像からは、かけ離れていた。

「助けてくださったついでに、私のお話を聞いてくださいますか?」

 ついでですか?強引ですな…。

 何か切迫した事情があるのでしょうか。

 彼女は自身の胸に押しあてた手のひらをヒラリと主人に差し伸ばすと、それを皮切りに怒濤の如く話が始まった。

 御令嬢の主人へ一方的に話した内容を要約すると…。

 彼女は貴族子女で、自身の出生は間違いなくしっかりしているのだが、彼女の弟の母親、つまり義母の身分は低い。それでも、資質や教養があり、気立や所作も申し分ない弟を、彼女は家の跡取りとして推しているのだそうだ。

 しかし、弟の出生のことを幾度も取り沙汰している母方の叔父が、自分の息子へその地位を継がそうとたくらんでいて、彼女と従兄弟の仲を取り持とうと、形振なりふり構っていられない様子…。

 最終的に後継者を決定するのは彼女の父親であるが、父親は周りの意見に流される人らしい…。

 今後の行く末が不安な彼女は、後ろ盾になってくれそうなやんごとなき方から、紹介された見知らぬ相手と婚約を結ぶという。

「私、婚約契約を交わすために、この街へ参りましたのよ」

『つまりは腹違いの弟のために結婚を決めたってことだよな?』

『そのようですね』

『幸せ者だな。その弟』

 幸せか、どうかは弟の気持ち次第ではないだろうか、姉の政略結婚で成立する当主の座は果たして幸せと言えるのだろうか、主人の言葉は全て肯定したい私だが、断定できなかった。

 主人は全面的に彼女の話を鵜呑みにして信じている。もしかしたら、衛兵に追いかけられていた罪を犯した逃亡犯かもしれないと疑いもしていない。

 まぁ、主人の直感力は野生並みで違えないだろうし、この御令嬢に人を騙すという素質はないだろう。身のこなし、身なりも十分すぎるほど貴族令嬢に間違いなく、私も見解は同じだ。ただ、話し好きではある。

 騎士道精神に則ってという理由だけでもなく、女子という存在はそれだけで主人の庇護欲をそそるらしい。

「貴方は何も答えてくださらないのですね。私が一人でお喋りをしているみたい」

 彼女がこぼす。主人は声が出せないので沈黙のまま、彼女の話を相槌を打ちながら聞いていた。

 ここは彼女が均衡を崩した城壁の回廊だ。城壁に等間隔で建っている塔の建物の影に私たちは身を隠している。各壁塔は階段が備わっており、市街地と壁上歩廊と行き来できるようになっている。高い場所だけあって、吹きさらしの風が毛を乱すが、体にあたると爽やかで心地よい。

 兵士の何人かは回廊へ立っていたが、気配に敏感な私が誰もいない場所を探しだした。戦時中でもなく、元々、衛兵の数も少ない。城下で私たちが起こした騒ぎがあったので、そちらへ人員が割かれているようだった。

『メモどこやったっけ?』

『お店でそちらの外套のポケットへメモを押しこんでましたよ』

 主人はパタパタと外套を叩き、ポケットの位置を確かめるとメモとペンを取り出し、サラサラと書きこむ。

「…む…かしの怪我が…原因で声…が…出せない…。…ごめんなさい、私」

 主人が話せないことを知らなかったのだから反省することはないのだが、申し訳ないという気持ちが表立っている。令嬢の沈んだ面持ちを慰めるように、主人は頬を緩める。

「今まで気づかなかったけど、貴方って、とても綺麗な目をしていらっしゃるのね。何故だか少し怖いけど、夜空のようで届かない深い闇に飲まれそう…」

 そりゃ、あれだけ夢中で話していたんですから…。気づかなかったでしょうよ。

 フードの合間から垣間見た主人の笑み。彼女はふと言葉を紡ぐと主人へ指先を伸ばして戸惑い、目を逸らした。

 西の魔女よ。すごい効果ですよ、この外套。

 一般人がここまで近寄っても、主人に畏怖を感じていない。ご令嬢は視線を外しはしたが、恐れではなく照れたからだと私は認識した。ここまで効果的麺とはすごいものを開発したものだ。

「明後日…。婚約をお誓いする方とお目見得いたしますの。けど、私、その前に一つだけ願いがあって…」

 彼女は颯爽と立ち上がった。紺色のスカートの裾が風で煽られた。

 しばし、青空を眺めて彼女は思いを馳せていたが、決心した面持ちで口を開いた。

「私、自由恋愛をしたいんですの‼︎笑いたければ笑うがいいですわっ‼︎」


 先ほどの勢いは何処に行ったのだろう。彼女は茹で蛸のように真っ赤な面持ちで、頭から蒸気が蒸発でもしそうだ。

「別に…。そのぉ…。だっだっ男女の関係をとかっ…。なっ何を言ってるんですの‼︎私。そっそっそんなのではないんですの‼︎これから、婚約をするのだし…。そっそんな…。はしたない』

 グルグルと回旋しながら同じ所を歩いている令嬢の目は泳いでいる。

 先程までの堂々とした出立から随分と一変したものだ。

「甘酸っぱいっでしょうか?目が合うだけで胸の高鳴りが抑えられないっていうのかしら?」

 頬を両手で挟んで、懸命に説明をしようとする令嬢の口が突いてでる。

「おっ、おっ、乙女の気持ち。乙女なら分かるはずだわ」

 その言葉に呆気にとられた主人は、吹きだしてしまった。

『オレ、乙女じゃないし…。マーリンも雄だしな』

 本人は真剣です。腹を抱えて笑わないであげてください。主人…。ほらっ、あの方。涙を溜めてるではないですか。

『ごめん、ごめん。可愛くて』

 主人からみれば、妹のように思えるのだろうか。主人の心を支配しているのは、唯一人の女性だから、他の女性に心を奪われることはないはずだ。実際、主人に妹はいないが…。

 主人は謝罪の言葉を述べたのだが伝わるはずもなく、彼女は顔を背けると拗ねてしまった。

「笑うなんて、酷いわ‼︎私の気持ちは本気です‼︎」

 主人は困り顔で令嬢へ歩み寄り、風が弄んでいる赤毛を柔らかく撫でるように彼女の頭上へ手を置いた。前とは違った意味で耳まで赤く染まる。

 スノーが泣きじゃくっていたときも同じように宥めていたような…。よっ!このタラシ!

 あっ、主人に対して、ご無礼を…。

『機嫌、治してくれ』

 主人の意図は計り知ることができないようだが、背が高い主人を下から見上げていた令嬢は不思議そうに様子を覗っていた。しばらくして、彼女はまつ毛を軽く伏せ、話を続けた。

「ほんの少し、従者の目を盗んで宿舎を逃げだしましたの。こんなに大事になると思ってませんでしたし」

 お転婆なんですね、ご令嬢…。お供の方々のお気持ち察します。

 恋に恋する彼女。婚約を前にして一度は冒険をしてみたかったのだろう。

 しかし、私は翻弄されている家臣たちのことを慮ったしまい気の毒でならなかった。

 ご愁傷様です。

 届かない労いの言葉を心へ刻む。

 主人の前で身を翻して、彼女は背中の後ろで両手を組む。

「城壁なら城下を見渡せるから、もしかしたら、私の心を攫っていく殿方が見つかるかもしれないでしょ?」

 そんな短時間で都合よく見つかるわけないじゃないですかって…。

 彼女は主人の瞳を真正面で見つめた。

 あれ?そんな恋するような熱い眼差しで主人を見つめないでください…。

 んっ‼︎待て待て‼︎まさかですが⁉︎

 私は二人を仰いで状況を見守っている。交互に一人ずつの表情を観察するため、先程から首を左右に忙しく振っていた。

 まさかなのだろう、主人への視線に仄かな温かみを感じる。

 一抹の予感が私の胸を騒がした。

「身を乗りだしたのでしょうね。命を落としてもおかしくなかった…」

 彼女は落ちる直前のことを覚えてはいない。主人に受けとめられ、胸元で覚醒した後、城壁歩廊で城下を見下ろしていたことは記憶に残っていたので、城壁から落ちたのだろうと結論に至った。

 主人が居なければ、死んでましたよ、貴女。そうそう、吊り橋効果でしたっけ?

 緊張感、不安感や恐怖感に遭遇したとき、胸のドキドキを恋と勘違いする現象だ。

 きっと、きっとそれです‼︎ご令嬢‼︎それは恋ではありません‼︎

 ご令嬢…。えっと、お名前は…。

『アーサー様。私たち、この方のお名前を存じあげません』

『そう言えば…。そうだな』

 サラサラっとね。

 主人は再びペンを動かして、令嬢の目の前へメモを差し出したので、彼女はそれを読みあげる。

「…話の途中悪いんだけど、オレはアーサー。こっちはマーリン。でっ、君は?」

 息を飲む令嬢。

 そうです。私たち、まだ自己紹介してませんでしたね。

「命の恩人に失礼を致しました。私はヴィヴィアンと申します」

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