#1-1
今はまだ微睡みの中。
鳥の囀りもまだ聞こえず、山間の豊かな自然が鮮やかな朝焼けに染まり始める頃、そろそろ主人が起き出す時間帯である。
ベッドの掛け布団がもそもそと動きだす。
星が瞬く夜空のような前髪が、透き通る白い肌に一筋落ちた。
あぁ、私の主人は今日も美しい。うっとり。
私はいつまでも見守っていられる。
長い尾をハタハタと振りながら、主人の目覚めを待った。
しなやかなで長く、それでいて筋肉質な主人の腕が、ベッドから大きくはみ出る。
『おはようございます。アーサー様』
寝ぼけ眼で私の存在を認める主人。
『…あぁ、マーリンはいつも早いな。おはよう』
主人は上半身を起こすと軽い伸びをして、欠伸をする。
あぁ、身贔屓を差し引いても、実に麗しい。少し寝癖がついて跳ねた髪も、擦りよりたいほどに愛おしい。長い前髪から垣間見える深淵の闇に似た漆黒の瞳が、私の心を鷲掴かみにする。早く私を見ていただきたい、主人よ。
主人が目覚めたのを確認して、私の尻尾がハタハタからグルグルと回りだす。
『そろそろ、アルムが朝食を用意してくれる時間です』
『はわぁぁっ、そうか、今日も美味しんだろうな。アルムのパンは柔らかくて最高だよ。スープも畑から採れたての野菜で作ってくれるから、美味しくないわけがないよな。オレ、アルムの料理大好きだよ』
『仰せのとおりです』
主人はベッドから起き上がり、私に歩みよると、私の首に抱きつき顔を埋める。
はぅっっ、私の主人は起きたばかりなのに(寝汗をかいてるはずなのに)、爽やかな匂いしかしない。主人よ、ずっとこのままで。時よ、止まってくれ。
『ふわぁぁ、マーリン、今日も毛並みが綺麗だな。アルムが毎日ブラッシングしてくれるんだろ?アルムって本当に気が利くな。きっと、今日も朝食に搾りたての山羊のミルクが用意されてるだろう』
『いやいや、アルムのブラッシングはかなり痛いので、どうでしょう…。私はアーサー様さえ宜しければ、ぜひブラッシングしていただきたい。はっ‼︎アーサー様に対してブラッシングなどと、大変、不躾なことを申しました。お許しください』
若干、アルムに嫉妬を覚えてしまう。先ほどから主人はアルムを褒めすぎてはいないだろうか。いや確かに、アルムへ日々感謝の意を示したいと私も思ってはいるが、今は心から妬ましい。。
主人は私の首筋を撫でながら頷いた。
『分かったよ、今度ブラッシングしてやる。本来、オレがしてあげるべきだな。ごめん。気の利かない主人で』
私へ向けた主人の笑みがはじける。私、眩くて目が開けられません。
『なっなっなっ何をおっしゃるのですか。滅相もないお言葉、身に余る光栄でございます。アーサー様、ありがたき幸せ』
主人は徐に立ちあがると、白いシャツの寝巻きを脱いでベットへ投げる。
無駄な肉のない広い背中、隆々(隆々)たる筋肉に陶器のような滑らかな肌。
見惚れてしまいます主人。眼福。毎日、見飽きることがございません。
そんな私の邪な熱い視線に気づきもせず、主人はいつもと変わらない服、喉元まで隠せるタートルネックにタイトな細身のパンツへ着替え終えた。季節にかかわらず、黒衣を身に纏う。
主人は日の差しこんだ窓を開けて、新緑香る新鮮な風を部屋へ呼び込み、大きく深呼吸をした。そして、私に手を差し伸べ、慎ましく微笑むのだ。
『さあ、今日も生きよう』
『はい、アーサー様』
お手。
「おーいっ‼︎ご飯が出来たぞ‼︎」
丁度良い頃合いで、アルムの声が屋根裏まで響いた。
階段で一階まで小走りに駆け降りると、アルムが食事の支度を済ませて、椅子に腰掛け待っていた。
主人の予想どおり、山羊のミルクと焼きたてのパンが準備されている。ただ、スープはなく、採れたて野菜サラダになったようだ。他には目玉焼きへ熱々に溶けたチーズがのせたものが作られている。
「おはよう、今日は良い天気だ」
アルムは一言告げると、私たちの着席を待たずに食事を始めた。
『おはよう、アルム。いつも美味しいご飯ありがとう。いただきます』
主人はアルムに一瞥すると席に座った。
『アルム、いつもかたじけない』
私も指定の場所へ向かい、皿に盛られた干した鹿肉をいただく。
アルムは豪快にパンを千切り、口に放りこむとムシャムシャと頬張った。
アルムはあまり喋らない男で、食事の間は沈黙が続く。だが、その空気は穏やかで気の張ったものではない。主人もアルムに倣って食べることに集中している。
顔に刻まれた皺や白髪の様子からアルムの年齢は初老といったところか。種族としては人だが、職人特有の雰囲気がドワーフに似ている。主にチーズ作りを生業としており、チーズに必要である良質な乳を手に入れるため、山羊を育てるのはもちろん、小屋を建てたり、パンを焼いたり、畑を耕したり、あらゆる分野で手先が器用な男で、休むことなくいつも働いている。痛いが私のブラッシングもしてくれる。寡黙ではあるが善良な人間である。
食卓に並べられた食器もあらかた綺麗に片付けられたとき、主人はアルムに尋ねた。
『これから鍛錬をするんだが、その後、時間があるんだ。何か手伝い出来ることはないか?』
食器を重ねながら、アルムは主人に視線を移して表情を読みとると、少し考えて口を開いた。
「何かしたいってことなら、薪を割っておいてくれ」
『薪割り?仕事って言うより鍛錬って感じだよな。他に何かないかな。居候している身分なんだから、なんでも言ってくれ』
力仕事で頼りになるが、家事がからっきりダメな主人に対して、アルムは何も答えない。もしくは主人の意図が計り知れなかったか。主人は言葉を発せないのだ。
アルムは表情や行動を見て、人の気持ちが推察できる人間なので、主人との会話ができなくても慮ってくれる。たまに、主人の考えを間違って解釈することがあるが、主人との生活にほぼ不自由はない。
因みに、私は主人との意思疎通が思いのまま。主人が心で話していることを全て聞ける。そして、主人へ話しかけることも可能だ。私は黒妖犬、俗に言うブラックドッグである。主人と会話ができる他、火を吐くのもお手の物で、犬にも人にもできないことが多々できる。
『なぁ、アルム。他にも仕事したいな』
主人がアルムの服の裾を軽く引っ張る。
不服そうな主人にアルムは気づくと、眉をひそませて一言告げた。
「むっ…、今日は薪割りしかない」
『アーサー様、アルムは朝日も昇る前から仕事をしているため、薪割りの他に力仕事はもうないようですよ。お手伝いなさるなら、もっと、早く起きて頂かないと…』
日頃の感謝を込めて、私はアルムに助け舟をだす。主人が家事をしようものなら、確実に何かが壊れる。その場合、アルムは後始末が増えるだけだ。私も落ち込んだ主人を、何時もかけて励まさなければならない。それはそれで、ずっと主人の傍らに居られるので幸せなのだが…。
『早く起きれるはずがない。ここの布団はいつもふかふかで…。あんなふかふかなものに包まれたら、これ以上の早起きなんてできるはずがない』
主人は悪びれる様子もなく、真顔できっぱりと断言した。
主人…。
それは、主人がいつも鍛錬で野山を駆け走っているときに、或いは、木の葉相手に剣の稽古で明け暮れるときに、アルムが布団を干してくれているからで…。
なんて、言えない…。
不意に玄関扉に備えている鈴が鳴る。開ければ鳴る仕組みになっているのだ。山羊飼いのペーターが扉から顔を覗かせる。
ナイスタイミングで来てくれた。ありがとう、ペーター。
「爺さん、山羊を預かりに来たぞ」
毎朝、ペーターは村中の山羊を集めて放牧している。
「いつもすまんな」
アルムがペーターを労う。
「仕事だし、こっちも賃金の他に色々分けてもらってるから、気にすんな。この間、もらったパンだけど、うちの婆さんが柔らかくて美味しいって…。あれっ、ここの釜で焼いてるんだろ?今日も貰えないか?」
ペーターの頭を、節の太い無骨な手でガシガシと撫でながら、アルムは黙って頷く。ペーターは顔を真っ赤にしながらその手をはらう。少し生意気そうな顔立ちに健康的な手足。育ちざかりの少年である。
「いつまでも子供扱いすんな」
そんな微笑ましい状況を、主人は目を細めて見つめている。あぁ、主人。溢れる笑顔が眩しいです。
『ペーターって、無邪気だな』
ペーターはアルムの肩越しに、主人の姿を確かめると硬直した。主人の端正な顔貌は、笑うと妖艶さが増して、一般人には何か良からぬことを目論んでいるように見えるらしい。
何故、私がペーターの心を読めるのか?何度も言うが、私は精霊のブラックドッグである。会話ができるのは主人だけ(一部例外あり)だが、犬に似通った習性か?或いは精霊の特質か?状況と動向で人の思いを感じとってしまうのだ。
主人はいつもどんなときも、馬鹿がつくほど純粋なのに、ペーターに限らず多くの人から誤解を招いている。
『オレ、避けられてる』
視線を逸らすペーターへ、主人は辛そうに眼差しを注ぐ。しかし、ペーターからすれば、主人の鋭い眼光に晒されており、そのせいで背中に冷汗が滲んでいるのだ。
『アーサー様、不憫です』
『えっ?何が?』
はっ、つい主人に語りかけてしまった。
「あぁ、そうだ!家の前でウロウロしていた奴がいたんだ」
ペーターは思い出したように、または、ペーターと主人の間を漂う空気を打ち消すかのように、大きな声をあげた。
「入れよ」
ペーターの後ろから小さき者が申しわけなさそうに、ゆっくりと姿を現す。
ふむ、これは愛らしいハーフリングだ。緑のベレー帽からはみだしているのは黒々とした巻毛。張りのある玉のような白い肌に映える赤い唇。ほんのりと桃色に染まったふっくらとした頬。何よりも際立つのは小動物のような上目遣いの潤んだ瞳。フリルを縁どった緑のケープがよく似合っている。
『可愛らしい客人だな』
主人は来訪者に対しての印象を述べた。
「初めまして、漆黒のアーサー様。お初にお目にかかりますスノーと申します。お噂通りの黒毛が豊かな方ですね」
スノーは慌てて脱帽すると、お腹の前で帽子をグシャグシャに握りしめる。
むっ、ぎごちなく挨拶をすませるその姿は、まさしく何かに怯えて震える栗鼠。だがしかし、問題はそこではない。
『私はマーリンです。アーサー様ではございません。アーサー様はあちらにいらっしゃいますよ』
スノーは私に向かって会釈をしていた。涙が薄らと浮かんでいる。
私、ちょっと怖いですか?まぁ、泣く子も黙るブラックドッグですしね。
「そいつはマーリンだ。アーサーは…」
見かねたアルムが主人を親指で示す。
『アルム、何て失敬な!アーサー様を指差すなど、不敬にもほどがあるぞ』
私はアルムに悪態を吐きながら、主人の足元に纏わりつく。
『オレがアーサーだよ。漆黒のアーサーなんて、誰が言ってるのか?』
従僕…。しかも犬と間違えられたなど気にもせず、主人は慈悲深く上品な笑みを湛え、右手を軽く挙げる。一服の絵画を鑑賞しているかの如く、立ち振る舞いが完璧な主人だ。
ただ、主人の品位は欠片も伝わらなかったらしく、スノーは肉食動物に睨まれた栗鼠のように、微動だにしない。
「じゃあな。オレは行ってくる」
ペーターはそそくさと山羊を連れて出ていった。残されたスノーはペーターに続いて、今にも部屋を飛びだしていきそうな勢いだ。額から大粒の汗が噴きでている。
「大丈夫だ、アーサーは間違えられたことを何とも思ってない」
スノーが主人に対して恐れを抱いていると感じとったアルムは、凪いだ声色で主人の気持ちを代弁した。
『アルムの声って落ち着くな。鎮静効果があるって言うか?』
肯定の意味も含めて、私は畏れ多くも主人の膝に頭を預ける。主人は私の首部を優しく撫でてくれる。
あぁ、至福のひと時…。
「何かの依頼だな?」
スノーは必死に首を縦に振る。
アルムは主人の席から食卓を挟んで斜め前の椅子を引出し、スノーの背を軽く押して着席するように勧めた。椅子の高さに少しもたつきながら、スノーが着席したのを確かめると、テーブルに置かれたままのピッチャーから、山羊のミルクを一杯注ぐ。そして、物音を立てず、カップをスノーの目の前へそっと差しだした。
スノーはそれを両手で包みこんで持ちあげ、小さな口に含む。ゴクゴクと喉が鳴った。
「美味しいです」
「そうか、それは良かった」
アルムの口元が綻び、目尻の皺が一層深く刻まれる。
『用件は何だろう?』
アルムが主人の視線に気づく。
いつからか、主人は誰とはなしに何かしらの頼まれごとを請け負うようになった。
「用件はこれからアーサーに話すといい。全てを話し終えて、アーサーが席を立てば交渉成立だ」
「あのぉ、成立たなかったらどうすれば…」
「過去、アーサーが席を立たなかったことはない。こんな風貌だが、安心して話せ」
『こんな風貌とは何ですか?確かに、こんな素敵で可憐なアーサー様を、見られただけで自由を奪われそうで怖いとか、後ろに立っただけで瞬殺されそうで怖いとか、触られただけで呪われそうで怖いとか云々。皆から言われてるのは確かですけど、度重なる不敬!ほどがあるぞ!アルム!』
『マーリン、お前がな』
あっ、主人が私の言葉の刃で傷ついている。慌てふためく私。覆水盆に返らず。
『そんな力は持ち合わせてないんだけどな…』
沈んでいく主人。
『私の失言をお許しください。アーサー様』
アルムはそんな私たちの会話を知るはずもなく真剣な口調で続けた。
「ワシはこれから畑に行く。何かあれば、ほらっ、すぐそこの畑だ」
窓の外に広がる畑の場所を指差す。
「呼びにこい」
アルムは基本仕事人間なので、午前中に済ませる仕事は午前中に終わらせるという使命感に燃える男だ。因みに地道な農作業も、主人はお呼びではない。
多少、頼りなさそうな客人のことを心配はしているようだったが、一度だけ振り返ると、そのまま扉を開いて出ていった。鈴の音が部屋に響く。大丈夫だとアルムなりに、判断したのだろう。
スノーは意を決したようにミルクを飲みほすと、カップをテーブルの上へ戻した。
主人は腰掛けたまま、テーブルに肘をつく。両手を組んで顎を乗せ、前屈みになり、話を聞く姿勢を整える。
主人と相見えないように俯いたまま、スノーは静かに語り始めた。
「僕は小さな集落の外れの森で、林檎を収穫しながら、林檎パイを焼いて提供しているお店の店主です」
ふむふむ、こんな愛らしい店主が接客をしてくれるのなら、常連客も多いでしょうな。
私は尻尾を振りながら、主人を仰いだ。主人は相槌を打ち、スノーの話に耳を傾けている。
「お店はそこそこ繁盛してまして、ハーフリングだけでなく色々な種族のお客様が足を運んでくださいます。美味しいって、近隣の村々ではちょっとした有名店なんです」
スノーは頭を掻き、少し照れたように笑う。ただ、主人の顔は一向に直視できていないようだ。
「細々とはしていますが、今まで不自由なく暮らしていました。だけど最近、奇妙なことが続いて…。変な手紙が届いたり、その時ぐらいから、お越しいただいたお客様が道中でお怪我をしたり、この間は僕に向かって仕掛けのされた矢が飛んできたりで…」
んっ、矢が飛んできた?
私は首を傾げた。命中したら怪我どころではない、死ぬな。
「偶然、お客様で来られたモードレッド様が助けてくださったんです」
何⁉︎モードレッド⁉︎
あの金髪碧眼の甘いもの大好き大魔王が、林檎パイを食べにスノーのお店へ訪れた。うむ、その林檎パイ、一口で構わない。食べてみたい。
あっ、涎が…。
『モードレッドが絡んでいるんだな』
主人はモードレッドの名前を聞いて、自覚はないようだが、自然に頬を緩めた。モードレッドは私の主人にベタベタと触る嫌な奴だが、主人にとっては大切な友人だ。
「私、目掛けて飛んで来た矢を、モードレッド様が素手で掴んで、何事もなかったんですが」
飛んで来た矢を素手で掴む…。相変わらず、魔王ぷりっを発揮している。
「もし、モードレッド様がいらっしゃらなかったら、多分、僕はあの世行きです」
『それは大変だったな、お前が無事で良かったよ』
主人は安堵の吐息を漏らした。
「モードレッド様から紹介されて、ここに来たんです。アーサー様なら、何とかしてくれるだろうって」
黒目がちの丸い目を涙で潤ませながら、訴えかけるスノー。これは巷で流行っているあざ可愛い仕草というものか。相変わらず、主人と視線を合わせられないようだが…。
『モードレッドの頼みなら断れないか』
主人が私へ同意を求めるように目配せするが、モードレッドを介さなくとも、主人の答えは変わらない。この方の性格では、弱き者の頼みを断われるはずがない。
『分かった。お前はオレが守ろう』
主人が静かに席を立ち、依頼は受諾されたのだった。
主人は玄関扉を開けて、スノーを外へ連れだした。空高く晴れており、燦爛たる日の光に主人は手をかざす。
「出掛けるのか?」
アルムが畑から鍬を片手に顔を見せる。背丈ほど成長した作物の折り重なる葉が、アルムの肩に触れて揺れる。
『ちょっと出掛けてくる。数日は家を空けるかもしれない』
「薪はまだあるから、薪割りはいつでも良い。気をつけて行って来い」
時々、二人の言葉は噛み合ってないのだが、それでも気持ちは伝わっている…はず。
『行ってきます』
『アルムよ、行ってくる』
「おじいさん、ありがとうございました」
私と主人の言葉はアルムへ届いてはいないのだが、私たちはアルムへ各々挨拶をすませた。
あれっ?さて、私たちは何処へ向かえば良いのでしょう。