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宵闇に浮かぶ月は大きく真円に近く、白夜とは言わぬまでも、明々とした光が雲間から覗く。
近くには隆々たる淮河が、月光に輝く軌跡を地に引いて流れ、この時節にしては湿った風が吹く。
江風は雲をたなびかせ、行きつ戻りつその形を自在に変えるようだ。
つ、とその下に銀光が幾筋かの軌跡を残し、闇に呑まれる。
中天にかかる月から目を下ろせば、そこは喊声と火花、怒号と鉄がぶつかり合う、血風の巷であった。
この年、魏の正元二年。
西暦にして255年、世は俄かに起こった争乱に、いや、うち続く乱世に深くため息を漏らすかのようであった。
地上においては至尊の地位にあるはずの皇帝・曹芳が、廷臣である大将軍・司馬師の手によって廃立されたのは、前年の事である。
代わって帝位に着いたのは、まだ数え十四歳の少年であり、司馬師が成人し分別をつけた皇帝を疎んじ、御し易い幼帝に挿げ替えたのは誰の目にも明らかであった。
かつて世代を超える英傑・曹操が基を創った魏朝が、司馬一族に壟断されている、と世評される由縁である。
あるいは、それすらも思惑の一つかも知れぬ。
魏朝に忠心を持つ者を炙り出そうと図ったか?
司馬師は他者にそう思わせるような、どこか薄暗い光を眼底に秘めた男だった。
これに反して決起したのが、都督揚州諸軍事として、寿春城に駐屯し、孫呉方面の軍権を握る毌丘倹であり、共に立ったのが魏の揚州刺史にして勇猛を以って聞こえた猛将・文欽である。
彼らは挙兵と共に各地へ檄を飛ばし、呼応する勢力を待ったが、冷徹なる司馬師はその時間を貸しはしなかった。
まるで予定通りであったかのように、追討の兵を差し向けるや、毌丘倹と文欽の軍を包囲する形成を即座につくりあげたのだ。
先手を打った筈の毌丘倹と文欽は狼狽し、窮した反乱軍は、打開のための攻勢を決意。
そして今ここで夜襲が起きている。
『存外に…』
強い。兵旗の乱れる方角を透かし見て、独りごちる。そこには馬に跨り姿勢良く背筋を伸ばした男がいた。
鄧艾、字は士載。
その身は魏の兗州刺史・振威将軍の位にあり、この戦場を指揮する一方の雄である。
確かに敵手たる文欽の驍勇を聞き知ってはいたが、予想を上回る鋭鋒に意外の念を禁じ得ない。
この鄧艾という男はもともと文官として立身し、司馬宣王…のちに天下を統一する晋帝国の高祖と呼ばれる人傑・司馬懿に見出され、軍旅にあって並ならぬ才覚を発揮した天性の用兵家である。
かの丞相・諸葛亮亡き後の蜀漢軍を率いて北伐する漢の大将軍・姜維と雌雄を争った事もある一世の英傑の一人だ。
そもそも先だって司馬師から鄧艾に下された命は「弱を示して敵を誘い込む」というものであった。
司馬師という策略家は敵手を包囲する形勢を成しながらも手を緩めない。
さらに毌丘倹等へ誘いの隙を見せて、固く守り備える事を許さず、故意に攻めかけさせたのだ。
全てはこの冷徹な男の掌である。
そのため鄧艾は寡勢ながら急進して「楽嘉」の地に至り、敵の動きを誘い込んだのであり、その計略は上首尾となり、策に乗った賊軍は予想通りの夜襲を掛けてきた。
とはいえ鄧艾も諾々と囮の餌、勝利への供物になる気はさらさらない。
計略として陣立ての外には弱卒を置いたが、一皮剥けばその内側には、彼が心を砕いて鍛えた精鋭を配置している。
例え賊軍が陣に斬り入ろうと、それらが即座に遮り、跳ね除け、なろう事なら包み撃ちとすべく身構えていたのだ。
それがこうも無残に斬り破られ、追い立てられ、既に三の陣にまで、押し込まれている。
鄧艾としては全く予想外の展開であった。
『自分は敵の力量を甘く見積もったのか?』
そんな疑念も過ぎるが、すぐに気持ちを切り替えた。
相手は勇名轟く歴戦の武人。先達との経験の差、という側面もあるのかも知れぬ。
僅かな沈思の時間から戻ると、傍の側近の一人に手振りで指示を出す。
言葉は発さない。この主従はそれだけで通じるのだ。
己が意を汲み取った側近が肯くと、最後に短く
「…い、行け」
とだけ付け加えた。
側近の兵は心得たとばかりに、馬を輪乗りにして周囲に指示を下すと、従騎を伴って牙門を走り出る。
鄧艾には生来から重度の吃音があり、それを人一倍恥じる彼は平素から言葉少なく、戦場にあってすら今のように振る舞う。
しかし、彼と苦楽を共にして来た部下には十分伝わった。
その成果に、瞬間満足気な顔を浮かべた鄧艾は、やはり己の配下ならば十分に戦える、と自信を新たにした。
鄧艾麾下の陣列が動き、弩弓を携えた兵の一部が、足早に移動を開始する。
向かう先は今まさに激闘を繰り広げている部隊の後背だ。
どうやら敵の先頭に生半でない驍勇の持ち主ーー恐らくは勇名高い文欽であろうーがおり、騎兵を以って陣列に裂け目を作り、そこを押し広げて鄧艾軍に出血を強いている。
ならば機を見て陣列を開き、弩の斉射で敵の騎兵の足を止め、そこを左右から分断する。
さすれば後続の歩兵と切り離された騎兵は孤軍となり、また足の止まった騎馬など、始末するのは容易い。
そう思いながら、暗がりの中をチラと西方へ視線を投げた。
姜維。
彼がこれまで戦って来た敵手は、驍勇・智略共に備えた一代の雄なのだ。
例え百戦錬磨の宿将といえど、自らの勇名を恃んだ攻撃など、幾らでもいなしてみせる。
そんな気負いにも似た高揚と共に、戦塵逆巻く渦に目を凝らす。
まだ遠い…今少し…もう少し…
「散!」
大呼して手を振り、合わせて戦鼓の音調が変わる。
敵軍に切り裂かれつつあった陣列が、すわっと左右に割れた。
そこには横列を成した弩兵の姿がある。
数瞬の後には弓弦が鳴り、突入して来た騎馬へ同時に矢が放たれた。
サアッという風切り音と共に矢が飛ぶ。
これで先頭を進む騎兵は、矢の雨に打たれ、もんどり打って倒れ伏すーーはずであった。
「…何?!」
信じられない光景を見た。
先頭を進んでいた一際体躯の大きい騎士は、放たれた矢を前に、避ける素振りすらなく、両手に持った二本の得物を旋回させ、飛来する矢を枯枝の如くに、全て叩き落としたのだ。
矢の雨が過ぎた後には、呆然とする兵の視線を集めながら馳駆する、銀甲の騎士の姿があった。