聖女様とのこれから①
「黒原くん……黒原くん!着きましたよ」
目を覚ますと家のエントランスの前に着いていた。
横には落ち着いた顔の白瀬がいて、優しく微笑んでいる。
外は相変わらず暗いままで、さっきより雨が強まっていた。
「お客さん代金は九百円だけど、今回はタダにしとくよ」
「……はい?いや、いきなりどうして……」
「どこにでもいる老いぼれた爺さんの気まぐれだよ。さあ早く行きな……」
少し寝たからと体調も回復する訳ではないので、身体は倦怠感を訴え続けている。
具合は更に悪化する前に早く行けという事だろう。
だが一つだけ気になるのは、運転手がさっきの和むような微笑みをしてたのが一変して、気に入った物を見るような目をしてニコニコしている。
「運転手さんありがとうございました。またお会いしたらお話をしましょうね」
「またね……お嬢ちゃん」
「よく分かりませんがありがとうございました」
「君も色々頑張るんだよ」
そう一言だけ残すと、ドアを閉めてタクシーは走り去っていった。
雨の中エントランスの前に二人取り残されたが、話す事もなく身体の状態も良くないので早々と中に入る。
エレベーターに乗りながら、運転手が去る前に言い残した色々頑張れというのがどういう事なのか考えていた。
風邪を早く治せという事で深い意味はないのかもしれないが、ドアが閉まる前のあのやけにニコニコしていた運転手の顔が引っかかる。
視線を感じて横を見ると、白瀬が申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。
「荷物持たせてごめんね」
「これくらいはさせてくれよ。家はすぐそこだし、それに俺はなんにもしてやれないから」
料理は任せきりになるし、おそらくもう風邪の事も隠しきれていない。
さっきの運転手は俺が寝ている間に何か話したのだろう。
だとすれば放っておいてくれと言っても白瀬はそうもしてくれないだろう。
幾ら勉強が出来ようが、人よりも努力しようが誰かに迷惑をかけるようでは外面が成長しようとガキのままだ。
風邪のせいが考えが全てマイナス思考になってしまっている。
「黒原くんは私にたくさんくれました。今まで知らなかったことも間違えないようにと教えてくれました」
「それもこれもただの気まぐれだったらどうするんだ?人の本質なんてこんな短い時間で見抜ける訳がない」
エレベーターは止まりドアが開く。
「とりあえず家に入ろう」
「はい」
無言で廊下を歩いていく。
ドアの前まで来ると無くさないようにと、念入りにしまった鍵を取り出し、解錠してドアを開けた。
家は相変わらず散らかったままで家に帰ってきたと思うと身体の力が抜けて膝から崩れ落ちてしまった。
家へ帰ってきたという安心感で気が抜けてしまい、身体に入っていた力も抜けてしまったらしい。
「黒原くん !大丈夫ですか ?」
「大丈夫だから……そんな心配そうにするな」
「でも……」
「遥花が笑ってくれていた方が俺は元気が出る。だから心配は無用だ」
身体を自力で起こし、一人でキッチンまで歩き買ってきた物を置く。
そのままソファーに身体を預けた。
「黒原くんベッドで横になった方がいいよ!」
後から入ってきた白瀬は、まだ不安が顔に残った状態で勧めてくる。
誰かに心配されること自体は嫌ではない。
だが白瀬だけにはどうしてか心配をされたくないと思ってしまう。
「白瀬が昨日寝たベッドに寝れる訳ないだろ。甘い匂いでもっと頭がおかしくなりそうだ」
「それは……悪口ですか?」
「悪口ではないが褒めてもないのか……?それに俺がそこで寝たら白瀬がソファーで寝る事になる。それはさすがにダメだ」
確かに布団はあるが長いこと使っていない為、一度洗って干す必要がある。
今は時間も遅く外は雨が降っている以上、どうする事も出来ないのは誰にでも分かる事実だ。
「私は泊めてもらっている身です。贅沢なんてしません」
「白瀬……この家にいる以上、それだけは守って欲しい。お客はもてなさないといけないだろ?」
「こんな事を私が言うのはおかしいかもしれません。でも言わせて下さい!黒原くんは私に言いましたよね?変な気は遣わず力を抜いて欲しいと」
確かに俺はそう言った。
そして白瀬は前よりも態度や口調や表情が柔らかくなったのは分かっている。
「確かにそう言った」
「ではどうして……黒原くんは私を見る時はどこか遠くの人を見るような目をしているんですか!」
それを聞いて俺は我に返った。
白瀬が間違った事をした時は距離を置いた。
それは手を出さない為という理由を盾に、少し遠くから眺める傍観者であり続けようとした結果。
白瀬の表情を見て恥ずかしさ故に物理的に距離を取った。
それは照れて赤く染った顔を隠す理由を盾に、人を信じる事が出来ない自分本来の面の表れ。
白瀬からの心配をされたくないという感情を持った。
それは心配をされる程に近い関係にある事を恐れ、そこから逃げようとした恐怖心。
「私は黒原くんが初めてなんです……こんなに温かい一日を過ごしたのは」
学校では静かで学問も運動も出来る。
そんな白瀬の事を『聖女様』や『女神様』なんて呼ぶような相手に気を許せる訳がない。
「私は人を信じるという機会に恵まれませんでした」
詳しくは聞いていないが親とも上手くいってないのだろう。
だから人の愛情も温もりも関わり方も教えられなかった。
「だからこそ……初めて気を許せる相手を信じずには居られないんです!」
俺の悩みが自分で小さいとは思わない。
だが白瀬が生きてきた今までの人生を思い、自分の悩みがどれだけ小さい物かを思わざるを得なかった。
「白瀬……『信じる』って言う言葉はたった一言だがそれで何人もの人が歴史の中でも死んでいる。今の現代社会の中だってな、信じて裏切られてはどこでも起きているんだよ」
自分が今まで経験した事を白瀬にはさせたくない。
「まだガキの分際で偉そうかもしれないけど、『信じる』って言う言葉はとても簡単に使えてそして簡単に人を裏切るんだ。俺はそれをよく知っている。だから無意識のうちにどこか遥花を信じられていなくて一歩離れたところから関わっていたんだと思う」
白瀬はこんなに真剣に信じてくれている。
だから俺も覚悟を決めないといけない。
「白瀬……俺はお前の事を信じる。だから俺を信じて欲しい」
「私はずっと信じていたよ!これからもよろしくね黒原くん!」
「おう……」
話す事に夢中になっていて身体の具合が悪いことを忘れていた。
また気が抜けて身体の力も抜けていく。
そのまま意識は瞼の裏の闇へと沈んでいった。