過去を夢見る少年が見た、泡沫の夢:仮想空間にて
僕はただ、あの日をまた見たかった。
あの二人が隣り合って笑っている光景を。
あの二人が幸せだったあの光景を。
――後ろからサイレンが聞こえる。僕を追ってきているのだろう。
今、僕の手には一つの圧縮データが収納されている。それを手に入れる代償はあまりにも大きかったようだ。
数週間前。この世界で、一人のアンドロイドが機能停止した。
僕がこの世界……仮想現実とみんなが呼ぶ世界に来て、とてもお世話になったアンドロイドだ。
もちろん、本物のアンドロイドではない。ただ、この世界に生きると決めた僕にとっては、彼女は正真正銘のアンドロイドとして僕の目に映った。
その隣には、いつも美麗な少年がいた。
少年はとても優しく、僕と同い年だと言っていた。その少年は彼女と共に、僕を丁寧にこの世界に案内してくれていた。
この二人にはとても返し切れないほどの恩を感じていた。だからこそ……役に立ちたいと思っていた。
唐突だった。少年の隣のアンドロイドは、突如としてその機能を停止した。
原因は分からない。ただ、同時に現実世界の該当人物とも連絡が取れなくなった。
僕は深く悲しんだ。ただ、それ以上に……彼は、そこからあまり笑わなくなった。
一緒に過ごしていても、誰かと話していても、遊んでいても。表面上変わってない様に見えても、心からの笑みは少なくなった。
だから、僕は彼女を取り戻したかった。その為に隠れて色んな無茶をした。
手に入った情報をすべてまとめて……出た結論は、意識そのものがこの仮想現実に囚われてしまった……そんな、到底信じられるものではない現実であった。
あり得ない、そんな、仮想現実に実際に意識を囚われるなんて。そう考えて居た自分もいたが、すぐにそうではないと分かった。
周りにも、そんな状態の人物が一人、また一人と増えていったのだ。
……僕は、あの二人の役に立ちたかった。だから、どうしても。最後まで、無茶をしてしまった。
アバターとしてシステムに侵入し、彼女のコアデータを圧縮。アバターの容量ぎりぎりだったが其処に詰め込み、逃げ出した。
後は彼女のアバターにそのコアデータを入れる……それでよかったはずが、簡単ではなく、追跡データにすぐに見つかってしまった。
そして今はただただ逃げている……もう、どれほど逃げたか覚えてはいない。
だからだろうか。僕はとある屋敷に逃げ込んだ。誰もすんでいない、廃墟の様な洋館だ。
其処で一息つこうと。そう、思っていたのに。
「……ね、そんな慌ててどうしたんだい?」
あり得ない。ここに居るはずがない。そんな声が辺りに広がり、慌てて周囲を見渡す。
……メインホールの階段の上。そこに、三人の影があった。
一人は、最近良く遊ぶようになった少女。不思議と大人な雰囲気を纏わせながらも、会話するとよく笑う少女の様な……そんな、狼耳が良く似合う少女。
「大丈夫?結構焦ってたみたいだけど……何かあった?」
その少女は、とても不思議そうな表情を僕に向ける。
「ううん。焦ってたと言うか。ランニングしてて、疲れてる姿を見られたくなくて此処に入ったというか」
「そんな嘘はつかなくていいんだぞ。私は全部知ってるのでな」
その隣のアンドロイドが声を上げる。彼も僕がこの世界に来て良くお世話になった人だ。
つかみどころがなく、ムードメーカーとしてみんなを盛り上げていたが……こんな真剣な表情で、かつ武器を構える彼を、僕は今まで見た事無かった。
「嘘……?ううん、そんな嘘なんて」
「なら、なんで君は此処に逃げ込んできたんだい?それこそ、後ろをそんなに騒がせておきながら」
……そして、最後に……僕が、ずっと慕っていた、彼が。あの少年が、いつもと変わらない笑顔を浮かべながら、そう問いかけている。
どうして、どうして彼が此処に……それに、事情を知っている様な。
「それは……貴方の役に立ちたくて」
「本当に?それは嬉しいな。……でも、それは返してきて欲しいな」
僕の右手を見ながら、彼は言葉を続ける。
「確かにそれは凄く嬉しいんだ。でも……君がその為に手を汚して、罰を受けるなんて未来が、僕は見たくないんだ」
「……もしかして、全部知って……」
「うん、知ってるよ。だから、それを返してあげてきて欲しい。きっと今なら、軽いBAN程度で済むと思う。僕からも説得しよう。だから……」
……ああ、彼は、本当に僕の身を案じてくれているんだ。そう思った瞬間、涙が視界を覆いそうになった。それと同時に、外から聞こえてきた会話が、僕を突き動かした。
「此処に逃げ込んだのか?そのターゲットは」
「きっと。だけど、あのハッキングは前例がない事件だったな」
「そうだな。きっとこいつは、見せしめにされるだろう。コアデータを盗み出した犯罪者として」
犯罪者。そうだ、僕は其れだけの事をしてしまった。きっと、許されることじゃないだろう。
彼は重い罪には問われないだろうと言ってはいるが、外の聞こえてきた会話からして恐らくそんなことはないのだろう。
それを自覚してしまった瞬間、涙をあふれさせながら僕は別の通路に逃げ出した。
「あ、ちょっと!?」
「ちっ、追うよ、早く!」
機械音声と女子の高い声。それが後ろから聞こえ、足音とホバーの音が聞こえる。そこから少しして、聞きなれた……彼の足音が。
「ごめん、みんな……!」
もう取り返しがつかないんだ。そう心の中で謝り、謝罪の言葉を繰り返しながら……僕は屋敷を当てもなく駆け回る。
裏口があればそこから逃げようとも、そう思った。だけど、どの裏口にも既にシステムが待機している。
にげる。ただ、ただ逃げる。逃げていく中、追ってくる音は何時しか二つに減っていた。
ホバーの音と、疲れていそうな女子の息遣い。
あの人はどこへ行ったのだろう。不思議に思いながら逃げていた。それがまずかった。
ドアを開けた先は、一つの部屋。他にドアもない。大きな窓があるくらいだ。
とは言えここは既に三階……あまりにも、高すぎる。此処から逃げることは出来ない。
「そろ、そろ……良いんじゃない……?逃げすぎて、余計罪が重くなったらそれこそ……!」
必死になっているあの子の声が聞こえる。きっと、二人は外で広げられている会話は知らないのだろう。
そしてこの罪の重さも。
「ごめん、僕はもう、逃げるしか……」
「……いい加減にしろ!おい、ドア破るぞ、離れろ!」
ホバーの音が遠ざかる……まずい、体当たりする気か!?
慌ててドアから軸をずらす。直後、アンドロイドがドアをぶち破り部屋に入ってくる。
勢いでドアは派手に吹き飛び、向かいの窓を砕いた。夜風が体に刺さる。
「こっちはお前の事を考えて……!」
そのままの勢いで反転し、その機械の腕が掴みかかってくる。
あまりにも冷たく。しかしその声にはとても感情がこもっていて。それがさらに僕の感情をかき乱してくる。
「でも、もう許されない事なんだ。だから……!」
「だとしても、厳罰は避けるようにしてやる!来い!」
そのまま、力の差で彼は窓の方に連れて行こうとする。
……あの外に出たら、僕はもう抵抗は出来ない。そしてきっと……
そう考えて、恐怖の方が……勝ってしまった。
「はな、して!」
「っ、な……」
暴れた拍子に、僕の足が強く彼の顔を蹴り飛ばし……僕から手を離した彼は、バランスを崩した。その体の行く先にはさっき砕けた窓がある。
声を上げる間もなかった。その窓から……重い、その機体は下に落下していく。大きな衝撃が響く。
落ちた。落としてしまった。僕が。暴れたから。
やってしまった事を後悔し、動けなかった僕を現実に戻したのは……涙ぐむ、別の声だった。
……ドアの外に、あの子がいた。涙を流し、信じられないような表情を浮かべ、僕を見ている。
「あ……う……」
僕自身もうろたえ、そして……本当に、罪を重ねてしまった事を自覚する。
冷静であれば、此処で自首すべきだった。これ以上罪を重ねないように。
けれど、僕は……また、逃げてしまった。その子の隣を駆け抜け……また、屋敷の中を駆け抜ける。
そして、逃げ込んだ先は……大きな、ベッドがある日だった。
「はぁ……はぁ……」
息を整え、ドアに背を預けながら座り込む。
僕はしてしまった事を。そして、重ねてしまった罪を。深く悔いながら……これからの事を考える。
もう、戻れない。彼のためにやったことも、彼の周りを傷つけてしまった。
もう、戻れない。そう思った瞬間、声を上げて泣き始めてしまった。
此処には、もういられない。そう思い、全てを諦め……様にも、もう逃げることは出来ない。
この部屋には窓もない。ドアは一個だけ。ログアウトは既に切断されている。今僕の意識は完全にこの仮想世界に囚われている。
この先に待つ結末は、きっと……永遠の、虚無。見せしめとされてデリートされるのか、トラッシュボックスに入れられるのか。
分からないが、もう、此処で一生を終えることは確定してしまった。そう考えているうちに……次第に、意識が遠のいていく……
そう、か。現実ではもうそれだけの時間がたっていたのか。意識が、保てなくなるほどに。
眠ってはいけない。逃げれない。もう、僕は……
何を考えるにも、もう考えがまとまらない。そして、意識は闇に飲み込まれていった。
――目を覚ますと、真っ先に飛び込んできたのは石で出来た天井。そして、レーザー。
レーザーは僕が外に出られないように張り巡らされており……触れた爪先は、音を立てる事もなく、データとして分解されていった。
あのまま寝てしまった僕は、捕まってしまったのか。
そして、ここはきっとデータの監獄。アバターに収納していたコアデータは既にない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。考え込む僕に、電話通信が飛んでくる。
応答だけは出来るようだ。通信を立ち上げて、真っ先に飛び込んできたのは……非難の声だった。
「どうしてあんな事をしたの!?どうして彼を突き落として……!どう、して……」
少女の声は、僕の心を深く刺した。
そのまま紡がれた言葉に僕は耳を疑った。
突き落とされた彼はその後意識を取り戻すまで時間がかかり……今もなお、この世界に帰ってきていないのだという。
現実世界でも彼は、その繋がりを断ち……今は、全くと言っていいほど連絡が取れなくなってしまったと。
それだけでも、僕がしでかしてしまったことの影響があまりにも大きいのは明白だった。
謝罪の言葉を述べる前に、ふと、違う声が入り込んだ。
「どうして?」
その声にはっと顔を上げる。そこには、悲しそうな。困惑している様な。何とも言えない、慕っていた彼の表情が映っていた。
その言葉に、僕は返答することが出来なかった。どうして、どうしてこうなったのだろう。怖かったから、逃げてしまったから。どれも言葉にすることができない。
「……いや、答えなくても良いよ。君が……僕を、あまり信用できてないって言う事だったのかもしれなかったから」
「そんな、こと」
「大丈夫。……あの子は帰ってこない。それでいいんだ。でも君までは失いたくなかった。……運営に問い合わせても、君を返す事は暫くできない。そして、この対話を定期的にする以外は許せないって」
……この、誰もいない牢獄で。彼が繋いでくれる通信だけが、僕が会話するすべて?
「通信は欠かさない。君を捨てることはない。だから、信じて待ってて。いつかまた、君を取り戻して見せるから。……時間みたい。また、今度」
なにも返答する間もなく、通信が途切れる。瞬間に、辺りを包む音が消える。レーザーがデータを削る音だけ。
きっと、いつか。彼が連絡できなくなった時。僕に訪れるのは……永遠に、この電子空間で一人で存在しているというだけのただのデータ。
そうか、このレーザーはそうなった時の……自決用か。
そう、わかってしまった瞬間に。僕は崩れ落ち、泣き崩した。
独断で動いた結果、周りを大きく変えてしまい、周りを悲しませ、自信を破滅させた。
それは、僕が望んだ光景なのか?彼が望んだ光景なのか?あの子が、望んだ光景なのか?
永遠と頭の中を思考が駆け巡る。巡り、巡って……それでも、それに答えが出ることはなかった。
――僕は、此処から出ることは出来ない。
僕はただ、あの日をまた見たかった。
あの二人が隣り合って笑っている光景を。
あの二人が幸せだったあの光景を。
それは、過去の素敵な光景で。夢見た結果、失敗してしまった。
夢は、夢で終わらせなければならなかった。過去はもう、取り戻せることはないのだから。