アンナ・マーナの手紙
短編「オフーダ屋マーナ」の続きっぽい何かです。
親愛なる我が従姉妹、リーナ・マーナ殿
早速のお返事ありがとう、リーナ!
とてもうれしく、ありがたく読みました。
こちらが移動していてもきっかり同じ日数で届くんだから、流石は世界一の交易都市・マリスの通信ギルドね。
嗚呼、それにしてもありがとう、リーナ。
あなたの文字にどれだけ心癒されたことか!
だってね、前回わたしがあなたに手紙を書いてから、これっぽっちも進展がないんです。
わたしは一刻も早く、マリスのあの小さな、スミとニカワとワシの香りの漂う、おばあさまの残された大切な店に、帰りたくてたまらないというのに! ちっぽけな、でもおじいさまからおばあさまへの愛情がたっぷりと残っているあの店に、はやくわたしを返して下さるようにどれほど頼んでも、ロレンツ様は聞いていないふりをなさるんです。
それどころか!
あの無駄にお綺麗な顔立ちで憂いを帯びた表情をされてご覧なさい? こちらはひとっ欠片も悪くないのに、なんだか悪いことをしたような気分になってくるんです。
だからでしょうか、女官の皆様も騎士の皆様も、みーんな見て見ぬ振りをなさいます。
ああまったく、こんな方がアマデウス殿下の筆頭騎士だなんて! 世も末だわ!!
……そんなわけで、下っ端魔術師アンナ・マーナのささやかな願いの叶う兆しは、まったくもって見えません。こんなことを書きたくもないのですが、お父さまたちに、アンナはまだ帰れなさそうですとお伝えください。
ところで。
前回の手紙にオフーダが燃えたことを書いたのは失敗でしたね。
きっとリーナは怒るだろうなとは思ったのだけれど、兄さまの手紙があんなに分厚くなるなんて、ちっとも思わなかったのよ。小包かと思ったら、まさかの手紙の束なんだもの! 油紙を開いてびっくりいたしました。
……兄さまに返信するとこちらに乗り込んできそうで恐ろしいので、あなたにだけ、そのときのことをくわしく書くわね。
あれは、わたしをふくめた殿下がたの御一行が『芸術都市・ステラ』の領主館に到着した日の夜のことでした。
――そうそう、流石は『芸術都市』というべきかしら、お出迎えは素晴らしかったのよ! ステラの城壁をくぐった殿下たちを、たくさんの踊り子や吟遊詩人、大道芸人たちの行列と花吹雪が迎えたの! あちらこちらで花吹雪や紙吹雪を隠した魔術玉がばんばんと爆発してね、まるでお祭りみたいな騒ぎだったわ。わたし、あんなに派手な行列ははじめてよ。
マリスの新年祭も豪勢だと思うけれど、華やかさでは負けているかもしれないわね。
……ごめんなさい、話がそれたわ。
到着したその日の夜、殿下がたの御一行が領主一家の晩餐の歓待を受けている間、わたしはロレンツ様のご依頼で、殿下がご滞在される部屋にオフーダをそっと仕込みました。ええ、もちろんわたしがこんな所まで来る羽目になったきっかけの、『女難回避』のオフーダです。殿下の枕元にひとつと、ロレンツ様の控え室にひとつ、絵の額縁の裏にひとつと彫刻の下にひとつ。それから窓辺の陶器のツボの裏にひとつです。
随分厳重だなって思ったでしょう?
わたしも「こんなに必要なのですか」ってロレンツ様に聞いたのよ。精霊様の護符だって、たくさん持っていればいいってものでもないでしょう? そうしたら、「これでもおそらく足りない」と仰って! わたし、とっても呆れました。
そりゃあね、お二方ともステラの華麗な俳優たちよりも魅力的なお顔をなさっておいでですし、魅惑の地位をお持ちでいらっしゃいますけど。そこまで? と思ったんです。思わず正直に、自意識過剰では? って聞いてしまいました。
――ああ、リーナ。貴女の呆れる顔が目に浮かぶようです!
そう、わたしったらまたうっかり、思ったことをぽろりと口にしてしまったんです。はっと我に返った時には、既に遅しでした。周囲の騎士さまや女官さまたちが、あんぐり口を開けておいででしたもの。わたしも不敬だと追い出されることを覚悟しました。
……それなのに、ロレンツ様ったら! あのつややかな黒髪の下の濃紺の瞳に憂いを浮かべて――そう、あの方はあの表情が本当にずるいのです。あの顔をすればほとんどの女は言うことを聞いてしまうと、ご存知なのに違いありません!――「そうであればどれほどよいか」と仰ったのです。
その時のロレンツ様ったら、なんだか捨てられて雨に打たれた子犬のようで。わたし、さすがに哀れな気持ちになってしまって。ツボの裏に貼ったオフーダに、いつもよりちょっと気合を入れて、おばあさまの魔術文字を書き足したんです。
『女難回避』の陣にこっそり『諸災消除』ってね。
そう、全然珍しいオフーダじゃないわ。ご近所の奥様方から町内会のご長寿さままで、最近なんだか嫌なことが多いなーって時に人気のあのオフーダです。
おばあさまの帳面には、「諸々の災いがなくなりますように」って神様(ええ、もちろん、おばあさまの故郷にいらっしゃるという、八百万の神々のことです)にお祈りする意味だって書いてあったわ。
ことが起こったのは、その日の真夜中でした。
殿下とロレンツさまが晩餐からお部屋に戻られたその時、突然『諸災消除』のオフーダが、火を吹いたのですって! もちろん真夜中、それも高貴な方のお部屋ですから、わたしはその場を見ていないのですけれど、オフーダから噴き出した火は壁をちょっぴり焦がし、お二方の見守る前で勝手に消えたといいます。
殿下やロレンツ様には何事もなく、ちょっと焦げ臭い匂いがした、そのていどだったそう。
でももちろん、大事件です。わたしは女官さまたちの部屋でぐっすり眠っていたのですが、なにか良からぬことをしたのだろうと疑われて叩き起こされました。
けれど、よその街で自分の連れてきた女官 (ということになっているのです)が事件を起こしただなんて、大事にするわけにもいきません。殿下方のご相談の結果、騎士さまたちに取り押さえられたわたしは椅子の上に縄打たれ、しばらくの間、女官さまたちのお部屋にあるクローゼット(とは言っても、あの店の工房ほどの広さのある一室なのですけれど)に閉じ込められることになりました。
ええ、もちろん! わたしはただ、いつものようにオフーダを書いただけです。
おばあさまに誓って! 手順を変えることもしませんでしたし、良からぬ文字を付け加えたりもしませんでした。ほんとうです。わたしが書いたのは、いままでご近所のみなさまに提供してきたオフーダと、全く同じものでした。
それは間違いありません。
そう自分を信じていても、疑われての一晩はとてもつらい夜でした。
涙こそ流しませんでしたけれど、縄打たれたまま床の上に一晩ですよ。腕も脚も痛いし寒いし、疲れているのに眠れないし、人の目は鋭いし。夜があんなに長いと思ったことは、後にも先にもありません。
――けれど、ええ。そうです。わたしがまんじりともせず夜を過ごしているその間に、前回お手紙に書いた通りのことが起きました。
夜が明けるほんの少し前、クローゼットの外からどったんばったんと、大捕物の気配がしたんです。女性の金切り声と男性の怒号、女官さまの悲鳴と騎士様の剣の音! 戦場とはあんな音がするのでしょうか、縄打たれたまま動けないわたしは逃げようもなく、生きた心地がしませんでした。
そんなどたばたとした音は一時間ほどもつづいていたでしょうか。わたしはクローゼットに忘れられたまま、ぶるぶると震えていたのですが、夜が白々と明けた頃、ロレンツさまご自身がわたしを迎えにいらっしゃいました。そうして仰ったのです。「貴女の護符の力は確かだった」と。縛られたわたしの前に、膝をついて、手を延べて! 一体なんのお芝居かと思いましたよ!
何事かと目をまるくしたわたしに説明してくださったのは、殿下とロレンツさまの乳母でいらっしゃるという、高貴な女官のかたでした。
まるで戦場のようなあの音の元は、殿下とロレンツさまがお泊りになるはずだった、オフーダの燃えた部屋でした。あの騒音はなんと、殿下がいらっしゃるだろうと夜這いに来たご令嬢と、殿下を傷つけようと乗り込んできた暗殺者が鉢合わせをした、その音だったのですって!
もっとも、オフーダが燃えたために、殿下とロレンツさまはひとつ隣のお部屋に移動していらしたので、殿下方はそのお部屋にいらっしゃらなかったのですけれど。
なんでも、殿下がたのお泊りになる予定だった部屋は領主の館でもっとも格の高い『貴賓室』なる部屋で、昔から王族やそれに準ずる方々をお泊めするための部屋だったのですって。そしてそこには、有事の際に貴人を逃がすための抜け道が隠されていたそうなのです。
夜這いに来たご令嬢――領主様の次女様だったそうですが――はかつて、酔っ払った領主様から抜け道のことを聞いていたそうなのですが、暗殺者もまた、古い館の間取りを極秘に入手していて、その抜け道から入ってきたのだろうということでした。
わたしの聞いた金切り声は、殿下がおらず諦めて抜け道から帰ろうとした令嬢が、刃を持った男を見てしまったために放たれた悲鳴だったのです。
「つまり君のオフーダとやらは、女難ばかりか暗殺者の凶刃という難までも避けたというわけなのだよ」
これはロレンツさまのお言葉ですが、ロレンツさまと殿下はお二方ともそうお考えになって、わたしを解放して下さることになったとのこと。そしてわたしはお二方に、あの『燃えたオフーダ』に何が書いてあったのか、白状させられることとなりました。
……もうおわかりでしょう?
そんなわけで少なくとも、殿下方の御一行が王都に戻られるまで、わたしがあの小さく愛らしい店に帰る事は難しそうなのです。
マリス・ジャーナルで既に読んでいるかもしれませんが、国内一周を予定されている御一行はこの先も、農業都市、辺境都市、商業都市、魔術都市――とまだまだ遊行されるそう。
わたしがマリスに帰れるのは、あと半年は先ということです。
あーあ。
はやくかえりたいよう。
親愛なるリーナ・マーナへ。
しょぼくれているアンナ・マーナより
追伸
もうしわけないのだけれど、次の便でわたしの工房の引き出しに仕舞ってある予備の文箱と墨を送ってください。それから、在庫のワシも!
*
「……おやおや?」
交易都市・マリスの賑やかしい商店街の少し外れ。朱色の瓦に漆喰の壁、黒塗りの窓枠がどこか東洋趣味の小さな魔法屋『オフーダ屋マーナ』で留守を預かる魔術師、リーナ・マーナは、ここしばらく不在の店主アンナ・マーナからの手紙をひっくり返し、その黒い瞳をぱちんと瞬いた。
「……まあまあ」
女性の手にしては力強い、黒々とした手紙の最後、庶民の間で広く使われている、少し茶色がかった目の粗い紙の下に、契約書でもなければお目にかかれないような、白くつややかな上質の紙が潜んでいるのを見つけたのだ。
「……あらあら」
その紙面に踊る、まるで飾り文字のごとく美しく整った曲線の文字から、ほんのかすかに滲んだ情熱を読み取って、リーナ・マーナはにんまり、両の口角をもたげた。
「アンナはお鈍さんだからなあ……これはジン兄ちゃんには黙っておいたほうが良さそうだねぇ」
愛らしい従妹殿の兄君は、従妹殿を大変にかわいがっているからして、こんな文面を目にしたならば即座に飛んでいってしまうだろう。何やら面白いことになりかけているというのに、それではつまらないではないか。
リーナ・マーナはニッコリし、従妹殿の手紙と美々しいメッセージを魔法屋の引き出しに丁寧にしまうと、従妹殿ご所望の文箱を探して席を立ったのだった。
*
彼女の身は我が命に代えても
この騎士が守り抜くと剣に誓う。
ご心配召されぬようお願い申し上げる。
ロレンツ・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ