<第五章>深遠の悲痛
<第五章>深遠の悲痛
「大助さん。見て――私たちの赤ちゃんよ、ほら!」
純白の手術室。その中央に置かれている大きなベットの上で、沖田綾は幸せそうに微笑んだ。
皺くちゃの真っ赤なトマトのような顔をした二人の赤子を丁寧に抱え、大助の目の届く高さに上げる。
「おお、ふてぶてしい顔してるな! こいつはどっちだ?」
大助は目つきの悪い、じっと自分の目を見つめて離さない赤子を受け取り、胸に抱えながら聞いた。
「その子は悠樹。こっちが敏よ」
敏の頭を優しく撫でながら、綾は答える。
「そうか、双子っていうから同じ顔かと思ったが……ははは、こんなに目つきが悪いと、直ぐに区別が出来るな」
「その目つきの悪さはあなた譲りなんじゃない? そっくりよ」
「……俺こんなに目付き悪いか?」
「寧ろそれ以上だと思うけど?」
含み笑いをする綾。つられて横に立っていた若い看護士の女性も顔を反らして口元を押さえた。
「か、看護士さんまで……」
大助はショックを受けたのか、がっくりと肩を落とす。
「落ち込まない、落ち込まない。大丈夫よ。成長すればきっと悠樹の目つきの悪さは治るから。心配しなくて大丈夫」
「フォローする場所違くないか?」
「そんなことより、あなた会社はどうなったの? 手術直前までは当てがあるってって言ってたけど……流石にもう本当の事を言っても良いわよ?」
「それって、俺がお前の身を案じて嘘ついていたってことか? 馬鹿にするなよ。ちゃんと決まったさ。篠原さんって知ってるだろ? 俺が学生の時にお世話になった――あの人が紹介してくれた。本当に心配はないって」
「そう、それなら良かった。あなたここんところずっと疲れたみたいな表情してたから……ちょっと心配になっちゃった。もうただの遊び人なんかじゃなく子を持つ父親なんだし、しっかり私たちを守ってよ?」
「ああ、分かってるよ。悠樹も、敏も……お前も必ず俺が守ってやるさ。お前たちは俺の全てなんだから」
自分の覚悟を確認するように大助は力強く答えた。その表情はどこか照れくさげで恥ずかしそうだったが、優しさと暖かさと愛に溢れていた。
再び自分と綾の腕の中でもぞもぞと動いている双子に目を移す。悠樹は相変わらず「クワッ」と見開いた白目で自分を睨みつけ、敏はかわいらしい顔で笑っている。
――こんな幸せを……失って溜まるかよ。俺が守るさ。必ずな……
そう再度心に刻み付けた。
耳元を轟音が駆け抜け、爆流のごとき流れの中に己の身がある事を知らせる。瞼を開けば視界一杯に水色の幕が掛かり、ここが地上とは別の世界ではないかと錯覚させられる。手足には無数の死者の手のような水が絡みつき、重く、意思に反して垂れ下がる。
足は三本の地獄の槍に貫かれ、命そのものとも言える赤い水を吐き出しながら、色を己を包んでいる世界と混じり合わせていく。
段々と目の隅に真っ黒な穴が見えてくる。ブッラックホールを思わせるような、地獄の入り口を思わせるような暗く、無感情で冷酷さに満ちた穴が。
どう考えても助からない。
大助は他人事のようにその穴を見つめ、思った。あそこに巻き込まれれば体はグチャグチャに砕け、ぼろ雑巾のようになってしまうだろう。いや、もしかしたら、上半身だけを上に残し地獄の苦しみに耐えなければならなくなるかもしれない。
――……地獄の苦しみか……はっ、笑えるな。
苦しみと考えた途端、自分の暴力を受けていた時の綾の顔が浮かぶ。
「大助さん、止めて――……! お願い!」
力なく床に座り込み、まだ幼い悠樹と敏をその背に隠しながら、必死に訴えていた彼女の青痣の付いた顔。
幸せにすると、自分を守ると誓ったはずの相手につけられた傷。
どれほど辛かっただろう。
どれほど悲しかっただろう。
あの時の綾を思い出すだけで体を深く、深く、底無しに抉りまわしたくなるような後悔と恥ずかしさ、苦しさが襲い掛かってくる。
――俺は誓いを破った。綾を、悠樹を、敏を守れなかった。苦しめた。一生直らない深い傷をつけてしまった。今更こんな俺が自分の身可愛さに恐怖するなんて……そんな権利があるわけがない。
大助は体中に残った力を振り絞り、足に刺さっている長い爪の主を見る。
「ショョオオォォオオ!」
その人魚のような怪物は、既に尾びれの一部を排水溝の中に巻き込まれつつも、まだしぶとく水の流れに抵抗していた。これほどの勢いのある流れに歯向かえるとは信じられない力だ。
『あんたが母さんを殺したんだ』
悠樹の言葉を思い出す。
成績優秀で、運動神経抜群、誰もが認めるような優等生だった悠樹。他人思いで明るく、人望の厚かった敏。
自分のエゴ、くだらない意地の所為でその全てを壊してしまった。
綾を死に追いやり、悠樹を堕落させ、敏の笑顔を奪ってしまった。
――もうこれ以上……あいつらから何かを奪うなんて……させてたまるか。
大助は流れを上手く利用し、水槽の底に人魚が爪を食い込ませている、自分の足を貫いている腕とは逆の腕の前に、身を躍らせた。人魚はこの腕の力で何とか流れに逆らっている。この底に食い込んでいる爪さえ外せれば、もう体を支えることは出来無い――排水溝に飲み込まれるはずだ。
既に大分水も減り、渦の勢いも弱くなってきている。これ以上長引けば例え人魚の爪を底から外せても、排水溝に引きずり込ませることは不可能になる。今を逃して人魚を倒すチャンスは無かった。
相手の腕にしがみ付き、大助は精一杯カッコつけて最後のセリフを吐いた。
「一緒に地獄に落ちようぜ」
「ガブリ」とその腕に歯を突きたてる。顎の骨の間接が外れるような勢いで、全身の力を乗せて噛み締めた。
「ショァアアッ!?」
人魚は腕を突き抜ける痛みに耳を劈くような悲鳴を響かせ、思わず底に食い込ませていた爪を引き抜き肘を折り畳んだ。同時に体を支える全ての支点を失い、暴れ狂う水の流れに逆らう術を失う。
「ぐっ!?」
こちらの腕で体を支えようとでもしたのか、奇跡的に大助の足を貫いていた爪が抜けた。血の線路を引きながら人魚の腕が遠のき、はっきりと移っていた姿が水の壁に阻害されぼやける。それでも辛うじて全体像は見ることが出来た。
初めは尾びれ、次は腰、その次は胸……順序良く体を排水溝に食べられていく。
「ァアアアアアアアアア――……!」
そしてとうとう、最後の声と共にその姿は闇へと消えた。
「親父ぃいいいい!」
「父さん!」
悠樹と敏はそれぞれ部屋の両端の足場から身を乗り出し、水槽の中に顔を突っ込んだ。
焦りか、悲しみか、恐怖か、怒りか、後悔か、何ともいえない複雑な、二人ともこの世の苦しみの全てを体現しているかのような表情をしている。
全ての水が消え、ただの広い凹みとなったその水槽の中に、光の速度で血走った両眼を走らせる。
自分の生みの親。
憎むべき母の仇。
そして命の恩人である父を探して。
「――何だ悠樹。俺を心配してくれるのか? らしくないな」
排水溝の直前、まだ僅かに水溜りが残っている水槽の中央で、ずぶ濡れの姿のまま大助は嬉しそうに笑った。
「と、父さん!」
敏は我が目を疑い、父の生存に安堵の溜息を吐く。
水の方が先に全て飲み込まれたためか、底の爪跡に手を引っ掛けていたためか、人魚が排水溝の蓋になったのか、大助は強運なことに生きていた。
「――心配なんかしてねーよ! あんたがやられたか確認しただけだ」
潤んだ目を拭いながら、悠樹はごまかすように声を荒げた。しかしどこかその声は嬉しそうだ。
あれほど憎んでいた相手なのに、あれほど嫌いだった相手なのに、不思議な事に今は全く負の感情を抱く事が出来ない。ただ、安心と、生存してくれたという喜びだけが胸の中に満ちていた。
「ははは、そういうことにしておいてやるよ」
大助は息子のあからさまな演技に可笑しさと親しみを覚え、笑った。数年ぶりに、心の底から。
今だけは、何の隔ても余計な感情もない親子に戻れた気がした。まだ綾が生きていた、家族仲良かった頃の様に。
ドスッ――
鈍い音が響いた。
厚く弾力のある何かを、鋭い刃で貫いたような鈍い音が。
バラを溶かしたのかと錯覚させられそうな、鮮やかな色の液体が流れ落ちる。
ゆっくりと、時間が止まったかのごとくそれは水槽の底に広がり、水と混じりあい大きな円を作った。
大助はそれを不思議そうに見つめた。
一体この液体は何なのか。
どこから出てきたのか。
何故自分の足元に広がっているのかと。
遠くの方で悠樹と敏が血相を変えて何かを叫んでいる。
――何をそんなに慌てているんだ?
二人の必死な悲痛に満ちた顔を穏やかな顔で見上げる。
やっとわだかまりが解けた。心を通じることが出来た。
その嬉しさだけが頭の中を支配し、年甲斐もなくはしゃぎたいほど気分が高揚している。
どうしてか段々と視界がぼやけてきた。
敏の凛々しい顔と、目つきの悪い悠樹の顔、自分とそっくりだと綾が笑った顔が見える。
その顔に真っ黒な霧が掛かっていく。
そこで初めて大助は、自分の胸から伸びている五本の鋭い刃に気がついた。そして足元の赤い液体がそこから流れている事にも。
「あ――……」
やっと事態を理解し、目と口を大きく開いて再び悠樹と敏を見上げる。
そして短く呟いた。
「――すまない」
それが――沖田大助の、この世での最後の言葉だった。
「――――――――――――」
自分が何を叫んでいるのかは分からない。ただ、大声を上げている事だけは理解できた。
串刺しにされた大助の姿を眼球の三百六十度全てに焼付け、とにかく無我夢中で声を上げる。
そうしなければ耐えられなかったから。
頭がどうにかなりそうだったから。
心が壊れてしまいそうだったから。
体の全てが一体となり叫び声になってしまったかのような、そんな感覚を覚える。
喉が傷つき、血を吐き出そうとも、手を固く握り締め、血がにじもうとも、悠樹は叫び続けた。
家族の死を悲しんでるからでも、後悔からでもない。そんな複雑な感情を抱けるほどの余裕なんか無い。
ただショックだった。
それだけだ。
それだけの精神的衝撃が悠樹の喉を、体を、意思を、震わせ続けた。
「シヨョオオオー」
人魚は大助の亡骸を腕の一振りで壁に投げ捨てると、上半身だけでなく尾びれまで体の全てを排水溝から出した。そしてそのまま遺体に構うことなく、近くに居た敏の方へと向き直る。
「……ぁああうぁああ……!」
生まれたての――自分の意思を言葉で表現できない赤子のような音が漏れる。ボロボロの尾びれで床を蹴り、近付いてくる人魚を、敏は一心に見つめた。
何故排水溝から出てこれたのかとか、あれに巻き込まれて無事だったのかとか、そんな理性的な考えは全く浮かばない。ただ恐怖と、なんとも表現のしようのない張り裂けそうな心の痛みだけが、頭を支配している。
それほど今目の辺りにした光景は衝撃的だった。
「止めろ……! 止めてくれ……」
僅かに我に帰った悠樹は震える声を吐き出した。
「母さん、親父……二人とも死んだんだ。もう……止めてくれ、敏まで奪わないでくれ……!」
精神的なダメージを受けた所為で体を動かす事が出来ず、敏へ歩を進めていく人魚の背中に、死人に等しい青白い顔で訴える。もはやこの水憐島に来てからずっと余裕ぶっていたあの顔は毛ほども見えない。だが、それは至極当然の反応だった。
悠樹のあの余裕は諦めから来ていたものだった。
家庭内暴力を繰り広げる父、絶望の中で死んでいった母、それを止めることの出来なかった自分。平和な生活を、平和な家族を、まともな人生を、全てを諦めていたからこそ、いつ死んでも構わないという、どこか自分の命を軽視しているような態度を生み出していた。
しかし、それは大助や敏と行動を共にする間に変わっていた。お互いの命を助け合い、本心をぶつけ合う。幼少の頃には決して叶わなかった本当の意味での意思の疎通を繰り広げた。
大助の変わりよう、謝罪の言葉、久しぶりに見る弟の元気な姿。それらの要素が絡み合い、悠樹に生きたいという感情を知らず知らずの内に作り出していた。その感情が大助の死によって今、表に出てきてしまったのだ。
悠樹はもう、この状態をゲームのように楽しんだり、簡単に死ねるような覚悟を持つ事が出来なくなった。恐怖で足が震え、体に力が入らない。
もう、まともに動く、逃げることは叶わないように見えた。
「……この……――」
だが、生まれもっての才能はそれを許さなかった。
人魚の怒りと痛みを感覚により共感し、ショックで放心していた頭の中が流れ込んでくる新たな感情に支配される。
次第にそれは、悠樹の全てを憎しみに染めていった。
気がつくと、悠樹はナイフを逆手に持ち立ち上がっていた。先ほどの状態が嘘のように堂々とした態度で仁王立ちしている。
「ぶっ殺してやる……!」
鬼のような形相で、足場から水槽の中へ飛び降りた。
「あ、兄貴――来るな! 逃げてくれ!」
悠樹の憤怒を感じ取ったのか、敏も多少の自我を取り戻し叫んだ。
だが悠樹は完全に我を忘れ、ナイフを腰に抱えたまま真っ直ぐに突っ込んでくる。あのナイフでは大した傷を与えることなんか出来ないし、たとえ出来たとしても悠樹が返り討ちに会うのは目に見えている。
敏は体中に開いた穴の痛みに耐えながらも、何とかして兄を助けようと腕を背後の壁に伸ばしたが、そこには大きな水バケツが置いてあるだけだった。
「――っくっそったれ!」
こんなもの、とても役に立つとは思えない。敏は足場の床を伸ばしたままの右腕で激しく叩くと、絶望したように涙を流した。
「この魚がぁあ!」
水槽の左端、悠樹は大声を撒き散らしながらピッチャーのように肩を大きく振りかぶり、渾身の力を込めて振り下ろした。敏に気を取られていたのか、悠樹が手を出さないと思っていたのか、人魚は完全に油断していたようだ。その刃は彼女の滑らかな腰に深々と刺さり、赤い花火を真一文字に打ち上げた。
「ショォオオオァアア!?」
驚いたような苦痛の悲鳴を放ちながら、回れ右をしてこちらに向き直る人魚。その速さに、悠樹はナイフを引き抜く事が出来ず、相手の体に刺したまま手を離してしまった。うつぶせに、顔面から倒れて込む。
――俺は何て間抜けなんだ!
どっと全身から冷や汗が溢れ落ちる。
「畜生……!」
悠樹は悔しさと情けなさに襲われながら、自分の命を奪う事になるであろう、頭上の端正な顔を見上げた。父を殺した仇の顔を。
人魚は見下しながら片腕を曲げ、強靭な筋肉に力を溜める。
「ショアアッ!」
そして、それを怒りの篭った満足そうな瞳のまま打ち出した。
――死ぬ!
悠樹は咄嗟に恐怖から目を閉じた。
「――おおぁあ!」
父を殺した爪が、悠樹の金髪に隠された額を刺し抜く直前。敏は最後の力を振り絞って足場を飛び降り、ダンクシュートをするように人魚の頭に水バケツを被せ、ぶら下がった。
急に視界を塞がれ人魚はパニックを起こし、大きく体を仰け反らせた。そのおかげで悠樹を狙っていた爪の軌道がずれ、悠樹の真横の床を砕く。間髪おかず、敏は叫んだ。
「兄貴――頭をカチ割れ!」
大助が命と引き換えに水を排除したおかげで、水槽に水は一切ない。つまり自由に動く事が出来る。
悠樹は飛び起きると、地面を強く蹴り人魚の体を駆け上った。
「――――これをっ!」
同じ高さに来ると、待っていたとばかりに敏が自分のナイフを投げ渡す。それを掴み、悠樹は人魚の髪を鷲掴みし、その鼻の頭に突きつけた。
「地獄で親父に土下座しな!」
そして、力いっぱいそれを相手の顔面に抉り入れた。