<第四章>”人魚”
<第四章>人魚
「早く上がるんだ!」
敏が水浸しの悠樹をプールから引き上げ、喉を振るわせた。
悠樹は咳き込みながらも、その声に導かれるように水中から這い出る。
「お前ら下がれ、来たぞ!」
二人の背後、プールから少し下がった位置にいた大助が、大きく盛り上がった水面に注意し、叫んだ。
風船が割れるように水面が弾け、鰓のある水色の顔を見せびらかそうと魚人が飛び出す。元々醜いその顔は、重ね重ねエサを取り逃がした悔しさでさらに醜く歪んでいた。
「うぉおああっ!」
相手のあまりに強い殺気に驚いた敏は、魚人が飛び出すと同時に思わず先ほど使用したばかりの消火器を掴み、それを思い切り魚人の側頭部に叩き付けた。
「ヂュウォァッ!?」
陸に上がった途端いきなり頭を強打された魚人は、何の抵抗も出来ずに客席の上に体を打ちつける。
それを見た大助は一世一代のチャンスに挑む時のような鋭い、覚悟のある目つきで、悠樹が水中にいる際に用意していたゴム製のホースを、魚人の首へと素早く巻きつけ引っ張った。
「うごぉおおおおおおおおおー!」
これまでにこれほど力んだ事が無いのではないかと言うくらい腕と肩に力を込め、足を地面に踏ん張らせる。筋肉一本一本の筋を限界まで引き締め、ホースを捻り上げる。
先ほどは水中で、しかも素手で首絞めを行っていた為若干力も締める範囲も限られたが、今度はゴム製のホース、しかも地上だ。呼吸管は限りなくゼロに近いくらい塞がれている。流石に魚人の顔も赤みを帯びてきた。
「さっきはよくもやってくれたな!」
ようやく息の落ち着いた悠樹は、大助に客席の間で拘束されたままの魚人に突っ込むと、素手でその腹を殴りだした。格闘ゲームでコンボ攻撃を行う時のような連打、連打といった攻撃だ。普通の人間に対してこれを行えばリンチと言えるのだが、今はそんな場合ではない。相手は人外でありその身体能力は人間を遥かに超える。何の武器も持っていない悠樹らにとって、生き残るにはこうするしかなかった。
「ヂュウウウウァアアアッ!」
何とかしてホースを振りほどこうと、体を前後左右に激しく揺らす魚人。だが、幾ら体を周囲に打ちつけようとも大助は決して腕をホースから放すことは無く、悠樹の妨害もあり魚人の望みが叶うことは無かった。
「兄貴、どけ!」
敏が再び凹んだ消火器を上に掲げ、連打をしている悠樹に声をかけた。先ほどは一瞬の反射反応だったためあまり力は篭っていなっかったが、今度はしっかりと「溜め」を作ってから振り下ろす必死の攻撃だ。
悠樹は横にダイブするように離れる。
「くたばれ!」
それを確認すると、敏は一気に消火器を振り下ろした。
水憐島地下一階、大型円柱水槽前。一番最初にパニックが起きたこの広い場所の前に、三人の人間が平然と歩き回っていた。いつどこから鼠魚が出てもおかしくないにも関わらず、実に堂々とした態度で探索をしている。その中の一人、セミショートの今風な茶髪に、一般的な男性としては細長い眉と目をした若い男――友が周囲の死体を悲しげに見つめた。
「犠牲者の数はかなりのものだな。まさかイミュニティーの重要拠点であるこの水憐島で、こんな事件が起きるとは……」
それに対し、横に立っている茶髪の女性が答える。友の上司西川だ。
「水憐島はイミュニティーの拠点となってますが、殆ど横谷晶子館長の個人的な組織と言って過言は無いですからね。本部はここで何が行われているか、どういう体制を取っているのか、詳しくは知りません。本部が完全に支配していたらこんな事件なんて決して起きませんよ。恐らくテロか、事故の線が強いでしょうね」
「何で本部は水憐島にそこまで自由にさせているんですか? 他の支部ならこんな事考えられませんよ」
二人の後ろ、丁度割れた水槽の前に腰掛けていた、まだかなり若い角刈りの男が目を細めて聞く。
西川は学校の先生のように丁寧に説明を始めた。
「横谷晶子は元々、イミュニティーの幹部の一人なんです。私たちのような使い捨ての兵士とは違う完全なキャリア組み。一時期は六角行成と共に多大な功績を残し、イミュニティーに貢献していました」
「元腹心ですか。なるほど――それなら中途半端な上の人間は手を出せないでしょうね」
若い男が頷く。
「ただの腹心ではありません。イミュニティーの上流階級、生まれた時から地位が約束されていた家の出なんです。横谷家は先々代のイミュニティー総合代表の家系ですから」
「確かに権限はありそうですけど、そんなんで水憐島を本部の管轄から遠ざけることが出来るんですか?」
「出来ますよ。何せ横谷晶子の父がこの水憐島を作ったのですから」
「へ? 作った?」
若い男は不思議そうな表情を浮かべた。
「あなたも知っての通り、この水憐島は当初、地下資源を汲み上げるための拠点として建設されたことになっています。しかし実は、それはただの建前です。確かに汲み上げているものはありますが、資源なんかじゃありません」
「じゃあ一体何を?」
若い男は身を乗り出して耳を傾けた。
「それは――」
「しっ! 何か聞こえたぞ、上の方からだ」
西川が続きを言う前に友が声を上げ、空気を張り詰めさせた。鷹の目のように鋭く上の階を睨んでいる。
「――見に行きましょう。実験施設から逃げ出した兵器かもしれない」
突然の友の言葉にも、西川はイミュニティーの高官としてクールに勤め、直ぐにそう言った。
先ほど倒した魚人の体を壁際に蹴飛ばすと、悠樹は水に濡れべったりとした金髪を掻き上げ、プールを覗き込んだ。
「何してるんだ?」
その様子を奇妙に思った敏がメガネのズレた顔のまま聞く。
「いや、あの魚人何も無い所からいきなり出てきただろ。どっかに抜け道があるんじゃねぇかと思ってさ。――……ほら、やっぱりあったぜ」
悠樹はプールの端の一点を顎で示し、満足げに微笑んだ。
敏が視線を向けると、そこには蛇口のような形をした太い、大きなパイプがプール横から伸び、その先を水中に沈めていた。水を入れるための物にしては太すぎる。まるで元々魚人をこの場所に排出するために作られたような不自然な物体だ。
「あれから出てきたって言うのか?」
「他に可能性がありそうな所はねぇだろ。あれしか考えられねぇ」
「……はぁ、一体何がどうなってるんだか」
苦笑いするように小さく口元を歪めると、敏はズレたメガネを上に掛けなおした。
「おい、二人ともこっちに来い」
ステージの奥、職員用の控え室らしき場所の扉から顔を覗かせ、大助が呼んだ。二人が何事かと思いながらそこに行くと、部屋の中に一体の死体があった。紺色の軍服――丁度先ほど水憐島の改札を封じていた連中と同じ服装を着ている死体だ。
「こいつの懐に二本のナイフが入ってた。お前らで使え」
そういって大助は何の特徴もない普通の大型ナイフを悠樹と敏に渡した。
「あと、こんな物も持ってた。お前……どういうことか分かるか?」
悠樹が水憐島に詳しいと思い、死体から取った日記のようなものを手渡す。悠樹はそれを胡散臭そうに流し読みした。
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1/19
ここ数ヶ月、全く館長の姿を見ることが無くなった。俺はあの美しさに憧れてこの水憐島所属を選んだのに、これでは意味が無い。指令も殆ど柳管理長が取るようになった。どうしたんだろう?
1/22
今日柳管理長から館長が病気だと聞かされた。何でもかなり重症らしい。もう人前に出ることも出来ないそうだ。まだ三十という若さなのに可哀想だな。どうにかして治してやりたいが……
2/10
最近ディエス・イレの動きが活発化しているらしい。どうやら奴らそろそろ一勝負仕掛ける腹のようだ。俺としてはイミュニティーに奴等が抵抗するなんて、象に蟻が挑むようなもんだと思うのだが。もしこの水憐島にくれば俺がこの手であっさりとひねり潰してやる。奴らはきっと頭のど真ん中に尻の穴が出来て泣き叫ぶことになるさ。
2/15
今日はちょっとした騒ぎになった。館長の夫である横谷操のくそやろ……いや、操さんが突如行方不明になった。この水憐島から出て行く姿を誰も見ていないのに消えたとは不思議な話だ。館長の部屋に篭ってるのか? もしそうだったら俺が引きずり出してやる! 夢の中で。
2/19
操のクズ……操さんが消えてから館長の弟の横谷広くんの様子がおかしくなった。話しかけても妙に他所他所しいし、まるで何かに怯えているかのようだ。他の人間に対してならまだしもこの俺にそんな態度を取るとは……未来の兄として後でしっかりと話を聞いてやろう。
2/23
最近不祥事やミス続きで、本部から柳管理長の元に何度も脅しの電話が入るようになった。館長の姿が見えないという噂が届いたのか、どうやら本部は俺たち水憐島の人間がディエス・イレと手を組んで反乱を起こすとでも考えているらしい。全く馬鹿馬鹿しい考えだぜ。そんな事して一体俺たちに何の得がある? 館長と結婚できるか? 出来ないだろ。
3/1
イミュニティー本部が黒服に横谷館長の暗殺を依頼したとの情報が入った。真偽は不明だが、我々館長の部下としては見逃すことは出来ない。これから信用できる者と共に調べにかかる。
3/2
今日ここで原因不明のバイオハザードが発生した。俺も……傷を受けてそう長くは持たない。恐らくもうすぐ死ぬだろう。最後にやっぱり一目、館長のあの美しい姿を見たかった。さよなら館長……あの世で再会しよう。俺ずっと待ってるから……。
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「どうだ?」
大助はそのガテン系の古風な顔を命一杯近付け、真面目な顔で聞いた。
「どうだって……この日記から分かることと言えば、こいつが館長のストーカーって事だけだろ? それ以外に何が分かるんだ?」
悠樹は面倒くさそうに答えた。
「……そうか」
黙りこむ大助。
「父さん? どうしたんだ?」
父の様子がおかしいので、敏は心配するように大助の肩に手を置いた。
「いや、このイミュニティーとか言う名前……」
「ああ、聞いたことがないね。文面から考えると、水憐島を含んだ政府の組織みたいだけど――この死体やさっき改札の前に居た連中の事かな?」
「いや、そうじゃ無くて……俺はこの名前をずっと前に聞いた事があるんだ」
「へ? どこで?」
敏は意外そうな顔をした。悠樹も興味を持ったのか顔を大助の方へ向ける。
「母さんの仕事していた会社だよ」
大助は一気に、息を吐き出すようにそう言い放った。
「っ――てめぇーふざけんなよ! そんなわけがあるか! なんで母さんがあんな怪しいやつらと仲間にならなくちゃいけねぇーんだ!?」
「信じたくない気持ちは分かる。でも俺は確かに何度もこの名前を見た。間違いない」
「もしかして……母さんが死んだのって……」
敏がハッとしたように顔を上に向け、言葉を漏らす。
「母さんが死んだのは親父の所為だ!」
しかしそれを言い切る前に、悠樹が核爆弾が炸裂したような大声で怒鳴った。
沈黙が三人の間に流れる。氷河期さながらの冷たい空気が控え室の中に満たされた。
「と、とにかくあまりこの日記は今は関係なさそうだから、深くは考えないで逃げよう。もう大分この場所に居るし」
場の雰囲気を変えるようにワザと明るい声をだし、敏は職員用の裏口の扉に手を掛けた。残り二人もお互い視線が合わないように顔を背けながらその後に続いた。
「――っ?」
急に心臓の音が高鳴り、悠樹と敏は立ち止まった。そしてまさに今、誰かを殺そうと狙っているかのように呼吸が静かになり、体中から強烈な、押さえ切れないほどの殺意が溢れてくる。
「――兄貴! くそ、しばらく離れてたから無いと思ったのに……!」
敏はその感覚を感じた途端、キッと悠樹を一瞥した。しかし悠樹は若干戸惑った様子で敏の茶色の短髪の頭を見返す。
「こ、これは俺じゃないぞ!? お前の感覚じゃ無いのか?」
「何で俺がこんな殺意を出すんだよ、兄貴だろ?」
「俺じゃ無い! 俺だったらこんな、気配を隠すような感じになるわけねぇだろ。隣にいるんだから」
「じゃ、じゃあ一体この感覚は?」
「どうした?」
いつまでも裏口の向こう側に来ようとはしない二人を不思議がり、大助は扉を左手で押さえたまま振り返った。背後の光が強いためか、嫌にその姿がはっきりと見える。
「またあの感覚か? 今更気にすることじゃないだろ。久しぶりで驚いたのか?」
そのまま二人の変化がどういうものなのか、前から知っていたように溜息を吐く。
大助はもう何度もこれと同じような光景を目にしていた。
悠樹と敏は生まれつき、お互いの痛みや感情、感触、状態を常に知ることが出来た。双子独特の同調作用のようなものがそうさせているらしい。なぜそんな風に感じるのかは医者でも分からず、二人はテレパシーのようものだと思っていた。悠樹が家出してから全く感じることは無かったものの、どうやら再会した影響でこの感覚がぶり返してしまったらようだ。だが、今回のように自分たち意外の誰かの感覚を感じたことは初めてだった。
「何かが……近くに隠れてるんだ。もしかしたら、そいつの感覚かもしれない」
悠樹はナイフの柄に指をガッチリと絡ませながら、半信半疑の表情でそう言った。
「何か? 兄貴意外の存在の感覚を感じたのなんて初めてだ。――……一体何だって言うんだ?」
「知るか! とにかくこっから離れようぜ。嫌な予感がする」
珍しく悠樹は弱気に言った。
控え椅子から裏口を抜けた先は、大きな立方体の水槽のある場所だった。百平方メートル近くはありそうな部屋のほぼ全てを水槽が満たし、その上に控え室から続く細い歩道が十字路型の道橋のように掛けられ、次の部屋や部屋の隅にある物置のようなスペースに繋がっている。恐らくショーをしていない時の鮫用の控え室のようなものなのだろう。
――殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい……
鬼気迫る感覚が、この場所に入ってすぐに体に流れこんでくる。自分たちを狙っている何かの身体感覚を、悠樹と敏が共感しているのだ。
「あ、兄貴。これマジでヤバイ、早く行こう」
先ほどよりも強くなった殺意を感じ、敏は今すぐ走り出したいような衝動に駆られた。
「――これ見ろよ。どうなってんだ?」
感覚による強制的な恐怖に負けパニック気味になっている敏を無視し、悠樹は細い道の上から下の水槽を覗きこんだまま目を見開いた。
「鮫が、五匹とも死んでいる?」
水槽の下を見ようとしない敏に代わって、大助が目の前の状況を口に出す。水槽の中は赤く染まり、僅かに見える下にも鮫の死体らしき無数の肉片が沈んでいた。
「こんな事を出来る生き物が居るのか?」
鮫は海の王者と言っても過言ではない。しかもここに居た鮫は鮫の中でも最強クラスのホオジロザメだ。五匹も居たその王者をここまでバラバラに分解できる生き物なんて、ありえる事ではなかった。
「きっとさっきから感じてるのはこれをやった奴だな。鉢合わせしたら間違いなく殺されるぞ」
まったく物怖じすることなく平然と言ってのける悠樹。もはや頭のネジがどこか緩んでいるのか、既に精神が火星の住人になっているのかとしか思えない。
「だから逃げようって言ってるだろ! 俺は先に行くぞ!」
殺されると言いながら全く逃げる素振りもなく、悠樹は面白そうに血の池地獄のような、暗然とした水槽の奥深くを注視している。そんな兄にしびれを切らし、敏は憤慨した様子で十字路型通路を一直線に、反対側の扉まで向かった。
「――――――」
「――待て敏っ!?」
敏が控え室へ繋がっている扉の前を蹴り、通路をある程度進んだ瞬間、悠樹は恐ろしいほどの殺意と、歓喜に満ちた純然たる喜びを感じた。
「何かがそこの下に――……」
そのまま敏を引きとめようと地面から足を離したが、すでに間に合わなかった。
水面がいきなり爆発したのだ。
室内では目にする事のない量の水が天井から降り注ぎ、死の塔のような水柱が立ち塞がる。台風の中に居るかのごとくこの信じられない景色の中、敏は目の前の水柱の中に二つの禍々しい赤い瞳を見つけた。
それは眼前の敏を恐怖という名の強靭な鎖で繋ぐと、冷酷で美しく、刹那的で暗い声を周囲一杯に響かせた。
「シュウォオオァアアアアアー!」
「こ、これは!?」
水の鎧の中から現れた怪物の姿に思わず声が漏れる。敏は水に吹き飛ばされたメガネを拾おうともせずに、恐怖とえもいえぬ感覚に支配されていた。もっと冷静になっていればこれほどこの怪物に近付く前に、悠樹のように感覚を察知できたはずだが、今となっては後の祭りというものだ。
「人魚――?」
遠めにその光景を見ていた大助は、敏の前に立ちふさがっている怪物の姿を見て驚き感想を漏らす。
その表現は実に的を得ていた。
美しい若い女性の上半身に艶のある光沢を持った、宝石のような黄金色の魚類を思わせる尾びれ。その姿はまさに人魚そのものだった。勿論、山姥のように広がった長い深緑色の髪と、細く華奢な腕の指先から伸びている、一メートルはありそうな五本の鋭い爪、そしてその脇下からスレンダーな腰に渡って広がっているモモンガのような膜を無視しての意見だが。
一般的に人魚は上半身が完全に人間で、下半身だけが魚というイメージがある。しかし、今敏の前に立っている人魚は全身魚人と同じような水色だった。その肌の色を見ながら、敏は場違いにも小学生の頃に悠樹とした会話を思い出す。
「俺……人魚って憧れるよ。本当に居るなら会って見たい。きっと可愛いんだろうな〜」
教室の隅、自分の椅子に腰掛けながら、敏は呆けるように言った。しかしそれを聞いた悠樹は異常なほど覚めた目つきで振り返った。敏の前の席に腰掛けたまま無表情で言い放つ。
「人魚? あれ――ただの化け物じゃん」
敏は目の前の人魚を引きつった顔で見つめながら、そのどうでもいい過去の悠樹の言葉に今更ながら納得した。
「……本当に化け物だな……!」
瞬間、人魚の尾びれに体を強打され、勢い良く細い通路から下の水槽へ転落した。
「敏っ、くそ!」
大助は息子が人魚の独壇場とも言える水槽、食料で言えば鍋の上のような場所に落とされた姿を目にし、慌てて左に走り出した。どうやら左端のスペースに置いてある長い竿のようなもので敏を救出する気らしい。
「親父、俺があの人魚の注意を反らす。その間に敏を拾ってくれ!」
一人だけ冷静だった悠樹は、血相を変えて十字路を左端に駆けて行く大助に呼びかけた。そして手に持ったナイフを眼前に構え、普段だらけきっていた目を大きく見開き、口を間一門に結び、僅かに笑みを浮かべながら数メートル先の人魚を睨み付けた。
「ショヨオオオオオオ……」
人魚はたった一人自分の前に残った悠樹を一瞥すると、足の無い体にも関わらず、銃弾のような速度で飛び出した。
咄嗟に悠樹は右側の通路へと転がった。十字路の丁度ど真ん中に陣取っていたのが幸いし、何とか攻撃をギリギリで避ける。もし少しでも後ろや前に居れば、避けた途端水の中に落ち、直ぐに死を迎えることになっていただろう。
「ん?」
左足に僅かな痛みを感じ、悠樹は素早く視線をそこに走らせた。左足は先ほど魚人に噛まれた傷があったが、それとは別に何か鋭い物で切ったような細長い線が浮かび、真っ赤な雫をつたわらせていた。
――避けきれなかった?
傷は浅いものの、あの距離で傷を負ったという事実、人魚の素早い動きと攻撃範囲の広さに舌打ちする。どうやらまともに戦って勝つのは厳しそうだ。
チラッと大助の方を向くと、まだ敏を引き上げている最中だった。
「俺、今度こそ死んだかもな」
まるで他人事のように一人呟くと、十字路のど真ん中に立ち、体勢を立て直した人魚と視線を交差させた。もう逃げられる場所は無い。あの攻撃範囲では後ろに下がっても無事に避けられるとは考えられないし、横に飛んでも水の中に落ち、自分から罠に掛かるような格好になってしまうだろう。
「げほっ、げほっ――……父さん、兄貴が……!」
大助の太い腕を掴み、室内左端の半円柱状のスペースに上がると、敏は直ぐに悠樹のピンチを目撃した。
「 ――敏、あいつを何とか水槽に落としてくれ、俺に考えがある」
「考え?」
「いいから行け!」
大助は敏を通路に押し出すと、何故か身を自分から水中に躍らせた。激しい水音が響く。
「と、父さん!? ――……くそっ!」
「乱心したのか?」と敏はあせったが、今更引き戻すことは出来ない。仕方がなく竿を抱えて、人魚の背後へと走った。
「この野郎、嬉しそうにしやがって!」
人魚の表情は全く変わっていないが、共感感覚を持つ悠樹は相手の感情の動きや体の動悸をはっきりと感じ、悔しそうに歯ぎしりした。
「ショヨョョヨォオオオオオー!」
人魚は長い十本の爪を同時に振り上げると、威嚇するように悠樹の前に突き出した。そしてそのまま空気を切り裂くような速さで突撃してくる。この攻撃の早さに、悠樹はなす術が無かった。
肉が裂け肋骨は砕かれ、血が弾け飛ぶ。背中からは串刺しにされた証を示す十本の爪が高々と天に向かってそそり立つ。そんな悲惨な状態になるはずだった。そう――もう少しの所で。
「兄貴、こっちだっ!」
敏の声が聞こえ、悠樹は人魚の攻撃が命中する前に反射的に横に飛びのいた。間一髪の所で人魚の攻撃は外れ、自分が立っていた地面を深く抉り削る。悠樹は水中に落ちることを覚悟したが、何故かまだ体の大部分は水面の上に浮かんでいた。怪訝に思い下を見ると、二本の竿のようなものが橋のように十字路のと三角形を作り、自分の体を支えている。敏が入り口付近の地面と右端のスペースに架けたらしい。
「ナイス!」
悠樹は敏の機転に感謝すると、そのまま体をゴロゴロとローリングさせ、入り口の方へと移動した。しかしあともう少しと言う所で、人魚が爪を竿に叩きつけた。その所為で悠樹は、入口前の目と鼻の先で水中に沈んでしまった。間を置かず人魚は敏に向かって跳躍し、その右腕を突き出す。
「うわぁああああっ!?」
敏は目を瞑り両手を前に交差させた。肩、太もも、脛をそれぞれ浅く爪に貫かれる。体を突き抜けなかったのは掲げた手に持っていたナイフが爪先を僅かに反らして防いだおかげだろう。しかし、勢いは当然殺せず、血を漏らしながら敏は悠樹とは十字路を挟んで反対側の水中に落ちてしまった。これで三人全員が水槽の中に入ってしまったことになる。
そのことを分かっているのか、人魚は口を大きく開き、爪を左右に伸ばして勝利の声を発した。
「ショヨヨヨヨオオォォオオー!」
そして再び獲物を地上に上げないようにと、十字路の中心を一心不乱に攻撃し始める。
「あいつ、まさかっ!?」
敏は人魚の考えを察知し、顔を青くした。
ドゴゴゴゴと激しい騒音を撒き散らし、十字路が崩れ落ちる。連続で繰り出された爪の攻撃で壊されてしまったのだ。これで敏たちはますます不利になってしまった。
「ぷはぁー!」
大助が水中から顔を出した。
「親父、一体どこに行ってやがった!?」
悠樹がクロールで近寄りイラだった声で尋ねる。しかし大助はその質問には答えず、開口一番こう叫んだ。
「直ぐに水中から出ろ、通路に上るんだ!」
「はぁ!? 良く見てみろ! どこに通路があるんだよ」
「な、何だこれは――通路が沈没している!?」
今初めて気がついたように大助は大いに驚いた。
「早く上れ! どっちのスペースでもいい。死ぬぞ!」
そしてかなり焦ったような表情で怒鳴り出した。
「何でだよ!」
こんな状況にも関わらず再び大助に突っかかる悠樹。大助はその面を引っぱたきたい気持ちを抑え、まくし立てるように説明しだした。
「水槽の『栓』を抜いた。時間式で排出口が開く仕組みのようだったが、もう上らないとまずい。かなり大きな穴なんだ。水流に巻き込まれるぞ!」
今の不利な状況を打破するには栓抜きは確かにいい案だ。この水憐島の作りは少し奇妙で何故かパイプも、排出口も通常の大きさの数倍はある。栓を開ければ数分と経たずに全ての水が無くなるだろう。だが、それは自分たちが十字路の上に居ることを踏まえてでの話だった。身体的に軽く、人魚より泳ぎも力も劣る自分たちが水中に居ては、どう考えても人魚より先にお陀仏になることは明白だ。悠樹はカッとなったが大助に突っかかるよりも早く、体が何かに引っ張られるような感覚を覚え下を向いた。
「おい、渦が出来てるぞ――やべぇ!」
急いで右のスペース、唯一残った足場二つの片方へ向かって手を漕ぎ、足を上下に振る。間に合う確率は半々だが、生き残る可能性があるのに死を覚悟する人間は居ない。悠樹と敏は無我夢中で体を動かした。泳いでいる途中で、部屋の中央から段々と曇った音になっていく人魚の悲鳴が聞こえる。渦に巻き込まれたようだ。
一方、十字路の沈没にいち早く気がついていた敏は、爪を突き刺された痛みに耐えながらも、一足先に何とか左のスペース、足場の上にへと辿りついた。完全に濡れてしまい体に張り付いた服を擦りつけつつ、何とか足場の上に登る。だが、思っていたよりも傷の痛みと出血が激しく、それ以上動けなくなってしまった。水に漬かっていたため、圧力の関係で血が余計に流れたようだ。当然元々傷が重症という理由もあるのだが。
目の前には水槽で見ることなどめったに無い、巨大な渦がぐるぐると回っている。その速度は流れるプールの比ではなく、かなり速い。
「兄貴――父さん……!」
敏は部屋の反対側で今だ泳いでいる二人の人間を心配そうに見つめた。
「はぁ、はぁ、はぁ――! 親父、掴まれ!」
悠樹は強い水の流れに強引に逆らい、足場の上に身を転がせた。足場から伸びているプラスチック製の――円柱が連続して出来ている綱を掴んだおかげで、何とか水中に引きずり込まれずに済んだのだ。綱を腕に巻きつけながら大助の腕を引く。もう少しで無事に水中から上れそうだ。しかし、そう上手く事は運ばなかった。
「ショァァアアアアアアア!」
水中の深いところから爪が伸び、大助の脚を刺し貫いた。計三本のも鋭利な爪が見事に縦に並んで肉を串刺しにしている。
「なにぃぃい!?」
大助は右足の激痛と既に水槽の下に沈んでいると思った人魚の登場に驚いた。強烈な力で体が下に引かれ、その度に激痛が酷くなる。
「親父ぃいい! 踏ん張れぇ!」
悠樹は綱を自分の体に巻きつけると、両腕で大助の腕を掴んだ。
こんな所で大助に死なれては堪らない。自分を探すために来てくれたのに、これでは自分が大助を殺したようなものになってしまう。口では反抗し、罵り、怒りをぶつけていた悠樹だったが、いざ父の身に危険が迫ると、流石に必死の形相になり、全身全霊を込めて救おうと踏ん張った。
しかしその効果も虚しく、徐々に大助は段々と下に沈んでいく。悠樹はそれでも諦めずに力を込め続けた。力み過ぎて口内を切ったのか、その口元からは一筋の血が流れている。
「うぉおおおぁあああああああー!」
――死ぬな、死ぬな、死ぬな、死ぬな、死ぬなぁ――――!
何度も頭の中でその単語だけを木霊させる。
これまで大助が見たことのないほど、悠樹は真剣で切羽詰った表情をしていた。
その必死の形相を見て、大助はとある言葉を思い出す。
『大助さん、この子たちが生まれたら、しっかりと守れる良い父親になってね』
ずーと昔、それもたった一度聞いただけのこの言葉が、ふと何故か今頭に浮かんだ。視線を前に動かすと、悠樹の体は先ほどよりも水槽に近付いている。このままでは悠樹も巻き添えにして水中に沈んでしまう。悠樹の顔をじっと見つめ、大助は覚悟を決めた。
「……悠樹。今まで本当にすまなかった。敏を……頼んだぞ」
悔しそうな、残念そうな、悲しい微笑みを浮かべる。
「なっ!? よせっ、親父!」
父の意図を察し、悠樹は心の底から叫んだ。
「じゃあな」
その瞬間、大助は悠樹の腕を離した。