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<第三章>水中の悪夢

<第三章>水中の悪夢




 水憐島総合管理室。

 扇状に並んだ無数のPCやその前に座っている職員を見ながら、柳は戦国時代の武将のような切羽詰った表情で必死に電話をかけていた。

「ええ……それが、連絡がつかないんです。……はい。……はい。私どももずっと探しているのですが……ええ、なるべく努力致します。はい、それでは――……」

 本部との電話を切ると、柳は疲れたようにドカッと椅子に座り込んだ。横に立っていた骸骨のような細長い男性職員が、その様子を心配そうに見る。

「まだ館長は見つからないの?」

 柳は魔女鼻に垂れた汗を袖で拭いながら、その職員に尋ねた。

「監視カメラなどはフルに使っているのですが、どこにも姿が無いんです。まさかとは思いますが、既に鼠魚に殺されたか、この水憐島から出たかどちらかの可能性も有ります」

「館長か鼠魚ごときに殺されるわけはないでしょ。それにあれを置いてここから離れるとも思えない。きっとまだこの島のどこかに居るわ。水族館エリア以外の場所も探してみた?」

「地下の採掘ドームや実験施設まで細かく見てみましたが、やはり目撃はされていません。勿論職員用エリアや浄水施設もです」

「だとしたら――可能性は一つしか無いわ」

「どこですか?」

 骸骨顔の男は不思議そうに聞いた。

「カメラの無い部屋、館長の私室よ。あそこしか考えられない。すぐに水憐島に入った本部のメンバーに繋いで。そいつらに館長の保護をさせるわ」

「分かりました。ただちに手配いたします」

 骸骨顔の男は一礼すると素早く自分の机へと駆けて行った。

「館長の気を害さなきゃいいけど……」

 その後姿を見ながら、柳はぼそりと呟いた。

 誰にも聞こえないような小さな声で。










「急げ、急げ、急げぇー!」

 洪水のような汗を撒き散らしながら大助が叫んだ。その横を悠樹と敏も必死になって追走している。

 水憐島二階のこの廊下は、最上階なだけあり他の階よりも日の光が多く入り、殆ど水槽などが無い。中央は吹き抜けになっており、一階の入口前広場を見渡せような構造だ。だから直ぐ後ろに迫ってくる無数の魚人や鼠魚の姿をはっきりと目視することが出来た。

「あそこだ、あそこに走り込めっ!」

 目の前、丁度吹き抜けの北側に見えてきた両開きの大扉に向かって、大助は指を指した。

 魚人に倒されたのか看板のようなものが地面に転がっていることから考えると、普段は何らかの出し物がある場所らしい。だが、死と隣り合わせの恐怖に緊張し、余裕の無い三人にはその看板の文字を見る暇など無かった。

 大助、悠樹、敏は甲子園の決勝九回裏に逆転ホームインするような勢いと激しさで、一気にその扉の向こう側へ踏み込んだ。

「扉を閉めるんだ!」

 荒い意息使いのまま大助が言葉をしぼり出す。

 それと同時に、悠樹と敏がシンクロしているかのようなピッタリの動きで扉を閉めた。

「敏、そいつを取れ!」

 悠樹が扉を背中で押さえたまま、敏の横にある整列用のポールを顎で示した。

 勿論敏は直ぐにそれを手渡した。

 ガーンッ! 

 そのほぼ直後、大きな音を響かせ扉が激しく揺れた。魚人たちが扉に体当たりを食らわせたのだ。

「あ、兄貴――早くポールを!」

 扉を押さえながら、敏がかなりてんぱった様子で言う。

 悠樹は急いでポールを二つの取手の間に通し、扉を開かないように固定した。

 ガンッ、ガンッ、ガンッ……

 大音響で不快な音を演奏しているのもも、どうやら扉を開ける事は不可能のようだ。魚人たちがこちら側へ来る事は無かった。

「はぁっ、はぁっ……はぁ……」

「ふう――これで少しは休めるな」

 大きく深呼吸をしている敏の姿を見ながら、不自然なほど落ち着いたあっけらかんとした態度で悠樹が呟いた。

 表情からは分からないが、まるでこの状況を楽しんでいるかのような声だ。

「此処もいつまで持つか分からない。今のうちに他に出口が無いか探すぞ」

 大助は悠樹の異常さに気づいていたが、あえてそれを無視し二人に声をかけた。

 この場所はまるで小さな競輪場のようだった。

 今三人が立ってる扉から見て扇状に客席のようなものが広がり、その真正面には大きなプールのようなものがある。その中には水が引いてあったものの、生き物の姿は見えなかった。

「イルカのショーとかで使われる場所みたいだな」

 悠樹は周囲を一望しながらそう感想を漏らした。

「はぁ……これで兄貴も分かっただろ? 出歩くのは危険だ。どこか安全な場所でじっとしていよう」

 敏はもうこんな目に会うのは御免だとでも言うように重い息を吐いた。

「まだそんな事言ってんのかよ。さっきの連中を見ただろ? 助けが来るならとっくに来ていてもおかしくないはずだ。俺たちは見捨てられたんだよ。自分たちで脱出するしかない」

「出口が開かないのにどうやって脱出するんだよ? 今度こそ死ぬぞ!」

「何とかなる」

 何故か悠樹は自信たっぷりにそう言った。それを見た敏は諦めたように頭を抱える。

「元はと言えば、兄貴がチッケットなんか送ってくるからこんな変な事件に巻き込まれたんだ。こんなことなら……あのチケットを受け取るんじゃなかった……」

「何だよ、俺の所為か?」

 この言葉にカチンときた悠樹は、怒りの篭った目を敏に向けた。

「お前ら止めろ、ケンカなんかしている場合じゃないだろ?」

 いつの間にか最前列の椅子付近まで行っていた大助が、見かねたように呆れ顔で二人を振り返った。

「うるせーよ! そもそも俺がこんな所で働く事になったのも、話をややこしくしたのも全部親父が原因だろ? 親父が母さんを殺したりしなければ、俺も、敏も、こんな場所には居なかったんだ!」

「おい、いい加減にしろよ! 何でいつも父さんの所為にする? 兄さんだって本当は分かってるだろ。母さんは心の病気だった。どうしようもなかったんだ。父さんは悪くない」

「いや、親父の所為だ! 親父が酒に溺れてなければ――親父がもっと親身になって母さんの事を見ていたら、あんな事にはならなかった。敏、お前だって知っているだろ? あの時の母さんの様子を……親父が母さんを自殺に追い込んだんだ!」

「兄貴っ!」

 敏は悠樹を扉横の壁に勢い良く押し付けた。

「いつまで子供みたいな事言ってるんだ! 兄貴は卑怯で臆病だよ。父さんの所為にすれば自分の力の無さを正当化出来る。あの時俺たち二人の目の前で死んだ母さんの悲しみから逃れられるんだろ?」

「俺が卑怯だと!?」

 悠樹は敏の首の裾を鷲掴みにした。丁度腕をクロスさせてお互いの首に手を置いているような格好だ。

「違うのか?」

 敏は馬鹿にするような声で悠樹に尋ねた。

 その瞬間、悠樹の眉間の皺が深く刻まれ周囲の空気が一気に寒々となる。まさに一触即発の雰囲気だ。

「おい、いい加減にしないか!」

 このままでは殴りあいになりそうだったので、大助は二人の方へ行こうとプールを背にし、体を反転させようとした。

 だがその時、突如耳障りな声が辺りに鳴り響いた。

「ヂィイイィイイイイー!」

「な、何だと!?」

 思わず大助はどきもを抜かした。

 津波のような水しぶきを撒き散らしながら、プールから一体の魚人が飛び出してきたのだ。先ほど大助が覗き込んだ時には確かにプールには何の生き物の姿も無かった。一体どこから現れたと言うのだろうか。

「父さん!」

 大助の居る客席の最前列付近へ駆け寄ろうとした敏だったが、それは既に手遅れだった。魚人は大助の体を掴むと、抱きかかえるようにしてプールの中に飛び落ちたのだ。

 「バシャンッ」と豪快な水の爆音を轟かせ、大助の姿は瞬く間に二人の視界から消えた。

 ――あの魚人みたいな体……! まずい、水中に引き込まれたら父さんに勝ち目は無い!

 その様子を見て敏は顔面を蒼白にした。

「くそ、あの馬鹿親父!」

 突然耳横からそんな声が聞こえた。物凄い速さで何かが敏の肩をかすめ走り抜けていく。

 悠樹だ。

「止めろ兄さん! 兄さんまで殺されるぞ!」

 本能的に、無意識の中に、気がついたら敏はそう叫んでいた。

 しかし悠樹は敏の言葉には全く構わず、警備員用の上着を脱ぎ捨てると、何の迷いも無く果敢にプールの中へ飛び込んでいった。

「くそっ!」

 敏は歯軋りしつつも、プールの淵まで急いで身を躍らせた。

 ――このままじゃ二人とも死んで居しまう。何か無いのか……何か……!?

 そのままプールの周囲を探す。だが、そう簡単に起死回生の道具が見つかるはずも無い。パニックを起こしてしまっている事もあり、敏は何も見つけることが出来なかった。

 ――この魚め! 離せっ!

 大助は水中で必死にもがいたが、水を得た魚状態の魚人の力と、服が水を吸って体の重さを数倍にしたこともあり、ほぼその抵抗の効果は無かった。実にあっさりとプールの底にまで連れてこられてしまう。

「ヂュウァアアアアアアッ!」

 全く物音の無い水の中で魚人の嬉しそうな歓喜に満ちた声だけが伝わってくる。大助は眼前に迫る魚人のえらのある口を、恐怖に怯えた目で見つめた。

 腕が、足が、水の重みで上手く動かない。

 耳や鼻が冷たい壁に塞がれ感覚を遮断される。

 視界すらもおぼろげではっきりとはしない。

 今の大助の状態を例えれば、水と言う名の拘束を掛けられたただの新鮮なエサとしか言えないだろう。

 死を目前にして大助を深い後悔が襲った。

 妻を救ってやれなかった後悔。

 悠樹を傷つけてしまった後悔。

 敏に苦労を掛けてしまった後悔。

 考えてもキリが無いほどの無数の後悔が、心臓を針金で締め付けたかのようにきりきりと心を責める。

 ――綾……!

 心と体の苦しみに悶えながらも、大助は先立った妻の顔を思い浮かべた。








 五年前。

 大助は長年就職していた会社を首になり、酒びたりの生活を送っていた。

 その荒れぶりは凄まじく、妻である綾や息子の悠樹と敏に暴力を振ることは日常茶飯事だった。その時の傷は、今でも悠樹や敏の体にはっきりと残っている。

 この日もいつものように安い日本酒の瓶を片手にぶら下げ、覚束ない足取りで家に向かっていた。もはや日常となったパチンコからのご帰還だ。

「クソッたれぇぃ!」

 会社への不満、上司への不満、家族への不満……まるで愚痴に取り付かれたかのように、大助は毎日こうして独り言の文句を言っていた。

 しばらく歩いていると、目の前にごく平均的な日本家屋の一軒家が見えてくる。

「おい、帰ったぞ! 出迎えしろ!」

 大助はその扉を潜るととすぐに、酒臭い口でこう叫んだ。

 いつもならば嫌々ながらも怯えた表情で綾や敏が迎えに来るはずだ。だが、今日に限っては何故か誰一人玄関に姿を見せなかった。

「おい、帰ったって言ってるだろ?」

 赤い顔で大助は壁を叩いた。しかしそれでも誰も来る気配はない。

「は、何だ〜? 俺を置いて逃げたのか?」

 持っていた空の瓶を正面の廊下に憎憎しげに投げつけ、いきどおった表情でズンズンと廊下を進んでいく。

 途中で居間や台所を通りすぎたが、やはりどこにも人の気配はない。それが一層大助の気分を害した。

「へん、勝手にしろ――ん?」

 汚く濁ったような目がある場所で止まった。自分と綾の寝室だ。普段は閉じている事の多いその部屋が何故か僅かな隙間を作って開いていた。

 ――ここに隠れてんのか?

 訝しがりながらもその扉を勢い良く開ける。だが、部屋の中は真っ暗で何一つ肉眼では状況が分からなかった。

「ウィ〜……」

 心なしか僅かに鉄臭い臭いがしたものの、気にせず意味の無い声を漏らしながら、大助は壁を叩くように部屋の電気をつけた。

 途端にパッと明るくなる視界。

 すると大助の目に奇妙な光景が入ってきた。

 真っ赤なペンキを塗りたくったように赤く染まっている自分と妻のベット。その前には敏と悠樹が足の壊れた人形のように膝をついている。

「何だテメーら? 俺の寝床で何してやがる」

 大助は一番近くに居た敏の背を蹴りつけ、床に這い蹲らせた。

 しかし敏は黙ったままだ。じっと心を失ってしまったかのように一点を見つめている。

「ん? ――うごっ!?」

 大助は敏の様子を変に思い、距離を詰めようとしたところ、何かぬるっとしたものに足を滑らし思いっ切りベットに倒れてしまった。丁度顔面から飛び込んだ形だ。

 アルコールの所為でふにゃけた顔は、ベット中に広がっていた赤いペンキのような液体で真っ赤になった。

「どあぁっ!? くそっ、何だこりゃ?」

 顔を拭くため引いてあったシートをベットから剥ぎ取る。

 すると目の前に、何故かベット以上に真っ赤に染まった妻の綾が寝ていた。その心臓には深々と包丁が突き立てられており、そこから血の池のように赤い液体が広がっている。

 この状況を見て、霞がかかっっていた頭は一気に酔いが冷めた。

「あっ――綾!? な、何で!?」

 驚きと悲しさが、流れ込むように頭の中を支配始める。

「誰がこんなことを……!?」

 大助は問い詰めるような顔で背後の二人を振り返った。

 悠樹と敏はそれでも先ほどと全く変わらない様子で、放心したようにじっと綾の亡骸だけを見つめていた。

「お前たちがやったのか!」

 悲しみも冷めないままに大助の頭は火に包まれた。

 二人が何も答えない事を肯定の意思表示だとでも判断したのか、顔面に迷路のような血管を走らせながら、拳を近くの敏に叩きつける。

 敏はまるで体の中に綿が詰まっていたと錯覚されそうな勢いであっさりと壁に体を打ち付けた。しかしそれでもその表情は何の変化もない。

 大助は再び殴りかかろうとした。

「止めろ!」

 だが、敏の様子を見て我を取り戻した悠樹が、直前でその腕を掴み取った。

「……俺たちがやったんじゃない。母さんは……自分で……こうしたんだ」

 目の下に熱いものを溜めながら言う。

「自分でだと? そんなわけがあるか!」

「本当だ。警察が来れば、分かる……」

「そんな馬鹿な……! 何で綾がそんな事……」

 夢から覚めることを期待しているのか、大助は頭を左右に振った。

「お前ら……何で止めなかった? 何で見殺しにした?」

 そのまま気持ちを発散させるために、怒りの矛先を悠樹に向ける。

「止める暇なんか無かった。話があるって言われて行ったら、いきなり意味わかんないこと話し出して……気づいたらもう包丁を握ってたんだよ」

「言いわけをするな!」

 大助はいつものように悠樹の顔を殴ろうとした。

 だが、悠樹はそれを自分の腕で弾いた。

「こんな時にまで暴力か? なんで……母さんの事を考えないんだ。あんたは、いつもそうだ。自分、自分、自分……自分の事しか考えてない」

「煩い、お前に俺の何が分かる!」

 先ほどとは逆の拳を打ち出す大助。悠樹はその手も軽く払い退けた。

「このくそ親父……! 母さんはあんたが殺したんだ。あんたがもっと母さんのことを考えていれば――」

「俺の所為だっていうのか?」

「あんたの所為以外の何の理由があって、母さんがこんな目に会わなきゃ行けないんだ!」

 悠樹はこれまで生まれてから十七年間、一度も暴力を振ったことがなかった。ずっと優等生、絵に描いたような真面目な好青年だった。例え幾ら大助から暴力を受けようとも、幾ら蔑まされようとも、決して父を恨まず、会社を首になった所為だと割り切っていた。いずれ元のいい父に戻ると信じていた。

 だが、母が死んだこの状況で相も変わらず、自分たちに当たろうとする――母のことを考えず自分のことしか考えない大助の態度に、悠樹の中で何かのスイッチが切れた。何かの一線を越えた。

 大助の目の前で悠樹の手の平が鉄球のように固まっていく。そして再び大助が腕を突き出そうとした直後、それは打ち出された。

「ごぼぁっ!?」

 大助は腹を抱えて腰を崩した。悠樹の掌打がめり込んだからだ。

「お前……親に向かって……!」

「あんたなんか親じゃない。あんたなんか……」

 悠樹は底なし沼のような真っ黒な目を血走らせ、何度もそう呟いた。











 沖田綾の葬式後、悠樹の姿を見るものは居なくなった。

 敏にはそれが直ぐに、父とのあの時の争いが原因だと分かった。

「兄貴……」

 母の墓の前で遠くを見つめるように呟く。

 悠樹が居なくなってから、大助は酒やタバコ、遊びを絶ち、まるで人が変わったように働き出した。

 最初こそ敏も長続きするとは思っていなかったが、意外にもその努力はもう一年以上も続いている。少し前までは自分も悠樹のように家を出ようかと考えていた。だが、この大助の頑張りと決意、意識の変化を見て敏は踏みとどまった。今ここで父を一人にしてはいけないと思ったから。

 それから敏は仕事の片手間に何時も悠樹を探した。戻ってきて欲しい。今の大助を見て欲しいと考えて。

 その気持ちは大助もおなじだった。自分勝手だとは分かっている。都合がよすぎる事も分かっている。でも、それでも大助は悠樹に会いたいと思っていた。謝りたいと思っていた。

 自分のしてしまった過ちについて。

 親の責任を果たせなかった罪について。

 だから敏が悠樹からチケットを送られたと聞いたときは心底嬉しかった。









 階層状に並んだ無数の歯が視界一杯に広がる。

 水中に居るこの状態で嗅覚は機能を持たないはずなのだが、大助は鼻一杯に血と肉と死の臭いを嗅ぎ取ることが出来た。

 生命の危機、生まれ持っての生物としての本能が、そう感じさせたのかもしれない。それは鼻ではなく心で、細胞の奥深くに刻まれた記憶による根本的な恐怖だった。

 やっと立ち直れた。

 やっとまともになれた。

 やっと息子たちにちゃんと謝ることが出来る。

  大助は今日悠樹に会うことに心配し、緊張していたが、それでもどこか懐かしさ、嬉しさを感じていた。自分と綾の身と心の結晶。大切な息子の顔を再び見ることが出来ると。

 ――何も伝えられずに……終わりかよ。

 死の刹那、大助の心は恐怖よりもただ深い後悔だけが満ちた。

 ズブッ!

 魚人の鋭い歯が肉を貫く。信じられないような痛みと苦しみが、断続的にリズムに乗って体中を暴れ回る。先ほどまでは魚人の顔しか見えなかった視界は、今度は瞬く間に真っ赤な霧に覆われた。

 ――さよなら……悠樹、敏……

 ゆっくりと、大助は目を瞑った。








「――――――――――!」

 何かが聞こえた。

 酸素と水素の絡み合った液体の幕が妨害するため、それが一体何の音なのかは分からないが、確かに何かが聞こえた。

 ――声?

 事実なのか、幻聴なのか、はたまた自分の望みだったのか、人の声のような音だった。

 「え?」

 突如、魚人の体が自分から遠ざかる。と、同時に目の前に一人の男の顔が浮かび上がった。










「親父ぃいっー!」

 悠樹は細胞一つ一つをフルに稼動させ、その力をただ一点、足先へと溜め、一気に魚人の首に蹴りという名の矢を突き刺した。幾ら水中と言えども、これほど接近した状態で押されれば流石に体は大きく動かされる。

 魚人はもぎ取られるように大助の体から離れ、プールの水槽側面に激突した。

 驚いたような顔で自分を見つめる大助。

「早く上がるぞ、水ん中じゃ勝てっこねぇ!」

 悠樹は聞こえないと分かっているのにそう呟き、大助の体を上に向かって加速させた。意思は通じたのか大助も素直に従う。

 それを見送ると、今度は自分もと悠樹は両腕を左右に開き、足を交互に振り上昇を開始した。

「ヂュウウウゥウォォオオオオ!」

 だが、あともう少しと言う所でようやく体勢を立て直し、追いついてきた魚人に足を掴まれてしまった。

「離せよ! ――離せっ!」

 もう片方の足で何度も魚人の頭を蹴るも、全く効果はない。

 魚人は今度こそ逃がすものかと、悠樹の足に歯を突きたてると、ワニの必殺技とも呼べるデスロールのような動きに入り始めた。もしこれが成功すれば、悠樹の足はもぎ取られてしまうだろう。そうなれば逃げることも戦うことも出来なくなってしまう。

 だが、悠樹は冷静だった。というより全く魚人を恐れてはいなかった。逃げられないと悟った時点で悠樹は逆に魚人の体に近付き、抱きつくと同時にその首を絞めだしたのだ。勿論足はかまれたままで、悠樹が魚人に肩車してもらっているような格好だ。

「ヂュウアッ!?」

 思わぬ獲物の攻撃に魚人は焦った。突然襲ってきた強い首への圧迫に思わず回転に入る前に悠樹の足を離してしまう。

 それをいい事に体勢を立て直し、悠樹は本格的に魚人を「落とし」にかかった。

「死ねぇええー!」

 幾ら魚人――鰓呼吸の生物と言えども、元が人間でありしかもその鰓が頭に付いている以上、首を絞められれば息は出来なくなる。悠樹の攻撃は意外にも結構効いていた。

「お前と俺、どっちが先に息切れするか勝負だ!」

 悠樹は根拠もなく自信たっぷりにそう叫んだ。




「はぁ、はぁ、はぁ……!」

「父さん、兄貴は!?」

 水中から飛び出してきた大助に向かって、敏が安堵したように呼びかけた。

 大助はプールの淵に身を横たえながら、息も絶え絶えに言葉を搾り出す。

「悠樹は……はぁ、まだ中に居る。早く――助けないと……」

「父さんはそこで休んでて、俺が何とかするから!」

 父の無事な姿を見たことで敏は辛うじて冷静さを取り戻した。もう一度、今度は慎重に周囲を見てみる。すると、先ほどは気がつかなかったが、プールを挟んで反対側にあるショー用の台に、消火器のようなものが見えた。

 ――あれを使えば目くらましくらいにはなるかもしれない。

 敏は淵づたいに反対側まで走ると、消火器を取りその栓を抜いた。

「待ってろ、兄貴!」

 そして意を決して走り出した。






 ――ヤバイな……こいつ、体力あるじゃねえか。

 悠樹は魚人よりも自分の方が先に空気の所要量が切れてしまったため、多少不安になっていた。これ以上は自分の意識が危ない。

 ――仕方がない。一か八か上に上がるしかねぇな。こいつも当然追っかけてくるだろうけど、そんときはそん時だ。

 そうして突き放すように魚人の首から両腕を解き、その後頭部を蹴り飛ばすと、一気に全速力で上に上がろうとした。

 こう何度も同じような事を繰り返されては流石に気が高ぶる。首を絞められていた苦しみと、先ほどから寸前の所で獲物に逃げられていることもあり、魚人は怒り狂ったような表情を浮かべ、これまでで最大の速さでくるりと体を反転し、瞬く間に悠樹に追いついた。

「ヂュウァアアアアアッ!」

 真っ先に悠樹の首元へと口を近づける。どうやら感染よりも殺傷本能の方が勝ったようだ。

「ヤベぇっー!」

 悠樹が目を瞑りかけたその時。突然周囲が白い霧に包まれた。

 まるで雲の中にいるかのよな不思議な光景になる。このおかげで、悠樹と魚人はお互いに相手の居場所を見失った。

 ――チャンスだ!

 この機会を逃すわけにはいかない。わけが分からなかったものの、悠樹は深く考えず、一心不乱に上を目指した。そしてようやくプールの上に濡れた頭を開放する。

「兄貴、手を!」

 目の前に自分を真面目にしたような、真面目だったときの自分の顔が映る。悠樹は迷わずその手を掴んだ。









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