<第十四章>悠樹と敏
<第十四章>悠樹と敏
「おい、逃げるぞ」
広の死体の前で泣き伏せている晶子を眺めながら、トウヤはそっと敏の腕を引いた。
「天野とかいう奴のおかげで、水憐島のロックが全て解除された。今なら無事に島の外に出れるはずだ」
「でも、兄貴たちを呼びに行かないと……」
下で阿修羅と戦っている悠樹たちのことを思い、敏は躊躇う。
「今俺たちが下に行っても何の助けにもならない。だったら外にいたイミュニティーの助けを呼びに行った方が何倍もいいだろ。行くぞ」
まだその場に残ろうとする敏を強引に引っ張り、トウヤは歩き出した。距離的に考えて、ここから水憐島の改札まではものの数分で着く。直ぐに援軍をつれて戻ってこれるはずだ。
二人が出口まで差し掛かろうとしたとき、突然背後から物音が聞こえた。
「……待ちなさい。あなたたちは逃がさないと言ったでしょ?」
横谷晶子が広の亡骸を下に下ろし、立ち上がったのだ。
敏は冷や汗をかいた。じりっと一歩足を後ろに伸ばしながら、トウヤが命乞いの言葉を発する。
「俺たちはただの一般市民だぞ? あんたが死んでいようが、生きていようがどうでもいい。殺す必要はないだろ」
「そんなの関係無いわよ。あなたたちがイミュニティーメンバーではなくとも、私の生存が知られるきっかけになることには変わりないわ。それに、どっち道あなたたちはイミュニティーで働くことになるじゃない」
イミュニティーによって助けられた生存者は必ずイミュニティーで働くか、その監視を受けなくてはならない決まりだ。水憐島館長である横谷晶子はそのことを知り尽くしている。だからトウヤの悪あがきの言葉も効果は無かった。
「佳代子……いや、晶子さん。あなたは本気で俺たちを殺す気なのか?」
少なくとも、敏の前では佳代子だったときの晶子は優しさや思いやりに溢れた女性だった。その姿を思い出し、敏は訴えるように晶子に呼びかけた。
「確かに、あなたたちに罪は無いわ。私も個人的には敏くんのことを気に入っているしね。この美しい容姿のときに優しくしてくれる人は多くいたけど、佳代子の姿で優しくしてくれる人は少なかったから」
「だったら――」
「でも、それとこれは別の話。あなたたちを殺さなければ私が死ぬ。私の生存がイミュニティー本部や草壁に知られれば逃げる術は無い。彼らは永遠に私を探し続けるはず。だからもうどうしようもないの。所詮この世はエゴによって回っている。あなたたちはあなたたちのエゴのために、私は私のエゴのために行動するだけよ」
広がついさきほど述べたのと同じような意味合いの言葉を言いながら、晶子は足を動かし出した。その間、右腕が徐々に緑色に変化し、気泡のようなものを浮かべていく。
「本気……なんだな」
敏は恐怖と諦めと、落胆の混じった悲しそうな顔で、晶子を見つめながらそう呟いた。
「ええ、そうよ。残念だけどね」
同じように悲しそうな表情を浮かべる晶子。
「……――むざむざ殺されるつもりは無い。敏、出口はすぐそこだ。走るぞ!」
トウヤは握ったままだった敏の腕に力を込めると、一気に走り出した。が、それはすぐに止められてしまう。
「私から逃げることは出来ないわ。私はデガウス・ジェイル唯一の成功例――完全体。操や広とは違うの」
ロケットのような高速で緑色の腕がトウヤの胸に飛来し、激突した。トウヤは痛みに顔を歪めながら伸びた晶子の腕を見つめ、両手で掴んだ。
「は、離せ!?」
「ごめんなさい。あなたも中々戦闘員としての素質がありそうだったけど……」
晶子が腕に力を込めると、トウヤの体はあっと言う間に晶子本体の元へと引きずられ、移動させられた。途中机や機器やらにぶつかった所為で額から血が流れ出る。
「ここで死んで」
「トウヤ!」
敏は叫んで晶子の動きを止めようとしたが、遅かった。目の前で、つい先ほどまで隣に立っていた男の首がぽきりと捻じ曲がった。
「そんなっ!?」
敏は思わず口を手で覆った。
「次はあなたよ、敏くん。すぐに楽にしてあげるわ」
晶子は目を見開きガクガクと死後痙攣しているトウヤの死体を雑に投げ捨てながら、妖艶な瞳を敏に向けた。
その目を見た瞬間、敏は本能的に悟った。自分の命はここまでだと、ここでこの怪物に奪われるのだと。
出口はすぐ後ろだというのに全く足が動こうとはしない。気がつくと、目の前まで晶子を近づけてしまっていた。
「ぅ……あ……」
言葉が出てこない。敏は体を震わせながらじっと晶子の目を見つめた。まるでそこに縛りつけれれてしまったかのように。
「心配しないで。あなたのお兄さんもすぐに後を追うわ。楽に殺してあげる」
「あ、兄貴……!? な、なんで兄貴も殺すんだよ……! 兄貴はあんたの正体を知らないんだぞ?」
「そうね。でも彼の感覚は危険だわ。生存者が少なくなれば少なくなるほど、彼が私の正体に気がつく確率はあがる。そうなったら、当然イミュニティーにも伝わるでしょう。だから殺さなければならないの。まだ外の連中に保護されていない、自由に動ける今のうちに……勿論、誰も怪しまない佳代子の姿でね」
佳代子の姿で紛れ込まれたら、よほどのことが無い限りすぐにはその正体に気づけないだろう。敏は晶子の作戦が成功する可能性が高いことを理解し、絶望した。
――何か、何とかして兄貴に晶子のことを知らせないと……そうしないと兄貴が……
「あなたち兄弟はこの地獄でよくここまで生きてきたわ。ド素人なのにね。もういいのよ。どうせ生き残ってもイミュニティーの奴隷になるだけ。もう楽になりなさい。いえ、私が楽にしてあげるわ」
晶子は緑色の手を敏の首に当てた。徐々に、その力は強まっていく。
――俺が死んだら沖田家は兄貴だけだ。絶対に、絶対に兄貴だけでも助けないと……母さんも、父さんも浮かばれない。どうすれば兄貴に俺の意思が伝わる? どうすれば晶子の存在を教えられるんだ?
「ぐうう……!?」
喉が圧迫され、呼吸が封じられる。もう間もなく自分の首は折られるだろう。その前に、敏はなんとか悠樹に自分の意思を伝える方法を見つけなければと思った。恐怖感よりも、絶望感よりも、悲しみよりも、ただ悠樹を助けたい。その気持ちが敏の心を支配していた。
自分より悠樹のことを案じるようになったのはいつからだろうか。
答えはやはり母が死んだあのときからだろう。あの事件がきっかけで悠樹は家を離れ、たった一人で放浪するようになり、自分はその影を追い求めるようになった。
双子だから、身を分けた片割れだからではない。数少ない大切な家族だから。
幼い頃、まだランドセルを背負ったばかりの子供だったころ。悠樹はよく敏に向ってある言葉を言っていた。一番最初にそんなことを言い出したのは二人揃って上級生に苛められたときだっただろうか。泣きじゃくる敏とは違い、悠樹はぼろぼろにされながらも決して諦めることなく反撃を続け、上級生を追い払った。それはその直後に言われた言葉だ。
『泣くなよ、敏。お前は俺が必ず守ってやる。俺は――兄貴なんだからな』
今でもそのときの悠樹の表情ははっきりと思い出せる。にかっと笑って言われたその言葉が心に残っていたからこそ、敏は悠樹のことを見捨てることが出来なかった。繋がりを切ることが出来なかった。あのときの表情が、言葉が忘れられなかったから。いつまでも心に残っていたから。
大助の変わりようを伝えたかったからだけではない。またあの顔が見たいから、守ってくれた恩を返したいから、必死に追い求め、行方を調べて……そしてとうとう今日家族全員での再会を果たした。
それなのに、折角見つけたのに、再会したのに、その恩を返せないまま死ぬなんて絶対に嫌だ。
敏は大助の姿を思い起こした。人魚の爪に胸を裂かれ、命と引き換えに自分たちを救おうとした父親。どうせ死ぬのなら、自分も大助のように悠樹を守って死にたい。それが、自分に出来る最後の、唯一の愛情表現だから。
「兄貴……今度は俺が兄貴を守るよ。俺は――弟なんだから……」
かすかに動かすことの出来る喉を鳴らし、敏はそう呟いた。かつて悠樹が自分に言った言葉をそのまま返すように、にかっと笑いながら。
ぐっと喉の圧迫が強まる。横谷晶子が留めに入ったのだ。何も見えなくなり、頭が破裂しそうなほど熱く感じる。
――兄貴、俺にはもう『これ』しか出来ない。こうすることでしか兄貴を助けることが出来ない。頼むから……気づいてくれよ。
死を目前にし、動きを封じられた状態で出来ることと言えば、共感能力で必死に己の気持ちを伝えることだけだ。自分の思いと、晶子に対する感情を。
最後の瞬間まで、敏は願った。悠樹が晶子の存在に気がつくように。そして、無事にこの水憐島から出られるように。
「さようなら、敏くん」
そして――敏の意識は闇に沈んだ。
阿修羅にぶら下がったまま苦しみ出した悠樹を見て、友は何か異常事態が起きたことを悟った。
前に受けた傷が開いたのか、先ほど間接を外されたときの痛みがぶら下がったことでぶり返したのか、とにかく、悠樹がまともに動ける状態でないことだけは確かだ。このままでは間違いなくこの場にいる全員、阿修羅に殺されることになる。
「悠樹! 親父の仇を討つんじゃないのか!?」
もぎ取られそうなほど強い力で離れようとする鎖を必死に握りしめ、友は必死な顔で声を出した。だが悠樹は相変わらず阿修羅の背でもがいている。
その姿が、死を感じさせる背中が、友は記憶にある坊主頭の男とダブって見えた。
「ヴォァアアアアアアアッ!」
阿修羅の力がよりいっそう強くなる。もう、あと数秒も持ちそうにない。
「横谷晶子を倒すんだろ!? ――悠樹!」
友はあらん限りの声で叫んだ。らしくない、感情的な声で。
その声で僅かに悠樹の意識が戻る。
「……っ……なさけねえ声出してんじゃねえよ、馬鹿野郎……!」
震える腕を伸ばし、阿修羅の背に当てがう。
「言われなくとも分かってんだよ」
悠樹は得体の知れない痛みに顔を歪めながら、今度こそ最後の、残った力を全て使ってナイフを阿修羅の背へと突き刺した。
「終わりだ、化物……!」
カチッとWASPKNIFEのスイッチが押される。
そこは丁度心臓の真後ろだった。真っ白な霧に包まれながら、阿修羅の心臓はその瞬間、弾けるように爆発した。
倒れる。ゆっくりと倒れる。
動力の支点。生ある行動の要。そこを粉砕された阿修羅は、夥しい血を撒き散らしながら、支えを失った老人のように前に崩れ落ちた。
「悠樹!」
すかさず、友が走り寄る。その背にぶら下がっていた男の身を案じて。
阿修羅の血を全身に纏い、真っ赤に染まった悠樹は友に体を起こされると、血色の悪い顔を上に向けた。
「大丈夫か? ……一体どうした悠樹、なぜ突然苦しみ出した?」
腕に抱えた悠樹を見ながら、友は怪訝そうに問い詰める。だが、悠樹はそんな友の言葉を無視し、震える声を漏らした。
「……敏は……敏はどこだ? 研究室にいるのか?」
「敏? ああ、そのはずだ。さっき生存者たちは全員研究室に避難したからな。敏がどうかしたのか?」
「確認してくれ」
哀願するように呟く悠樹。友はその願いを何となく拒否することが出来なかった。
「西川さん」
指示を出してくれと、いつの間にか隣まで来ていた西川を見る。西川は黙って頷くと、仲間の一人を研究室へと向わせた。
「さあ、話してくれ。一体どうしたんだ?」
再び聞く、友。しかし先ほど研究室へ向わせた男が戻るまで何も話す気にならないのか、悠樹はずっと無言を貫き通した。しばらくして西川の部下であるその男が戻ってきた。男は開口一番意外な言葉を放った。
「全員、消えています……! 恐らくは上階に行ったものだと思われますが、いかが致します?」
「全員消えてる? 何で勝手にそんな真似……まさか、このホール以外にも感染者が居たって言うの?」
扉を開けてすぐに研究室の中は調べていたが、危機迫った状況だったため、それほど細かく見てはいない。西川は己の迂闊さを呪った。
「もしそうだったら、すぐに彼らを探さないと不味いですね。大槻、金島、負傷者を回収して下さい。直ちに上階へ行きますよ」
「はっ!」
大槻、金島と呼ばれた男たちは素早く動き出した。負傷者、岸本と吹き飛ばされたイミュニティーの男を確保するために。
「それじゃ……」
続いて西川が何か言いかけたとき、研究室の方から今はもっとも聞きたくない声が聞こえた。
「チュウァアアアアッー!」
そう魚人の、金属を擦り合わせたような不快な声が。
「なっ!?」
誰もがそう声を漏らした。
魚人がこのホールに紛れ込むことは別におかしくはない。いくら隠し階段の先にある施設と言えども抜け道はあるし、鼠魚の時に入り込み職員に感染したという可能性もある。だが、問題はその魚人たちが研究室から出てきたことだった。そこからどうどうと魚人が出てきたということは、その先へ逃げていた生存者たちが死んでいる可能性が高い。西川はなぜ生存者たちがいないのか、その理由がこの魚人に殺されたからではないのかと悲観的な感情を抱いた。
「こんなときにあいつらと戦っている暇はない。西川さん、何とかして振り切るぞ」
今は阿修羅との戦いで全員疲労しきっている。ここで魚人と戦えば、少なからず大きな被害が出るはずだ。友は悠樹を立たせると、その手からWASPKNIFEを受け取った。
「……っち……!」
魚人の姿を見て、悠樹は舌打ちした。
感じていた得体の知れない痛みの正体が、敏の身に何かが起きたことだとは思っていたが、魚人を見たことでその予測の信憑性が大幅に増加した。
「……おい、無茶はするな。何が大事かよく考えろ」
今にも魚人に飛び掛っていきそうな悠樹を友が止める。大事とは行方の知れない敏のことを言っているのだろう。それを聞いた悠樹は拳を握り締め、黙って友に従った。
「もう体は大丈夫か?」
「……ああ」
無愛想に悠樹は答える。
「よし、だったらお前は西川さんや負傷者と一緒に研究室へ駆け込め。俺があいつらをあそこから離す」
「一人で大丈夫なのか?」
「別に戦うわけじゃない。ただ魚人たちを一旦研究室の前からどかすだけだ。あいつらが居たら先へ進めないからな。遠ざけたら俺も直ぐに中へ入る」
「……分かった」
悠樹は素直に頷いた。下手な文句や意見を言わないのは、やはり敏のことを心配しているからだ。
「よし、大槻、金島、行きますよ!」
二人のやりとりが終わったことを確認した西川は、もう負傷者を回収しているであろう部下たちの名前を呼んだ。同僚の男を背に担いだ金島の方はすぐにこちらにやってきたが、岸本を拾いに行った大槻の方は実験室の前から動こうとはしなかった。いや、動けなかった。実験室は研究室の真横だ。つまり魚人たちにかなり近い位置にある。そのため大槻は岸本を担いだまでは良かったものの、その動きに気がついた魚人たちに目を付けられてしまい、じりじりと後ろに追いやられていた。
「大槻、早くこちらに!」
その身を案じた西川が怒鳴るが、大槻は一考に聞く耳を持たない。いや、声自体は聞こえているだろうが、三体もの魚人を目の前にして、しかも岸本を背負っている所為で両手が塞がれた恐怖から、動くことが出来なかった。
「チャァアアアッ!」
この獲物は無力だとでも思ったのか、魚人たちは一斉に大槻に襲い掛かった。
「うわあああああ!?」
流石の大槻もこれには悲鳴を上げて逃げるしかない。慌てて反転しようとしたが、岸本を抱えているせいで早く動くことが出来ず、あっと言う間に魚人たちに覆いかぶさられた。
「大槻!」
「岸本!」
金島と悠樹が同時に叫ぶ。二人は揃ってすぐに大槻の元へと駆け寄ろうとした。だがそんな二人を友が止めた。
「止めろ、もう駄目だ!」
既に大槻は喉を食いちぎられ痙攣している。例え魚人を倒しても、もう助かりはしないだろう。岸本の方は大槻とそれに跨っている魚人が死角になってよく見えなかったが、恐らくは殆ど同じ状態だと思われた。
「……今のうちに研究室へ……」
顔を伏せ、物凄く残念そうな表情をしながら、西川が震える声でそう言った。
「岸本――……!」
その声はまるで敗北宣言のように悠樹の耳に残り、いつまでも離れなかった。
研究室に内側から鍵を掛け、そのまま上階へ上がると、次階へと繋がる階段、そしてそれに向って伸びた一本の廊下が視界に飛び込んできた。廊下にはトイレを含んだ三つの扉があり、その中でも、もっともこちら側に近い扉の前には一体の魚人が立っていた。魚人は何やら忙しなくその扉を叩いたり、引っかいたりしている。
「あの中に生存者たちがいるのかもしれない。一体だけだ。ここで倒すぞ」
友はマガジンの切れたWASPKNIFEを斜に構え、小声でそう言った。
「俺が囮になる。指示は任せた」
負傷した仲間を背から下ろし、屈強そうな体をした金島が前に進み出る。大槻の敵討ちのつもりなのかその目には怒りが篭っていた。
「……了解。西川さんは後衛を」
簡潔にそういうと、友は自分を含めた金島以外の者たちを全て壁の後ろに隠し、手で金島に突撃するように合図した。金島は頷くと廊下の横端にあった大きな植木鉢を見て、そこに生えている天井まで伸びた木をがしっと掴んだ。
「チュウゥウウウ……」
魚人は飢えているのか必死に扉を引っかき続けている。金島はそっとその背後に立つと、問答無用で木を振り下ろした。植木鉢が見事に魚人の後頭部に命中し、砕き割れる。
「チャァァアアア!?」
痛みに悲鳴をあげながら自分を睨む魚人を一瞥し、急に身を反転させ廊下を走り出す金島。当然魚人は目に怒りの炎を浮かべながらその後を追従した。風が頭を撫で、いつもは逆三角形に整えられている金島の髪は見事な三角形に変形していた。
丁度金島が通り過ぎ、目の前に魚人が飛び出したところで、友と西川はそれぞれナイフを片手に勢い良く廊下に飛び出した。その刃は寸分の狂いもなく魚人の側頭を貫き、腐った脳味噌を撒き散らす。鳴き声を上げる間もなく魚人の意思はこの世から消えうせた。
「さあ、開けるぞ」
ナイフを振り、付着した血を弾きながら友は片手で扉のノブを掴んだ。
ギギギと乾いた音を立てながら扉は開き、次第に部屋の中が明らかになっていく。中へ踏み込むと、隅っこにお互いの体を抱き合う形で窪田と佐伯が座り込んでいた。
「二人とも大丈夫ですか?」
すぐに西川が駆け寄りその状態を確認する。佐伯は恐怖からか、やや口をひくつかせながら話し出した。
「あ、ありがとう。本当に死ぬかと思ったよ……」
「おい、他の奴らはどこへ行った?」
敏のことが心配で仕方が無い悠樹は、二人がまだ落ち着いていないにもかかわらず、問い詰めるように佐伯の襟を掴み、捻り上げた。そのあまりの迫力に佐伯は声を引きつらせて答える。
「か、佳代子さんはトイレに行くって言ってたけど、他の三人は良く分からない。最初に羽場さんが隣の部屋に行って、トウヤと敏はその後を追っていったんだ。もしかしたら、隣の部屋で俺たちと同じように引きこもっているのかもしれない……!」
それを聞いた瞬間、悠樹は佐伯から手を離し、礼も言うことなく部屋から飛び出していった。
「悠樹、一人で突っ走るな!」
溜息を吐きながら友がその後を追う。
悠樹は隣の部屋の扉を開け放つと、何の躊躇いもなく足を踏み入れた。
「おい、感染者がいたらどうする気だ!」
一テンポ遅れて友も部屋に入る。悠樹を押しやり、中の様子を調べようとすると、不意に前から声をかけられた。
「……友さん? ああ、――良かった、ずっと一人で怖かったのよ! あの怪物を倒したのね!」
それは佳代子だった。ところどころ血に塗れた服を着ながら、満面の笑顔で二人を見つめている。
「佳代子さん? トイレに行っていたんじゃ……?」
先ほど聞いた内容と違う現状に、友は首をかしげた。
「ええ、最初はトイレに行っていたけど、廊下に出たときに上から悲鳴が聞こえてきたの。それで怖くなってここに飛び込んで……」
「悲鳴?」
「あ……多分、あの声は敏くんだと思うけど……」
「何!? 上って言ったな、あそこの階段のことか!?」
敏という名前を聞き、悠樹はさらに不安感を募らせた。
「慌てるな悠樹。まずは西川さんに連絡するのが先だ。もしさっきみたいな怪物がいた場合、お前一人ではどうにもならない」
軽く悠樹の肩に手を置き、友は諭すように言った。悠樹は不満げだったが、一人で突っ込んでも無駄死にするだけだと、友が無理やり引き留めた。
部屋を出て、隣の部屋へと向う間、佳代子は笑っていた。まるでほくそえむように。ゲームを楽しむ子供のように。
誰にも気づかれることなく、ただ静かに。