<第十三章>悲壮と愛憎
<第十三章>悲壮と愛憎
「掴まれ!」
悠樹は一段目のコンテナの上から腕を伸ばし、岸本を引き上げた。岸本は阿修羅から逃げていた分、悠樹よりも多く体力を使用しているため中々登れなかったのだ。
「――あの怪物は?」
登りきると同時に、背後を振り返りながら阿修羅を探す。
「丁度ボーラを外せたみたいだな。直ぐにやってくるぞ。二人とも早くこっちに上がれ。ここにかなり重そうなコンテナがある。これを頭に落とせばあの怪物も無事では済まないはずだ」
積み木状になっているコンテナの地上から二段目、悠樹と岸本がいる場所よりもさらに一段上の位置から友がそう声をかけた。その前には赤い大きな立方体型コンテナがあり、廃棄用実験機材と書かれた札が打ち付けられている。
「もっと重いのもあるが、生憎二段目にしかない。今はこれを使うのがベストだな」
「あいつがこれに潰されなかったり、避けたりしたらどうするんだ? こんな狭くて高い場所……俺たち自分から墓穴を掘ったことになるんじゃねえか?」
「悠樹、ここは別に不利とは限らない。上下左右から迫ってきた阿修羅の攻撃を下方からの一方向に制限出来るし、それにいざとなったらあいつを飛び越えればいい。幸いなことに、あいつの足はあまり速くはないからな。逃げ切れるはずだ」
「飛び越えるって……ここ結構高いんだけど?」
「パルクールやでんぐり返しの要領で受身を取れば無事に降りれる。心配ない」
「いや、俺そんな妙な技習ったことないから! 俺ら一般人を訓練を受けたお前らと一緒にすんなよ!」
「お前なら俺の体感を模倣するだけで出来るんじゃないか? それに、確証は無いが……岸本も少しは経験があるように見える」
友は意味ありげに岸本を見る。それに対して、岸本はちょっとだけ不安げな表情を見せた。
「――まあ、学生時代は体操部だったからな。多分、やろうと思えば出来ると思うぜ」
「マジかよ……」
「決まりだな。――ほら、あいつがやってきたぞ、手伝え!」
二人が二段目に登ったのを確認すると、友はコンテナの側面に両の手を付き、全身を預けるように押し始めた。
「ヴォォォオオッ!」
タイミングよくコンテナ山の前に阿修羅が駆け込む。悠樹は声を出して、阿修羅が自分たちが落とそうとしているコンテナの下に来るように上手く誘導した。
「今だ! 押せ」
友の合図で、三人は力いっぱいコンテナを前に押した。赤いコンテナは下のコンテナと摩擦音を奏でながらゆっくりと空中に飛び出す。
阿修羅は始め前側の四本の腕でそのコンテナを受け止めようとした。しかし落下加重が加わったコンテナは、いくら人外の怪物と言えども四本で支えるには重すぎたらしく、阿修羅は紙風船が潰れるようにあっという間にその姿を消した。
「やったぞ!」
悠樹が嬉しそうに笑う。だがその笑みは直ぐに消えた。
「ヴォォァアァァアア!?」
重低音の鳴き声と共にコンテナが持ち上がった。斜めに傾きながら徐々に横にズレていく。コンテナが完全に床の上に下ろされると、腕を二本だけ捻じ曲げた姿の阿修羅が出てきた。
「あ、あれだけ重いものを頭に落とされて、腕が二本折れただけかよ……!」
絶句する岸本。しかし友はあくまでも冷静に対処した。
「二本奪えたと喜べ。マイナス思考では長く生き残ることは出来ない」
阿修羅はそのまま残った腕を真上に伸ばし、三人を手当たり次第に鷲掴みにしようと振り回し始めた。
「うわっ!? あぶねえ!」
わしゃわしゃと無数の腕が下から触手のように押し寄せる。コンテナが二個分ほど立ち位置に差があるとはいえ、阿修羅の腕はかなり長い。すぐに三人の身は危険な状態になった。確かに阿修羅の攻撃支点は一方向からのみなのだが、これでは対処出来ないことに変わりない。
「くっ!?」
「下がれ!」
悠樹がとうとう三本の腕に拘束されかけたとき、友が叫びながらWASPKNIFEをその緑色の腕に抉り込ませた。激しく、黒っぽい血が腕から吹き出る。
ガシュッ!
ナイフの周囲が白いガスに包まれ、それが埋まっていた腕が盛大に吹き飛ぶ。阿修羅は悲鳴を上げて悠樹から腕を遠ざけた。
――くそ、WASPKNIFEのマガジンは残りひとつしかない。この調子だと止めを刺す前に使い切ってしまう……!
友は軽く舌打ちした。
「これで、あいつが動かせる腕はあと何本、なんだ!?」
阿修羅が一旦引いたことで息つく暇を得た岸本は、途切れ途切れの言葉で聞いた。
「あと七本だ。今なら下に逃げることも出来るが、それだとこれ以上腕を削げなくなる」
「でも、この状態でどうやってさらに腕を減らすんだよ? 俺たちナイフしか武器が無いんだぜ?」
「……そうだな」
友は答えに詰まった。
イミュニティー、黒服、ディエス・イレがナイフを標準装備しているのは、持ち運び易いという理由が大きい。日本では銃器を持つ者は少ないし、使用すると嫌でも目立つ。公共の場でイグマ細胞が散布された時にバンバン銃を撃って行動すれば、すぐに感染範囲外に居る人間からも注目を集めてしまう。そうなれば極秘の組織としては行動できなくなるし、何より大量に銃器を取り入れればその分他国やテロ組織、その種の企業から目を付けられるようになる。また銃声は人だけではなく感染者をも引きつける。感染者は一体一でも倒すことは一苦労だ。銃の弾はすぐに無くなる。長期に渡って無数の感染者を相手にするのなら、銃に頼る戦い方をするわけにはいかない。他国ならある程度手はあるだろうが、弾の補給を考えれば日本ではどうしても銃の使用は好ましくなかった。黒服などはその切れ味から止め用の武器としてナイフを使用することが多いが、イミュニティーやディエス・イレは護身用装備としてナイフが当てがわれているに過ぎない。だから通常はその場、その場で利用出来るものを見つけ、武器として使用するのが一般的だ。
だが、今この場所には利用出来るものが無い。遠くにある椅子や机、パイプを加工すればナイフと合わせて槍ぐらいは作れるだろうが、そんなことをしていれば武器の完成を見る前に阿修羅に殺されてしまうだろう。
「西川さんが来れば一気に減らすことが出来る。それまでここで持ちこたえるしかない」
友は悩んだ末にそう答えるしかなかった。
「なあ、一体何を作らせてんだよ?」
左手に立っていた悠樹がしかめっ面で聞いた。西川が作っているものが本当にあの阿修羅を倒すことに繋がるか、心配になったからだ。友は下で体勢を立て直している阿修羅を見ながら、完結に答えた。
「一種の霞網だ。阿修羅は自分に迫るものを、何であろうと掴もうとする傾向が見られた。だからその習性を利用する。大量の鎖を簡単に編み込んだ物をあいつに被せ、動きを封じる。その状態ならばこちらの攻撃も難なく当たるはずだ」
鳥は飛び立ち、羽ばたきを始める直前まで足で何かを掴み続ける。その習性を考えて編み出されたのが霞網だ。霞網に止まった鳥は飛び出す反動を得ることが出来ず、そのまま死ぬまで網にぶら下がり弱っていく。
「ってことは、その鎖をあいつに被せるためにも、ここから降りるわけにはいかないんだな」
何故友がこの場所を戦闘空間に選んだのかその真意を知り、悠樹はよくもまあ、ここまでいくつもの策を瞬時に思いつく、と舌を巻いた。
「ヴォァアアアアア!」
使い物にならなくなった三本の腕をだらしなく垂れ下げ、阿修羅は残りの七本の腕を大きく広げると盛大に吼えた。
「また来るぞ!」
岸本がその声に身を縮こませ壁際に下がる。それと対照的に悠樹は余裕ある態度で阿修羅を嘲った。
「おうおう、随分怒ってんな。はっきり感じるぜお前の気持ち。化物でも怒ったりするのか」
感覚が知らせる。
こいつは怒っている。自分の腕が切断されたことに。思うように獲物をしとめられないことに。
「だけどな、俺の怒りの方が何倍も上だ。いい加減、退けよ。俺は横谷晶子を屠んなきゃいけねえんだ。――お前、邪魔なんだよ」
ミサイルのような速さで飛び出してきた緑の腕を膝で弾き反らす。タイミングはばっちりだった。共感感覚で理解しているのだから当然だ。
悠樹はそのまま数度腕に切り付け、阿修羅の黒い血をコンテナの上に撒き散らした。
「悠樹、あまり近付きすぎるな! 油断しているとやられるぞ!」
そのあまりの無鉄砲ぶりに友が注意する。
「うるせえ! 俺はさっさとこんな場所から離れて、オヤジの仇を討ちたいんだ。こんな怪物にてごずってる暇はねえんだよ!」
悠樹は半ば強引に阿修羅の攻撃をかわし、少しでも相手の腕にダメージを与えようと奮闘した。
――感情的になり易い奴だ。
友は自分の性格を反転させたような悠樹の無謀な行動に呆れた。いくら悠樹が超感覚者とはいえ、あれではそう長くは持たない。超感覚者は所詮は人間に過ぎないのだ。感覚があっても、その身体能力も脆さも一般の人間と何ら変わることはない。阿修羅に一度捕まってしまえば、その瞬間に例え超感覚者だろうと簡単にバラバラに分解されてしまうだろう。
今の悠樹は阿修羅の感覚に共感している所為で、その怒りに同調してしまっている。
共感能力の唯一の弱点。それは自分の精神が感覚を共有している対象の影響を受けてしまうということ。心理訓練を受けたり、精神力が強い人間ならば耐えることは出来るだろうが、今日始めて感染者との戦闘を経験した悠樹にはどうしても感覚に体を支配され、相手の感情に引っ張られてしまっている感がある。友はそれが悠樹の無謀さを助長していると睨んだ。
「あっ、西川さん――出てきたぞ!」
二人よりも一歩後方にいたため余裕があった岸本が、斜め左の方に西川の姿を見つけた。西川は無数の鎖を引きずりながら汗を流してこちらを目指している。
「あのままじゃ不味い。西川さんの筋力じゃここまで鎖を持って上がることも、鎖を投げ渡すことも出来ない。誰かが変わりに下に降りるしかないな」
眉間に小さな皺を刻みながら、友が残念そうに呟いた。
感情的になっている悠樹ではミスする可能性がある。かといって岸本でも下に降りてから阿修羅に殺さる確率が高い。
「……俺がやるしかないか」
現状でもっとも作戦を成功させられる人員は自分だけだ。友は岸本に悠樹のサポートを頼むと飛び降りる準備を始めた。
数歩後ろに下がり、距離を取る。そして呼吸を整え、阿修羅の動きを読みながらと一気に走り出した。
金属製のコンテナの側面を激しく踏み、高く、高く飛び上がる。迫り来るコンクリートの床を眺めると、腰を捻りながら前転するように体を地面に転がした。丁度阿修羅から三メートルほど離れた場所だ。
「ヴォァッ?」
すぐに阿修羅が反応し、顔をこちらに向ける。この距離で飛び掛られたら避けることは出来ない。まだ体勢を立て直しきれていない友は頬に一筋の汗を流した。
「お前の相手は俺だろ!」
悠樹が怒号をあげながら手を伸ばし、コンテナの前で浮かんでいた緑の腕を切り付ける。その痛みに阿修羅は視線を友から外した。
――ナイスだ、悠樹。
友は悠樹に感謝しつつ、西川のところへと向う。
「友、これを!」
西川は緊迫した表情で無数の鎖の塊を友に渡すと、阿修羅の方を眺めた。
「これが上手く効くと良いんですけど……」
「ありがとうございます、西川さん。阿修羅が上からこれを被ったら、鎖を掴んであいつを拘束するのを手伝って下さい。それと、それには俺たちだけの力じゃ足りない。向こうで戦っているイミュニティーの仲間ももうすぐ手が空きそうだ。今のうちに彼らにも強力の要請を」
「分かりました」
長話はせず、西川は直ぐにクラゲ人間と戦闘をしている仲間の元へと走っていく。
――さあ、一発勝負だ!
友は鎖の束を肩に乗せると、鋭く光る目を覗かせながらコンテナの方へ戻り出した。
「悠樹!」
岸本が叫んだ。
無理が影響したのか、悠樹はとうとう阿修羅に捕まってしまった。肩を、大きくて醜い緑の腕にがしっと掴まれている。
「このっ……!」
すかさずナイフをその腕に立てようと振り上げるが、その腕もまた捕まれてしまった。
――やばい! 体が裂かれる!
先ほどバラバラに八つ裂きされたイミュニティーの男の姿を思い出し、ゾッとする。徐々に強くなっていく左右の拘束がそれを一層実感させた。
「止めろぉ!」
腕を振り回しながら岸本が阿修羅の腕に斬撃を浴びせるが、距離がある所為か殆どが浅い切り傷にしかならない。その間にも悠樹の体は大の字に開いていく。
「ミシミシ」と骨が鳴り、筋肉が引きつる。悠樹はまだ僅かな力しか込められていないというのに、そのあまりの痛みに悲鳴を上げた。
「ぐぁぁああぁああああっ!?」
両腕は動かす事が出来ず、足は空中に浮いている。出来る事と言えば、ただ前後にぷらぷらと揺らす事だけだ。もはやなす術が無い。
「ヴゥゥォォォオオオオオ!」
やっとこの手に抱くことの出来た獲物の感触に、横谷操もとい、阿修羅は喜びの雄叫びを高らかに上げた。
「――ぁぁぁあああああああああっ!?」
断末魔のような絶叫へと近付いていく悠樹の悲鳴。その音響のさなか、ぐぼっと鈍い音が鳴る。岸本は悠樹の左腕が不自然な形に曲がっているのを目撃した。
――左肩の関節が外れやがった!
もう一刻も猶予は無い。骨が外れれば筋肉など直ぐに引きちぎられる。仕方が無く、岸本は持っていた唯一のナイフをぎゅっと掴み、コンテナを蹴って悠樹の前に飛び出した。
「うりゃぁあああああ!」
空中に躍り出ると同時に渾身の力を込めて、ナイフを阿修羅の右腕に叩きつける。
「ヴォァアアッ!?」
阿修羅は悠樹の体から右腕を離すと、そのまま岸本を怒りに任せて力のままに振りほどいた。岸本はコンテナの側面に激しく体を打ちつけ、ボロ人形のように地面に転がると、その場で死んだように動かなくなった。
――き、岸本!? このくそ化物がぁあっ!
悠樹は自由になった右腕で、今だ自分の左腕を拘束している阿修羅の手に深々とナイフを刺す。黒っぽい血が腕を伝い服を濡らしたが、意に介さずぐりぐりと刃を相手の肉に沈めた。
これには流石の阿修羅も耐えられなかったようだ。悠樹は流星のように投げ飛ばされ、再びコンテナの上に舞い戻った。
「があっ!? 痛って――!」
全身が雷に撃たれた直後のように痛む。
「悠樹、大丈夫か!? これを受け取れ!」
コンテナの付近まで鎖を引きずりながら戻ってきていた友が、下から声をかける。
「ああ? 何をだよ!?」
悠樹は何とか立ち上がると、間接の外れた激痛の走る左肩を押さえながら、友を見るためコンテナの下に視線を向けた。と、同時に真下から黒い一本の鎖が目の前に飛び出す。
「全部繋がっているからそれを引けば全ての鎖がそっちに行く。引き上げたらすぐに阿修羅に被せろ、あの厄介な腕を無効化出来るはずだ」
「……岸本をそこから退かしとけ!」
先ほど友から霞網作戦を聞いていた悠樹は、すぐにその言葉の意味を理解し、一気に鎖を引き上げにかかった。
真下に居た友は岸本を担ぎ、そのまま逃げようとしたが、目の前に阿修羅が怒りに染まった表情を浮かべ立っているため、仕方が無く断念した。岸本を抱えた状態でここから逃げるのはリスクが大きすぎる。一旦阿修羅の注意を他に向けなければほぼ間違いなく背後から攻撃を受けてしまう。
「こっちだ! 化物!」
その時、阿修羅の背後から複数の人間の雄叫び声が聞こえた。咄嗟に視線を向けると、クラゲ人間との戦闘を終わらせたイミュニティーの男たちと西川の姿が近くに見えた。知能の低下した阿修羅は挑発のままにそちらに注意を移す。友はその隙に岸本の肩をより強く抱え、物音を出来るだけ立てないようにしながらコンテナの前から離れた。
「くそ、腕一本じゃ時間がかかる」
一人コンテナの上で鎖を引き上げていた悠樹は、自分の間接が外れてしまったことを悔しがった。折角西川が鎖をここまで運び込み、友が岸本を遠ざけて準備は出来たというのに、まだ半分も引き上げきれてはいない。こうしている間にも阿修羅の気を引いているイミュニティーメンバーたちはどんどん追い詰められていく。
――俺の所為で全てを台無しにして堪るか!
悠樹は鎖を体に巻いて固定し、一旦後ろに下がると、全身の力を肩一点に集中させて壁に体当たりした。角度も位置も適当だったが、鈍い音と激痛と共に、その一発で間接が上手くはまる。
「があああああああっ! くそったりゃぁああ!」
その叫びのままに、痛みの治まらない腕を歪めに歪めた表情で動かし、一気に鎖を引き上げた。
「友! 準備出来たぞ」
肩の痛みで目に涙を浮かべながら叫ぶ。
友は岸本を実験室の扉の前に寝かせると、直ぐに大声で指示を出した。
「西川さん、阿修羅をコンテナの前に移動させるんだ!」
急いで体の向きを反転し、コンテナの方へと戻っていくイミュニティーの面々。一人の男がその際阿修羅の拳を避けきることが出来ず、腹を窪ませて血を吐きながら後方に吹き飛んだ。死んでいはいないだろうが、あれだけしっかりと直撃されれば、しばらくは動く事は出来ないだろう。これで戦闘可能イミュニティーメンバーは友を含めてとうとう四人だけになった。
急接近してくる阿修羅を瞳に捕らえ、悠樹は鎖の束を構える。
――これで終わらす、これで終いだ!
横谷操の四つの目と視線が交差する。
そして西川たちがそれぞれ左右に転がったのと同時に、悠樹は鎖の束を空中に投げた。
ぶわっと広がる黒い金属の触手。それは阿修羅の頭の上で花開き、一気に降り注いだ。阿修羅は鎖が落下するのと同時に腕を伸ばし、それを幾つもの手で掴んだ。引かれる勢いで網目状に組まれていた鎖は複雑に阿修羅の体に纏わりつき、阿修羅が引く力のままにその体を締め上げる。
「ヴォオオァ!?」
阿修羅は鎖を外そうとさらに腕に力を込めるのだが、逆にその影響で鎖の拘束はより一層強靭なものとなった。
作戦は成功したかに思われたが、突如西川が何かに気づいたように阿修羅の頭の後ろを指差した。
「あ、あそこ! 外れかけてる!」
悠樹がそこを見ると、頭に引っかかるはずの鎖が徐々に上に移動し、外れかけている。あの部分の鎖は全ての拘束の支点だ。あの鎖が外れれば阿修羅の拘束が解けてしまう。
「不味いぞ、引け!」
友が叫び、二人の男、西川が慌てて阿修羅を円を描くように囲み、その体から垂れた鎖を引く。阿修羅の拘束を強くして頭から鎖が外れないようにしようとしたのだ。
しかし残念なことに鎖は頭から外れた。極限まで引っ張ったゴムが飛ぶような勢いで、空中にその黒い体を打ち出す。
この鎖が外れれば友の策も、西川の努力も全てが無駄になる。その場を瞬時に落胆と絶望の空気が覆い尽くした。
誰もが本能的に理解した。
これまでだと。
もう手は無いと。
だが――
「うらぁぁあ!」
その瞬間、悠樹が掛け声と共に大きく跳躍した。
コンテナから空中に飛び出し打ち出された鎖をがっしりと掴み、勢いのまま上空から阿修羅の頭に被せる。そして阿修羅の背にぶら下がるような格好で、鎖を握りしめたまま反対側に抜け出た。
阿修羅の十本の腕のうち三本は大きな怪我で使用不可能であり、残りの七本も鎖によって動きを封じられている。殺すなら今しかない。まさに最後のチャンスだ。
「友、今のうちに止めを!」
「駄目だ! お前が拘束を戻したとはいえ一旦外れかけた影響で鎖の位置が変わってしまった。今俺たちが腕を鎖から離せば、阿修羅はすぐに自由になる。お前が止めを刺せ!」
「はあっ!?」
「これを使え!」
友は握っていたWASPKNIFEを悠樹に投げ渡した。
「残り一発だ、しっかり決めろ!」
悠樹は左腕で鎖を握り締めたまま、間接を直したばかりの、まだ痛みの残る右腕でWASPKNIFEをキャッチした。
「何でもかんでも俺に押し付けやがって――!」
悠樹は力の限り阿修羅の背を蹴り、ブランコのように後ろに大きく下がると、WASPKNIFEを逆手に持ち、重力に引かれる勢いのまま阿修羅の心の臓目掛けて突撃した。
「後できっちりつけは払ってもらうからな!」
「これで決まる」誰もがそう思った。
――なっ!?
突如、悠樹の体中に痛みが走った。
肉体的なものではない。精神的なものでもない。もっと根本的な、潜在的な深い痛み。まるで自分の魂の一部が消失したようなそんな痛み。
阿修羅を殺せるまさにその瞬間だというのに、悠樹は動きを止めた。阿修羅は何もしていない。完全に無防備な状態だ。
「悠樹!?」
友や他の人間が不審そうな目を向ける。
――何だ!? 一体何が……!?
悠樹は混乱しながら、その得体の知れない感覚的な痛みに耐え、受身も取れずに阿修羅の背に体を打ち付けた。
「うっ!」
思わず、声が漏れる。
「くそ……!?」
――なんなんだ、この痛みは――この感覚は……!?
「なんなんだよぉぉお!」
数分前。管理室。
己の体で盛大に風を切り宙を舞いながら、広は恐れと慄きに満ちた目で近付いていく人間を見つめた。
管理室の隅、隠し階段の前に立っているその人間――横谷晶子は、均整の取れた顔で優しげな微笑を浮かべ、部分変化させた己の緑の腕を胸元まで素早く引き戻した。
「がぁあっ!?」
首を鷲掴みにされた状態で急ブレーキをかけられ、広はあまりの喉の圧迫感に涎を垂れ流すことにも構わず、むせ返った。逆上がりを試みているときのように大きく足が前に跳ね上がる。
「実の姉を背後から刺すなんて、酷いじゃない?」
フランス人形のような整った顔を全く崩すことなく晶子はそう問いかけた。広の首を掴んでいる腕は既に人間の形に戻っている。広は咳をすることに忙しく、答えることが出来ない。
「あらあら、お姉さんを無視しないでよ。悲しくなるでしょ。答えないなら、お仕置きするわよ」
「……な、何で、生きてる!?」
ひゅーひゅーっと空気が漏れるような声で、広は尋ねた。
「今の私は人間じゃないのよ。もっと高度で、美しい存在。人間はちょっと内臓を傷つけるだけですぐに死ぬけど、私や操さん、あなたはそんな簡単には死ねないわ」
「で、デガウス・ジェイルは細胞の分裂速度と染色体の新生化を促すだけのものだったはず、まさか……再生能力もあったのか?」
「そんな機能ないわよ。再生能力なんて、生み出せる科学者がいたら見てみたいわ。私たちはただ体が頑丈になっただけ。確かに傷は人より早く塞がるけど……これは再生というより成長よ。体が細胞増殖によって成長することで強制的に傷を消したり、小さくすることが出来るの。そう、まるで植物のようにね。あなた、私の上げた資料最後まで読んでいないでしょ」
叱るように眉を寄せる晶子。
「まあ、いいわ。おかげであなたのの『行き過ぎた悪戯』にもたいした傷は受けなかったのだし、今回は不問にしてあげる。それよりも……」
片腕で広の首を掴み持ち上げたまま、晶子は天野を振り返った。
「天野博士、本当ならばここであなたが弟に協力した理由を聞いても良いけど、……生憎大体予想が付いているからいいわ。あなた――私を草壁に売ったわね?」
『スパイ』。広は水族館エリアでの草壁国広の言葉を思い起こした。
「な、何故それを……い、一体どこから……!?」
天野は女の子のように両手の指を交差させ、小さな声で呟いた。
「イミュニティー本部がこの水憐島と私の存在を邪魔に思っていることは、前々から気づいていたわ。柳に色々と調べさせていたし。あなたは操さんが私と同種になってから、いつも私を怯えた目で見るようになった。ビクビク、ビクビクね。いつか自分も化物にされるんじゃないか、怖かった。だから本部に、草壁に強力したんでしょ?」
図星だ。天野は小刻みに震え始めた。
「草壁が直にここに踏み込んできた時点で私は確信したわ。間もなく私のここでの全ての地位は失われる。逃げても死ぬまで終われ、一生平穏は無いって。だから私は大枚を叩いて最後の手段に出た。毒には毒を、目には歯を、ってね。どんな組織にも『異端者』は居るものだから」
「ま、まさか、あなたも黒服を!?」
「そうよ。私は草壁の傘下にいない数少ない黒服メンバーと取引した。あなたがスパイになったことを教えてくれたのも彼。天野博士……あなた、草壁と広をたぶらかして私を殺すために今回の事件を起こしたのよね? 残念だけど、それは最初から成功するわけは無かったのよ。私があなたたちの企みを彼から聞いていたんだから。この事件は発生当初から、いえ――推考段階から既に私と彼に利用されることが決まっていた」
「利用……だと?」
か細い声で広が呟く。
その答えが気になり、天野、敏、トウヤは耳に意識を集中させた。今なら簡単に脱出出来るのだが、敏もトウヤも逃げることを忘れたように話に聞き入っている。魚人たちは晶子の威圧感に気おされ、外か地下へ逃げていったようだ。
「そう、つまりは私の『死の偽造』のためにね」
「あっ!?」
何かに気がつき、天野と広は心底落胆したような表情を浮かべた。
「ふふふ、がっかりした? まあ当然の反応ね。あなたたちは私を殺そうと必死に考えを巡らせた。この事件を起こした。だけど、今やその全てが私の生死を不明にする要素へと繋がっている。島をぐるりと囲んでいるイミュニティーの集団、警察。この密閉された水憐島という限られた空間の中、私が誰にも気づかれずに脱出することは不可能。そしてそうなれば私の運命は死か、捕獲かしかない。誰もがそう考える」
「そうか……その為ために態々(わざわざ)副作用を……!」
悔しそうに広は歯軋りする。
「そう、老化した私の姿を知っている人間は柳と広、天野博士だけだった。私はいつも副作用中は部屋に引きこもっていたし、誰もその姿は知らないわ。あなたたちが消えればね。私はか弱い一、生存者。『佳代子』として堂々とこの島から出ることが出来る。私の死体も既に用意してある。ただ私と同年齢の女性にデガウスジェイルを打ち込めば良いだけだから、簡単に作れたわ」
敏は佳代子と初めて会ったときのことを思い出した。
――そういえば、俺と兄貴が最初にあの販売エリアに着いたとき、佳代子さんの姿は無かった。姿を見るようになったのは彼女がトイレから出てきてからだ。一斑だけが鼠魚に襲撃されなかったのも、晶子の気配に奴等が恐怖を抱いていたからだとしたら? 暗い廊下を歩いていた時に俺が感じた異常なほどの愛憎と恐怖。あれが佳代子――晶子と広の感覚だとしたら? それに、トウヤから一瞬だけ殺気を感じたとき、あのとき真後ろには佳代子さんが居た。
考えれば考えるだけ不審な点と点のピースが繋がっていく。
――佳代子さん……あなたは、まさか本当に……
「な、なんてことだ! 私たちの計画が、ま、まさか逆に利用されるなんて……!?」
「ドカンッ!」と天野は操作盤に両手を叩きつけた。
「大の男が暴れないで、みっとも無い。品性が無いわよ。……安心しなさい。あなたが草壁から責任を問われることは無いわ。今すぐ、私が殺してあげる」
「え?」
天野はキョトンとした顔で前を向いた。だがその視線は何も映像を捉えることが出来なかった。一面、真っ黒な闇に覆われている。
「あ?」
ようやくそれが何か理解した時、既に天野の頭は緑色の腕によって地面に叩きつけられ、生卵を落としてしまった跡のようにぐっちゃぐっちゃに割れて、赤い具を撒き散らしていた。
「天野っ!? ――あ、姉貴ぃっ!」
「何よ? まったくあなたはすぐ他人に影響されるんだから。もうあんな人間と関わっちゃ駄目よ。これ以上、私に悪さ出来ないように今すぐデガウス・ジェイルを入れてあげる」
晶子は腕を曲げると、艶のあるピンク色の美しい唇を広の唇に近づけていく。
「や、やめろ! やめろぉおお!」
広は化物になる恐怖にパニックを起こし、必死に抵抗したが、体は宙に浮いているため何も出来ない。
「これであなたも操さんと同じ、本当の家族になれるわね」
本当に嬉しそうに色気の漂う笑みを浮かべ、晶子は唇を押し当てた。
体内に入ってくるデガウス・ジェイル細胞を感じ、広の頭と体が熱くなっていく。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ! 狂ってる! あんな醜い化物になんてなりたくない! 嫌なんだよ!
「ん?」
敏は広が最後の力を振り絞って懐から何かを取り出すのを見た。カプセル状の薬が詰まった瓶だ。
「……っ姉貴ぃい! 俺は義兄さんみたいな、あんたみたいな怪物になるなんて御免だ!」
いきなり頭突きを晶子の額に浴びせ、一瞬頭が離れた隙に広は瓶の中の全ての薬を一気に飲み込んだ。
「――広!?」
晶子は驚いて瓶を奪い取ったが、既に遅い。広の体にはカプセルから解き放たれた抗イグマ剤が、イグマ細胞を食い尽くす微生物が溢れかえり出していた。
「そ、そんな! 広!」
。あんなに大量の抗イグマ剤を取り入れれば、例え生身の人間でも死は避けられない。晶子は涙を流しながら青白くなっていく広の体を抱きしめた。
「悪いな、姉貴……俺は人間でいたいんだ……人間として、人間の姉貴と義兄さんと……一緒に生きて行きたかった……」
「何て馬鹿なことを! 広! ――ひろし!」
デガウス・ジェイルの影響で精神に以上をきたしているのか、晶子は終始小学生を叱るように泣き叫びつつ、必死に広の体を揺らした。
「姉貴……そんなに義兄さんのことが許せないのか? そんなに美貌が大切なのか? 俺や、義兄さんの命よりも……」
晶子は何も答えず、ただ泣き叫んでばかりいる。
――なあ、姉貴。一度でいいから……昔みたいに笑ってくれよ。美しくなんか無くたっていい、ただ……暖かいあの愛嬌のある顔で……もう一度だけ……
ぐらっと広の首が傾いた。全身の細胞が抗イグマ剤に蹂躙されつくし、死んだのだ。
「うああああああ広っー!?」
ヒビの入っていたグラスが砕けるような幻聴と共に、管理室の中を溢れんばかりの悲壮な悲鳴が満たした。
それは横谷晶子に残っていた最後の人としての理性と、愛情がたった今消え去ったことを意味していた。
ネット作家になって一年経ちました。本当ならばここで尋獄3まで終わらせてる予定だったんですがね……中々上手くはいかないものです。
さて、二年目も頑張りますのでこれからも尋獄シリーズをよろしくお願い致します。来年こそはきっと完結できる……はず!