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<第十一章>”阿修羅”

<第十一章>阿修羅ケツァルコアトル




「くそ、近づけない――!」

 友は顔面すれすれまで迫った緑色の豪腕を辛うじてかわすと、苦虫を噛み潰したような表情をした。

「あんなに沢山の腕の中、どうやって攻撃を当てりゃぁいいんだ。本当にこれ勝てんのか?」

 先ほど殺されたイミュニティーメンバーのナイフを握りしめながら、岸本が引きつった笑みを浮かべる。

「正面からも後方からも完全に対応してくるな。こうなったら罠を作ってそれに嵌めるしかない」

「は、罠?」

「森林の中ならば落とし穴やトラップも簡単に作れるが、この無駄に広いコンクリートの上だとかなり難しい……お前、しばらく一人で戦ってくれないか?」

「いやいやいや、無理だから! 俺にそんな真似出来るわけねぇだろ、瞬殺されるぜ!?」

 友が本気でその意見を提案しているようなので、岸本は顔を真っ青にして反対した。

「おい、大丈夫か!?」

 そうこうしている中に悠樹が二人の元に走ってきた。何故か自分の服を両腕に撒いているだけで何の武器も持っていない。

 ――……あいつ素手でこの化物とやりあう気なのか?

「お前――……はぁ、これを使え」

 友は呆れるような視線を悠樹に向けると、自分の握っていたナイフを投げ渡した。

「お、サンキュー!」

「悠樹、絶対に軽はずみにあの阿修羅に近付くな、あいつは近距離戦で生きるタイプだ」

「ああ? そんなこと言われなくても分かってるよ。俺を何だと思っているんだ?」

「馬鹿だ」

 はっきりそう言いながら友は懐からWASPKNIFE(ワスプナイフを取り出す。人魚のときに一度使用したから、冷却ガスのストックはあと二発分しか残っていない。

「ばっ――? 喧嘩売ってんのか!?」

「来たぞ!」

 悠樹の叫びを無視し、友は横に転がるように飛んだ。その直後、直前まで立っていた位置に阿修羅の拳が振り下ろされた。しかし友は体勢を整えると、顔色一つ変えず悠樹と岸本に指示を出す。

「――あの腕をどうにかしないとこいつを倒すことは不可能だ。まず腕をいくつか削ぐ。協力しろ」

「どうするんだ?」

 阿修羅を挟んで友と反対方向に居る岸本がすかさず聞く。

「こいつがここに放し飼いになっていたとは考えられない。恐らくこのホールか付近のどこかにこいつを拘束していた場所があるはず。あいつの体を見ろ。所々に鎖の痕のようなものが浮かんでいる。きっと大量の鎖があるはずだ」

「なるほど、その鎖で遠くから攻撃するんだな?」

「少し違うな。――西川さん!」

 三人から一歩離れた位置で待機していた西川に向って、友は声をかけた。

「俺たちはここでこいつを食い止める。西川さんはこいつを拘束していた鎖を探してください。それで罠を作るんだ」

「罠? 鎖で? ……分かりました。無理しないで下さいね」

 友の意図を理解した西川は敢えて深く聞かず、すぐに走り出した。

「何かあんたら、ただの上司と部下って感じじゃねぇな、もしかして付き合ってんのか?」

 二人の様子を見ていた悠樹が場違いにもからかうように呟く。

「あの人は俺の師で姉のような存在だ。変な解釈は止めろ。それに――俺には好きな人が居る」

「え、マジで?」

「ヴォォオオゥウウウッ」

 おどけるような悠樹の声は阿修羅の雄叫びに遮られた。阿修羅は四つの目で悠樹を睨みつけると、複数の腕を交互に繰り出してくる。

 悠樹は阿修羅の『攻撃する意思』を察し、それをバックステップでかわしていく。

「ち、腕が多すぎるっ……!」

 喧嘩慣れしている悠樹もこれほどの連打を浴びせられたことはない。皮一枚で避け続ける事がやっとだ。

 悠樹のピンチを助けるべく背後から阿修羅に攻撃しようとした友と岸本だったが、やはりこれまでと同様、別の腕に妨害され、一撃も与える事は出来なかった。

「くぉおおっ――……!」

 悠樹は額に汗の塊をいくつか浮かべながら必死に後退する。防ぐことは出来ない。筋力が違いすぎる。もし一度でも阿修羅の拳を防げば、その瞬間に吹き飛ばされてしまうことになるだろう。腕を掴まれたらそれこそお終いだ。先ほどのイミュニティーの男のように引き千切られ、間違いなく死ぬことになる。

 ――これマジでやべぇな、どうする?

 元々物事を深く考えるのは苦手な質だ。いくら考えても阿修羅を倒す方法は浮かばなかった。段々と中央からホールの中を実験室と反対側の壁際へ近付いていく。

 あのまま下がれば西川が駆け込んだ奥の倉庫のような場所にたどり着いてしまう。友は西川に一任した作戦を成功させるためにも、阿修羅をこれ以上前に進めるわけには行かなかった。

 真横に置かれている楕円形の長机の上からガムテープと三つのレンチを掴み、ガムテープをレンチの柄にぐるぐると巻いていく。そしてある程度それを続けると、残ったテープを引っ張り紐のように伸ばした。

「本当はワイヤーかロープが欲しいところなんだがな」

 不満そうに呟きながら、上空で振り回したその簡易ハンマーを阿修羅の後頭部に激しく数度叩きつける。接近戦で使用されるナイフとは違い、このハンマーには人間が接近してくるという気配がない。阿修羅はこれまでのように腕で防御する事は出来ず、思わぬ痛みに苦しんだ。

「ヴォオオァァァア!?」

 動き続けていた無数の足を停止させ、体の向きを半回転させる。友は特にしてっやったりといったような素振りなどは見せずに、無言で逆方向に走り出した。阿修羅は当然それを追いかける。

 ――西川さん、急いでくれ。

 逃げながら、友は頼みの綱である西川の作業がなるべく早く終わることを祈った。




 一方、阿修羅が先刻まで捉えられていた倉庫の中に辿りついた西川は、部屋の床が小さなマンション一階分ほども下方にあることに軽い眩暈を覚えていた。

「何よこれ……梯子も無いし、こんなところをあんなたくさんの鎖を持って上がらなきゃいけないの?」

 罠を作るという作業の前に出現した思わぬ敵に頭を抱える。友がやろうとしていることは大体予想がついているが、これでは思っていたよりも時間がかかりそうだ。

「何とか、持ちこたえてね……」

 盛大な溜息を吐くと、「何で私がこんなことを」などとブツブツ言いながらその溝になっている床に飛び降りた。








「何言ってるんだよ……佳代子さんが横谷晶子? 意味が分かんないって……」

 地下二階の女子トイレの中で、敏は羽場の衝撃的な言葉が信じられず、そう呟いていた。

「――仮にその人が横谷晶子だとして、何故お前がそれを知っている?」

 敏の代わりにトウヤが静かに尋ねる。

「ふん、俺の気が狂ったとでも思ってんのか? 生憎俺は正気だよ。こいつは間違いなくここの館長、横谷晶子だ。信じられないって気持ちも分かるけどな」

「嘘をつくなよ、何で佳代子さんがそんなことになるんだ? 冗談も大概にしろよ……」

 じっと佳代子の死体を見つめたまま、敏は悲痛そうな表情を浮かべた。

 親切で優しかった佳代子。

 泳ぐのが得意だと誇らしげに話していたあの笑顔は、今は青白く染まり血に塗れた床に押しつけられている。

「嘘じゃない。俺はこいつの家族だからな」

「家族……?」

「俺は横谷広、こいつの弟だよ」

 羽場、いや、横谷広は苦笑いしながらそう呟いた。

「弟!? い、いい加減にしろよ! 横谷館長も、その弟もまだ三十代前後の年齢のはずだ。お前が弟のはずがあるか!」

 羽場はどう見ても五十は超えている。佳代子が横谷晶子ということも、羽場がその弟の広であるということも、敏は全く信じる事が出来なかった。

「理由があるんだよ。つってもこの感じだと言っても信じて貰えそうにはねえがな。――おい、トウヤ。お前俺が窪田のことを好きだと言ったことを馬鹿にしてたな。歳が離れてるって……。生憎俺は窪田さんよりも年下だぜ? 彼女はこの水憐島の常連者でね。俺は何度もここにくる彼女を見ている間に惚れちまったんだよ。それでも馬鹿にするのか?」

 悲しそうな表情を浮かべて聞いてくる広の問いに、トウヤは何も答える事が出来ない。ただじっと何かを見極めようとしているかのようにその目を見つめていた。

「――ふ、まあ今更どうでもいいよ。こんな体になってしまったあの瞬間から、俺はもう自分の平穏な人生は捨ててるしな」

 自嘲気味に笑いながら、広は手に持った刃物を二人に向けた。どうやらそれはガラスに布を巻いた物のようだ。

「な、何する気だ!?」

 思わず敏はビクつく。その隙を逃さず広は一気に突撃してきた。

「っち!」

 すかさずトウヤが渾身の蹴りを放ったが、広はそれを難なく片腕で掴みとると、ちゃぶ台を返すようにトウヤの体をひっくり返した。

「ぐわっ!」

 そしてそのまま満身創痍の敏も肩で吹き飛ばし、トイレから飛び出す。

「ま、待て!」

 腕を伸ばし、広の足を掴もうとした敏だったが、その手は見事に空を切った。

 タタタタ……と足音が遠ざかっていく。

「追うぞ!」

 先に立ち上がったトウヤに引き起こされた敏は、すぐにその言葉に頷いた。二人して女子トイレから飛び出し、地下一階へと続いている廊下の端、丁度トイレの右にある階段を駆け上る。すると目の前に小さな扉が現れ、そこを抜けると先ほどと同じようなホールを一望できる、壁際に作られた吹き抜けの廊下に出た。

「あいつ、もしかして管理室から俺たちをここに閉じ込める気なんじゃ……」

「――急ごう」

 敏の考えに同意見を抱いたのか、トウヤは敢えてあまり言葉を発さず、先に走り出した。道の先にはやはり先ほどと同様の、洞窟のような暗い廊下が垂直に繋がっていることが分かる。恐らくはあそこから管理室に行けるのだろう。

 ガラス越しに下の大穴を覗くと、悠樹たちが腕の無数に生えた緑色の化物から逃げ惑っている姿が見えた。

 ――兄貴、死ぬなよ……――

 敏はその姿を目に焼き付けると、痛みが走る体を再び動かし、トウヤの後を追った。









 ホールの中央まで戻った悠樹、岸本、友の三人は、そこに留まり円を描くように移動しながら阿修羅の複拳から逃れていた。中央には無数の大型機器がハの字のように並んでいる。それを利用し、機器の間に阿修羅を誘導することで機器を壁にし、攻撃を自分たちから遠ざけることで逃げ続けていたのだ。

「おい友、西川さんに頼んだ罠作りって、こんなに時間が掛かるもんなのかよ!?」

「すぐには出来ないが、それ程時間がかかる物ではないはずだ。慌てるな、もうすぐ来る」

「もうすぐっていつだよ?」

「俺が知るわけ無いだろ。それよりもこのままここで戦うのは不味い。あれを見ろ」

 友は阿修羅の横に設置されている、直径三メートルほどのドームのようなものを指差した。

「あれは――イグマ細胞だとかを汲み上げているタンクとパイプか?」

「そうだ。万が一、阿修羅があのドームを傷つけるようなことがあればこのホール、いや、水憐島中にイグマ細胞が流出する。そうなれば魚人なんかと比べ物にならないくらい素早く危険な生物が溢れ出す。絶対にあのドームに攻撃を当てさせては駄目だ」

 それを聞いた岸本は不満そうに文句を言った。

「駄目って言っても、ここ以外に戦えるような場所はないだろ。左はあんたの同僚がクラゲ人間と戦ってるし、右は西川さんが鎖で何か作ってるし……」

「南北が駄目なら東西だ。西は研究机などでゴチャゴチャしているから駄目だが、東の方にはコンテナの山がある。あそこで戦おう。上に登ることが出来れば、阿修羅の攻撃も今よりは楽になるかもしれない」

「良いけどよ、どうやってあそこまで行くんだよ。ここから離れるには阿修羅の動きを止めないと無理だぜ」

「……俺が囮になろうか?」

 悠樹が逞しげに胸を張る。非常に頼りになりそうな雰囲気を出していたが、友は悠樹の放っている自信に何の根拠も裏付けも、考えもないことを見抜いていた。

「駄目だ。お前はどちらかと言えば後衛タイプ。白兵戦で力を発揮させる人間だ。囮は岸本にやってもらう。岸本は何か一つが秀でているわけじゃないが、それなりに色んな仕事をこなせる。お前よりは岸本を囮にした方がいい」

「え、俺!?」

 岸本は目玉を飛び出さんばかりに驚いた。

「で、でも囮って何をすれば良いんだ?」

「心配するな。あの阿修羅をこっちに呼び寄せるだけでいい。呼び寄せたら俺と悠樹が動きを止める」

「何か考えがあるんだな?」

 これまでの友の行動から悠樹はそう判断し、確信気に尋ねた。

「……分かったよ。どうすればいい?」

 もう避けることは出来ない。岸本は涙目になりながら覚悟を決めたように友の目を見つめた。






「ベイト・トラップ?」

 機器の裏から頭だけをひょっこりと飛び出させ、悠樹が怪訝そうに聞き返した。

 悠樹と友の二人は今、それぞれ別の大型機器の裏に身を隠しており、機器の間の距離は五メートルほど離れている。そのため小声で会話をするにはどちらかが身を乗り出さなければならず、現状では悠樹がその役目をこなしていた。

 友は悠樹の飛び出た頭がいつ阿修羅の目に止まるかヒヤヒヤしながら説明を始める。

「餌で獲物を誘導する狩猟法のことだ。対イグマ感染者用のもっとも基本的な戦法であり、この場合は囮となる岸本がそれに当たる」

「んでそのトラップとやらの内容はどうなってんだよ?」

「今回は材料も時間も無いからな。単純明快な方法を使う。引きこみ、絡めるだ」

「はあ?」

「阿修羅は複脚だから足を引っ掛けたくらいじゃ転ばす事は出来ない。だから足と足を絡めさせる。悠樹、お前『ボーラ』って知っているか?」

「俺がそんなマニアックそうな単語知ってるわけねえだろ」

「ボーラ……日本では分銅鎖とも呼ばれている投擲武器で、本来はロープなんかの両端に鉄球などの重りをぶら下げた物を指す。今はロープも鉄球も無いからな、代わりにこれを使う」

 そう言って友は悠樹にある物を投げ渡した。

「――コンセントの束? それに何だよこれ……?」

「近くに置いてあったレンチだ。三つほど見つけた。これをコンセントの端に結べばそれなりの抵抗になる」

 ちなみにコンセントは目の前の機器から抜いたぞと、友は聞いてもいないことを丁寧に教えてくれた。友の前にある機器の赤いランプが激しく点滅していることがかなり気になったが、悠樹はあえて深く考えないことにした。

「こんなんで本当に動きを止められるのか?」

 手に持った見慣れた生活用具に頼りなさを覚えた悠樹は、顔の前で不審気にレンチをぶらぶらと揺らした。

「これだけじゃ当然すぐに外れる。だから両端にナイフをつけるんだ。ほら」

 友は腰から二本の小型ナイフを取り出し、一本を自分で持ち、もう一本を悠樹に投げた。

「それをレンチと垂直に端に結べ。上手くいけばくさびになってくれる。――そろそろ岸本が動き出す時間だ。投げる用意をしろ」

「あいつ、ちゃんとここまで阿修羅を呼び寄せられんだろうな。途中で死ぬなんてオチは笑えないぜ」

 悠樹は岸本の作ったようにヘラヘラした顔を思い出し、疑いの眼差しをホールの中央へと向けた。

 その中央では阿修羅がドームから離れ、ゆっくりと左へ進んでいる。どうやら悠樹たちを見つけることを諦め、奥で戦っているイミュニティーの男たちに攻撃対象を変えたようだ。男たちはもう三体のクラゲ人間を倒したようで、それなりに善戦していた。

「お、岸本が出たぜ!」

 阿修羅が機器の輪から出かけたとき、岸本が悠樹たちから見て向かいの機器の裏から飛び出した。大きな足音を地面と演奏しながら必死の形相でこちらに向ってくる。その音が真後ろを通過したとき、阿修羅はようやく彼の存在に気がついた。

「ヴォォオオゥォオオオッ!」

 すぐに回れ右をして岸本の背中に掴みかかる。だがその腕は服を掴みかけた途端、岸本のペースアップによって空を切った。

「……岸本のやつ意外とやるな」

 イミュニティーの人間でも、土壇場であそこまで冷静に緩急をつけて対象を引きつけられる人間は少ない。友は僅かに驚いた。

「っぉおおおおおおっ!」

 友と悠樹が隠れている間の空間を一気に走り抜ける岸本。そのほぼ直後に阿修羅もそこを通り過ぎようとした。

「今だ!」

 途端、友の掛け声と同時に阿修羅の左右から二つのボーラが投擲された。ボーラは旋回運動をしながらまず最初に阿修羅の複脚の間に滑り込み、その両端に括り付けられたレンチを周囲に絡める。阿修羅は勢い良く走っていたため思いっきり撒きついたボーラを引いてしまい、結果としてボーラに垂直に付けられた小型ナイフをその太股にしっかりと食い込ませることとなった。

「ヴゥォォァァアア!?」

 自分の足で自分の足を引っ掛けるような状態となり、阿修羅は見事に倒れこんだ。それを見た悠樹は歓喜の声を上げた。

「は、ザマ見ろ化物!」

「行くぞ、こいつが立ち上がる前に向こうのコンテナの上に登るんだ。あそこからコンテナを突き落としてこいつを潰す」

 作戦が成功したというのにまったく表情を変えず友は走り出した。悠樹はほくそえみながら、岸本は荒い呼吸をつきながらその後に続いた。










 広が隠し階段を上り、管理室に飛び込むと、そこには白衣を着た中年の男が何やら忙しなく管理長用パソコンのキーボードをいじっていた。

 男の髪の毛は真っ白に色落ちし、何年も洗っていないかのように油やフケが浮き出ている。山のように突き出た腹は、操作台の上でバウンドし、非常に邪魔そうだった。

「天野博士」

 広は着ていたスーツと懐にしまっていた黒い野球帽を投げ捨て、その男の名前を呼んだ。

「ひっ!? あ、何だ広さんか……」

 広が管理室に入ってきていたことに気がつかなかったのか、男――天野あまのは一瞬驚きの悲鳴をあげた後に安堵の溜息をついた。

「横谷晶子は死んだぜ。俺の新しい服とあの薬は?」

「あ、ああ。ここにありますよ。――どうぞ」 

 天野は操作盤の上に無造作に置いていた深緑色のジャケットとズボンを広に渡すと、懐からカプセル状の薬が詰まった瓶を取り出した。

 その薬を一摘みし、口の中へ放り投げながら、広は何気ない様子で辺りを見回す。

 管理室の中は自分が最後に見たときとは打って変わって地獄絵図のような光景をかもし出していた。デスクやパソコンの所々には無数の黒くなった血や肉片が纏わり付き、デスクとデスクの間や足元には職員やイミュニティーの増援部隊の死体がゴミのように転がっている。

「これ、全部姉貴がやったのか?」

 広は着替えながら何気ない調子でそう聞いた。

「え、ええ……」

「そうか。運良く隙をつけて良かった。失敗していたら俺もこうなっていたんだな」

「まさか……よ、横谷館長はあなたにそんな真似はしませんよ。誰よりもあなたと操さんを愛していたのですから」

「ふん、愛してるだと……? その愛が義兄さんをどんな状態にしたのか知っているだろ? あんなのは愛とは言わない。ただの妄執心だよ。それで、いつまでここに居るんだ? もう合流出来たんだし、さっさと水憐島から出ようぜ?」

 自分が立てた計画では、後は天野とここを脱出するだけだ。横谷晶子の殺害にも成功した今、広はかなりリラックスした顔でそう言った。

 次の天野のセリフを聞くまでは。

「そ、それが無理なんです。か、館長が管理室の前でも暴れた所為で……イミュニティー増援隊の死肉目当てに魚人が集まっているんです。今ここの扉を開けたらすぐに奴らの大群が飛び込んできます」

「な、何だと!?」

 ――冗談じゃない! 今脱出来なければイミュニティーの人間に拘束されてしまうじゃねえか!

 広はこの水憐島を地獄にした張本人、いわばイミュニティーにとって重反逆罪に当たる人間だ。このままここに助けが来るまで残っていては、自分の将来が悲惨になる事は目に見えていた。

「こ、こうなったら、あの黒服の男に来てもらいましょう。あの男なら魚人くらい簡単に殺せるはずです」

「無理だ。いくらあいつだって大群相手に一人じゃ勝てない。それにあいつは今別の仕事をしている真っ最中だ。俺たちだけで切り抜けるしかない」

「別の仕事? あの男が私たちに横谷館長の殺害を持ちかけたんですよ? 何ですか、その無責任ぶりは……」

「乗ったのは俺たちだ。あいつを責めるのは筋が違う。それに、あいつが約束を守ってくれているのなら、水族館地区の地下排水管には潜水具が置いてあるはず。文句をいうのならそれが無かったときにしろよ」

「……分かりました」

 あまり納得がいってない様子だったが、広に逆らうことは出来ず、天野は小さな声でそう言った。

「でも、そうなると魚人が死体を食べ終わるまでここに閉じこもることになりますよ? まだ生存者たちが何人か残って居るんですよね?」

「ああ、だがあいつらなんてどうにでもなる。最悪、あいつらを囮にして魚人たちの注意を反らし、その隙に逃げるっていう手もあるしな」

「う、上手くいきそうにはないと思うんですが……」

「なるようになるさ。何なら真実を教えてやろうぜ。この事件を起こしたのは俺だってな。どういう反応をするか見ものだ」

 広が楽しそうにそう小言を述べたとき、同時に地下へと繋がっている隠し階段のハッチが開き、敏とトウヤが頭を覗かせた。

「あ、羽場!」

 管理室の中に体を乗り出しながら、敏が気を張り巡らせたような視線を広に向ける。

「よう、お前ら。よくここまで追ってきたな」

 二人の予想は異なり、広はそれを快く迎えた。

 嬉しそうに、嘲るような笑みを浮かべながら。










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興味を持った方は是非御覧下さい。

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