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<第一章>地獄へ尋ねる

このお話は尋獄1、2を呼んでからでないと理解出来ない面が多々あると思います。

できればそちらからお読み下さい。

<プロローグ>



 上、右、左……周囲の大部分を強化ガラスの水槽で囲まれた廊下。

 一人の妙齢の女性がそこを歩いていた。

 誰もが憧れるような綺麗な長い髪。

 通り過ぎる異性が目を奪われるような大きな二重の目。

 新品のフランス人形のような美しい女性だ。

 彼女は廊下を出ると一つの扉を開け、その中に入った。職員用通路であるその場所には人の気配は一切ない。まるで彼女だけがそこに取り残されたと錯覚するくらい静かだ。

 普通ならば寂しく思うだろう。

 心細くなるだろう。

 だが、彼女は平然とその廊下を歩き続けた。一切怖いものなど無いというように。

 しばらく歩くと彼女はとある部屋の前に止まった。

 彼女の私室だ。

 彼女は部屋に入ると直ぐに、中央に陣取っている化粧台の前に座った。

 そしてそのまま正面に設置された大きな楕円形の鏡を見つめる。

 鏡には自分の顔が映っていた。

 綺麗にかたちどられた絶妙なラインの顎。

 はっきりと開いたまつげ

 艶やかな細い唇。

 顔のパーツ一つ一つが光を放っているように見える。

 しばらくの間、彼女はずっとそうして自分の顔に酔いしれていた。

 まるで愛すべき恋人を見つめるように。

 数千万円の宝石を見つめるように。

 それが彼女の日課だった。習慣だった。

 そう、その時までは。

「?」

 ふと、彼女は鏡に映っている自分の頬に一筋の線を見つけた。薄く良く近付いて見なければ分からないような線を。

 それはしわだった。

 日頃の仕事の疲れが溜まっていたのだろうか。

 それとも心労の所為か。

 理由は何かは分からないが、とにかく其処には一本の短い皺が形成されていた。

 ガタンッ!

 彼女は勢い良く椅子から立ち上がった。その顔はまるで悪夢を見た後のように汗ばみ、呼吸が荒くなっている。

 自分の美しさに、神々しさに、その美貌に絶対的なプライド、いや――自己の存在の全てを見出していた彼女にとって、その一筋の線の存在は絶望的なものに見えた。

 この世の終わりだと思った。

 憎むべき最大の悪に見えた。

 彼女は椅子を持ち上げると、腕力の全てを活かしそれを鏡に叩き付けた。

 その線を認めないと。

 まやかしだと言うように。

 そして……彼女は崩れ落ちた。

 まぶたから大量の雫を垂らしながら。







 どれだけそうしていただろうか。

 彼女は突然立ち上がった。

 先ほどまでの涙が嘘のようにしっかりとした足取りだ。

 彼女の顔は笑っていた。

 美しくではない。

 気高くでもない。

 不気味に歪んだ笑い方だ。

 その笑みを浮かべている姿を見れば、おそらく誰も彼女を綺麗だとは言わないだろう。

 きっとこう思っている筈だから。


 「悪魔」と。









 尋獄E1(DEGAUSS JAIL)










 <第一章>地獄へ尋ねる 





 水憐島。

 数十年前に突如作られた巨大な人工島の名前。

 元々は地下資源をくみ上げる施設として作られたものの、その敷地の広さと交通の便利さから、今では一部を改築し巨大な水族館としての名を全国に轟かせている。

 その人気は上々で、国内テーマーパーク施設人気投票第二位に君臨してすらいた。

 廊下廊下の端に小さな川のような水路が設置され、天井や壁が水槽となっているその光景は圧巻だ。多くの人間がまずそれだけでこの島に魅了されてしまう。

 また建物自体の外観もすばらしく、一見すればSF映画に登場するドーム型の宇宙ステーションにも見える。

 だが人気の秘密はその構造だけではない。

 この水憐島が絶大な人気を誇る最大の理由は、その所有している魚の美しさと寿命の長さだった。

 どういうわけか分からないが、水憐島で使役されている魚や哺乳類は妙なことに他の水族館よりも三倍は寿命が長い。

 餌がいいのだの、環境がいいのだの色々とファンの間では語られているが、その秘密は明らかにはなっていない。

 言えることは、ただ普通とは何かが違うという事だけだった。


「すいません。この魚ってどこに居るんですか?」

 クリクリの巻き毛の女性がつっ立っている警備員に呼びかけた。警備員は気だるそうに応じる。

「ああ、この魚ですね。この先を真っ直ぐに行って右に曲がってください。大きなマグロ用の水槽があると思いますから、それを目印にしてさらに右に曲がった所に有ります」

「そうですか、ありがとうございます」

 女性は笑顔で礼を言うと、直ぐに言われた場所へ向かった。

 警備員の男はその後姿をしばらく見つめると、ポケットからライターを取り出しタバコを口に咥える。勿論こんなことをしていいわけが無い。これは男の完全なルール違反だった。

「ふう……めんどくせぇ。自分で地図見て確かめろよ」

 女性の姿が消えると、男は口から煙を吐きながらそう呟いた。

 この男の名前は沖田悠樹おきた ゆうき

 二十二歳のフリーターで水憐島のアルバイトの警備員だ。

 今時珍しい金色に染めた立てた髪に高い鼻、気だるそうに垂れた目つきの悪い瞳。まるでそこら辺にいるチンピラのような顔をしている。

 そんな外見や態度の所為か、一体どうやって悠樹がこの大人気テーマーパークのアルバイトに受かったか不思議がる人間は多く居た。

 いや、悠樹自身ですらも最初は自分が採用されたことが信じられなかった。

「……変人避けねぇ」

 悠樹は思わず苦笑いを浮かべる。前に上司から聞いた、自分が採用された本当の理由をを思い出したからだ。



『この水憐島のアルバイトはみんなボンボンだからな。いざしつこい客や迷惑な客に絡まれるとビビっちまうんだ。お前ならそうなならないだろ?』



 それは簡単に言えば使い捨ての存在ということだった。

 どうやらこの水憐島では悠樹のようなガラの悪い人間を定期的に雇う事で、施設内の治安を強引に守っているらしい。もしクレームが来ても、悠樹をクビにすれば水憐島自体に責任が問われる事がない。実にずるく都合のいい話だ。

「そっちがその気ならこっちも十分に今の地位を利用してやるよ」

 これは悠樹の口癖だった。

 悠樹は水憐島から与えられている権限を自分がクビになるまでに使いまくることを考えた。定住地を持たない悠樹は寝泊りや食事の全てを水憐島のまかないで補った。アルバイトは関係者とみなされ出入りが自由なため、勤務日以外も一日の殆どを水憐島で過ごした。

 関係者サービスで配られ手に入れたチケットを手当たりしだい集め、双子の弟の敏や友人に半ば強引に売りつけたのも勿論それが理由だ。

「ふう、早く終わんねーかな。ダリィ……」

 先ほど開園したばかりだというにも関わらず、人目を気にすることもなく悠樹は大きな欠伸をした。

 今彼が立っている場所は水憐島の水族館区域一階の廊下だ。廊下の右側が小さな水槽で彩られ、熱帯魚が自由気ままに泳いでいる光景を見る事が出来る場所である。一応魚を見やすいように外の光を遮り壁で囲んではいるものの、地上であるためか所々に気分転換用の小窓が取り付けられている。

 悠樹はタバコを吸いつつ、何となくその窓から外の明るい世界を見た。

 陸地側のためか真っ青な海を挟んで直ぐ近くに静岡県の町並みが見え、その空は眩しいくらいに太陽が笑い燦々と光を放っている。

「……うざってぇ光だ」

 普通の人ならば「気持ち良い」と言う様な暖かな日を片手で遮ると、悠樹はその小窓の日よけを下ろした。

 本当に迷惑そうに。

 素早く一瞬で。










 水憐島入口。

 静岡県の陸地から大きな金属製の橋を渡ってすぐの、アーチ状の丸っこい改札のある場所だ。

「お父さん、まだ〜?」

 小学生くらいのおさげの女の子が父親の腕にぶら下がり、その入口の前ではしゃいでいる。

 実にほのぼのとした幸せそうな光景であった。

 茶色のズボンに白いノースリーブのシャツと黒いロングTシャツを重ね着した、メガネをかけた短い茶髪の男性。

 沖田敏おきた としは優しそうな笑みを浮かべ、列の前に居るその親子を何となく遠目に見つめた。

「水憐島か……まさかあの兄貴がこんな立派な所で働いているとはね。意外じゃない? 父さん」

 敏は真横に無表情で立っている、ジーパンに白いYシャツ姿の中年の男に呼びかけた。

「どこで働こうが知ったことか。あの悪ガキ、長い間音信不通にしておいて。まったく、お前が俺に教えてくれなかったら永遠に顔を見る事が出来ないと思ってたぞ」

 悠樹と敏の実の父、大助が目の奥に憤怒の炎を燃やしながら言った。

「兄貴は黙れって言ってたけど、流石にこう何年も親と会わないのは頂けないからね。俺もこんな形での再開はさせたくなかったけど、この際は仕方ない」

 敏は溜息混じりにそう言った。

 兄の悠樹からある日突然電話をかけられ、強引に水憐島のチケットを売りつけられた敏は、最初はすぐにそれを送り返そうと思っていた。

 だが直前になって思いとどまり、しばらく会っていなかった父、大助との再会にそれを利用しようと考えたのだ。だから大助が来るなどとは勿論悠樹は知らない。チケットを送ったのも金目当てで、精々敏とその彼女が使うだろうとしか思ってしかいなかった。

「あ、父さん。次だ、チケット出して」

 悠樹はとうとう入口付近まで進んだことに気づき、大助に呼びかけた。

「悠樹を見つけ次第直ぐに連れて変えるぞ。あの馬鹿息子に溜まりに溜まった説教をしないといけないからな」

「父さん、頼むから水憐島の中で騒ぎを起こさないでくれよ。俺はテレビに顔を出すのも父さんの顔が映るのも嫌だぞ」

 気合入りっぱなしの大助を見て、若干引き気味に敏はそう言った。










「あ、あれ知ってる〜確かアロワナだよね!」

「そうそう、熱帯雨林に住んでいる奴な」

 左右に大きな水槽のある地下二階。その水槽をカップルのような若い今風の二人が仲良く眺めている。

「ねえ、健ちゃん〜もう次の場所へ行こうよ。あ、私鮫みたいな。確か鮫を自由に泳がせてる大きな水槽があるんでしょ?」

 高そうな服に全身を着飾った、明るい茶髪の女性が言った。

「そうだな、もうここも飽きてきたし……そろそろ行くか」

 その女性の彼氏だろうか。健ちゃんと呼ばれていた、ズボンを尻の付近にまで下ろした鶏冠頭の男性が頷いた。

「痛ってっ!?」

 鶏冠頭の男が水槽から離れようと振り返った瞬間、廊下を歩いていた野球帽子を被った男とぶつかった。男はよほど早く歩いていたのか勢い良く転ぶ。

「ああ〜すいません。大丈夫っすか?」

 鶏冠頭の男は申しわけなさそうに男に手を伸ばした。

 だが転んでいた男は無言で立ち上がると、さっさと二人を無視して先へ進んでいく。

「何だよあいつ」

 その後ろ姿を見ながら鶏冠頭の男は舌打ちした。

「行こうぜ、マリ」

「……ねえ、今の奴あそこから出てきたんだけど、この水憐島の関係者なのかな?」

 男の引っ張る腕を押さえ、マリと呼ばれた女性は廊下の先にある開け放れたままの扉を指差した。そこには「関係者以外立ち入り禁止」、「水槽管理区域」という札が掛かっている。

「さあな、そうなんじゃん? どうでもいいし。行こうぜ」

 鶏冠頭の男は興味なさそうにマリの腕を取ると、何事も無かったかのよに歩き出した。

 だが腕を引かれながらも、マリはその扉からしばらく視線を離すことが出来なかった。

 まるでその扉が地獄の入口のように見えていたのだから。

 暗い、冷たい、恐怖と絶望に満ちた世界のように。









 水憐島総合管理室。

 ここは主に水憐島の監視や、水質状況、魚や哺乳類の管理などを行う場所だ。

 壁一面に並んだ数十台の大型画面を前にして、扇形に無数にパソコン付きの机が並んでいる。

 今、その中でも一際大きな半円形の机の上にとある人間が座っていた。

 柳加奈子三十三歳。

 水憐島の殆どの管理を館長から任されている人間だ。

 凛々しい目つきに、ポニーテールに結んだ長い栗色の髪。唇は薄く鼻は魔女のように鍵爪状になっている。

 誰が見ても気が強く話しかけ難いといった雰囲気を持つ女性だった。

「柳管理長、ちょっと良いですか?」

 部下の一人が恐る恐る彼女に呼びかけた。

「何?」

 ギョロリと目だけを動かしその部下の女性を見つめる柳。

「あ、あの、お知らせしたいことがありまして……実は先ほどから水質に奇妙なシグナルが出ているんです」

「奇妙なシグナル? 何?」

「はい、現在調査中で詳しくは分からないんですが、どうも何かの粉末のような物が水憐島中の水槽に拡散しているみたいなんです」

「粉末……一体どこから?」

「それがどうやら地下の『あの場所』からのようで……」

 その時だけ部下の女性は僅かに周りを気にし、声を落としてそう言った。

「普通の音量で話して構わない。今ここにいるメンバーは全員イミュニティーの関係者だから」

 柳は女性の心配を一笑するように言った。

「あの場所からってことは、何が原因にしても行ける人間は限られるわ。ちょっと待って、私の端末であそこの映像を見てみるから」

 柳はタッチタイピングで素早く手前の画面に一つの映像を出した。

「時間を戻すわよ」

 誰も居ないためそのまま画面の右上をクリックする。

「大体十分前でいいでしょ。ほら、誰か居た。これは……」

 そこで柳の手は止まった。予期しなかった映像を見てしまったから。

 そこに映っていたのは野球帽子を被った若い男だった。

「な、何故『あの人』が……一体何をパイプに流しているんですか?」

 部下の女性が不思議そうに尋ねる。

 だが、柳は答えなかった。ただ放心したように画面を見つめている。

「柳管理長?」

 女性は心配そうに顔を覗いた。

 ガッ!

 その瞬間、柳が女性の襟を掴んだ。その速さにビックと震える女性。

「――すぐにもう一度水質を調べて、AS計測器が赤になっているかどうか見て!」

「は、はい! ただ今」

 女性は柳の剣幕に押され、慌てて自分のデスクに戻った。

 彼女が調べている間、柳は落ちつかないように何度も一指し指を机にトントンとぶつける。

「柳管理長、赤です、赤になってます!」

 自分のデスクから女性が大きな声で言った。それを聞いた瞬間、柳は最悪の状態になってしまったことを悟った。

 大きなショックと頭の中で何度も暴れる絶望感を押さえ込み、柳は勢い良く立ち上がると全ての部下に聞こえるように張り詰めた大声を出した。

「全員、作業を中断! 緊急事態よ。水憐島の全水槽にイグマ細胞活性剤が散布された。すぐに客を避難させて全ての水槽をロックして!」

 その言葉に誰もが信じられないといった表情で動きを止めた。口を大きく開け、唖然とした表情で柳を見ている。冗談だとでも思っているのだろうか。

「何してるの!? 早く作業に取り掛かって、バイオハザードが起きるのよ! イミュニティー本部にも連絡を入れて!」

 柳は再び叫んだ。

 ようやく事態を飲み込めたのだろう。職員たちは時間停止から解き放たれたように、一気に揃って動き出した。


「ち、地下一階ロック開始!」


「そっちじゃない、ファイルが別だ!」


「それは俺がやるからお前はあっちをやれ!」


「ちょっ、邪魔、どいて!」


 先ほどまでの落ち着いた職場が嘘のように一瞬で騒然となる。まるでテンションの高い飲み会の会場に居るかのようだ。

その混乱具合を横目に、頭を抱えながら柳は呟いた。

「お願い……間に合って!」










「兄貴の奴、一体どこを警備してるんだ? 中々見つからないね父さん」

 半径十メートルほどの大きな円柱型の水槽がある広間で、敏は周囲の人間を見回しながらそう言った。

「あの性格だからな。もしかしたらもうクビになってるかもしれないぞ。ちょっとあの警備員にでも聞いてみるか」

 大助はそう言うと、同時に大型水槽の向かいの壁、階段の前に立っている警備員に声をかけようとした。

 だがあと数メートルという所で、目の前を野球帽子を被った若い男が早足で通り過ぎたため、それは適わなかった。

 体と体がぶつかるまさにギリギリの距離だ。

「――危なっ!?」

 こういった事に関して我慢できない大助は、そのまま注意をしようと男の肩に手を置いた。

「ひっ!?」

 その瞬間、男は素っ頓狂な声をあげ、ビクリッと大助を見上げた。まるで何かに怯えているというような神経質な反応だ。

「あぁ?」

 訝しげに大助が見ていると、そのまま男は逃げるように走り去っていった。

「今の人がどうかしたの?」

 後ろに居たため男の状態を知らなかった敏が、不思議そうに大助に聞く。

「いや……何でもない。―――ん?」

 大助は男から視線を動かし、警備員に向き直ろうとした。その時、偶然さっきの男が降りてきた階段の上に立っていた人物と目が合った。

 ――んん?

 何となく見つめる大助。同じようにその男も大助を見つめた。

「あっ!?」

 大助と悠樹は同時に相手の正体に気づいた。

「――っ悠樹ぃっ!」

 周りに多くの人がいるというのに、大声で息子の名を叫ぶ大助。

「な、何でオヤジがここに居るんだよ!?」

 それを耳にした途端、大助は全力疾走を開始していた。

「待て! 逃げるな悠樹ぃ!」

 閻魔大王のような顔でその追跡を始める大助。もう結構な年に関わらず、その動きは盛った黒豹のようだ。

「父さん、兄貴、ちょっ……待てって!」

 いい年こいて、しかもこんなテーマパークの中で鬼ごっこを始めた二人の後を、溜息を吐きながら敏は追った。

「何あの人たち?」

 そんな三人の様子を、中央の大きな円柱水槽の前に陣取っていた女子高生たちが迷惑そうに見た。

「あんなの放っとこう。それよりこれ見てよ。さっきから何か形が変わってきてるんだけど、新種の魚なのかな?」

「え〜どれどれ? あ、ホントだ何かネズミみたいな魚じゃん! こんなの居たっけ?」

「さっきまでは普通の魚だったよ。けど何かいきなり暴れだしたらこんな形になっちゃった」

「あはは、何それ?」

 水槽の中の奇妙な魚を見て、面白そうに笑う女子高生の面々。

 その顔を水槽の「内側」から憎らしげに眺めると、その奇妙な魚は自分の頭を水槽にぶつけだした。何度も、何度も、何度も――……









「悠樹、待て――逃げるな!」

 先ほどの階段を上りきった所で、大助は悠樹の肩を鷲掴みにし怒鳴りつけた。ここは円形のホールのような場所で今は人が全くいない。

「離せよ!」

 悠樹はそれを強引に振りほどくと、大助を睨みつける。

「何であんたが来てだよ! 敏が呼んだのか!?」

「そんなことはどうでもいい。悠樹、何故今まで連絡一つよこさなかった。お前にもし何かがあったら母さんに何て言えばいいんだ?」

「俺がどうしようとあんたには関係ないだろ!」

 悠樹は本当にうざったそうに言った。

「……もういい大人だ。別に俺の家に帰って来いとは言わない。ただ、連絡くらいは入れろ」

「誰が母さんを殺した奴の所に連絡なんてするか。俺はあんたとは縁を切ったんだ。もう構わないでくれ!」

 「母さんを殺した」その悠樹の言葉に、思わず大助の腕から力が抜ける。

「兄貴、それは言いすぎだ。父さんは悪くない」

 いつの間に追いついていたのだろうか。少しむっとした表情で敏が悠樹を睨んだ。

「敏――……何でオヤジを呼んだんだよ。お前一体何のつもりなんだ?」

「兄貴が全く父さんの話しを聞こうとしなかったからね。どうしても会わせたかったのさ。……ここじゃ何だし、場所を移そう。バイト早退出来る?」

「話す事なんてねぇよ、今すぐ帰れ」

 悠樹は尚も変わらず迷惑そうに、手をヒラヒラと振った。

「兄さん……」

 そんな兄の行動に失望するように溜息を吐く悠樹。

 だが、幾ら悠樹が拒絶しようとも敏は引き下がる気はなかった。この機会を逃したらもう二度と、本当に悠樹は父と会わないと思ったから。

 しつこい事は承知で敏は尚も説得を試みようとした。だが――

 パリーンッ!

 その瞬間、階段の下でガラスの割れるような不快な音が鳴り響いた。









 ガンガン、ガンガン……

 数秒前。

 半径十メートル程の大きな円柱状の水槽から、突然奇妙な音が響きだした。

 その音に注意を引き付けられた人間は誰もが水槽内の光景に驚いただろう。

 圧倒的な不気味さと恐怖。

 すぐにそういった感情に囚われた筈だから。

「な、何なのよこれ!?」

「みんな、もっと離れよう……!」

 水槽を食い入るように見つめていた女子高生たちは、既にその前を離れ、壁際で怯えたように密集している。

 それは実に当然の反応だ。こんな光景を見てしまっては怯えない方がおかしい。

 水槽内の様子はまさに異常そのものだった。

 さっきまでは普通の姿だったはずなのだが、今では水槽中の魚が化け物のような形になり、奇声を鳴り響かせて水槽のガラスに体当たりをしている。

 化け物の姿を簡単に言えば、魚の下半身にネズミの上半身をくっ付けたような形だ。その口からは長いパイプのような舌が伸び、耳が上に逆立ち、腕の側面からは尾びれのようなものが生えている。

 また目は真っ赤に充血し、まるで悪魔の目のように見えた。

「一体何なんだ?」

 一人の係員が水槽に歩み寄り、こう呟いた。

 何が起きたのか一応調べて見るつもりらしい。慎重にガラスの前まで来ると、係員は顔を押し込むようにガラスに当て、水槽の中を覗き込んだ。

 ――毒物みたいのは見えないしな……

 特に変わった所はない。化け物かした魚を省けば何時も通りの水槽だ。係員は肉眼では原因解明は不可能だと諦め、引き返そうとした。

 パリーンッ! 

 しかしその直後、耳障りな鳴き声と共に無数のネズミ魚が水槽を突き破り、一気に飛び出してきた。

「 ヂィイイィィイイイッ!」

 耳をつんざくような鳴き声が溢れかえる。

「うぉおおおおお!?」

 洪水のように足元に広がる水に構う暇も無く、係員はネズミ魚の大群に覆われた。無数の歯がその身に突き立てられる。

「ぐぁああああああっー!?」

 高く舞い上がった血飛沫と共に、咆哮のような絶叫が広間に響く。その声を合図にして、一気に周囲はパニックになった。


「きゃぁあああああああ!?」


「に、逃げろぉお!」


「うわぁああああ……!?」


 その声は当然、広間の真上に位置するホールに居た悠樹、敏、大助の耳にも聞こえた。

「何だ!?」

 悠樹は素早く階段の下に視線を這わせた。そしてその瞬間、この世の物とは思えないような阿鼻叫喚の光景を目にした。

 おびただしい数のネズミ魚が飛び跳ね、片っ端から逃げ惑う人間に襲い掛かっていたのだ。

 ある者は首に咬みつかれ、あるものは無数のネズミ魚に圧し掛かられ、口の中に長い舌を突っ込まれている。もはやそこには美しい水憐島の姿などなく、ただ悪夢のような光景だけが広がっていた。

「どけっ!」

「うおっ!?」

 悠樹は階段を上がって逃げてきた数名の一般客に押され、後ろに吹き飛んだ。そのままその人間たちは悠樹に構うことなく、猛烈な勢いで廊下を走っていく。

「悠樹、どうした? 何が起きた!?」

 まだ現状をよく理解していない大助は、悠樹に駆け寄りながら怪訝そうに聞いた。

「下を見ろ、何かすげー事になってる!」

「すげー事?」

 その言葉の通りに階段から下を覗く大助。下は地獄絵図のような陰惨な光景になっていた。

「これは――……一体?」

 あまりの状況に頭が追いつかない。大助は呆然とその光景を見つめ、目を見開いた。

「ヂイイィイイイヤー!」

 上にも獲物が居るという事に気がついたのだろうか。ネズミ魚たちの一部が階段を駆け上りだした。数が多い所為か、ガサガサとゴキブリのような音を鳴り響かせている。

「と、父さん逃げよう!」

 続々と上がってくるネズミ魚を目にし慌てて叫ぶと、敏は階段と逆方向に走り出した。直ぐにそれに続く悠樹と大助。

「あいつらは一体何なんだ? どっから出てきた!?」

「今はとにかく走れ! どこかに隠れないとやられるぞ!」

 焦る敏とは裏腹に、大助は辛うじて保っている冷静さを活かしそう判断した。

「ヂィイイゥウウァアアアッー!」

 続々と三人に迫り来るネズミ魚たち。

「真後ろまで来てるぞ! 急げ!」

 背後の様子を見た悠樹が大声で怒鳴った。

 目の前にまだこの事態を知らない一般客が何人か見えてくる。周囲の壁にも長方形の水槽の窓が目に付くようになってきた。

「逃げろ! 死ぬぞ!」

 悠樹は走りながら水槽を眺めている客たちに向かって叫んだ。

 だが、突然そんな事を言われても今の日本で素直に逃げ出す人間はめったに居ない。殆どの客が不思議そうに走ってくる三人を見つめるだけだった。

「――あそこだ、あそこに隠れよう!」

 廊下の先右方向にある関係者用の扉を指差し、大助が声をあげた。

「え、おい、ちょっと待てあそこは倉庫……」

 悠樹が何か言いかけたが、構わず大助と敏は足を進める。そして、瞬く間にその中に入った。

「――っくそ!」

 悠樹は逃げ場のない倉庫に入る事に躊躇いを持ったものの、仕方がなく二人と共に扉の反対側へ足を踏み入れた。

「悠樹、これを――! 扉を閉めろ」

 大助が倉庫に入ってすぐに、中にあったポールを渡してくる。悠樹はそれを受け取りそのまま扉の取ってに通し、扉が開かないように固定した。

「待って兄貴、他の人が襲われてる! 中に入れよう!」

 ようやく緊急事態に気がついたのだろう。扉の前では先ほど通り過ぎた客たちが折り重なるように逃げ惑っている姿が見えた。それを見た敏はポールを抜こうと手を伸ばす。

 だが、悠樹はその手を跳ね除けた。

「――っ!?」

「馬鹿かお前。今ここを開けたらあのネズミ魚軍団も入ってくるだろうが。今更もう間に合わねーよ」

「兄貴こそ正気か? 今開ければまだあの人たちは助かるんだぞ!?」

「危険が大きすぎる。あいつらは見捨てろ。残念だけどな」

 全く残念そうではない顔で悠樹はそう言った。

「そんな……!」

 敏としてはそんな事出来るわけがない。

 悠樹の言葉を無視し、扉を強引に開けようと敏は前に進んだ。

「ぎゃぁあああああ!」

 しかしその瞬間、叫び声と同時に扉の窓ガラスに大量の血が付着した。まさに今目の前で誰かが殺されたらしい。

「……――もう無理だ。危ないから下がれ敏」

 呆然と立ち尽くしている敏の肩を引くと、大助は暗い顔で呟いた。

「何でこんな事に……まるで地獄じゃないか……」

 敏は頭を抱えながら座り込む。

 悠樹と大助はその姿をただ無言で見つめ続けていた。

 一体誰がこんな事になると予測出来ただろう。

 敏の願いだった家族三人の再会の日は、人生最悪の日となった。











2本同時連載で執筆している為、次の更新はかなり遅れるかもしれません。

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