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03


 ハンナは嬉しそうな声をあげて、アメリアに微笑みかける。


「オペラなんて大変久しぶりでございますね。しかも演目は『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』。切ない恋の物語、……素敵ですわ」

 ハンナはそう言って、自分が観に行くわけでもないのに頬を赤く染めた。その様子に、アメリアも思わず頬笑み返す。


 実のところ、今までアメリアは数えきれない程オペラを観てきた。それは前の人生のときも、そして今の生であっても。けれどいつだってそれは両親や周りに付き合わされてのことであり、だからと言っては何だが、アメリアは今までで一度だって真剣にオペラを観たことが無い。けれど今回は違う。友人と一緒なのだ。きっと心から楽しむことが出来るだろう。アメリアはそう思って、顔を綻ばせる。


「それにしてもボックス席を貸し切りになさるなんて、流石は侯爵家でございますね。それにウィリアム様も一緒にご招待して下さるなんて。エドワード様とブライアン様もご一緒の様ですし、きっと素敵な時間になりますわ」


 そう。手紙にはアメリアだけではなく、ウィリアムも是非一緒に、と書かれていた。

 ウィリアムとオペラ……それはアメリアにとって、嬉しい以外の何物でもない。確かにここに来て二か月の間、ウィリアムはアメリアに紳士に接してくれた。けれどもウィリアムはいつだって執務で忙しく、アメリアとゆっくりと過ごす時間を取るまでには至らなかった。そうであるから、二人きりで出かけたこともまだ一度も無いのである。

 けれどオペラを観に行くとなれば、そこにルイスやハンナが同行することは無い。劇場に向かうまでの間は、本当に二人きりである。

 アメリアはそれを想像して、恋する十八歳の乙女の様な顔で、ただただ嬉しそうに頬を染めた。


***



「――オペラ?」


 真っ白なクロスの敷かれたテーブルで、アメリアと共に朝食を終えたウィリアムは、ハンナの言葉に僅かに眉をひそめた。


 ここはプライベート用のダイニングルームである。三十畳程の空間の天井には少し小ぶりのシャンデリアが三つ並び、壁には何枚もの肖像画や風景画が所狭しと掛けられていた。そして部屋の廊下側の壁には大きな暖炉、その反対側には大きな三枚のガラス窓が並び、そこからは美しい庭園が見渡せる。部屋の角に飾られたガラス製の調度品は、窓から差し込む朝日によって美しく輝いていた。


 昨日からウィリアムの両親である侯爵夫妻は保養地へと向かい、今このダイニングで食事をしているのはウィリアムとアメリアのみである。そしてその二人の傍には、それぞれルイスとハンナが食事のお共をしていた。


「はい、カーラ様からお誘いを受けまして」


 アメリアの口代わりになっているハンナの言葉を聞き、ウィリアムは食後の紅茶の注がれたティーカップを静かに口へと運んだ。そして、ほんの少し考えるそぶりを見せる。


「演目は?」

 ウィリアムは尋ねる。その表情はお世辞にも嬉しそうに見えるものでは無かった。


 ――オペラは好きでは無いのだろうか、アメリアはそう感じ、少しだけ顔を曇らせた。ハンナはそんな主人の姿を不憫に思う。が、こういうときこそ侍女の腕の見せ所だ。


「椿姫でございます、ウィリアム様。エドワード様とブライアン様もご一緒だそうでございますよ。このところずっとお忙しくなさっていらっしゃいましたし、たまには息抜きされてはいかがでしょうか」

 ハンナはさっぱりとした笑顔を浮かべつつも、丁寧な口調で述べる。そしてそれを援護するかのように、ルイスも続けて口を開いた。


「ええ、そうでございますよ、ウィリアム様。せっかく旦那様も奥様もいらっしゃらないのですから、ゆっくりされたら宜しいかと存じます」

 そう言って、ルイスは爽やかにほほ笑んだ。その表情と口調に、ウィリアムもようやく気が付いたようだ。目の前のアメリアの、微かに陰った表情に。

 ウィリアムは、あぁ、と小さく呟いて申し訳なさそうに眉を下げる。


「すまない、アメリア。君と出かけたくないとかそういうことじゃないんだ。ただ、昔オペラを観に行ったとき、疲れていたからかすっかり眠り込んでしまったことがあって。周りに白い目で見られたことを思い出したんだ……」

「……」


 ウィリアムのその言葉に、アメリアは虚を突かれたように目を丸くした。そして――吹き出す。声は出ないけれど、クスクスと可愛らしい声が聞こえてきそうな笑い方。その姿に、ウィリアムはほっと胸をなでおろした。


「それで、オペラはいつなんだ?」

「三日後でございます。少し急ですけれど、夜の講演ですから用事もないかと思われたのでしょう」

「そうか、わかった。アメリア、カーラに二人で出席すると返事をしておいてくれるか?」

 ウィリアムの言葉に、アメリアは嬉しそうに頷いた。その表情にウィリアムも微笑み返し、続ける。


「ところでアメリア、君は今日何か予定があるかな?もし良ければ二人で街にでも出かけよう。まだ一度も二人で出かけていないし、嫌でなければ」

「――ッ!」

 瞬間、アメリアの顔がパッと華やいだ。それはそれは嬉しそうな表情に。その年相応の可愛らしい表情に、ウィリアムのすまし顔も、わずかばかり緩む。


「では一時間後に出かけよう。支度をしたら玄関ホールに来てくれ」

 ウィリアムはそう言ってから、今度はルイスに視線を移した。そして――。


「昼食は外で食べてくる。ルイスもハンナと出かけてみたらどうだ?」

「――は」

「はいっ!?」


 ――ウィリアムは、とんでもないことを言い出した。


 ハンナの声が裏返る。そしてルイスも、ウィリアムのその唐突な言葉に思わず顔をこわばらせた。ルイスの視線の先には――満面の笑みを浮かべるウィリアムの姿。


 その姿に、ルイスは心中舌打ちする。――あぁ、新手の嫌がらせか、と。最近めっきりおかしな冗談を言わなくなったと思っていたところに、これだ。自分は兎も角、他人を悪い冗談に巻き込むなど言語道断。部屋に戻ったら文句の一つも言ってやらねば、――ルイスは平静を装いながらそんなことを考える。


 そして心の中で大きく溜息をつくと、ハンナのフォローをせねば……と、彼女の顔を見やった。――が。


「――!」

 ルイスと目が合った瞬間、微かに赤く染められたハンナの頬。それは、まんざらでもないと言いたげな……。


「……」

 ――そんな馬鹿な。

 これには流石のルイスも困惑げな表情を浮かべた。確かにルイスは、アメリアといつも一緒にいるハンナにも紳士に接して来た。だが、ただそれだけのことで……?まさか、有り得ない。


 彼は仕方無く今度はアメリアを見やる。が……。

 信じられないことに、アメリアですら好奇の眼差しをルイスに向けていた。それはルイスには決して理解しがたい感情で、そして二か月前のアメリアであったならば決して見せない表情であって……。

 それは恐らく、ルイスが望んでいた通りのアメリアの本来の姿なのであろう。


「――……」

 こんなところで下手を打つわけには行かない――。

 ルイスは遂に、諦めた。彼はその顔に笑みを張り付ける。


「ミス・ハンナ。今日一日私にあなたの時間を下さいませんか?」

 その言葉に、ハンナは僅かばかりはにかんだような笑顔を見せ――。


「は、はいっ、こちらこそ宜しくお願い致します!」


 いつものごとくハツラツとした声で、そう答えた。


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