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02


***


 アメリアは朝食前に服を着替える為、薄い桃色のローブを羽織り、ウィリアムの部屋を後にした。彼女は侯爵夫妻から与えられたこの屋敷の自室に向かう為、長い廊下を進んでいく。すると、角を曲がった所でルイスと出くわした。彼はアメリアに気が付くと、自然な足取りで彼女の横に並ぶ。


「おはようございます、アメリア様。よくお眠りになられましたか?」


 ルイスの表情はいつも通り(・・・・・)爽やかであった。それはまるで、あの日の契約など最初から無かったかのように感じさせる程に。

 この屋敷にアメリアが来てから二か月が経つ。けれどそれから一度だって、ルイスがアメリアにあの日の話をすることは無かった。ルイスはただアメリアに対し、ただ親身に接するのみ。しかしそれは、自分の主人に接する(たぐい)のものとは少し違っているようだった。


 本来ならば、主人ウィリアムの婚約者であるアメリアに対して、男であるルイスが必要以上に近づくことなど許されない。けれどルイスは、そしてウィリアムもそれを決して厭わなかった。それどころかルイスはアメリアに対し、ウィリアム以上に紳士に接するような態度を取り続けている。とは言っても、それは恋人に対するようなものではなく、どこか友人のように親し気で、悪友のように気安い様子を感じさせるものであるが……。


 そしてまたアメリアも、そんなルイスの態度をよしとしていた。もちろん侯爵夫妻や他の使用人の前では、ルイスがアメリアに必要以上に近づくことはない。けれどアメリアはウィリアムと三人のときや、そしてルイスと二人きりのときは、それなりにルイスに心を許しているような態度を取っている。


「アメリア様がこの屋敷に来られてから、もう二か月経ちますが、生活には慣れられましたか?」


 ルイスは微笑む。それはそれは優し気に。

 そんなルイスに、アメリアもまた微笑み返す。それはそれは柔らかに。


 そしてアメリアは、ふとルイスの服装に目を移した。今日のルイスは、無地の白いシャツに、黒と藍色のストライプ柄のベスト、その上に細身の黒いスーツを身に着けている。それはいつものこの屋敷の従僕のお仕着せとは異なるもので、アメリアはそんなルイスの姿を不思議そうに見つめた。するとルイスは、アメリアの考えを察したように、あぁ、と小さく呟く。


「アメリア様もすっかり年相応のお嬢様におなりになられた様でございますね」


 そして彼は、その少し切れ長の目元を和ませる。


「お忘れですか?昨日旦那様と奥様が、保養地(カントリー・ハウス)へ一足先にお立ちになられたことを。それに合わせて、今日から使用人の大半が故郷へ里帰りしますから、服装は比較的自由なのですよ。それに私はそもそもウィリアム様の付き人であって、使用人ではありませんしね」


 ルイスはそう言って、緩い笑顔を浮かべた。それは彼が今まで生きてきた長い人生の苦悩など微塵も感じさせないような、気の抜けたような表情であった。


 そしてアメリアはそのルイスの言葉と表情に、そう言えばそうだった……と思い出した様子。彼女はルイスに、再び静かに微笑み返す。


 アメリアはもう、ルイスのことを詮索しようとも、そしてウィリアムやアーサーについての情報を聞き出そうとも思っていなかった。ルイスとアメリアはお互いにそれを理解して、けれどそれでも、長い長い過去の記憶を持っているお互いのことを誰よりも気にかけている。この二か月という短くも長い時間が、少なくともアメリアをそうさせていた。だから、アメリアはもうルイスを疑いも憎みもしない。好意を持つこともないけれど、悪意を持つことも、ない。


「――あ、そう言えば、アメリア様へカーラ様からお手紙が届いておりましたよ」


 そう言ってルイスは、どこからともなく一通の封筒を取り出した。それは金色の装飾が施された、桃色の可愛らしい封筒であった。すっかり見慣れた桃色の封筒。封はスペンサー家の紋で閉じられている。


「今度は何のお誘いでしょうかね」


 ルイスはそう言いながら、アメリアに封筒を手渡した。

 二か月前、アメリアが川に落ち、その後アルデバランからこちらへ戻って来てすぐ、カーラはエドワードとブライアンを引き連れてサウスウェル家を訪れていた。その丸くて大きな目に、大粒の涙を一杯に溜めて。


 ”本当にごめんなさい。助けて下さって、ありがとう”

 カーラはそう言ってアメリアを抱きしめると、声の出ないアメリアの代わりかと思わせるほどに、大声でわんわんと泣いたのだ。

 そしてその日から、カーラは毎日アメリアの元を訪れた。最初は花を、そして次は果物を、その次は有名なパティシエのお菓子を。それはただ、自分を助けてくれたアメリアへのせめてもの恩返しのつもりだったのだろう。けれど、ただそれだけだった気持ちが、段々と変わっていった。


 カーラは覚悟していたのだ。アメリアに嫌みの一つでも言われるのだろうと。あの日、自分が恋に敗れたその日、アメリアに八つ当たりをしてしまったことに対して。だってそれが、”氷の女王”のあだ名を持つアメリアの真の姿だと思っていたから。

 けれどアメリアは、自分と二人きりになったときでさえ、何も言わない。自分を見つめるその瞳に、憎しみや悲しみの色は欠片も映し出されない。それどころかアメリアは、ただ優しい笑顔でいつも微笑んでくれるのだ。声を無くし――その右手に決して消えることの無い傷を作ってしまったという、自分ならとても耐えられない状況に置かれているのにも関わらず。カーラにはそれが、信じられなかった。


 元々アメリアは、カーラに悪い感情を抱いてはいない。本来なら人を寄せ付けないオーラを放っていたアメリアであったが、その必要も無くなった彼女は、普通の十八歳の少女として、純粋な心根を持つカーラにすぐに心を許した。毎日お見舞いに訪れる、可愛らしい少女。アメリアはその心根の優しさを、とても嬉しく好ましく思っていた。


 そんな二人であったから、親しくなるまでにそれほど時間はかからなかった。今ではすっかり、姉妹の様に仲睦まじい間柄だ。


 アメリアは嬉しそうにその桃色の封筒を見つめる。そしてルイスは、そんなアメリアの姿に口元を緩めた。


「お茶会、ピアノ、ダンスにサロン……今回は一体何でしょうね」


 ルイスは指折り思い出しながら、ふっと笑ってそのままもと来た方へと歩いて行った。アメリアはその背中を見送って、ようやく気が付く。いつの間にか、自室に辿り着いていたことに。

 もしかしなくても、ルイスは私を送ってくれたのだろうか。

 アメリアはそんなことを考えながら、静かに部屋の扉を開けた。すると――。


「お嬢様!おはようございます!」


 廊下まで聞こえるような、ハツラツとした声が部屋に響き渡った。この声の主は、そう、アメリアの侍女、ハンナである。

 彼女もまた、アメリアと同じようにこのウィンチェスター侯爵の館に迎え入れてもらっていた。まだ結婚前のアメリアには何かと気苦労もあるだろうから着いていきたいと言うハンナの希望を、サウスウェル家、そしてセシル家は共に受け入れていたのだ。そういう訳で、ハンナはサウスウェル家に仕える身でありながら、アメリアの侍女としてこのセシル家に住んでいる。給金はサウスウェル家から出ているので、ここではハンナも半分お客様の様な立場であり、使用人用の部屋ではあるが、丸々一部屋を与えられていた。

 そういう訳で、ハンナはこの屋敷の使用人ではないので、服装は自由である。自由と言っても派手な服装をすることは無く、至ってシンプルなものであるが、今日のハンナは少し赤みがかかったオレンジ色の無地ドレスを身に着けていた。


 アメリアは部屋に入り扉を閉めると、ハンナにおはようの笑顔を送る。今日も、ハンナの笑顔は眩しいほどに明るい。それは、とても心地のいい眩しさであった。アメリアは本当に、ここに来てからの二か月を心穏やかに過ごしている。


 この部屋の居心地はとてもいい。サウスウェル家の自室とは違い、絨毯やカーテンは女性らしい明るい色でまとめられ、窓の縁やクローゼットの扉、そして家具は白色で統一されている。そして極めつけは部屋の窓から見える、見渡す限りの庭園。まだ秋の始めのこの季節、庭園には色とりどりの花が咲き乱れ、ただでさえ豪華な屋敷をさらに彩り華やかに見せていた。

 少し前のアメリアならば居心地が悪かったであろうこの部屋。けれど今の彼女には、どこよりも心地よい。



「――あら、それはカーラ様からのお手紙ですね」


 部屋に入ってきたアメリアの手の桃色の封筒に気づき、ハンナは心底嬉しそうに顔を綻ばせた。彼女はいつだって、アメリアの幸せを願っている。


「今度は何のお誘いでしょうね」


 ハンナはそう言って、机の引き出しからペーパーナイフを取り出しアメリアに手渡した。アメリアは封筒から、これまた可愛らしい花柄の便せんを取り出し開く。

 そしてアメリアの持つその便せんを、ハンナも横から覗き込んだ。


「ええっと……。――まぁ、オペラでございますか!」


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