05
「――ルイス」
アーサーはその、全身を黒に包んだルイスの姿に、思わず唾を飲み込んだ。黒いローブにそれと同じ色のマントという、異様な出で立ちに。
「……なぜ」
アーサーは呟く。
なぜお前がここにいるのか、と。
この辺りは全て兵によって立ち入りを禁止させた筈。それなのにどうやって入って来たというのか。それに一体その格好は何だ、まるで悪魔か死神のようではないか。
いや、そんなことはどうでもいい。今お前は何と言った? ウィリアムが見るようなものではないと、……そう言ったのか?
アーサーの中でいくつもの疑問が湧き上がる。けれど、そのどれも口にすることができなかった。
なぜなら自分を見据えるルイスの瞳があまりにも冷え切っていたからだ。それはまるで真冬の湖一面に張った厚い氷のように。
僅かの隙もなくただ凍てついたルイスの視線は、アーサーの発言を許さなかった。
そう感じたのは、ウィリアムも同じだったのだろう。
アーサーがちらりと横目でウィリアムの様子を伺えば、彼はやはり口を半開きの状態で呆然と固まっていた。目の前のルイスの姿に、ただ違和感のみしか感じられないといった様子で。
ルイスの漆黒の瞳はアーサーの考えを見透かす様に、けれどそのどれにも応える気がないと、全ての光を呑み込み、反射する。その唇に、薄い笑みを湛えながら。
そんな二人から逸れたルイスの視線が、今度は地面に横たわった死体へと向けられた。その脚が、音もなく一歩を踏み出す。
それでもアーサーとウィリアムは動くことも、立ちあがることすらままならなかった。
けれどもそんな状況でもマークだけは、己の使命を思い出したのか剣を抜く。
「――止まれ!」
勿論マークはルイスのことを知っていた。ルイスがウィリアムの付き人で、その働きぶりは誰もが認めるものであることも。本来ならば剣を向けていいような相手ではないことを。
だが、どうしてもそうせねばならないと、彼の騎士本能が告げていた。
しかしルイスは立ち止まらない。剣の切っ先を向けられても、僅かも怯むことなく歩みを止めない。
まるでマークには自分を斬ることなどできないと確信しているかのように、ルイスはマークの剣の目の前をさらりと通り過ぎる。そして死体の前で腰を落とすと、少しの躊躇いもなく布をめくり上げた。
「――っ」
アーサーとウィリアムの少し離れた視界の中に、無残な死体が晒される。
二人の視界が、こみ上げてくる吐き気に歪んだ。
ルイスの手が女の右手に伸び、ゆっくりと持ち上げた。同時に――同じように持ち上がる、彼の口角。そして彼は、二人の方を振り返ると口を開く。
「見えますか? 傷はありませんよ。良かったですね」
「――っ」
刹那、アーサーの中から恐怖がたち消えた。ルイスの言葉に、恐怖よりも焦りが、苛立ちが、そして怒りの感情が勝ったのだ。彼の右目が赤く染まり――その場に立ち上がりルイスを見据える。
「良かっただと?」
燃え盛る焔の色のその瞳は、ルイスに抗うように強く揺れ動いた。
「答えろ。アメリアでないならそれは一体誰だ。誰がその二人を……コンラッドを殺した? アメリアはどこにいる。これはお前の仕業ではないのか! 答えろ、ルイス!」
アーサーの罵声がその場に響く。誰がコンラッドを殺したのか――その問いに、騎士や兵たちは皆表情を険しくし殺気立った。
もしルイスが犯人であったならば即座に斬り捨てる。そんな重く鋭い空気がその場に満ちた。
けれどルイスは頷かない。そしてまた、笑いもしなかった。
ルイスは今度こそ人間らしい表情で、不快感に眉をひそめる。そして、吐き捨てるように言った。
「僕が? 何の為に」
それは心底、不愉快だと言わんばかりであった。
けれどアーサーは「ふざけるな」と怒りに声を震わせる。
「何の為だと? しらばっくれるな! お前が欲する力の為だ! 俺の右目を狙っているのだろう!?」
この言葉に、その場にいるルイスとウィリアム以外の皆の顔が青ざめた。アーサーの右目が赤色に変化していることに気が付いたのだ。けれど、だからと言って彼らはアーサーを怖れたりはしない。彼らは近衛騎士だ。昔から彼のことをよく知っている。心からアーサーに忠誠を誓っているの者たちなのだから。
騎士は皆、ルイスからアーサーを庇うように態勢を整える。けれど、ルイスはただただ不快そうに目許を引きつらせるのみ。
「確かに僕はその右目を欲している。けれど貴方に用はない。貴方だってそれをわかっているから、彼を拒み続けているのでしょう?」
「……っ」
絶句するアーサーに、ルイスはどこか寂しげに微笑む。そしてこう続けた。
「僕はただ、ウィリアム様にお別れを言いに来ただけですよ」
その言葉に、今度はウィリアムの瞳が見開かれる。
別れ? ――と、震える唇が呟いた。それに応えるように、ルイスの瞼が一度だけ、ゆっくりと瞬く。
「今まで本当にありがとうございました、ウィリアム様。貴方と過ごした十五年、僕は本当に楽しかった」
「……何を、言ってるんだ」
地面に膝をついたままのウィリアムが、ルイスを呆然と見つめる。まるで、初めて出会ったあの日のように――。
「僕はこの十五年――僕の精一杯の敬意と感謝を込めて、貴方にお仕えしてきました。けれどそれも今日で終わりです。急なことで本当に、こちらとしても心苦しい限りですが」
ルイスの瞳が懐かしい過去を偲ぶように細められる。けれどそれは本当に一瞬のことで――彼はすぐにその面から感情を消した。
ウィリアムの顔が強張る。アメリアがこんなことになっているというのに、何を言っているのか――と。だが、ウィリアムとて馬鹿ではない。彼は停止した頭を必死に働かせて言葉を絞り出す。
「俺が、知ってしまったからか? お前の秘密を」
その問いに、ルイスは肯定とも否定とも取れない無言を貫いた。ウィリアムは続ける。
「お前は知っているな? これが誰の仕業なのか……彼女がどこにいるのかを……。そうなのだろう?」
それは理由の無い確信だった。けれどその迷いのない眼差しに、ルイスの瞳が再び、細められる。
「ええ、知っています。けれどその問いはどうか僕ではなく、アーサー様に」
そうして再びアーサーに向けられる、ルイスの冷えた視線。それは苛立ちを隠しきれないように、揺れ動いていた。
「彼は知っている筈だ。ライオネルに似た男に彼の衣服を着せ、アメリア様によく似た女性を彼女の遺体に仕立て上げる。それを教会を破壊して事故死に見せ掛けるなどという行いは、神への冒涜に他なりません。――少なくとも僕は、そんな姑息で非人道的な仕打ちができる人間を……この世界でただ一人しか知りませんよ」
そしてルイスは、けれど――、と続けた。その表情が深い憎しみと恨みに歪む。
「彼をそうさせたのは、他ならぬお前自身だ。ローレンス」
「――っ」
その言葉に、アーサーは喉の奥で引きつった悲鳴を上げた。
ルイスはそんなアーサーを憐れむように見つめ、呆れたように溜め息をつく。そしてそのまま、お前に興味は無いと言いたげにくるりと踵を返した。黒いマントが美しく翻る。
気が付けば、いつの間にか太陽は地平線の彼方へと傾いていた。その赤い光を全て受け止めて、ルイスの背中が二人からどんどん離れていく。
「待て、ルイス! まだ話は終わってない!」
ウィリアムは叫んだが、けれどもうルイスは一瞬たりとも立ち止まることはなかった。そしてその姿は、そのまま教会の塀の外へと消えていった。
騎士たちが、追いますか、とアーサーに尋ねる。けれどアーサーが首を縦に振ることはない。
既に日は暮れ始めている。漆黒に身を包んだルイスを追いかけたところで、すぐに見失ってしまうことくらい予想できた。それにもう、大切な者の命を誰一人として失うわけにはいかないのだ。
アーサーは地面に膝をついたままのウィリアムの腕を取り、その場に立ち上がらせた。そして独り言のように呟く。
「ルイスは言ったな。――ローレンスは、事の犯人を知っていると」
「――、まさか!」
その言葉に、ウィリアムはアーサーの考えていることを察し、両肩を掴む。
「駄目だ、君が犠牲になることはない!」
「だが、もうそれしか方法は無いだろう。彼女が生きていることはわかった。――けれど、今後も無事であるという保障はどこにも無い。ローレンスが出てこなければ、今度こそ本当に……彼女の命は奪われるだろう」
「――ッ」
刹那、ウィリアムの顔が再び絶望に歪む。そして同時に理解した。
アメリアは人質なのだと。罪も無い人間をこうも簡単に、こんなにも惨いやり方で殺してしまう相手なら、きっとアメリアの命など躊躇なく手に掛けるだろう。
「ウィリアム。俺は近い内にローレンスと話を付ける。だからそのときはどうか――俺の傍にいて欲しい」
アーサーの瞳に映し出される、迷いのない決意。自分を真っ直ぐに見つめるその眼差しに、ウィリアムは――。
「……わかった。君の決断に心から感謝する。
だが、これだけは忘れるな。アメリアの為だとしても、ルイスが君の身体に傷を付けることを許すわけにはいかない。君はこの国の王子だ。……そして何より、俺の大切な友なのだから」
「――あぁ、そうだな。よく肝に銘じておくよ」
それは、二人の心が真に通じ合った瞬間だった。
***
静かな秋の夜が訪れる。それは昨夜と何ら変わることなく――そしてきっとこれからも変わることなく。
けれどそれは、確かに終わりへと続いていた。忘れられた過去と迫り来る未来――その遥かなる時を越え――バラバラになった時計の歯車は、未だ噛み合うことなく回り続けている。
彼らはまだ知らなかった。歯車の一つは――紛い物。決して当てはまることのない仮初めの姿。それが全ての歯車の動きを止め、無に返す為に造られたものだということを。
けれど同時に、救いはいつだってそこにあるのだ。それは彼らの強き心の内側に――。
さぁ、回れ。秘密は既に解き放たれた。進み始めた歯車は、もはや何者にも止められない。
決断の時が迫り来る。
誰一人、彼らを責める資格を持つ者はいない。誰一人として、介入することは許されない。
なぜなら彼らの行き着く先は――既に彼らの手の内に、委ねられているのだから。
-To be continued-