05
***
季節が何度か巡った。
僕は先週、十二歳になった。
「アーサー様、おはようございます」
起きがけの一杯の紅茶を運んできたヴァイオレットが、いつものように僕にほほ笑みかけてくれる。
あれから僕は、無理に彼女に接触するようなことはせず、ただ主従の関係を通すように努めてきた。おかげで今は、あくまで王子と侍女という関係で言えば、割といい関係が築けていると思っている。二年前は侍女見習いだった彼女も、今では仕事ぶりを評価されて見習いでは無くなった。
「おはよう、ヴァイオレット。今日もいい天気だね」
ヴァイオレットが開けてくれた窓の向こうから、ほろほろとした春の朝日が差し込んでくる。それが寝室全体に広がって、部屋は白っぽく輝いていた。
ヴァイオレットはいつもの様な落ち着いた動作で、ティーソーサーを僕に手渡してくれる。僕はそれを、ベッドの背に背中を預けたまま受け取った。そしてそれをゆっくりと口に運ぶ。
――うん、美味しい。いつものヴァイオレットが入れてくれるお茶の味だ。
僕がほっと息を吐くのを見届けてから、ヴァイオレットは口を開いた。
「本日はいよいよ、アーサー様の十二歳の誕生日パーティーでございますね」
「そうだね。……はぁ、パーティーか。あまり得意じゃないんだよなぁ」
今日の誕生日パーティーには、国中の貴族の子息、息女が参加する。年齢は八歳から成人前の十五歳まで。この国の貴族の家の男子は十三歳から寄宿学校に入るので、その前の僕のお披露目を兼ねているのだ。
あぁ、気が進まない。この城の中の居心地は非常に良くなったけれど、僕は外の世界のことはあまり知らないのだ。僕が七歳の頃までに出会った貴族の息子たちとは、今はもうプライベートでの繋がりはない。向こうも僕のことを気味悪がっていたから、尚更だ。
僕の憂鬱な溜め息に、ヴァイオレットはくすっと笑う。
「ふふ。大丈夫ですよ、アーサー様が何かなさらなければならないことは何もありませんし。ただ椅子に座っていらっしゃるだけで宜しいんでしょう?」
「宰相の言葉なんて信じられないよ。あの人普段は適当なことしか言わないんだから」
「――それは確かに、そうですね」
ヴァイオレットは僕の言葉に、少しだけ困ったような顔をした。その表情に、僕は思いなおす。
こんなことで暗くなっているようじゃ、ヴァイオレットには好きになってもらえないぞ、と。
「でも、うん、大丈夫。もう僕も十二だしね。パーティーの一つや二つ軽々こなしてみせるよ」
僕はそう言って、笑った。
するとヴァイオレットもほほ笑んでくれる。
「ふふ、その意気ですよ、アーサー様」
その声はまるで陽だまりの中でさえずり歌う小鳥のようで、僕にとっては何よりも心地いい声。――あぁ、僕は今、とても幸せだよ。
窓から春風が花の香りを運んでくる。それはまるで、僕らの未来を祝福するように。僕らの幸せな将来を予感させるように――。
だから僕はこのとき、想像もしていなかったんだ。この日を境に、僕の平穏はあっさりと、いとも簡単に崩れ去っていってしまうのだと言うことを……。
***
丁度正午から始められた僕の誕生日パーティーはつつがなく進行していった。
いつもなら退屈なパーティーも、今日は城内の庭園でのガーデンパーティーなので、いつもより少し気が楽だ。
それに最初こそ父上や母上、そして僕に、貴族たちが自分の息子や娘たちを連れて挨拶周りに来ていたが、二時間ほど経ってようやくそれも終わりを見せている。そろそろ僕も小腹がすいてきた。何か食べたいな。
庭園を見渡せば、中央を広く開けて左右にずらりと長机が並び、そこには所せましと料理が並べられている。肉や魚料理はもちろん、普段はあまり手に入らない南国の色とりどりの果物なんかも用意されていた。もちろん今回は子供がメインのパーティーなので、お菓子やケーキやチョコレートは外せない。
――あぁ、お腹すいた。
そろそろ席を立ってもいいかな。僕はちらりと隣に座る父上の方に視線を向ける。けれど父上はどこぞの貴族と話をしていて僕の視線に気づく様子はない。もちろんさらにその向こうに座る母上なんて尚更だ。そもそも母上とはあれ以来――今では普通に話すようにはなったけれど――まだ何となく気まずくて、言いたいことを言い合える仲ではない。
ヴァイオレットは僕の侍女だし男爵家の養女だけど、養父であるパークス男爵も来るだろうからと言って、参加を辞退していた。だから僕は、ただひたすらに暇なのだ。
僕は再度父上の方を見る。けれどやはり父上はこちらに気づかない。まぁ、すぐに戻ってくればいいか。僕は席を立とうとする。けれど――。
「――ッ」
腰かけた椅子から立ち上がろうとした瞬間、身体がぐらりと傾いた。
――なん、だ……?
僕は咄嗟に椅子の肘置きにつかまる。今、めまいがしたような……。いや、違う……これは……何か、もっと嫌な……。
僕の背中にひやりとした汗が伝う。今日は暖かい筈なのに……何故か、寒い。冷たい。何故――?
僕がそう思うと同時に、久しぶりに頭に響いてきたのは、彼の声。もう一人の、自分の声。
『アーサー、僕と代わって』
「――え?」
その言葉に、僕は驚いた。今まで一度だって、代われなんて言われたことは無い。僕ではどうしようもない状況になったときにだけ、彼は勝手に表に出てくるのだ。なのに、今彼は何と言った?
――代われ、とそう言ったのだ。この、特に何も問題の起きていない状況で。
『早く代わって』
彼の口調は、いつもの様に淡々としていた。けれど、少しだけ感じる違和感。それが一体何なのか、僕にはわからない。けれど……。
『――チッ。アーサー、一番右奥のテーブル当たりを見て。あの真っ黒な姿をした男』
「――?」
僕はその言葉に、視線を泳がせた。――確かに、いる。僕より少し年上、多分、ヴァイオレットと同じくらいの歳の、中性的な顔だちの少年……。真っ黒な髪と瞳をした――この国では、珍しい。
「――っ」
刹那――その少年と、視線がぶつかった。まるで僕の視線に、一瞬で気が付いたかの様に。
『アーサー!』
瞬間、彼が叫ぶ。それと同時に、僕の右目に宿る確かな熱。熱く疼く右目。それは、紫のレンズごしで無かったら、血の様に赤い呪われた色――。
「――ッ!?」
僕一人ではこの距離で人の心を読むことは出来ない。けれど彼はそれが出来る。彼は無理矢理僕を蹴飛ばし、僕の身体の主導権を奪い取って行く。
僕はそれを為すすべもなく見ているしかなかった。
彼は、その少年を睨む。けれど――、彼の視線の先の少年は、彼の視線を物ともせずに、ニヤリと薄く笑った。
『――、な』
彼――いや、僕の全身から冷や汗が噴き出してくる。それは恐怖か、畏怖か、それとも興奮か。――否。
僕に伝わってくる彼の気持ち。それは、完全なる憎悪だった。そして僕は理解する。今、一体何が起きたのかを……。
そう、あの少年は、弾き返したのだ。彼の――つまり、僕の力を。
普通の人間ならば有り得ない。そんな芸当出来やしない。それをやってのける少年――あの人は一体何者なのか、一体誰なのか。
彼は、ごくりと生唾を飲んだ。けれど、僕はそれをただ黙って見つめることしか出来ない。こんな彼の表情は、一度だって見たことがないと、酷く冷静な頭で考えながら。
『……アーサー、あいつは……誰?』
彼は呆然と呟く。けれど僕がその問いに答えられる筈がない。そんなこと、彼だって百も承知だろう。けれどそう尋ねなければいけないほど、彼は心を乱している様だった。
そして気が付けば、視線の先のあの少年は、もうそこには居なくなっていた。それはまるで、最初からそこには居なかったかのように。何の違和感もなく、いつの間にか消えていた。
彼は、先ほどまでその少年がいた場所を見つめ、苦々しげに呟く。
『……あいつ、多分、僕たちと同じだよ』
同じ?それはつまり、僕たちのように不思議な力を持っているってこと?
『そうだよ。でも、何だろう。多分、それだけじゃない』
いつの間にか、僕の心の奥に引っ込んでいた彼のその声は、少しだけ震えていた。
『……良くないことが、起きる気がする』
「――え、それって……」
何が――?そう聞き返そうとして、僕は口を噤んだ。僕の中から、彼の気配が消えていた。もう、眠ってしまったのだろうか。それとも、さっきの少年に……何かされてしまった……?
そんなことを考えるが、僕にはもうどうすることも出来ない。それを確かめる方法も、何もわからない。
気が付けば、さっきまでの冷や汗は嘘の様に引っ込んでいた。
「――」
春風が僕の頬を撫でていく。それは本来心地よい筈のそよ風。
けれど今は、汗で冷えた僕の身体から更に体温を奪っていく、ただ目障りなだけの茨のように、僕の身体にまとわりついて、決して離れようとしなかった。