07
コンラッドに向かって一直線に――彼は、両手で握ったその剣を振りかぶる。その刃は、そのままコンラッドの剣とぶつかった。
瞬間、空気を震わせたのは金属のぶつかる鋭い音。けれどライオネルの剣はすぐに弾かれてしまった。でもそれは当たり前だろう。相手は既に引退したとは言え、かつての騎士団長コンラッド・オルセンだ。ライオネルでは、例え刺し違えたとしても勝ち目はない。それにそんなことは、ライオネルだって重々承知だろう。それなのに……。
「コンラッド卿!答えて下さい!!殿下はどうしてこの方を!!」
ライオネルは体勢を整えると、再び立ち向かっていく。だがそれも、コンラッドにしてみれば羽虫にも劣るだろう。案の定、彼の剣先は軽々と薙ぎ払われてしまった。
「お前が知る必要はない」
コンラッドの低い声が響く。彼はまだ、その場から一歩も動いていなかった。ライオネルの剣が何度立ち向かってきても、コンラッドは少しもバランスを崩すことなく、淡々とライオネルの剣を受け流す。
「お前の力はこんなものか、ライオネル!」
コンラッドの罵声が飛ぶ。それはライオネルを叱咤するような声音だった。もっと向かってこいと、挑発せんばかりに。
「――まだだッ!」
ライオネルの瞳がぎらりと揺らめく。それはただ……自分の感情に支配された――一人の青年の姿で。
「やめて、ライオネル!!」
叫んでも、きっとこの声は彼に届かないのだろう。もう、彼はその足を止めることはないのであろう。
二人の剣が交わる。何度も、何度も、悲鳴のような金属音が鳴り響く。それに比例して、ライオネルの服を――肌を……コンラッドの剣の切っ先が鋭く切りつけていった。彼の身体に、血が滲んでいく。
「……くっ」
それでも彼は、決して膝をつかなかった。ただ、前だけを見据えて……私を決して振り向かなくて。
「……、やめて」
ライオネルの頬に、肩に、腕に、腹に、足に――無数の切り傷が刻まれていく。教会の石の床にしたたる彼の赤黒い血があまりに痛々しくて、私は目を逸らさずにいられなかった。
「もう――やめて」
あぁ、なんて馬鹿なライオネル。私に出会ったばっかりに、彼は自分を見失ってしまった。彼の立場も、彼の心も――私が全てを壊してしまった。こんなことをさせたかったわけじゃないのに。傷ついてなんて欲しくないのに。一滴の血だって、流して欲しくないのに。
「やめて……ライオネル。お願い……」
顔を覆っても、耳をふさいでも、私の心を貫くように繰り返される金属音。彼の苦し気な息遣い、上下する肩。
何度地面に倒れても、決して屈することのない彼の私への真摯な想い。それが本当に切なくて――私は心から、後悔した。
もしここに一振りの剣があれば……一本の鞭があれば……私は迷わず二人の間に入るのに。この手で、止めてみせるのに。――けれどそれは、叶わない。
ライオネルの奮闘も虚しく、とうとうコンラッドの剣がライオネルの剣を弾き飛ばした。彼の右手から剣が離れ……回転しながら床の上を滑っていく。そして同時に、ライオネルの首に添えられる、冷たい切っ先。
「――ッ」
床に膝をついたライオネルが、声なき声で呻く。顔をしかめ、肩を震わせ、それでも彼は抵抗するように、コンラッドを真っ直ぐに見据えていた。そんな彼をまた、コンラッドも鋭い眼光で見つめ返す。
「これが最後だ。アメリア嬢を引き渡せ」
再びコンラッドが彼に命じる。返事はきっとわかっているのに。ライオネルが拒絶することを、知っているのに……。
本気ではない。コンラッドは、本気ではない。さっきからずっと、そして今この瞬間も。だって彼が本気を一瞬でも出していたなら、既にライオネルの首は刎ね飛んでいる筈なのだから。決着は、一瞬で着いていた筈なのだから。
そしてライオネルもきっとそのことに気が付いている。気が付かない筈が無いのだ。けれどだからこそ、彼は首を縦にはふらないのであろう。名誉の為に、最後まで自分の意思を貫き通すつもりなのだろう。
「――ふ」
ライオネルの真剣な眼差しに、コンラッドが薄く嗤った。
「揺るがぬか。――ならばもう良い。せめて苦しむことなく逝かせてやろう」
「――っ」
教会の天井に向かって一直線に掲げられるコンラッドの剣。ライオネルの血で汚れた――その剣は、この聖なる教会には余りにも似つかわしくなくて。あってはならない光景で。
「――駄目」
気が付けば、私は走り出していた。――どこへ?ライオネルの元へ?――いいえ、それは違う。
「祈るがいい」
コンラッドの低い声が私の鼓動を止める。ライオネルの息遣いが、聞こえなくなる。私の中から音が消え、地面を蹴ったその先のライオネルの剣に――私の右手が――触れた。
「まだよ!」
私は叫ぶ。コンラッドと――そしてライオネルの視線を引き付ける為に。この手に掴んだ剣を、彼らに向かって放つために。
そして私は右手の剣を――その重みに堪えながら――二人の間を引き裂くように解き放った。私は再び声を張り上げる。
「ライオネル!」
――避けなさい!そう意を込めて彼の名を叫べば、ライオネルは我に返ったような顔をして腰を持ち上げ膝を引いた。コンラッドも流石に驚いたのか、ぎょっとしたような顔をして半歩後ずさる。そして私の放った剣は、私の思惑通り二人の目の前を勢いよく通り過ぎ、そのまま壁へと突き刺さった。
同時にライオネルは身を翻し、私の方へと駆け寄ってくる。
「アメリア!」
痛々しい、傷だらけになった彼の身体は、もう本当にボロボロで。服は引き裂かれ、いたることろから血が滲んでいた。それは、いつもなら暖かい微笑みの称えられる、その頬にも――。
「なんて無茶をするんだ!」
彼は血で汚れた、けれど酷く蒼白な顔で私の両肩を抱き、今まで見たこともないような恐い顔をして声を荒げる。でも、今の私には、それすらも安堵の種にしかなり得ない。
「無茶はどっちよ!私はこんなことしろだなんて頼んでない!」
「――っ」
ライオネルの目がこれでもかと言う程見開かれる。彼は知らないのだ。私のことを何一つ。本当の私を。私の、本性を――。
「私を見くびらないで」
「……君」
彼の瞳が揺れる。君は一体誰なんだ――と、そう訴えるように。けれど、そんな時間は長くは続かない。
「くっ、ははははは!これは何と愉快なことか!まさかご婦人が剣を扱えるなどとは、流石の私も予想出来ませんでしたぞ!!」
コンラッドの笑い声が高らかに響く。それは教会の壁に反射して、不気味にこだましていた。空気を震わせるその声は――まだ昼間だと言うのに――いつの間にか弱まったステンドグラスの薄暗い光と相まって、途端に私の心を不安にさせた。太陽の角度が変わったのか。……酷く、胸騒ぎがする。
「……ライオネル、私から離れないで」
そう囁けば、彼は驚いたように押し黙って私の方を見た。けれど彼は直ぐに、私の視線の先を追って教会の入り口へと目を向ける。――そう、いるのだ。もう一人。先ほどのコンラッドには気が付けなかったけれど、神経を研ぎ澄ませた今ならわかる。もう一人、そこにいる。
――そう思った瞬間、その何者かは一瞬で動いた。入り口に突如現れたその黒い影は、続けざまに二本の短刀をこちらに向かって投げつける。そしてその一本は――。
「――ぐぅッ」
肉に食い込む鈍い音と共に――コンラッドの背中へと、突き刺さった。
「コンラッド卿!」
ライオネルが叫ぶ。そして――それと同時にもう一本の短刀が、私達の頭上で何かを断ち切った。金属の引きちぎれる音と共に、古びた楔は、朽ち果てる。
「上よ!」
「――ッ!?」
私たちは天を仰ぐ。その、乾いた金属音のした方へ――。
そこからは、短刀によって天井から断ち切られた巨大な白い十字架が――ステンドグラスの七色の寂光に導かれて――私たちのいる場所へと落下してきていた。それはまるで、私たちの視界を全て覆い隠すかの様に。
「――ッ」
ライオネルの喉から、空気が漏れ出る。それは、決して声にならない悲鳴。
あぁ、神様――。
私たちは動けなかった。その場所から、もう一歩も。ライオネルの腕が、私の身体を抱きしめる。その一瞬は、まるで永遠の様に、私たちの時を止めた。
もう二度と進まない時間を。永遠の、時間を。
あぁ、これは――罰なのかしら。
私たちはただ、見つめ合う。それは、どこか懐かしい記憶と共に。愛した人、幸せだった過去。それが今こそ、甦る。
目の前の彼が、微笑んだ。それは、こんな状況でなかったら、笑って返せた筈なのに。太陽のようなその微笑みは、滲んだ涙で、直ぐに見えなくなってしまった。けれど、感じる。彼の温もりを、心臓の鼓動を。
そしてその――私の胸を締め付ける、愛しげな声も。
「――ユリア、迎えに来たよ」
私を全身で抱きしめて、優しく笑う彼の瞳。
その姿に、私は――。
再び時が刻まれる。時計の秒針は止まらない。動き出した針は、もう二度と戻らない。
私たちはただ抱き合っていた。あの日果たせなかった約束を果たすべく――意識の途絶えるその瞬間まで――ただ互いの存在だけを……確かめ合っていた。