02
ウィリアムは振り向く。すると少し離れた場所に一人の男が立っていた。あぁ、それは紛れもなく――。
「アル……?」
相変わらず不健康そうな白い肌に紺色の髪と瞳、それはかつてウィリアムの家庭教師をしていたアルバート・ハドソンであった。彼はウィリアムの呟いた自分の名前を確かに聞き取ると、感極まった表情を浮かべてウィリアムに近づいてくる。
「あぁ、やはり!ウィリアム様なのでございますね……!」
白いシャツに黒いスーツ。そして縁の無い丸眼鏡。アルバートは十年前とまるで変った様子が無い。いや、違うな。少し縮んだか?――そう感じて、ウィリアムは思わず頬を緩ませた。違う、自分の身長が伸びたのだ。
「アル……、本当に、お前なのか」
「ええ、私でございます。あぁ、あのように幼かったウィリアム様が……本当にご立派になられて……!」
「……アル」
感激で今にも涙を流しそうに肩を震わせながら、アルバートは早足でこちらへと近付いてくる。そんなかつての師の姿に、ウィリアムは少しだけ気恥ずかしそうに目を細めた。けれど直ぐに我に返る。
アルバートは十年前、ウィリアムが学校に入学するのと同時に、国中を旅して回りたいからと家庭教師を辞めていた。そして王都を出たきり、今まで一度も戻ってきたことはない。それが何故ここにいるのだろうか、と。
「いつ、戻ったんだ」
ウィリアムが尋ねると、アルバートはつい先週だと答える。そして微笑んだ。
「ウィリアム様、お時間はございますか?もし宜しければあちらの席で、少しお話でも」
その言葉にウィリアムはちらりと背後の衛兵に視線を送る。が、そこに立つ二人の近衛兵はやはり表情一つ変えることはない。そんな彼らにウィリアムは、中に入れて貰うのは難しいだろうということを悟った。
そして彼は考える。しばらく待っていれば……と。少なくとも昼食の時間までここにいれば、アーサーが出て来る可能性もあるだろうと。それまでアルバートと昔話に花を咲かせるのも悪くはない。
ウィリアムは再びアルバートの方を振り向くと小さく頷き、彼と共に手近なソファに腰かけた。
*
時刻は午前11時を回っていた。ウィリアムはアルバートとテーブルを挟んで向かいあい、一通りお決まりの挨拶を交わしてから、ようやくお互いの近況について尋ねだす。
とは言え、それは殆ど一方的なものであった。アルバートがウィリアムを質問責めにする為だ。侯爵夫妻は元気にしているか、学校での生活はどうだったのか、なんと監督生とは素晴らしい、流石はウィリアム様でございます、と。まるでこの空白の十年という時間を埋めるように、彼はひたすらウィリアムに問い続けた。
通常ならば、侯爵の息子であるウィリアムはこのように矢継ぎ早に何かを尋ねられることはない。ウィリアムは困ったように笑いながら、何とかアルバートの質問に答えていく。けれど不思議と嫌な気はしなかった。そして、ルイスは相変わらずなのかという問いに、「ああ、変わらないよ」と返事をしたところで、ようやく満足したのかアルバートは満面の笑みで二度頷く。そして続けた。
「そう言えばご婚約なされたそうですね。おめでとうございます」
アルバートはどこか懐かしい目をして微笑む。先ほどから何度も、あんなに小さかったウィリアム様が――と繰り返す彼は、またもや同じ言葉を繰り返そうとしていた。
ウィリアムはそれに気が付いて、アルバートの言葉を遮るように「ありがとう」と急ぎ早に応える。そしてどこか照れ臭そうに微笑んだ。その表情に、アルバートは口元に手をあててクスッと笑う。
「ファルマス伯爵の名は国中に届いておりますよ。御父上がウィリアム様の提案で領地に孤児院を増やされたとか。読み書きも教えられるように王都から教師を派遣したともお聞きしました。本当に素晴らしいことでございますね」
「……あぁ。だが、それは当たり前のことだろう?私達貴族は民の血税で生きているのだ。それを人々に還元し、よりよい国を作っていく。それが私たちの役目と言うものだ」
アルバートはその言葉に、より一層嬉しそうに目じりを下げた。そして再び涙ぐむ。
「あぁ、このアルバート、本当に感激にございます」
ウィリアムはそんな風に声を震わせるアルバートの姿に苦笑し、ようやく自分の番が回ってきたかと、「ところで」と話題を変えた。
「この十年、アルは何をしていたんだ?」
国中を旅していたのだろう?と、ウィリアムは更に問う。するとアルバートは、無地のグレーのハンカチで目頭を拭いながら、小さく鼻をすすった。
「何を――と言われると困るのですが……、ウィリアム様もご存知でしょう?私は元々考古学が専門ですから、遺跡などを調べて回っていたのです」
先ほどまでと打って変わって、アルバートは急に真面目な顔になる。その表情にウィリアムは、あぁそう言えばそうだったな、と呟きながら視線を宙に泳がせた。
彼は思い出したのだ。アルバートの歴史への果てしない情熱を。アルバートが歴史を語るときの瞳は、まるで恋い慕う者への深い愛に溢れたような、燃えるような熱を発する。だからであろうか、彼には昔から女っ気がまるでない。彼自身、その長身という要素を除けばまるで女性のような出で立ちだけれど、女性が近寄って来ない筈はあるまいに。
いや、そんな無粋なことを考えるのはやめよう。余計なお世話というものだ。ウィリアムはそこまで考えて、ようやく無難に微笑んで見せた。けれど気が抜けていたのだろうか、口からはつい気のない返事が出てしまう。
「遺跡……。それは、楽しいのか?」
正直なところ、ウィリアムは昔から歴史が好きでは無かった。苦手では無かったが、興味が持てなかったのだ。それはアルバートが家庭教師として雇われてからも変わることは無かった。かと言って別に、学校での成績が悪かった訳ではない。文武共に秀でた者でなければ、監督生には選ばれない。つまり、ウィリアムは誰から見ても間違いなく、優秀な生徒だった。ただ、歴史に興味が無いだけだ。
けれどアルバートはそれを知りながら、ウィリアムの言葉にパッと瞳を煌めかせた。いや、既にあれから長い月日が経過しているのだ、忘れてしまった可能性も否めない。
アルバートの身体が前のめりになる。
「ええ、勿論でございます!この前など西の果ての村で古い陶器の瓶を見つけまして、中に入っていた植物らしき物を調べましたら、それが凡そ千年前のものだと言うことが判明したのです。瓶の状態も良いものでございましたので、こちらの研究所へと運び、今詳しく調べさせております」
「……そ……そうか」
アルバートの子供の様にはしゃぐ姿とは裏腹に、ウィリアムは少し腰を引いて苦笑する。そして続けた。
「……あぁ、そうか。だから王都に戻って来たのか」
その問いに、アルバートは口を開いて何かを言いかける。けれど彼はそのまま口ごもり、そしてすぐに、何かを思い出したかのように唇を結んだ。それはほんの一瞬のことだったが、ウィリアムに違和感を与えるのには十分だった。
「……?」
何か知られてはいけないことでもあるのだろうか。アルバートはウィリアムの視線に、どこか誤魔化すような笑みを浮かべ、胸ポケットから懐中時計を取り出すとちらりと見やる。
「ウィリアム様、申し訳ございません。そう言えば私、人と待ち合わせの約束をしているのを忘れておりました」
そう言って申し訳なさそうに眉を下げるアルバートに、ウィリアムはますます違和感を覚えた。けれどウィリアムとていい大人だ。下手に追及などしない。
「そうか。ではまた屋敷にでも寄ってくれ。父も喜ぶだろう」
「はい、是非とも。では、私はこれで失礼致します」
短い挨拶を終えて、アルバートはソファから立ち上がる。そしてそのまま振り返らずに去っていく彼の背中を、ウィリアムはただ黙って見つめていた。