01
澄んだ陽の光が庭の樹木に差し込み、地面に大きな影が伸びていた。爽やかな秋風が優しく吹き抜け、肌に心地よい――９月の下旬。
「では、行ってくる」
「ええ、気をつけて」
午前１０時を回った頃に、ウィリアムはアーサーを訪ねるために馬車に乗って出かけていった。夕方までには帰るつもりだと言い残して。
アメリアは馬車が屋敷の門を出ていくのを、ルイス、ハンナと共に笑顔で見送った。けれど馬車が視界から消えると、その顔からすっと笑みを消す。
アメリアは昨夜のウィリアムの告白を受け、気が付いたのだ。ルイスの言葉は――ウィリアムと自分に対して契約をした際に彼の告げた内容は――辻褄があわないのだということに。アメリアは昨夜からずっと、胸の内に言いようのない胸騒ぎを感じていた。それが一体何なのか、ウィリアムのいない内にルイスに問いたださなければならないと、彼女はそう考えたのだ。アメリアは一度だけ小さく息を吐くと、表情を引き締める。
けれどアメリアの背後に立つハンナは、主人の表情が変わったことに気が付かなかった。それはもちろん、アメリアがハンナには気づかれないようにと背中を向けたままでいるからに他ならない。ハンナは「朝食の片づけを手伝ってきます」といつもの如く明るい笑顔を浮かべて屋敷の中へと戻って行く。アメリアはそんな侍女ハンナの気配が消えたことを確認し――未だ微動だにしないルイスへと……ようやく、視線を移した。
「どうか、なされましたか」
ルイスのその表情は、声は、それこそいつも通り落ち着いたものであった。いや、違うか。どちらかと言えば以前より――どこか、哀憫の漂うような……。それは三日前の真夜中に、夜の庭園で見せたどこか悲し気な笑顔に重なる。けれど、それでも彼女は今度こそはっきりさせなければならなかった。だから彼女は決して表情を変えることなく、告げる。
「あなたに、話があるの」
アメリアが彼の漆黒の瞳をじっと見つめれば、彼は同じようにアメリアの碧い瞳を見つめ返してきた。それはまるで、何を尋ねられるのか既に知っていると言わんばかりに。そして彼は、どこか遠くを見つめるように目を細めると……。
「僕の部屋に、参りましょうか」
とうとうこの時が来たのかと言うように、小さく笑った。
＊
ルイスの部屋に入るなり、アメリアは訝し気に目を細めた。
「本当に何もないわね」
アメリアがこの部屋に入るのは今日が初めてだ。ルイスは基本的に部屋に人を入れない。自分が部屋を出る際には必ず鍵をかけ、ハウスメイドやランドリーメイドですら立ち入らせない。掃除もシーツの変えも全て自分で行うのだというのだから、かなりの徹底ぶりだ。何か見られて困るものでもあるのだろうかと思っていたが、何もなさ過ぎてそういうわけでもなさそうである。アメリアはそんなことを考えながら、殺風景な部屋をぐるりと見回した。
「……ソファすら無いなんて」
流石のアメリアもこれには驚いた。というより、呆れた。一体どこに座れというのか。いや、まぁ、立ち話でも構わないと言えば構わないけれど。――そう言いたげに眉をひそめるアメリアに、ルイスは再び困ったような笑みを浮かべる。けれど彼はアメリアの言葉には応えることなく、静かに窓を開け放った。秋風がどこからか運んでくる、金木犀の甘い香りが静かに部屋を満たしていく。
ルイスはその香りを堪能するように窓枠に手をかけて、外の景色を一望すると……ようやく口を開いた。
「そろそろお話させて頂いても、良い頃かもしれませんね」
その声は低く、けれど穏やかで、そしてどこか寂し気だった。
「ウィリアム様もアーサー様を訪ねて行ってしまわれましたし。こちらはこちらで種明かしと行きましょうか」
ルイスの瞼が、ゆっくりと伏せられる。それは何かに堪えるように。痛みに――苦しみに、耐え忍ぶように。そして僅かの沈黙の後、再びルイスの瞳が開かれ、きらりと揺れた。
「あなたは、この国の神話をご存じですか」
「……神話？」
アメリアは自分の記憶を手繰り寄せる。神話――そう、確か遥か昔、七人の神がこの地に降り立ち人々を統治したという。アメリアがそう答えると、ルイスは頷き、再び問いかけた。
「では、人間になった冥府の王と、その娘のことは」
「ええ、知っているわ。ハデスと……娘は、ソフィアと言ったかしら……」
何故こんなことを聞くのかと、アメリアは眉をひそめる。けれどすぐに思い当たった。そう、漆黒の髪と瞳を持っていたと言われるハデスと、その娘ソフィア。そしてソフィアの傍を片時も離れなかったという、白いフクロウの存在に……。
その可能性に――アメリアは、ぐっと息を飲み込む。
「まさか……。そんなことって、あり得るの」
神話は所詮神話だ。そう思っていた。いや、誰だってそう思う筈だ。そんなもの、ただの作り話だと――。
驚きを隠せないアメリアに、ルイスは皮肉気に微笑む。
「僕は、この国の最初の王カイルと……ソフィアの間に出来た子供なんです」
「……」
それは嘘のような話だった。もしもこれを初対面で言われていたら、流石のアメリアも信じる事など出来なかったであろう。けれど彼女は既に、ルイスの人並みならぬ力を知っていた。そして自分と同じく、遥か昔の記憶を持つことも。
それに今さらこんな突拍子もない嘘をつくとも思えなかったし、そのメリットが無いことも理解していた。
だからアメリアは、その言葉が真実であるという前提で、困惑げに眉をひそめる。
「……でも、神話には……二人の間に子供が産まれていたなんて話は……」
そう、思わず呟いた。けれど、彼女はすぐに口を閉ざす。そもそもが作り話のような話だ。それが全て正しい保証なんてどこにもない。寧ろ物語というものは、時の流れに従って都合のいいように改変されるものだと、悟って。
そしてルイスはそんな彼女の様子にどこか安堵の表情を浮かべると、静かに静かに、語り出した。凡そ千年も昔、繁栄を極めたこの国で、ソフィアと自分自身がどのように暮らしていたのか――そして、かつてのアーサーとの間に一体何が起きたのかを――。
＊＊＊
ルイスがアメリアに自身の過去を語り始めて半刻ほど経った頃、ウィリアムは王立図書館へと足を踏み入れていた。アーサーはここにいるだろうと、エドワードより聞いていた為である。
王立図書館は言わずもがな、ここエターニア国最大の図書館である。蔵書数は凡そ１０００万巻。下手な劇場よりもずっと広い館内には、本のびっしりと詰まった本棚が何百列と並んでいた。本棚の高さは優に１０メートルを超え、天井まで届くほどである。
本にはそれぞれ上四桁、下四桁の番号が振られていた。とは言え、この中から目当ての本を探すのは素人では難しい。よってここには５０人を超える司書が常時待機している。司書を務めるのは中産階級の者達だ。利用者の身分は問わないが、図書館は貸本屋と違い本の貸し出しは行っていない。よって必然的にここに集まるのは、学生か時間を持て余した貴族が殆どである。
ウィリアムもここに足を運ぶのは数年ぶりであった。それこそ学生のとき以来だ。本が読みたければ買えばいい、基本的にはそういうものだ。つまりここに来るのは書店で買えないような本を読みたいとき、もしくは調べものをするときである。
ウィリアムは館内中央の階段を上り二階に上がった。図書館の二階奥には貴族専用の閲覧スペースがある。そしてさらに奥へ進めば、王室専用の閲覧室も備えられていた。アーサーがいるとしたらそこである。
だが、どうして急に図書館通いなどど――。と、ウィリアムは不思議に思っていた。アーサーが本好きだという話など一度も聞いたことが無い。いや、貴族、王族であり勉学に励む必要がある以上、本という物は常日頃から読まなければならなかったし、学ばなくてもよい理由など一つもない。けれど、王室であれば本を手に入れることなど雑作もない筈である。それをわざわざ通ってまで調べもの――となると、ウィリアムにはその理由が一つしか思い当たらなかった。
市場には決して出回らない貴重な本や文献が保管された部屋。王族や限られた一部の上級貴族や政治的権力者、そして上官司書しか閲覧の許されない閲覧制限区域。恐らくその制限に掛かっているものを、アーサーは調べているのだろうと。
勿論ウィリアムはその部屋に入る権利など持っていない。だからその部屋に一体どのような本があるのかなど、知る由も無かった。
彼は貴族専用の閲覧スペースを横切っていく。赤い絨毯敷きの床に、重厚なテーブルやソファが並んでいる。けれどシーズンオフのこの時期は殆どの貴族たちが保養地で時間を過ごす為、人は本当にまばらだった。
彼は更に奥へと進んでいく。王室専用の閲覧部屋の扉の両側には衛兵が控えていた。見知った顔だ。四日前に街で会ったばかりである。やはり、アーサーはここにいるのだ。
ウィリアムが真っ直ぐに扉に向かって進んでいくとあちらも彼に気付いた様である。けれど彼らはウィリアムが正面に立ち止まっても、顔色一つ変えることはなかった。近衛兵とはそういうものだ。
「アーサー王太子殿下にお目通りを願いたい」
何時もよりも低い、ウィリアムのよく通る声がその場に響く。しかし――。
「それは出来ません。誰も通すなと仰せつかっております故」
「例え貴方が殿下のご友人で在らせられようとも」
「――なんっ」
二人の物言いに、ウィリアムは思わず声を荒げそうになった。けれど、何とか踏みとどまる。こんなことで気持ちを揺さぶられてはいけない。だが本当に、アーサーはどうしてしまったというのだ。――そう、ウィリアムが拳を握り締めた、丁度その時。
「ウィリアム、様……？」
背後から――十年ぶりの懐かしい声が、彼の耳に届いた。
