03
「――ッ」
ウィリアムが背中から地面へ倒れるのと同時に、先ほど彼が立っていた場所に勢いよく馬車が突っ込んだ。屋敷の塀と馬車のぶつかる音が爆音の様にドンっと響き、地面を揺らす。
「ウィリアム様!お怪我は!?」
アルバートの悲壮な声が響く。彼は石畳へと倒れこんだウィリアムの下に一目散に駆け寄った。アルバートの只でさえ白い顔は、今にも倒れてしまいそうな程に蒼白である。
彼は石畳に倒れたままのウィリアムの身体を上から下までくまなく両手で触ると、ようやくほっと胸を撫でおろした。どうやら大きな怪我は無さそうである。
「…………アル……僕……今……」
誰かに……?と、ウィリアムは茫然とした様子で呟いた。差し出されたアルバートの手を握る彼の手は、小刻みに震えている。何とか上半身を起こした彼は、目の前に広がる光景に恐怖で顔を歪ませた。どこかの屋敷の塀へと突っ込んだ馬車は、前半分がひしゃげてしまっていたのだ。既に人が集まり出していた。
「……ッ」
そして彼は直ぐに理解した。先ほど誰かに突き飛ばされなければ、間違いなく自分は死んでいただろうと。
「――あ」
そしてウィリアムが自分の横へと顔を向ければ、そこには頭から黒いコートをすっぽりと被った人物が――自分を見下ろすようにして立っていた。フードに隠れて顔は見えない。けれど――恐らく、身長からしてまだ子供だ。
アルバートの視線もそこに移る。けれど、彼は馬車の方から上がる罵声とも悲鳴とも似た声に、直ぐに顔をそちらへ向けた。どうやら怪我人がいるようだ。
「ウィリアム様……ここから離れて、少しの間待っていて下さい」
怪我人を助けなければ、と――アルバートは続ける。そう言った彼の瞳にはもうウィリアムの姿は映っていない。彼の視線は馬車へと向けられていた。そう、彼はこう見えて医者の息子だ。救える命を救わない訳にはいかなかった。彼は立ち上がる。
「そこの方、私の主人をお助け頂き感謝いたします。お礼は後ほど必ず」
そして彼はウィリアムの傍に立つ子供に向かってそう告げると、その場に傘を投げ出して駆けていってしまった。
ウィリアムはそんなアルバートの背中を茫然と見送る。彼はまだ、今何が起きているのかしっかりとは理解できていないようだった。彼は水のたまった石畳から立ち上がることも出来ず、雨に打たれ続けている。
その姿に、黒いコートの子供は小さく溜め息をつくと、傘を拾い上げ彼の上に掲げた。そして、独り言のように声を発する。
「……君、妙な気配がしますね」
その声から、ウィリアムはこの子供が自分と同じ男なのだということを知った。自分よりいくらか年上だろうと言うことも――。
ウィリアムが首を傾けて少年を見上げると、少年はフードの下の口を微かににこりと歪ませる。
「泣いてるんですか?誰か、死にました?」
「――ッ」
刹那、ウィリアムは驚愕し、目を大きく見開いた。少年のその、朝食のメニューでも聞くような軽い物言いが信じられなかったのだ。“誰か死んだか”などと……普通はこのように軽々しく聞くものではないのだから。
少年はウィリアムの表情から何か悟ったように再び微笑むと、フードに手をかけゆっくりと下ろす。そこから現れたのは――漆黒の髪と瞳を持つ、美しい顔だった。目も、鼻も、口も、眉の形でさえ――全てが整い調和した、男とも女とも取れない中性的な顔立ち。ウィリアムはそんな彼の面に思わず釘付けになって、口を半開きにしたまま固まった。けれど当の少年はウィリアムの視線を気にもとめず、彼をどこか冷たい瞳で見下ろして唇を薄く開ける。
「君……“死”の匂いがしますね」
「――ッ」
なんだ、こいつ――と、ウィリアムは思った。何を言っているんだ、と。どうしてそんなことがわかるんだ、と。けれど、どうしても口から言葉が出てこなかった。少年の言葉の意味に、恐怖を感じて。もし口にしてしまったらそれを認めてしまうことになるのではと、もっと嫌なことになるのではないかと――身体が無意識に口を閉ざしたのだ。
「なんだ。思っていたより利口なんですね。でも大丈夫。僕が君を助けてあげますよ。僕なら君の力になれる。……君の大切な人を、生かしてあげられる」
「……え」
少年の漆黒の瞳がぎらりと揺れる。それは雨に濡れて恐ろしくも美しく――まるで黒曜石のように妖しく輝いていた。
「うーん。いきなりこんなこと言ってもわからないと思いますけど。君の周りの人が不幸になるのは、君のせいなんですよ、ウィリアム」
「ど……して、僕の……名前――」
ウィリアムは茫然としたまま尋ねる。すると少年は虚を突かれたように目を丸くすると、身体を屈めてウィリアムと視線を合わせた。
「ははは。どうしてって、さっきの従者が君のことをそう呼んでいたでしょう?」
「従者じゃない。先生だ」
「そんなのどっちでも同じです。……さて、どうします?どうして君のせいで周りの人が不幸になるのか、聞いてみたくないですか?」
「……」
少年の瞳が――ウィリアムの視線を捕えて放さない。ウィリアムはもう、黙って頷くことしか出来なかった。すると少年は満足そうに嗤って、続ける。
「君のその心の波動の強さは常軌を逸しています。周りの人間はそれに耐えられない。だから、君と親しくなればなるほど――君が愛せば愛するほど――周りはそれに耐えられずに、最後は命を落とすことになる」
「――っ」
少年の右手の甲が、ウィリアムの胸に……とんっと、当てられた。
「僕は、そういうことがわかる人間なんですよ」
少年の顔が……ウィリアムの眼前に、迫る。濡れた背中に、嫌な汗が一筋伝った。
「だけど、僕ならそれを引き受けられる。周りの誰も傷つけることが無いように、して差し上げられます」
それは優しく、酷く甘ったるい声。ウィリアムの脳を犯すように、何か大切なものを絡めとるように、少年のよく通る凛とした声が空気を震わせる。
傘を打つ雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めた。地面を濡らす雨水がウィリアムの服にじわりと染みて、彼の体温を少しずつ奪っていく。
その不快感に眉をひそめながら――ようやく、ウィリアムは声を絞り出し呟いた。
「……どう、やって?」
その問いに少年は、這うような……ねっとりとした視線をウィリアムに向けた。彼はウィリアムの耳元に唇を寄せて、そっと囁く。
「……あなたの心を……僕に、預けてくれさえすれば」
「……え?」
「あなたの愛も、痛みも、悲しみも……僕が全て引き受けましょう。そうすればもう誰も、あなたも、苦しむことは無くなります。勿論ただで、という訳にはいきませんが……」
そこまで言って、少年はウィリアムの左手に傘を握らせた。そしてすくっとその場に立ち上がると、雨を避けるように再びフードを被る。
「ゆっくり考えて下さって構いませんよ。僕はいつでもこの先の教会に――」
「――わかった」
少年は人差し指で道の先を示した。が、すぐにそれを遮るように、ウィリアムの震える声が静かに響く。それは不安げであったが、それでも確かに、何かを決意したような重みを秘めていた。ウィリアムは繰り返す。
「わかったよ、それで、母さまは助かるんだよね?」
縋るように少年を見上げるウィリアムの瞳。その視線に、少年の黒い瞳が一瞬だけ意外そうに揺らめいた。けれど彼はすぐに、ウィリアムの言葉を肯定するように一度だけ頷く。
そして、それならば――と言った様子で、ウィリアムの腕を掴むとぐいと無理やり自分に引き寄せた。ウィリアムの腰が浮き――彼の目線とウィリアムの目線が再び近づく。
「……あ」
ウィリアムは、いつの間にか自分の膝の震えが収まっていることに気が付いた。いやそれどころか、先ほどまで感じていた恐怖さえも――どこかに消えてしまっている。これは、この少年のお陰なのだろうか――。ウィリアムは考える。けれど、答えなど出ない。
ウィリアムは自分より卵二つ分ほど高い位置にある少年の顔を、見上げるようにして首を傾げた。
「……君は何者なの?どうして僕を助けてくれるの?……君は僕に、何を望むんだ?」
そう――未だ不安げに揺れる声音に、にこりと微笑む少年。
「僕が何者か、それはいずれわかるでしょう。そして、あなたをお助けする理由も……」
少年は、続ける。
「僕があなたに望むこと。それはただ一つです。僕は僕の時間の許す限り、あなたを守りあなたの為にこの力を捧げましょう。ですからいつか、それが必要無くなったその時には、……どうか僕のお願い事を、一つだけ聞いて頂きたいのです」
「……願い事?それは今聞いちゃいけないことなの?」
「……ええ、まだ。その時が来たら――お話しますよ」
「……」
雨に濡れた少年の黒い瞳が――再び揺らめいた。ウィリアムの喉が、ごくりと音を鳴らす。
「……わかったよ。だけど、これだけは約束してくれる?」
「伺いましょう」
「隠し事をするなとは言わないよ……。絶対に嘘をつくな、とも……。だけど――」
ウィリアムは一瞬瞼を伏せ、けれどすぐに、見開いた。
「僕の大切な人たちを絶対に傷つけるな。これだけは、譲れない」
射るように鋭いウィリアムの視線――。その迷いの無い瞳に、少年はフッと笑う。
「わかりました、いいでしょう。いつかあなたのその力に負けるとも劣らない……あなたの横に立つに相応しい方が現れるその時まで――僕はその誓いを守ると約束します」
少年の左手が、ゆっくりとウィリアムの前に掲げられた。それを取る――ウィリアムのまだ幼い小さな掌。
「これは契約です。さあ、僕の名前を呼んで下さい。ウィリアム様」
雨音が、遠ざかっていく。
「名前……?」
空気が――まるでここだけが世界から切り離されてしまったかのように――静止する。
「そうです。今この瞬間より、僕はあなたのものになる。ですから――そうであるという証を、この僕に」
「……」
その落ち着いた声音に、ウィリアムは祈るように瞼を閉じた。名前――それはどうしてか不思議と、喉から飛び出るように自然と口から零れ出す。まるで最初からわかっていたかのように、これが運命であるかのように――。
そして彼は――宣言する。
「……ルイス。君の名前は――ルイスだ!」
――これが、ウィリアムとルイスの出会いだった。こうして彼らは降りしきる雨の中――まるで決まっていたことであるかのように――出会うべくして、出逢ったのである。




