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02


***


 その日もあいにく連日の雨だった。六月のことだ。ウィリアムは先月、七歳になったばかりだった。


「あぁー、もう疲れた。歴史なんて嫌い、似たような名前ばっかりでこんなの覚えられるわけないよ。ねぇアル、ちょっと散歩でもしない?」

 ウィリアムは自室の数冊の本が広げられたテーブルに突っ伏して、大きなため息をつく。そして、自分のすぐ横に立つ家庭教師(チューター)を見上げた。


「……散歩?このような雨の中を?

 それからウィリアム様、授業中は私のことは先生とお呼びするようにと、何度も申し上げておりますよ」


 ひょろっとした細身の長身、肌はどちらかと言えば白い。肩にかかる長さの藍色の髪を首の後ろで一つにくくり、前髪はさらりと長く耳にかけられている。瞳は、髪と同じ藍色。名をアルバート・ハドソンと言った。まるで女性と見まごう程のふわりとした優し気な顔立ちの彼は、視力が悪いのだろう、縁の無い丸眼鏡をかけている。歳は凡そ二十代半ば程であろうか。

 彼は普段は何とも歯切れの悪い優男であるが、ウィリアムに勉強を教えている間だけはその頼りなさげな眼差しをギラつかせる。

 ウィリアムはそんなアルバートの普段より幾分と低い声にびくりと肩を震わせると、顔を上げてアルバートを仰ぎ見た。


「温室があるじゃない。……ですか、先生」

「……」

 ウィリアムの伺うような懇願するような視線に、アルバートはちらりと窓の外に目をやると、やれやれと再びウィリアムを見下ろした。ガラスに打ち付ける雨音と、アルバートの呆れたような溜め息だけが部屋の空気を震わせる。


「仕方がありませんね。では次のページまで読んで、少し休憩に致しましょうか」

「やった!」

 ウィリアムの顔に花が咲く。

 結局のところ、この男はウィリアムに甘いのだ。今は亡きウィリアムの祖父母、前ウィンチェスター侯爵夫妻には父の代から大変世話になった。そのお陰でアルバートの父は医師として名を馳せ、彼自身もこうやって自由に生きることを許されている。そうであるから、アルバートが前侯爵の孫であるウィリアムを、可愛く思わない理由が無かった。


 二人は切りのいいところで本を閉じると部屋を出た。アルバートは通りかかったメイドを呼び止め、アフタヌーンティーは温室に運ぶようにと指示している。ウィリアムはその様子を眺めながら、母親であるリリアンの部屋から漏れ出してきた声に思わず足を止めた。


「……父さま?」


 リリアンの部屋から聞こえて来るのは、父親であるロバートの声。今日は夕方まで帰らない予定だった筈だ。

 ウィリアムは好奇心に負け、そっと部屋のドアノブを回した。するとウィリアムの耳に聞こえてきたのは、ロバートの困惑げに震える低い声だった。


「ベネットに続きオリビアまで……これが偶然だと思うか」


 ベネットとオリビアはこの屋敷の使用人である。いや、正しくは、使用人だった。彼らはここ最近体調不良を理由にこの屋敷を辞めている。

 ウィリアムは二人に何かあったのだろうかと、ドアノブから手を放すことも出来ないまま固まった。ドアは僅かに開いているが、ロバートとリリアンは気付かない。


「あなたは何を仰りたいの」

 リリアンの声もまた、震えていた。


「シモンズやターシャの前例がある。皆、あの子のことを実の息子や弟の様に可愛がっていた」

「……」


 ――何だって?

 あの子――というのが自分のことだということに、ウィリアムは直ぐに気が付いた。だからこそ彼は困惑する。

 従僕(フットマン)のシモンズやメイドのターシャもまた、去年までこの屋敷の使用人であった。彼らはここを辞めるそのときまで、使用人の垣根を越えるほどにウィリアムに良くしてくれていたのだ。


「私が気づかないとでも思ったのか。私のいぬ間にハドソンが出入りしているだろう」

「――ッ」

執事(スティーブンス)を余り困らせるな」

「……」


 ハドソンとはアルバートの父親である、ピーター・ハドソンのことである。この家のかかりつけの医者だ。そのピーターが、ロバートのいない間にこの屋敷に頻繁に出入りしているという。そして呼び寄せているのは、リリアン。それが意味するものは、即ち――。


「いつからだ、何故隠していた」

「……」

「リリアン、言うんだ、どこが悪い。田舎で療養したって構わない。私もついていくから」

「……」

 普段は温厚で決して怒ることのないロバートの声に、(いか)りとも(おそ)れとも言えない感情が垣間見える。リリアンは既に言葉を失くしていた。そしてこの二人の会話が意味するものを、まだ七つの幼いウィリアムも直ぐに理解した。決して聞いてはいけない話だったのだと言うことを――。


「ウィリアム様?」

「――っ」

 そうしてウィリアムが立ち尽くしていると、――彼の背後からアルバートの声が降りかかる。ウィリアムは我に返り、急いでドアを閉めようとした。けれど、もう遅い。


「ウィリアム!」


 僅かに開いた扉の向こうの、茫然とした様子で立つ息子の姿に気付いたリリアンは顔を蒼くし、また、ロバートは顔をしかめた。


「――あ……」

 その両親の姿に、ウィリアムは……一歩、二歩、と――後ずさる。とんっと、背中が何かにぶつかった。見上げれば、そこには悲しそうな顔で彼を見下ろすアルバートの顔。


「……ぼ……く……」

 そして――ウィリアムはどうしていいのかわからないまま身を翻し、気が付けば、その場から逃げるように駆け出していた。



 ウィリアムは街を駆け抜けていた。冷たい雨が彼の全身に打ち付ける。彼の視界にはもう何も映っていなかった。彼の視界にはもう――雨で霞んだような、ただ白い霧のようなもやだけしか映らなかった。


「……なん……だよ……」

 靴が水たまりを跳ねる。前髪から水がしたたる。瞼も頬も、肩も、ズボンの裾も――全てを奪うように、冷たい雨が彼を濡らした。すれ違う人々は、傘もささずにずぶぬれになる子供に怪訝そうな顔を向けて、ときおり声をかけるのだったが、彼はそれらを全て無視してひた走る。両親の会話は、まだ七歳の彼にとっては――それほどに耐え難い内容だった。


「ウィリアム様!!」

 それでも彼の後ろから追いついてくる足音がある。アルバートだ。大人の足には敵わない。ウィリアムは直ぐに追いつかれてしまった。アルバートの黒い傘が彼の頭上に差し出される。


「……ウィリアム様、帰りましょう。お風邪を召されてしまいます。それに……奥様も、大変心配なさっておいででしたよ」

 ウィリアムの背中から、それより高い位置から、アルバートのあやすような声がした。けれどウィリアムは振り向かずに、尋ねる。


「……ねぇ、アルは知ってるんだよね。シモンズやターシャは……どうしたの。今も、元気……な、わけないか」

「……申し訳ございません。お二人については、何も聞き及んでおりませんので」

 嘘だ――。と、ウィリアムは直感した。


「じゃあ、ベネットやオリビアは……?知らない訳、無いよね……」

「……」

 二人が体調を崩したとき、彼らを診たのはアルバートの父親であるピーター・ハドソンだ。二人は暫くして屋敷を辞めてしまったが、それでもリリアンはピーターに頼んでいた。彼らを引き続き診てやって欲しいと。そうでなくてもピーターは、知り合いの医者に頼むと確かにリリアンに約束していた。だから、二人のその後をピーターの息子であるアルバートが知らない筈が無かった。

 しかし、それでもアルバートは何も言わない。いや、言えないのだろう、と、ウィリアムは幼いながらも理解する。


「……死んじゃったの?」

「――ッ、いえ!決してそのようなことは!」

「じゃあ何――?」


 ウィリアムはアルバートのさした傘の下で、俯いたまま呟いた。アルバートはそんな彼の震える小さな背中を見つめて、躊躇うように口を開く。


「生きて……いらっしゃいますよ。生憎と……万全とは参りませんが……」

「……そう」

 「でも」と、ウィリアムは続けた。母さまは――?泣き出しそうな声で振り向いた彼の瞳には確かに涙がたまっていて、アルバートは言葉を飲み込む。


「母さまは……病気なの……?僕のせいなの……?」

「ウィリアム様のせいである筈ありません!私が断言致します!」

 瞬間――ウィリアムの顔が歪んだ。


「ははっ。そっか。病気だってことは……否定しないんだね」

「――!」


 呻くように呟いて、再びアルバートから顔を背けるウィリアム。悔しそうに唇を噛んで、彼は続ける。「暫く一人にして」と。「追いかけて来ないで」と。そしてアルバートに背を向け、彼は再び走りだした。――けれど。


「――ウィリアム様ッ!!」

 刹那――彼の背中に、アルバートの叫び声が突き刺さる。

「いけませんッ!!馬車が――!!」

 アルバートの視界には、ウィリアムの行き先へと

突き進む馬車が映っていた。その言葉にウィリアムが顔を向ければ、確かにそこには自分に向かって猛スピードで走って来る一台の馬車がある。周りから悲鳴が上がった。どう見ても、馬の様子がおかしいのだ、暴走している。


「――っ」

 ウィリアムは目を見開いた。けれど、もう――足がすくんで、彼は一歩も動けなかった。


「ウィリアム様ッ!!」

 アルバートは走る。けれど、恐らく彼は間に合わないだろう。


「母……さま……」


 助けて――。その瞬間――ウィリアムは確かに……そう願った。

 そして彼は同時に――どこからともなく飛び出してきた黒い影によって――濡れた石畳の上に、突き飛ばされた。


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