01
「ねぇウィリアム……」
「……どうした?」
オペラ座から屋敷へと戻った二人は夕食を取った後寝支度を整え、――今、ウィリアムの部屋にいた。時刻は既に真夜中を回っている。オイルランプの光だけが揺らめく薄暗い部屋のベッドの上で、アメリアはウィリアムの腕に抱かれながら、静かに彼に問いかけた。
「アーサー様のことだけれど……」
「……」
アメリアの言葉に、彼女の背中から回されたウィリアムの腕が一瞬震える。恐らく聞かれたくない話題なのだろう。けれど、彼女はそれでも問わねばならなかった。ルイスの言葉の意味を知るために。ルイスとアーサーの間に一体何があったのか、その手がかりを掴む為に……。
ルイスは彼女に言った。全ての者を欺け――と。それはウィリアムに対し、真実を伝えてはならないということを意味している。だから彼女は、彼に自分の長い長い過去の記憶について伝えることは出来ないし、また、そもそも最初から伝えるつもりなど無かった。
けれどそれはつまり、ウィリアムに何も尋ねてはならないということを意味しない。そしてまたそれは、“嘘”をついてはいけないという意味でも無かった。
彼女はウィリアムに背を向けたまま、少しだけためらうように顎を引いて、再び口を開く。
「……私ね、本当はずっとあなたのことが好きだったの。過去に愛した人がいるって、私前に言ったでしょう?……それは……ウィリアム。あなたのことだったのよ」
「――っ」
アメリアの突然の告白に、ウィリアムは一瞬息を止めた。いや、止めざるを得なかった。彼は「急に何を言い出すんだ」と微かに声を震わせる。
その反応を予想していたかのように、アメリアはウィリアムの腕の中でゆっくりと寝返りを打ち、ベッドの上で彼と向き合った。そして彼の困惑気に揺れる瞳を、じっと見つめる。
「私ね、あなた以外の人と結婚するのが嫌で、ずっと社交界から逃げていたのよ」
彼女の声は落ち着いていた。それは懐かしい過去を偲ぶかのような柔らかい声音。けれど流石のウィリアムも、その言葉を簡単に信じることは出来なかった。彼は自分より低い位置にある彼女のすっと通った鼻筋を見つめて、問いかける。
「……アメリア。それは……流石に、信じられないな……。もしそれが本当なら、どうして君はあの日、お茶会で俺にあんな態度を取ったんだ……?」
ハンナにお茶をかけたのは、俺に嫌われたかったからなのだろう?と、彼は続けた。ウィリアムの揺れる瞳に、アメリアの大凡十八とは思えない大人びた表情が映し出される。
「……ウィリアムは知っているでしょう?私が子供のころから何でも出来ていたってこと。ルイスに聞いていたでしょう?」
「……あぁ」
そのようなこと、もはや確認する必要も無かった。けれど彼女はそれを敢えて口にする。その理由は何なのか――。
「ごめんなさい、ウィリアム。私、ずっとあなたに隠してたことがあるの。私……私ね――」
「……」
再び、言うべきか言わざるべきか悩むように、アメリアの視線が揺らめいた。その伏せられた瞼に、ウィリアムの顔が強張る。一体彼女は何を言い出すのだろうかと――、彼のアメリアを抱く腕に、無意識のうちに力がこめられた。けれど――。
「――呪われてるの」
「…………、は?」
「呪われてるのよ、私」
「…………」
“呪い”――?
まさかの予想外の告白に、ウィリアムは言葉も忘れ固まった。それをどこか責めるように、アメリアはウィリアムの呆けた顔に視線を投げる。
「何を言い出すんだって思ってるんでしょ」
「…………、正直」
彼はやっとのことで言葉を絞り出す。
“呪い”――まさか、そう来たか、と、彼は内心そう感じていた。彼は既に知っていた。アメリアが普通の人間とは確かに違っていることを。ルイスと同類であることを。
けれど同時に、全てを知っているわけでは無かった。ウィリアムは知らない。ルイスが、アメリアが、過去の記憶を引き継いでいることを。
しかしまた同時に、彼には“呪い”と言う言葉に確かに心当たりがあった。だから彼は敢えて、その形のいい眉に皺を寄せる。自分に正直に、いや――そうでなくてもここは、彼女の言葉を簡単には信じられないという態度を見せたほうが、自然だろうと考えて。
「でも本当なの。私が好きになる人は皆、不幸になるのよ……」
「……」
しかし彼女の次の、その言葉に――ウィリアムはつい、その顔に不快感を露わにしてしまった。一瞬、彼の息が、喉の奥で……止まる。
「……ウィリアム?」
その様子に、何かを確かめるように、伺うように彼を見つめるアメリアの丸い瞳。
――あぁ、気づかれたな、と彼は悟った。そして同時に、簡単に感情を悟られてしまう自分自身に苛立ちを感じた。以前とは確かに違う自分の、簡単に揺さぶられる“心”……というものに。そしてそれに抗えない――どうしようもない、もどかしさに。
「いや――、何でもない。……それで?……その、不幸になるというのは……」
もういいか――と、少し投げやりな気持ちになりながら、それでも一応誤魔化すように、彼はアメリアの話の続きを促す。
傍から見ても、今のウィリアムには以前のような冷静さが欠けていた。そして彼自身もそれを理解していた。けれどそれはもう、今の彼にはどうしようもないことであった。
アメリアの瞼が微かに細められる。
「そのままの意味よ。私が愛した人は皆――死んでしまうの」
「――っ」
彼女の言葉に、再び言葉を詰まらせるウィリアム。彼は眉をひそめて、そっと息を吐く。
「……何を言い出すのかと思えば。もしもその言葉が本当なら、俺はとっくにあの世にいることになるな」
そう言って、彼はやれやれと微笑んだ。その様子に、アメリアも微笑み返す。
「そうよ。その通りなの。だってずっとそうだったもの。私、生まれたときから何でも出来たわ。人に出来て私に出来ないことなんてなかった。学ばずとも、そう――不思議とね。
でも、きっとその代償だったのでしょうね。私と心が通い合う人は皆、死ぬの。だから私、ずっと人を避けてきたのよ。だから私、あなたに私を愛さないでって言ったのよ……」
「…………」
彼は再び、押し黙る。
「でも、あの日川に落ちて……私の前に現れたルイスは……言ったわ。あなたが私の運命の相手だって。あなたなら私が近づいても死なないんだって。そう、言ったのよ――」
「……ルイスが……?」
――ウィリアムの瞼が大きく見開かれる。それが嘘か、真実か、彼には皆目見当もつかなかった。いや、どちらだって構わない。どちらであろうと、大して意味はないのだから。
「そうよ。私だってその言葉を最初から信じた訳じゃないの。だけどね……あの日森で、アーサー様に言われた言葉の意味を考えたら、もしかして、あながち嘘じゃないのかもって思えて……それで私、ルイスの言葉を信じたのよ」
「……」
アメリアの口から出たアーサーという名前に、ウィリアムは顔をしかめた。それはもう、隠す必要も無いというように。
アメリアはウィリアムから視線を決して反らすことなく、ゆっくりと言葉を選ぶようにして、続ける。
「アーサー様はあの時私に言ったわ。ルイスには気を付けろって……。この意味、あなたにはわかる?」
「……っ」
刹那――ウィリアムは確かにその言葉の意味を理解して、ごくりと喉を鳴らした。
それはつまり、アーサーは以前から知っていたということだ。ルイスの不思議な能力を、人間離れした力のことを――。
そしてまた、アーサーは直ぐに気が付いたのだ。あの日、アメリアを一目見て、彼女が自分と同じ存在なのだと言うことに。
あぁそれなのに、ルイスはずっとそのことを隠していたのだ。アーサーのことも、アメリアがそうであることも、ルイスは出会って十五年の間、自分に隠し続けて来たのだ。
「……アーサーが、君に、そんなことを……」
彼は、独り言のように呟く。その表情には既に余裕の欠片も残っていなかった。何故なら彼は、今、ようやく本当の意味を理解したのだから。――ルイスの言っていた“裏切り”の真の意味を、ようやく彼は知ったのだから。
「……ルイス」
彼は茫然と呟く。その瞳には既にアメリアの姿は映されていなかった。うつろに細められた、微かに揺らめくランプの炎の色だけが映り込んだその目は、憂いか、或いは悲哀か、その両方に――揺らめいている。
そんな彼の胸板にそっと、白く美しいアメリアの両手が添えられた。彼女は、彼を労わるように柔らかに微笑む。
「私に、聞かせてくれないかしら……?私、あなたのことを知りたいの。あなたと、ルイスや、アーサー様のことを……」
「……」
アメリアのその――小川の流れるような――どこか懐かしい澄んだ声音に、ウィリアムは瞼を閉じる。――言ってしまって、いいのだろうか。彼は、躊躇う。
ルイスは、アメリアには内密に、と――そう言った。内密に……?何を?ルイスの力のことを?……それとも、交わした契約のことだろうか……。あるいはその、両方だろうか……。彼はそう、両目を閉じたまま考えていた。けれど、答えなど出る筈も無く……。
“呪い”――。そう、これは呪いだ。――決して誰にも言ってはなりませんよ……と、そう言ったかつての幼いルイスの姿が脳裏に過る。
“これはあなたと僕だけの秘密です”――そう言ったお前は一体どんな顔をしていただろうか。口元は、微笑んでいる。けれど――その黒い瞳は……。
――あぁ、だが……お前は俺を裏切ったのだろう?ずっと裏切っていたのだろう?それならば……もう……構わないだろう?……な、ルイス――?
ウィリアムはふっと息を吐き、ようやく瞼を上げるとどこか悲し気に微笑んだ。その瞳に映されるのは、彼を見つめるアメリアの美しい碧い瞳。それはこの暗闇でも、決して輝きを失わない。
「……俺がルイスと出ったのは……俺が七歳になったばかりのとき」
そしてウィリアムは、懐かしい過去を思い出すように、低く穏やかな……それでいてどこか切なげな声で――静かに静かに、語り始めた。